諸葛菜:諸葛亮孔明が広めたとの伝説

Facebook花鳥風月を愛でたい 山口 一男 さん投稿記事

今日の散歩のご褒美 ムラサキハナナ(紫花菜)

別名にショカツサイ(諸葛菜:諸葛亮孔明が広めたとの伝説から)

また、オオアラセイトウ(大紫羅欄花)と呼ばれることもあるようです


Facebook野の花司さん投稿記事  諸葛菜(ショカツサイ)

諸葛菜という名前は、諸葛孔明が陣を張った際にこの花の種を蒔き、兵士の食糧となるよう栽培したという伝説からつけられたそうです。

別名 大紫羅欄花、紫花菜、花大根


https://life-and-mind.com/syokatukomei-54072 【諸葛孔明とは?かんたん解説!天才軍師と呼ばれる理由と名言5選】より

諸葛孔明は天才軍師と呼ばれ、1800年経った今でも圧倒的な人気を誇っています。

天才的な戦略を次々と生み出し、一国のNo.2にまで上り詰めました。

この記事では、諸葛孔明の人物像から天才である理由までをわかりやすく解説します。

最後まで読むことで一通りの知識と教養を得ていただけるでしょう。

読み終わった頃にはあなたも諸葛孔明のファンになっているかもしれません。

1.天才軍師、諸葛孔明とは?

諸葛孔明は、三国時代の蜀国の政治家、軍師です。占星術、天文、地理、気象などの学問を

身に着けており、その努力と才能から巧みな戦略を生み出し、数々の戦に勝ち続けたことで天才軍師と呼ばれるようになりました。

※軍師(ぐんし)とは、軍の司令官の戦略指揮を助ける人。

姓は諸葛(しょかつ)、名は亮(りょう)、字(あざな)を孔明(こうめい)と言います。

現代でいうと、本名は諸葛亮です。※字とは、成人になるとつける、もう一つの名のこと。

 当時の中国では本名呼びは失礼とされ、親や親しい人だけに許されたものでした。

「諸葛孔明」「諸葛亮」どちらの呼び方も正しく、同一人物を指します。

字の「孔明」と呼ばれることが多いですが、これは敬意を示すためだそうです。

諸葛孔明の概要

西暦(年齢)

181年(0歳)現在の中国(山東省)で生まれる。

200年(19歳)「三顧の礼」により劉備の臣下となる。

208年(27歳)「赤壁の戦い」に劉備軍の軍師として参加。

221年(40歳)劉備が蜀を建国したことで丞相に就任。

234年(54歳)五丈原の戦い病により死去。

181年-234年(日本は弥生時代)に、孔明は現在の中国(山東省)で生まれました。

若くして両親を失い、兄弟と自給自足で生活しながら、勉強に励みます。

16歳の頃には才能が開花していましたが、特に世に知れることはありませんでした。

19歳の頃、のちに蜀の初代皇帝となる劉備が孔明を軍師として仲間に招き入れます。

そこから生涯を終えるまで劉備軍の軍師として、様々な戦略を打ち立て、数多くの勝利を重ねていきます。

2.諸葛孔明が天才と言われる3つの理由

三国時代の最高頭脳を持つ諸葛孔明には、いくつも天才的なエピソードがあります。

ここでは孔明といえばコレだ!というものに絞ってご紹介します。

2-1.三顧の礼(さんこのれい)

