Facebook能村 聡さん投稿記事
【欲をもつことは悪い事?ー欲と悟りを考える】
欲望は罪とかい人もいるけど・・そもそも欲(食欲や性欲)がなければ、人類もあらゆる生物も存続できない。~したいの~~の中身が問題かな?
欲がなければ生きているといえるんだろうか?
でも、賢者たちが説く悟りと欲は真逆なのか?
長者番付一位のスピリチュアルメッセンジャーの”さいとうひとり”さんはこんなふうにいっていますね。
「健全な欲を持つ事が大事なんだよ。もっと自分を磨いて成長したい、人を幸せにしたい、世界を平和にしたい・・・健全な欲とお友達になれば、必要なものはついてくるって。なぜなら健全な欲は、神様が授けてくれたものだから・・・」
自分が何を欲しているかを、自分の欲望(何がしたいのか?)をよく内観(こころの内を静かに顧みる)してみましょう。
健全な欲とは、幸せになる行動への”意志力”です。
でも、欲に駆られ、翻弄される”欲望の奴隷”になってはいけないんです。
もちろん、お金もたくさんあれば、困っている人をたくさん救える。起業家なら社会に役立つ大きな事業が可能となるかもしれない。
現実は、莫大なお金をもつ資本家たちの欲に駆られた所業は、自分さえ、金さえ、今さえの 醜悪な欲に駆られて、世界を破壊し、人類を不幸に陥れているが・・・
人から奪って築いた富を独り占めする”自分さえよければ”の欲は、健全じゃないでしょう。
それはお釈迦様が説いた人間のこころに巣食う三毒の煩悩一つ、貪(どん)、つまりむさぼって飽くことをしらない”貪欲”です。
欲について深く考える手がかりがあります。それは大乗仏教の「煩悩即菩提」という考えです。
煩悩を泥池(煩悩)にたとえ、菩提(悟り)を蓮の花にたとえて、煩悩の中に菩提〈仏〉の要素はあるという喩えです。 泥池の中に花を咲かせる必要な養分が含まれているのだから、煩悩を否定したり無碍に抑え込もうとせず、菩提を求める力とせよということです。
【すべての現象は心が生み出す~ブッダの語った言葉から】
この世界のすべての現象の背後には「因果」の法則(原因と結果の法則)が作用しています。縁起とも言います。
ブッダ(お釈迦様)が生きている間に語った言葉をまとめた初期仏典はとてもわかりやすいですね。
ブッダはあえて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などのいわゆる一神教で崇拝されている”宇宙創造主”のような絶対的な人格的な存在には敢えて触れず、「宇宙の法則」(法・ダルマ)を語ってます。
釈尊は涅槃(死)の間際で、嘆き悲しむ弟子たちの前で「「他者(師であった釈尊)に頼らず、自己を拠りどころとし、法(ダルマ)を拠りどころとして生きなさい」(「自灯明・法灯明」の教え)と語ったと言われています。
では、釈尊が説いた宇宙の理法とはどんなものだったのでしょうか?
