Facebook町田 宗鳳さん投稿記事 「ガン君、ありがとね」
京大名誉教授の鎌田東二さんが、自身が大腸ガンであることを公表された。つい先日も、鎌田さんの比叡山回峰行と私の護摩行と、どちらが先に千回目を達成するだろうかと語り合っていたところだ。「これから、おもろいことをガンガンやろう」と言っておられたが、まさかガンになられるとは!
12月18日に横浜で「絶体絶命」コンサートを開催されたのだが、その2日前に大腸ガンの宣告を受け、腸閉塞の危険性を抱えたまま、命がけで32曲を歌ったという。鎌田さんは私が日本に帰国した際に最初に出会った学者でもあるが、彼の宗教家・研究者・教育者・ミュージシャン・詩人としての八面六臂の活躍を見て、同い年ながら、あまりにも無能無才の私にとって英雄的存在になった。
周囲からアル中と言われるほど大酒飲みだった彼が、ある啓示によって断酒に踏み切ったことは知っていたが、断酒以来、彼が便秘症に苦しんでいたことは知らなかった。手術を控えて「ガン君、ありがとね」と言っている鎌田さんには八百万の神々のご加護があり、きっと復活されるだろうし、私も護摩祈願で応援したい。
私も便秘にならないように、晩酌を断固続ける覚悟だ。寒い冬の夜は熱燗にかぎる。(笑)
「親友は異星人!」
昨日、慶応大学医学部で第五回〈いのち〉の研究会シンポジウムがあった。いつもの通り、五人の仲間たちが好き放題に語り合ったが、いちばん感動したのは、鎌田東二さんの登壇だった。なぜなら、彼は去年暮れにステージ4の大腸がんが見つかり、緊急手術後も肺、肝臓、リンパ節への転移も確認されている。
二日前に4時間にわたる抗がん剤治療も受けたと聞いていたので、「今回だけは休んで!」と助言したのだが、開場直前に飄々と現れた。本人に確認したところ大して副作用もなく、むしろ元気だという。手術直後から4回も比叡山回峰行をやってのけ、今や830回目に到達したという。信念と信仰において、常人ではない。異星人だ。
私と鎌田さんは同い年だが、広汎な教養、芸術的才能、宗教的霊性の深さにおいて、まったく歯が立たない。梅原猛氏が逝った後、日本思想界を牽引する人物の一人だ。医学的にはかなり危うい状況だが、神仏の加護を受けている彼は復活すると思う。ちなみに、第六回〈いのち〉の研究会シンポジウムは、6月25日(日)に「大国主命」をテーマに京都府綾部市での開催が決まっている。ぜひ日程に組み込んでおいて下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=fPx8c93G4-o
https://note.com/novalisnova/n/n1964ea9c71aa 【鎌田東二『悲嘆とケアの神話論/須佐之男と大国主』/「スサノヲの冒険」」(ウェブマガジン「なぎさ」連載)/高橋巖『神秘学講義』】より
鎌田東二はウェブマガジン「なぎさ」に二〇二二年五月から「スサノヲの冒険」を連載しそれらの内容を入れながら『悲嘆とケアの神話論/須佐之男と大国主』を二〇二三年五月に刊行している
十歳から座右の書として『古事記』を読み続けて来た積年の思いつまり神話に関するいわば客観的な立場からの研究に対する「抗議」の意味が込められておりしかも本書は「遺言」でもあるという
「抗議」であるというのはおそらく鎌田氏にとっては『古事記』を含む日本文学史を踏まえるということはそれそのものを生きてはじめてそれらを読んでいるといえるからなのだろう
言葉をかえていえば「神々の歌」を受け継ぎ「詩と学術を切り結ぶ」ということ「遺言」であるというのは「これをまとめ、書き上げた時は、ガン宣告後二週間で、手術前十日から一週間の間に本書をまとめることになったから」でありまさにみずからの「死」を前にした渾身の書でもあるといえる
さて鎌田氏は『古事記』のドラマの主役はスサノヲであるといいみずからをスサノヲの「子分」であるとしている
そして出口王仁三郎もまた自分の霊性をスサノヲと捉えていたことから出口王仁三郎を「スサノヲ組の兄貴分」であるとしている
また鎌田氏はスサノヲの中にディオニュソスを重ね「ともに殺される神でありつつ殺す神」であり「彼らは負の感情の渦巻く海に放り出され」「その痛みと悲しみの中から、それを救済するための歌と悲劇を生み出す」ととらえている