三顧の礼とは、目上の人が下の人のところへ、三度も出向いてお願いをすることです。

劉備は天才と噂されていた20代の孔明を軍師として迎え入れようと、彼の元を訪れました。

しかし、最初の2回は孔明が留守のために会えず。3回目でようやく会えた劉備は孔明を説得をして、軍師として招き入れます。これが有名な「三顧の礼」です。

どうしてこれが有名かというと、皇族の末裔であった40代の劉備が、年齢や役職を気にすることなく、当時20代の孔明のもとを3度も訪れたためです。

年齢よりは実力が重視される現代でも、上の立場の人が、年が半分以下の若者に3度も会いに行くことは、珍しいことでしょう。

何かをお願いする時、地位や年齢にとらわれることなく、立場が下の相手にも敬意を払えることに、劉備の人間性と、そこまでさせる孔明の天才性が伺えます。

2-2.天下三分の計

三国志の有名な作戦といえば「天下三分の計」です。計とは・・・計略や計画のこと。

軍師の諸葛孔明が劉備に提案した国家政策を指します。その内容は、国土を三分割して

魏の曹操(そうそう)、呉の孫権(そんけん)、蜀の劉備の三人で中国を支配するというものです。当時の勢力を考えるといきなり天下を獲ることは難しかったためまずは自国の勢力を強化し、最終目的である天下統一を果たす戦略です。

勢力を3つにすることで、力を拮抗させ、1人勝ちを防ぐ目的でした。

この故事によって、天下三分の計は「勢力を分散して拮抗状態を作り出す」ことを意味するようになります。

2-3.赤壁(せきへき)の戦いと10万本の矢

赤壁の戦いとは、長江の赤壁で起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の戦いのこと。

孫権軍の武将、周瑜(しゅうゆ)は孔明の才能に一目を置きつつも、連合軍としての戦が終われば次は自分たちが危ないと恐れました。

そこで、周瑜はできなければ「死」という条件で「10日で矢を10万本を用意しろ」と孔明に対して無理難題を突きつけます。

孔明は拒否するどころか、なんと3日で成し遂げると条件を受け入れてしまいます。

当然ながら、矢の作成キットなんてあるはずもありません。木を切り倒すところから始め、大勢の兵に1日かけて作らせても100本がやっとです。

どんなに頑張っても10日で1000本が限界です。それを3日でできると言った孔明。

10日で10万本の矢は用意できないと仲間の誰もが思ったことでしょう。

しかし孔明は見事、たった3日で10万本の矢を集めてしまいます。どのような方法だったのでしょうか。

霧の中、大きな音を鳴らしながら藁人形を乗せた船で曹操軍に夜襲を仕掛けることで

いとも簡単に成し遂げます。襲撃に慌てた曹操軍は反撃に出ます。曹操軍からすると大きな音が聞こえるが、霧で相手の姿は見えません。きっと大群が攻めてきたに違いないと考えたことでしょう。その状況では、とにかく大量の矢を放つしかありません。

翌朝、大量に放たれた矢を持ち帰り、一夜にして無傷で10万本の矢を手に入れることに成功します。孔明は気象学にも長けていたと言いますから、3日後に霧が出ることを予期していたのでしょう。

3.面白く学びになる!孔明にまつわる名言5選

この章では、現代でも使われる諸葛孔明にまつわる名言をご紹介します。

3-1.『泣いて馬謖(ばしょく)を斬る』

規律を保つためには、たとえ愛する者であっても、違反者は厳しく処分することです。

孔明が実の子のように可愛がっていた武将、馬謖がある戦で命令に従わなかったため、

それが原因で軍は敗戦してしまいます。規律を守らない者に対して私情を挟み、許してしまうと組織の秩序を乱すことになりかねません。

軍の規律を守り責任を取らせるためには、処刑するしかなかったのです。

孔明は馬謖に家族の面倒を見ることを約束し、部下に切らせました。

処刑が済んだ報告を受けた孔明は号泣したといいます。

この時流した孔明の涙には2つの理由があると言われています。

1つ目は、可愛がっていた部下を自らの判断で斬首にしたこと。

2つ目は、孔明自身が任命責任を果たせなかったこと。

実は、孔明は劉備から「馬謖は実力のない人物だから重く用いてはいけない」と言われていました。しかし孔明は「馬謖ならやれる」と、戦いの指示を出します。

結果、馬謖は自らの実力を過信して命令に背き、戦は失敗に終わりました。

劉備から言われたことを素直に聞いていればと孔明はきっと後悔したことでしょう。

馬謖にその戦を任せた自分が悪く、「任命責任」を果たせなかった。このことに孔明は悔し涙を流したのです。

3-2.『孔明の嫁選び』

孔明がお嫁さんを探している頃、黄承彦という人から、うちの娘はどうか?とお声がかかりました。その娘は黄夫人と言い、「髪が黄色く、肌が黒く、醜いが、才能は充分」。

当時の価値観では、美人とは正反対の醜女と言われる容姿だったそうです。

しかし諸葛孔明はその話を受け入れ、すぐに結婚します。特に容姿の美しさを重視する時代に醜女と言われる女性を選んだわけですから、このことが当時の人々の笑い話となり、「孔明の嫁選び方を真似をすると酷いお嫁さんをもらうことになるぞ」という噂が広まったと言われています。