お釈迦様は一切の”形而上学”的な独断を排し,既成の価値観(常識)から推論することをやめ,現実そのものに向い,現実のなかから人間の生きるべき道を明らかにして,これを「ダルマ」と呼びました。
釈尊が説く「ダルマ」は抽象的で難解な教説(経典)ではなく、人間がよく生きていくうえで、誰もが抱える苦しみや迷いを脱して、喜びと平穏に生きるために有用な、現実的な”心のあり方”でした。
その内容をお弟子さんや、長い旅路で出会った普通の庶民との対話を通して、”宗教の教祖さまからの上から目線”とは全く違うかたちで説いた具体的な内容が書かれているのが、初期の仏典です。
初期仏典の一つの『ダンマパタ』の中にも、すべてが人間の意識(心)が現実を創造していることが、釈尊によって語られています。
なぜ、こんなに苦しいのか?多くの人は自我(エゴ)の思う通りにいかないことに苦悩します。
しかし、すべては自分の心次第なのです。現実は心が生み出しているのです。この苦しみから自由になるには、外の現象を変えるのではなく、自分の心を深く見つめて、それを変えることしかないと説いています。
「ダンマパタ」の中のお釈迦様の生の言葉を紹介します。
「ものごとは心に導かれ、心に仕え、心によって作り出される。もし人が汚れた心で話し、行動するなら、その人には苦しみが付き従う。あなたかも車輪が、それを牽く牛の足に付き従うように(1)
「ものごとは心に導かれ、心に仕え、心によって作り出される。もし人が清らかな心で話し、行動するなら、その人には楽が付き従う。あなたかも車輪が、あなたかも身体から身体から離れることのない影のように」(2)。
汚れた心とは「煩悩」とも言います。煩悩のいう誰しも抱えている心の中の闇、すなわち、貪・瞋・痴=自分の欲しいものをむさぼり求める貪欲,不快なものに対して激しく怒ったり、妬んだり、恨んだりして感情をぶちまける こと瞋恚,ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴(無知)の3つで,人を毒するから”三毒”といい言います。
心を内観して闇に向き合い、それに蓋をして抑圧したり自己否定することなく、その根本的原因である「執着」を手放して、煩悩(三毒)即菩提(悟り)として統合して、自由で穏やかな境地に至ること、それが「悟り」なのでしょう。
その意味では私も全く悟りには程遠いので、まだまだ修行ですが・・ 笑
【「あわ」の時代へ向けてー分離から統合へ】
身土不二、医食同源、地産地消、煩悩即菩提、利他即自利、東洋医学と西洋医学
など、など、これまでは別々の正反対の考え方に「分離」し対立してきたことが、一つに統合されて捉えられるようになってきました。
この世界は、すべてが相互に関係し合い、繋がり合い、大きな光の網の目のようになっています。
自分一人くらい何やっても大したことはないということは全くないのです。皆が実は大きな創造力をもっています。
人々の間の分離や階層序列化、無価値観の刷り込みは、新世界秩序(NWO)がめざす闇のサイドによる、同質化・奴隷化したシープルズ(羊の群れ)として支配しようとする人間の尊厳(神性を具有する存在)を貶める企てでした。
しかし、その目論見はすでに挫折したのです。
個性や多様性を尊重しつつ、地球という素晴らしく美しいかけがえのない星を平和で永続可能な優良惑星にシフトさせ、銀河文明社会の仲間に参加していく新しい時代の幕開けがまじかです。
昨今の、混沌とした世界情勢を見ればそんなことはありえないという人もいるでしょう。
しかし、もう潮目は変わりました。闇が偽旗を振って仕掛けようとしてきたNWOへの謀略はすべて失敗に終わっています。
分離の時代から、統合の時代へ、「あなたは私で、私はあなた」、あ=あなた、わ=わたし →「あわ」の時代ですね。
どうやら我々のいる三次元現実では、地球夜明け前の最終ステージ(夜明け前の晩)が本格的に始まったようです。
夜明け前の闇がもっとも暗いことからも、現在の世界が出口なき混沌状況にあるように見えるのは、神一厘のしくみが作動して、強烈な光の時代に入る予兆と捉えたいものです。
みなさんは「カゴメの歌」はよくご存知ですね。
でもいまいち意味がよく分かんないって感じかもしれません。
「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ」
縄文文化研究所の中山康直氏の話では、「かごめ」とはダビデの紋章で六芒星です。これは△と▽が重ね合わさった図形で相反する二元性のものが合わさること、つまり「統合」を意味しています。
善と悪、男と女、正と邪、精神と物質、などなどあらゆる二元性が統合されていきます。実は、この紋章は麻(ヘンプ)も意味しています。麻は、神様の依り代で、朝と同じ言霊ですね。
歌詞の途中に出て来る鶴は空を飛ぶ生き物(△)であり、亀は地を這う生き物(▽)であり、そして「滑った」とは「統べる(すべる)」という意味で、この「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」というフレーズは、闇の時代から光の時代へ移行していく夜明けの時を迎えて、対立してきた二元性が統合されていくことを意味します。
「後ろの正面だあれ」の意味はどうでしょう?自分の後ろをずっと辿っていくと、やがて地球を一周して自分の正面に戻って来ることを意味していて、これは直線ではなくて「球体」で認識すること、つまりは地球意識にまで意識を拡大することの重要性を示しているんですね。「あわ」の精神、つまり「あなたはわたし」という、主客合一、みんなひとつであるという世界観です。
「夜明け」とは地球の次元シフト、神道では岩戸開きであり、闇がもっとも深い時ですが、そのなかで強烈な曙光が射してくる光の時代の幕開けの瞬間でもあります。
希望をもって今ここで生きていきましょう!