神秘学的にいえば秘儀にはアポロン的秘儀とディオニュソス的秘儀があり前者が「外なる世界に向かって存在の秘密を探求する」顕教的な道であるのに対し後者は「自分の内面への道を、無意識の世界の奥底にまで降りていこうとする」秘教的な道である
そしてその内面へ向かう道は魂の危険を伴うことから公開されることが禁じられていた内面へ向かうということは自己認識による自己変革でありさらには「自己外化」を伴うものである
その意味でスサノヲ的な道は神話的に描かれると悲劇や苦悩を運命づけられたものとなるのである鎌田氏はガンの手術を前にしてキューブラー・ロスが『死ぬ瞬間』で示唆したような「否認」から「受容」への葛藤の過程ではなくむしろ「感謝」さえ感じるようになったという
そしてそれは「悉皆成仏」や「鎮魂供養」にも通じるものではないかと
しかし昨今の日本を見渡すと至る処「「悉皆地獄」や「金摑み合戦」のような状況」である
こんななかでも「感謝」や「鎮魂供養」がこれからも遺っていくかどうかはなはだ危うそうだ
鎌田氏はそうしたことを「しかと見届けながらこれからを生き、死んでいきたい。」という
同感だがいままさにどんどん壊れている「日本」を後世において「神話」で描くとしたら
どんな物語になるかも気になるところだ
■鎌田東二『悲嘆とケアの神話論/須佐之男と大国主』(春秋社 2023/5)
■鎌田東二「スサノヲの冒険」〜「第1回」「第5回」(2022年5月3日)
(ウェブマガジン「なぎさ」連載)
■高橋巖『神秘学講義』(角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2023/3)
(鎌田東二『悲嘆とケアの神話論』より)
「十歳の時に『古事記』を読んで以来、座右の書として『古事記』を読み続けてきた。その六十三年の積年の思いが本書を成り立たせている。
これはわが執念の書であり、神話について客観的な立場からの研究や解釈を主としてきた宗教学や人類学に対しての挑戦状であり、『古事記』を含む日本文学史を十分に踏まえることなく日本文学に従事してきた文学者たち、作家たちに対する抗議の書であり、「遺言」でもある
「遺言」であるという意味は、これをまとめ、書き上げた時は、ガン宣告後二週間で、手術前十日から一週間の間に本書をまとめることになったからである。」
「私が研究領域としている「身心変容」あるいは「身心変容技法」とう観点からすると、病がもたらす「身心変容」はフィジカル面では不可抗力と言えるが、同時にメンタル面やスピリチュアル面ではそれを一つの警告とか啓示とかメッセージとして受け止めて、違う生き方や在り方に変容させる可能性を持っている。
キューブラー・ロスは、たとえば、癌を宣告された患者が、死を運命として受け入れられず、検査結果を疑い、否定し、どうして自分がどんな病に罹ったのかと怒りを感じ、死の恐怖から逃れようと神仏に祈ったりすがったり、諸種の代替治療を試したり、普段しないような慈善行為の寄附をしてみたりして取引を重ね、それも役に立たないことを知ると抑うつ状態に陥って絶望的な気持ちになって何事にも無気力になるが、終には、死を避けられなぬ運命として受け入れて安らぎを得る過程を鮮やかに描いて見せた。
これは、死の臨床人間学的研究に大きな寄与よ前進を与えるものだった。
だが、ガンを告知されて思ったのは、まず、キューブラー・ロスの言う五段階を順序だてて辿ることのない、いきなりの「受容」もあるのではないかとという実感と、「怒り」ではなくて「感謝」と言うべき感情の生起もあるのではないかという気づきである。異論というほどではないが、違う見方や状況もあり得るのではないかということだ。
むしろ、告知後もっとも難しく、悩ましかったのは、医師からの告知を自分自身で受容することよりも、このことを周りの他者、家族や友人にどのように伝えるかであった。」
「昨年四月に逝去した社会学者の見田宗介(一九三七〜二〇二二)は、『現代日本の精神構造』(弘文堂、一九六五年)「第二部 現代日本の精神状況」の仲野「八 死者との対話————日本文化の前提とその可能性」において、日本人には「原恩」ないし「天地の恩」の思想があると指摘している。