これは諸説ありますが、諸葛孔明は才能に溢れるだけなく、背も高くイケメンでもあったそうなのでなおさら、笑いの的となった可能性もあります。

孔明のお嫁さんの黄夫人は醜女と言われていた一方で、大変美人だったという説もありもしかすると、人々の嫉妬によって生まれた言葉なのかもしれません。

また黄夫人は、孔明を凌ぐほどの才能に溢れていたという説もあります。

諸葛孔明の天才的な発想や知識は、全て夫人からこっそり教わっていたのでは?という見方もあるほどです。類は友を呼ぶの法則のように、賢者のもとには、自然と頭のいい人が来るのでしょう。

孔明のように外見だけでなく、中身で人を見れる人になりたいものです。

3-3.『水魚の交わり』

魚は水がなければ生きられないように、切っても切れない親しい間柄のことです。

劉備と孔明の間柄から生まれた言葉です。孔明が劉備の仲間となった三顧の礼以降、日毎に二人は信頼し合う関係になっていきました。当然、昔からの劉備の家臣たちは、それが不満でなりません。それを知った劉備は、自分にとっての孔明の存在は「魚にとって水があるようなものだ」と言い、家臣たちに理解してもらいました。

孔明からの信頼と期待が戦場での劉備を奮い立たせ、劉備から信頼と期待が、孔明の戦略の幅をさらに広げたのかもしれません。

3-4.『死せる孔明、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす』

既に亡くなった人が生きている人に大きな影響を与えることのたとえです。

仲達とは司馬懿(しばい)という知略に溢れた、孔明の好敵手の一人です。

当時、五丈原という地で戦っており孔明側は戦況的に不利な状況にいました。

さらに、孔明が病で死が近いことも敵にバレていましたがなんとか天才孔明の存在のおかげで襲撃をけん制できていました。

孔明は自分が死んだことが敵にバレると相手が一気に攻めてくることがわかっていたため、万が一、自分が亡くなったときに家臣たちが無事に帰還できるようにと木で自分のダミーを作らせていました。

残念ながら、天才も病には勝てずに孔明は五丈原という地で亡くなってしまいます。

しかし、孔明の指示通りにダミーを乗せて敵を襲撃したことで、仲達は孔明はまだ生きていて

何か仕掛けてきたと勘違いをして撤退。見事、劣勢だった戦況から孔明側は無事に帰還することができました。これは死んだ孔明が生きている仲達に影響を与えたということ。

このことから、「死せる孔明、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」という故事が生まれました。

3-5.『臥竜鳳雛』(がりょうほうすう)

すぐれた才能はあるが世間には知られていない大人物のことです。

孔明が世に出る前、高名な人物鑑定家だった司馬徽(しばき)に飛び立つ前の竜を意味する、

「臥竜(がりょう)」と言われていました。「飛んでいないのでまだ実力は発揮していないが

飛んだらすごいぞ!」という意味です。一方で「鳳雛(ほうすう)」と呼ばれる者もいました。

「今は雛だが、成長すると鳳凰になるからすごいぞ!」という意味です。

孔明とともに蜀の軍師となる

龐統(ほうとう)に対する評価で、司馬徽は、三顧の礼で孔明を訪れる前の劉備に「臥竜、鳳雛のどちらかを仲間にできれば天下を手中に収めることができる」と伝えたとされています。

もし、劉備が孔明ではなく、龐統を選んでいたら三国志の歴史は大きく違っていたことでしょう。

4.孔明のように人の心理を理解する

ここまでの内容でおわかりいただけるかと思いますが孔明は戦略家で、人の心を読み、人を動かすことに非常に長けていたと思います。

孫子の兵法にある有名な教訓に、「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」というものがあります。