Facebook大河原 正さん投稿記事「煩悩即菩提」
あらゆる苦悩を幸福の因に 煩悩を断ち切るのではなく 煩悩を縁として悟りの智慧にしていき あらゆる苦悩を積極的に幸福の因に転じていくのがこの法華経(妙法)の生き方である。
小乗教の考え方では、凡夫は煩悩(貪・瞋・癡など心身を悩ませる心の働き)を断じて初めて悟り(菩提)を得て成仏するとされています。しかし、煩悩はあくまでも生命そのものにもともと具わっている働きであり煩悩を断じ尽くすということは現実の生命活動を消滅させることになる。これに対して法華経では、凡夫のもっている煩悩を断ずることなく、煩悩を縁として直ちに仏の菩提(=悟り)が得られることが明かされました。
もちろん、この煩悩即菩提とは悩みや迷いがそのまま悟り(=菩提)に等しいということではない。「御義口伝」に「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」(御書710ページ)とあるように、悩みを避け、逃げるのではなく御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、信心を根本に煩悩に真っ向から取り組んでいくとき煩悩を縁として悟りの智慧が現れて煩悩をコントロールしていける。
「煩悩即菩提」とは、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方である。 日蓮大聖人の仏法を学ぶ
Facebook町田 宗鳳さん投稿記事
「即の体験」
「色即是空、空即是色」とか「煩悩即菩提」とか、仏教のキーワードには「即」が頻出する。それを理屈で理解することは誰にでも出来るが、体験するのは容易ではない。どれだけ教養があったとしても「即の体験」がなければ、人生の芯がないことになる。西田幾多郎も「絶対矛盾の自己同一化」と言ったが、矛盾するものが同一化するのは「自己」においてだ。やはり、自分が「即の体験」をもつよりほかない。それが宗教体験の本質でもあるが、そこに至る道は必ずしも宗教的である必要はない。「じゃあ、どうしたらいいのですか」と聞いてくる人が多いが、それを見つけるのは自主努力しかない。20日の「Dr.Sohoのパワートーク」は珍しく土曜日14時からの開催ですが、「即の体験」を豊富に持たれている現代の仙人・森井啓二先生をお迎えするので、ぜひご参集下さい。【護摩859回】 直近の予定は、HPのイベント欄を御覧ください。弘法護摩&オンライン護摩は随時受付中。町田宗鳳 | ありがとう禅 (arigatozen.com)
「自分に帰る、仏に帰る」
私はこの年齢になっても、地位や財産など自慢するものがない。僧侶としても、自慢するほどの法力もない。いったい何のために、今までの苦労があったのだろうかと、寂寞の念に襲われることがある。だからこそ、明確に見えてきたものがある。
おのれの日々の歩みは、ひたすら自分に帰る道を辿っているのだ。そこには何も要らない。どんな人生を歩むかは、その人の宿徳で決まる。徳のある人は今生でもそれなりの成果を上げることが出来る。なければ、それなりの人生となる。しかし死に向き合えば、そんなことはどうでもいいことだ。
終着駅を「自分」に定めさえしていれば、上出来だ。まもなく生を終える日が来るというのに、相変わらず外付けの価値を追い求めている人は、気の毒だ。むしろ不運だからこそ気づくことがある。聖書に「後の者が先になり、先の者が後になる」(マタイ伝)とあるのも、そのためだ。
「自分に帰る」ということは、「仏に帰る」ということだ。それさえ出来れば、この世に生れ落ちて来た意味はある。自分と仏は別物だと思っている人は、「煩悩即菩提」、「色即是空」、「絶対矛盾の自己同一」などの言葉を噛みしめてほしい。
パチンコ台のパチンコ玉がぜんぶ下の穴に落ちていくが、そこが自分であり、仏なのだ。途中でチューリップを咲かせて、当たり玉がジャラジャラ出来て来たとしても、いずれぜんぶ下に落ちる。つまり、人生はパチンコ台なのだ。それでも私の言っていることが理解できない人は、今から近所のパチンコ屋に行って瞑想して来て下さい!(笑) 28日「開けゴマ!福徳護摩」&オンライン「ありがとう禅」です。
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