「世界における道徳意識の根底にあって、〈原罪〉の意識に代わるべき地位を占めるのは、いわば〈原恩〉の意識であろう。」(・・・)
どうも、私にも、見田宗介が言うような、「原恩」とか「天地の恩」感覚がどこかにセットされているようなのだ。
見田は、日本文化に見られる「汎心論」においては、「日常的な生活や「ありのままの自然」がそのまま価値の彩りをもっていて、罪悪はむしろ局地的・一時的・表面的な「よごれ」にすぎない。真空のなぁに物体がある古典力学の世界ではなく、空間そのものが無数の粒子の散乱によって充たされている現代物理学の世界である。賢治や白秋の宇宙感覚、小津安二郎や木下恵介の抒情性、スナップ写真や日記への嗜好などをもち出すまでもなく、日本文化論のレギュラー・メンバーとなっている俳句や私小説はつねに、生活における「地の部分」としての、日常性をいとおしみ、「さりげない」ことをよろこび、「なんでもないもの」に価値を見いだす————「奥の細道」の旅路そのものが問題であって、到達点としての松島自体は、実はどうでもよかったのではなかろうか」と述べている。
「私がそのふもとで住まいする比叡山には、平安時代に「一仏成道見法界。草木国土悉皆成仏」と命題化される天台日本本覚思想が発達した。そのような観点からすれば、ガンも便もすべてが「成仏」ということになるだろう。
じっさい、比叡山の麓にある天台五大門跡寺院の一つの万寿陰門跡には「菌塚」がある。発行職員の開発などに使われてきた菌に対して、そのおかげを感謝し、何億何兆という数の実験に使われてきた「多種多様な菌様」に対して鎮魂供養をする「塚」である。そこでは、毎年五月に、欠かさず供養の儀式(法要」が行なわれている。これこそ、原恩教とも「ありがた教」(すべてが有難く思える)とも言える日本の〈感謝教文化〉の発露ではないだろうか。
だがしかし、ウクライナ戦争や国内外のクリスマス期の大雪吹雪災害などなどを見ても、てんだい本覚思想の「悉皆成仏」や「菌塚」どころか、「悉皆地獄」や「金摑み合戦」のような状況である。それでもなお、「悉皆成仏」と言える「原恩思想」や「ありがた教」の「複雑性感謝」は成り立つのか、しかと見届けながらこれからを生き、死んでいきたい。」
(鎌田東二「スサノヲの冒険 第1回」より)
「『古事記』という神話的物語のなかで、最大の闘争と危機をもたらし、同時にその危機打開のトリガーとなっているのは、須佐之男命(本連載において最頻繁に登場してくる固有神名であるので以下敬愛を込めてスサノヲと表記する)である。その意味で、スサノヲは『古事記』を面白くしている神の筆頭をなしている。
スサノヲがいなければ、『古事記』の面白さは半減する。ドラマチックな筋立ても生まれない。葛藤も、対立も、争いも生まれない。スサノヲは、『古事記』ドラマの主役である。」
(鎌田東二「スサノヲの冒険 第5回 スサノヲとディオニュソス」より)
「出口王仁三郎は自分の霊性をスサノヲと捉えた。そしてスサノヲの霊性のこの今の発現こそ自分に他ならないと自覚し、スサノヲの道を貫いた。
この出口王仁三郎のスサノヲ観の根幹には、「贖罪するスサノヲ」がいる。それが、痛みと悲しみに暮れながら暴れまくり、終には八岐大蛇と対峙する「救済者としてのスサノヲ」となり、そしてその際に「歌うスサノヲ」が顕現し、その後、大国主神に神威を委譲する時に「祝福するスサノヲ」の貌が現れ出る。それらとひっくるめ、束ねて、出口王仁三郎は「歌祭りとしてのスサノヲの道」を提示した。
及ばずながら、私もその道を辿る者である。私の場合は、出口王仁三郎の自覚のように、スサノヲの化身などではなく、何十年も前から(たぶん45年前くらいから)「スサノヲの子分」と自称し、公言してきた。「子分」であるからには、「親分」の言うことを聞かねばならない。紆余曲折の多い我が人生はそのようなスサノヲの「子分」の道の曲折であった。その「子分」であり、大本共感者ではあっても大本信徒ではない私からすると、出口王仁三郎は「スサノヲ組の兄貴分」であり、「スサノヲ組代貸」のような先駆者・先達である。もちろん、「スサノヲ組」の組長であり貸元は、スサノヲ自身である。」