これは、敵情も味方の事情も知っていれば百回戦っても危険がないという意味。

事情を知るということは、すなわち相手の心の状態を知ることです。

諸葛孔明は孫子の兵法にも影響を受けて自身の戦略に取り入れていたそうです。

諸葛孔明も、孫子の兵法を書いた孫武も、人の心理メカニズムをしっかりと押さえていたため

あらゆる場面で物事を有利に進めることができたでしょう。

人の心理を理解しておくことは人との関わりや仕事、人生においてすごく大事なことです。


https://www.arachina.com/attrations/sanguo/renwu/zgl.htm 【三国時代の天才軍師「諸葛孔明」の生涯を語る】より

 諸葛亮(しょかつ りょう 181年-234年)、字は孔明、またの名を臥竜といいます。漢民族で徐州琅琊陽都(今の山東省臨沂市沂南県)に生まれ、三国時代蜀国の丞相、政治家、軍師、散文家、書家、発明家です。武郷侯によって命を奪われ、その後「忠武侯」の諡号が与えられました。東晋政権は軍事才能を称え、死後に「武郷王」の爵位を与えました。

 劉備の軍師として天下三分の計を提案、赤壁の戦いでは孫権と連合して曹操を破った。その後、蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。雲南地方に遠征して異民族を抑えた後、魏に対する北伐を数回に実行、その途中、建興十二年(234年)に五丈原(今の宝鶏市岐山境内)にこの世を去りました。

諸葛孔明の時代

書生時代

 諸葛孔明は181年に琅琊陽都県の官吏の家で生まれ、8歳の時に父を失いました。16歳になり、才能が抜群でも当時、彼を認める人は一人もいませんでした。しかし友人である徐庶、崔州平などは彼の才能を評価していました。当時、「臥竜」とも呼ばれ、襄陽の名士司馬徽、龐徳公、黄承彦などとも交流がありました。

 黄承彦は諸葛孔明に「君が妻を娶りたいと聞いているが、うちの娘はどうだろうか?髪が黄色くて、肌が黒く、醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛孔明はその話を受け入れるとすぐに結婚しました。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。しかし、黄夫人自身が非常に美しいということわざもあります。それで、彼女は村の他の若い女性の嫉妬によって非難されました。

天下三分の計

 207年の冬から208年の春にかけて新野に駐留していた劉備は徐庶の勧めで3度、諸葛孔明の家を訪れました。しかし最初の2回は諸葛孔明に会えず、やっと3回目で会うことができました。これが有名な「三顧の礼」であリます。

 劉備の熱心な誘いに応じ、その軍師となった諸葛孔明は、劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めました。諸葛孔明が提案した「天下三分の計」は、劉備と蜀漢の基本的な国家政策でした。

赤壁の戦い

 赤壁の戦いに於いて、前述の通り孔明はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては非戦論に傾いていた孫権、周瑜を説得して交戦に向かわせる。戦いが始まってから周瑜は諸葛孔明の才能を恐れるようになり、諸葛孔明に対して10日で矢10万本を作れと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛孔明は霧の出た夜に曹操軍に対して夜襲を仕掛け、曹操軍が打った矢を鹵獲して帰った。更にこの戦いでは曹操軍を火責めにすると決まっていたものの風が北西の風しか吹かず、このままでは火を付けてもその火が自分たちに帰ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛孔明は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたとなっている。

 赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛孔明はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛孔明に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛孔明に看破され、再び怒った周瑜は「天はこの世にこの周瑜を生みながら、なぜ諸葛孔明を生んだのだ!」と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』にはない。

北伐と諸葛孔明の死

 北伐に於いての孔明は『演義』では魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その後の最後の北伐に於いて、病状が悪化した孔明は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去した。

死後

 諸葛孔明の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て孔明の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。所が蜀軍には諸葛孔明の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。実はこの諸葛孔明は木像であった。後に現地の人間は「死せる諸葛、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったとなっている。(この台詞は正史の注『漢晋春秋』にあるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000