「私は10歳の時に『古事記』を読み、その後すぐに「ギリシャ神話」を読んで、日本神話とギリシャ神話を貫く共通点・相似性に驚き、興味を抱いてきた。そして、スサノヲの中に、ディオニュソスやポセイドンやヘルメスやペルセウスに重なる神話素を見出してきた。
そこで、今回、ここでは、その中からスサノヲとディオニュソスとの重合性・相似点を中心に検討してみたい。」
「スサノヲとディオニュソスはともに殺される神でありつつ殺す神である。彼らは負の感情の渦巻く海に放り出されている。そしてその痛みと悲しみの中から、それを救済するための歌と悲劇を生み出すのである。
歌は悲哀の中から生まれる。どのような喜びの歌の中にも悲哀が宿っている。そんなアンビバレントな緊張と運命的な絡まりがあり、そのようなアンビバレンツをスサノヲとディオニュソスは体現した神なのである。」
(高橋巖『神秘学講義』〜「第四章 秘儀とその行法/アポロン的とディオニュソス的」より)
「神秘学における意識の統合化の具体的な道は、古来、二つの道として伝えられてきました。つまり、エジプトやギリシアの時代から現代に到るこの新ピゲ句的な道を「秘儀」という言葉で表現するなら、秘儀には二つの秘儀があったのです。第一の秘儀はどういうことかというと、われわれが外に向かって感覚を働かせる場合、その外の世界がヴェールにおおわれているので、そのヴェールをかかげる行為が、この秘儀の行き方になるわけで、それをわれわれはアポロン的秘儀と名づけようと思います。
それに対して第二に、人間には自分の内部に感情とか、意志とか、表象とか、さまざまの精神の世界があるわけですけれども、その内面の世界にもヴェールがかけられている。そのヴェールをかかげる道をわれわれはディオニュソス的秘儀と名づけます。したがって、アポロン的秘儀は、外なる世界に向かって存在の秘密を探求する道であり、ディオニュソス的秘儀は、自分の内面への道を、無意識の世界の奥底にまで降りていこうとする、そういう道であるとも言えるわけです。
昔からこの二つの道ははっきりわかれていました。外部の世界で出会う神を、明らかなるカミという意味で、顕神、内部の世界で出会う神を幽神と呼ぶことで、顕界の神々と幽界の神々とを区別してきたのです。また、アポロン的秘儀の方を秘儀における大道、ディオニュソス的秘儀の方を秘儀における小道、という言い方もしてきました。
この二つの道のうち、ディオニュソス的秘儀である、内部に向かう秘儀は非常に危険な道なので、この秘儀は、一般に非常にきびしくかくされていました。それを公開することはゆるされていなかったのです。むしろより安全な、アポロン的な、外への「大いなる秘儀」の方が、一般的に知られていたのです。」
「ディオニュソス的秘儀の最初は、夢なのです。なぜなら夢は、われわれが経験している超感覚的体験の中の、一番身近なあらわれですから、自分自身の内部で、ディオニュソス的秘儀を日常生活の中で体験しようと思ったら、夜眠っているときに体験する夢をあらためて意識化する行為からはじめるのが、一番簡単であると同時に、第一歩として必要でもあるわけです。」
「ディオニュソス的秘儀にとって非常に必要な第二の行為は、(・・・)自己変革ということです。(・・・)スパルタ的位置が、非常に簡潔な言葉で語る真理の中の真理と言われているものは二つあって、一つは「人間よ、汝自身を知れ」、もう一つは「極端にはしるな、中庸を大事にしろ」という言葉だったわけですけれども、その「汝自身を知れ」という自己認識が、ディオニュソス的秘儀の場合、特に重要になってくるのです。シュタイナーは、自己認識に二つの種類の自己認識があることを非常に強調します。第一の自己認識は、自己反省です。(・・・)反省を重ねることによって、自己を認識する場合の自己認識を、自己反省とか自己内省と言うのですけれども、じつはオカルティズムで問題になってくる自己認識は。そのような自己認識だけではなくて、第二の自己認識、つまりシュタイナーの言う自己外化です。(・・・)
自己外化(Selbstentäusserung)というのは、(・・・)いったん自分が自分にとって大事な、身近な、必要な存在になってきた時点で、つまり自己同一性というのでしょうか、自分の存在が自分によって充分確認できる大切な存在になり、したがって自分が非常にいとおしく、大切に思える状態のときに、その自分をもう一度完全に自分の外に追い出してしまうことが自己外化なのです。そしてそれがオカルティズムにとっての自己認識なのです。」
◎鎌田東二
1951年、徳島県生れ。宗教学・哲学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授、京都大学こころの未来研究センター教授、上智大学大学院実践宗教学研究科・グリーフケア研究所特任教授を経て、京都大学名誉教授、NPO法人東京自由大学名誉理事長、天理大学客員教授。石笛・横笛・法螺貝奏者。神道ソングライター。フリーランス神主(神仏習合諸宗共働)。
主著に『神界のフィールドワーク――霊学と民俗学の生成』(青弓社、初版は創林社)、『翁童論――子どもと老人の精神誌』(新曜社)、『宗教と霊性』(角川選書)、『神と仏の精神史――神神習合論序説』(春秋社)、『霊性の文学誌』(作品社)、『神と仏の出逢う国』(角川選書)、『言霊の思想』(青土社)、『南方熊楠と宮沢賢治――日本的スピリチュアリティの系譜』(平凡社新書)、『「負の感情」とのつき合い方』(淡交社)ほか。
https://nagisamagazine.wixsite.com/t-jiyudaigaku/post/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%83%B2%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA-%E7%AC%AC%EF%BC%97%E5%9B%9E 【スサノヲの冒険 第7回】より
鎌田東二
「顕神の夢」とスサノヲ表現
出口王仁三郎(1871‐1948)は自身をスサノヲの「化身」である「瑞霊(みづのみたま)」と自覚していた。王仁三郎がスサノヲを「言霊の神」とし、「そもそも芸術の祖神は素戔鳴大神さまであるから、心中この大神を念ずるとき、絵画といわず、陶器といわず、詩歌といわずあらゆるものに独創が湧く」(「絵について」『出口王仁三郎著作集』第3巻)と「芸術の祖神」であると主張していたことは本連載の第4回目に記した(1)。
大本でもっとも多く繰り返し唱えられる祈りの聖句である「惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはへませ)」について、創作ではあるが、出口王仁三郎の孫の出口和明は『大地の母』第7巻(283‐284頁、あいぜん出版、1994年)の中で次のように出口王仁三郎の発言として描写している。
〈どんな時でも「惟神霊幸倍坐世」を忘れたらあかんで、惟神霊幸倍ませと念じる心は、神様の御心のままに神霊の幸福をたまわりませという意味や。
大事なのは惟神、つまり、神様の御心のままにということ。人としての最善をつくした上で、あとはどうなろうと神にお任せするという安らかな態度が、神に向かう人としてのまことや。己を無にすることも知らず、がむしゃらに利欲を願うても無駄。
神様はその者の召使やない!
心だにまことの道にかないなば祈らずとても神や守らん。という古歌を引き合いに出して、己の無信仰を弁護する者がおる。
一面の真理やが、他面では大変な思い上がりや、心がまことの道にかなうようになるために、まず人は祈る。神に心を振り向ける。『おれは自力で立派にやる。祈る必要はさらになし』というは、なるほど強くて頼もし気に見えるが、神に日々生かされていることを知らぬ者の云うこと。
神床に向かって正座し、型通りの祝詞を奏上する。そこまでいかんでも嬉しい時に手を合わせてみい。悲しい時にもや。道歩きながら、転びながらでも良いのや。
惟神霊幸倍坐世という余裕がなかったら、惟神でも、神霊(かんたま)でも、神(かん)でもええ。
その一念さえ通ったら、神様は守ってくれはる。〉
大本信徒連合会の出口孝樹によると、この祈りの聖句の「惟神霊幸倍坐世」は、大正時代の大本の祈願詞集である『善言美詞』には出て来るとのことであった。私が確認できたところでのもっとも古い初出は、第一次大本事件後の大正10年10月18日から口述が始まった『霊界物語』第1巻「霊主体従子の巻 第1篇幽界の探険現界の苦行」の最後に、「これが自分の万有に対する、慈悲心の発芽であつて、有難き大神業に奉仕するの基礎的実習であつた。アゝ惟神霊幸倍坐世。」とある箇所であった(大正10年11月30日初版、昭和34年7月28日普及版、昭和42年校訂版、大本教典刊行会編、天声社刊、19頁)。
そこでは、この祈句は「万有に対する慈悲心の発芽」の表現と意味づけられている。現在の大本信徒連合会のHPには、〈『「神様のみ心のままに霊の善くなるようお救いください」という意味の祈りの言葉です」〉と説明されている。
そのスサノヲ化身出口王仁三郎の描いた「巌上観音」などの掛軸が、今、川崎市岡本太郎美術館に展示されているが、これは「惟神霊幸倍坐世」の精神性を絵に表現したものであると言える(2)。
縁あってわたしが監修を務めることになったこの「顕神の夢」展は、2023年4月29日(土)から川崎市岡本太郎美術館で始まっている。この「巌上観音」像の掛軸は、5つのゾーンに分けた展示の第一ゾーン「見神者たち」の冒頭部分に展示されている。
今号では、この「顕神の夢」展に「顕神」したスサノヲの「像」(作品)を取り上げていきたい。
筆頭展示は、出口なお開祖の「お筆先」、その次が出口王仁三郎聖師の「巌上観音」の掛軸(観音はスサノヲの変容体でもある)、その隣が王仁三郎の書「おほもとすめおみかみ」、その向かいに、耀盌「瑞雲」(「瑞雲」は「瑞霊」であるスサノヲ=出口王仁三郎を象徴し、「雲」は「八雲立つ出雲」を象徴しているとも解釈可能である)が展示されている。
続いて、大本に在籍したことのある岡本天明(1897‐1963)、そして、「神理研究会」創立者で、雑誌「さすら」を主宰していた金井南龍(1917‐1989)と続く。岡本天明は、大正9年(1920)年に皇道大本の大幹部の浅野和三郎が社長を務める大正日日新聞社(第一次大本事件のあった大正10年1月13日に社主だった出口王仁三郎が社長に交替)に入社し、大正14年(1925)には皇道大本が発行する機関紙の「人類愛善新聞」の創刊時に編集長に就任している。
その岡本天明の「三貴神像」(1948年頃制作)が一点展示されている。「三貴神」とは、イザナミの禊から成った天照大御神(左目から化成)、月読命(右目から化成)、須佐之男命(鼻から化生)の『古事記』に言う「三貴子(みはしらのうづのみこ)」であるが、中央に大きく描かれているのはスサノヲである。が、このスサノヲは特に『日本書紀』の冒頭に登場して来る最初の神の「国常立大神」で、しかも、特に「素鳴大神(すさなるのおおかみ)」とされる。『日月神示』と呼ばれた自動書記を世に出した岡本天明は、1948年頃にわずか30分で、この「三貴神像」を画いたという。「三貴神」とは、日月と地球で、もちろん、日=太陽は天照大神、月は月読大神、そして地球が「国常立大神=素鳴大神」、つまり、スサノヲであるということになる。
また、金井南龍の作品は、「高千穂と山王龍」「妣の国」(いずれも1969年制作)、「富士諏訪木曽御嶽のウケヒ」(1986年制作)の三点で、その中の「妣の国」には妣の国を遥拝するスサノヲたちの後ろ姿が描かれている。ちなみに、幼児のスサノヲは黄色い上着と赤い吊りズボンを身に纏っている。その幼き「三貴子」の後ろ姿の中でも、ひときわ目立っているのがスサノヲで、遥拝場の一番前に出ていることもそうであるが、赤い吊りズボンがいっそう哀感をそそる。
さて、同ゾーン(「見神者たち」)の中の三輪洸旗(1961‐)の画の中に「スサノヲ顕現」(2008年制作)がある。この作品には全体がほぼ真っ黒なので、不鮮明で不透明な幽冥感が漂っている。それは幽玄でもあるが幽冥でもあり、くぐもっている。兆しのような。画面真ん中にうっすらとうかびあがってくるモノ。それを三輪は「スサノヲ」とした。
図録『顕神の夢――幻視の表現者』(顕神の夢展実行委員会、2023年4月28日刊)の巻末に置かれた江尻潔の長編解説論文「顕神の夢」には、三輪が岡本天明の「三貴神像」を見た夜にこの絵を制作したことを次のように記している。「彼(三輪洸旗―引用者注)が岡本天明の《三貴神像》を見た晩、制作準備のためシナベニヤに施した下塗りがおのずと「スサノヲ」の姿になったという。《三貴神像》の「素鳴大神」同様、赤子を抱いている。すでに十四年を経ているが、いまだに顕現し続けているという」
岡本天明にも、三輪洸旗にも、スサノヲが「顕神」した。わたしは、三輪洸旗の「スサノヲ顕現」を見た時に、スサノヲが「始祖鳥」に跨っているように視えた。その下にいるのは、岡本天明の「三貴神像」では、龍である。だから、三輪洸旗の「スサノヲ顕現」のそれも、スサノヲが跨っているのは龍である、ということもできる。
しかし、画像が持つ形態というモノはスペクタクルな多面体でもある。それを「始祖鳥」だと視る者がいても、それを100%否定する根拠はない。むしろ、多様な見方や解釈を許すことによってその絵はより豊穣なものとなる。芸術の力とはそのような鵺のような、キメラのような、スペクタクルな多面体を蔵するところにあるのでないか。
さらに、第四ゾーンの「神・仏・魔を描く」の中に、三宅一樹(1973‐)の彫刻「スサノオ」(2014年制作)が展示されている。その隣に展示されている掛軸のような彫刻作品「那智の多氣」(2018年制作)にわたしは魅せられたが、三宅はこの数年さまざまな神像群を制作し続けている。その最初期の神像の「顕現・顕神」がスサノヲであった。
三宅から直接聞いた話では、確か、八幡神社の神木で落雷か何かで倒れていたものをいただいてきて、それを見つめているうちに、そこに「神像」、神の貌が浮かび上がり、それを夢中で掘り進めると、このような形になり、それを彼は「スサノオ」と名付けたのである。まさにそのプロセスは「顕神の夢」そのものである。
最後の第五ゾーンの「越境者たち」の中に、26歳で瀬戸内の海で溺れて夭折した中園孔二(1989‐2015)の「無題」の作品が六点展示されている。その内の二点をわたしは、4月29日に行なわれたオープニング鼎談において、鼎談者の二人である企画立案者の土方明司川崎市岡本太郎美術館館長と江尻潔足利市立美術館学芸次長の前で、あえて「緑のスサノヲ」と「カグツチ」(いずれも2012年制作)と名付けた。
赤黒く浮遊しているような不気味な妖怪じみた人体は、首が切断されていて、頭部が頭骸骨のように見える。胴体の方はふっくらとしていて幼児のようでもある。また、どこか、『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようでもある。なので、「カグツチ」という名付けは、それほど的外れではないと思っている。
が、問題は、「緑のスサノヲ」である。出口王仁三郎の赤と緑の耀盌「瑞雲」がここで、赤=八岐大蛇=カグツチと緑=スサノヲに顕神分化した。冒頭に「耀盌」があり、最後の末尾に「カグツチ=ヤマタノオロチ」と「緑のスサノヲ」がいる。それらは共鳴し合い、呼応し合っている。この「顕神の夢」展で、スサノヲがそうであったように、啼きいさちり、呼び交わし合っている。それらは、哀しみと喜びのない混じった混合表象である。中園孔二の「緑のスサノヲ」は啼いている。啼きいさちッている。
何を啼いているのか? それはこの地球の、この世の苦悩ゆえであろう。それらの苦悩の根源に何があるのか? それを見つめながら啼いている。まさにそれは、岡本天明の「素鳴大神」の「鳴」であり、「神成=雷」である。スサノヲの啼きいさちる声は雷鳴となって地上に落下する。
それは、「天鳴直咒」、である。それを「天命直受」するのが画家であり、詩人であり、芸術家である。わたしはスサノヲのその「天鳴直咒」を『悲嘆とケアの神話論―須佐之男・大国主』(春秋社、2023年5月3日刊)として取り次いだ。「顕神の夢」展の作家たちがおのおの独自の「顕神=見神」を表現したように。このわが「遺言」を読んでいただきたい。その冒頭は、本連載先号(第5号)のエッセイ「スサノヲとディオニュソス」で、その次に「開放譚~スサノヲの雄叫び」などの神話詩が続く。冒頭の構成は次の通りである。
序章 須佐之男のおらび スサノヲとディオニュソス
第一章 日本神話詩
開放譚~スサノヲの雄叫び
大国主~なぜこれほどの重荷を背負わ
なければならないのか?
流浪譚~ヤマトタケルの悲しみ
国生国滅譚~イザナミの呪い
ちなみに、この『悲嘆とケアの神話論』の表紙の画は、同「顕神の夢」展に出品されている横尾龍彦の作品「枯木龍吟」である。
同展第三ゾーン「内的光を求めて」には、その横尾龍彦東京自由大学初代学長の「枯木龍吟」「龍との闘い」(いずれも1988年制作)「無題」(1989‐1991年頃制作)の三点(鎌田所蔵)が出品されている。
この「枯木龍吟」はスサノヲが啼きいさちった後に訪れる「嗄れ(涸れ)」を表現しているとも見える。また、「龍との闘い」は、スサノヲとヤマタノオロチの闘いそのものである。「無題」もまた、「龍との闘い」の延長のように見える。横尾「龍」彦という画家は、生涯、「龍」と向き合い続けたと言える。
横尾龍彦は、その「龍との闘い」を通して、次のような言葉を遺している。東京自由大学初代学長のメッセージとして、心して受け止めたい(3)。
〈ノヴァーリスは「芸術とは人間の低次の自我の枠を超えて、宇宙の創造的諸力と結びつくための手段である」と書いている。ある種の現代芸術は、はっきりと自らのシャーマン性を意識している。それは高次の霊能力を受容することによって人類のVisionを形成すること、そして副次的には、芸術に参加するものに心理的治療をもたらすことである。
画家にとっては、言語による思考からは、実は表現衝動は生れない。言語による推理と分析によって、美を客観化すればするほど、表現は遠のく。気韻は自然に何処からか現れて宿るのである。そのため特殊な自己超越法を身つけなければ作品は生まれない。それは一種の霊的濃密空間へ没入する技術である。(…)芸術を深く探求しようとすれば、事物の奥深く隠されているものを言語化しなければならない。その世界において芸術は限りなく宗教に近づいていく。
幻視する能力というものは内的必然性に従って出現するものであって、日常の視界に何処にでも顕在化するものではない。それは外界に可視的形状をもって対象化されるのではなく、内観する秘儀とも言うべき秘められた世界なのである。内観する視力は同時に内なる小宇宙から共鳴する大宇宙への眼眩む天界曼陀羅に見とれることになる。幻視家にとっての不可視の世界は実在している世界であり、この物質世界が肉眼に映るように心の内奥に映像しているのである。
ここではっきりと区別されなければならないのは幻視することと空想することの相違である。幻視とは不可視の実在を見ることであり、空想は概念的虚像を見ることである。前者は霊的進化に寄与し、後者は知的遊戯に寄与する。
精霊たちよ、聖なる存在者よ、私を通して流れよ、発光せよ。
(いずれも『横尾龍彦1980-1998』「断章」より、春秋社、1998年刊)>
横尾龍彦は、「龍」を通して「顕神の夢」を視た。その中には、スサノヲやヤマタノオロチと連動するイメージや表象やビジョンがあった。「龍動」する横尾の中にスサノヲもヤマタノオロチもいた。ヤマタノオロチはこの世のあらゆる災い(苦悩・苦難・悪・暴力・残虐)を象徴する。スサノヲは、おのれの中にヤマタノオロチが生息していることをはっきりと感じ取っていた。がゆえに、自分で自分を退治した。浄化した。昇華したのである。自分の中の「魔」と向き合って。
横尾龍彦も、生涯、「神」と「魔」に向き合いながら、初期の瞑想画・幻想画から後期の独自の「龍画」に転換した。その闘いの中から見い出した神剣「天叢雲剣」、すなわち「草薙剣」をわたしたちもスサノヲとともに一振り、二振り、三振りしてみよう。そのような「神剣」の顕現を今、必要としているのである。
注
(1)出口王仁三郎は、「藝術は宗教を生むのであるから、宗教の親である。長い間子の研究やつたから、これからは親の研究をやるのぢや。」「私は絵を描くにしても、岩なんかを書いて居ると、上から落ちて来るやうな気がするので、左手で押しあげて居るようにしてかく。」(いずれも、出口王仁三郎『水鏡』1928年、あいぜん出版)、「詩を作らうと思ふ心が詩を殺し、画を描かうと思ふ心が画を殺すものである。無作の詩人と無筆の画人こそ真に詩人であり、画伯である。海の声、山の姿も神ながらにして詩となり画となるのが本物である。」(出口王仁三郎『月鏡』1930年、あいぜん出版)、「藝術と宗教とは、兄弟姉妹のごとく、親子のごとく、夫婦のごときもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。」(出口王仁三郎「総説」『霊界物語』第65巻)と述べている。
また、展示されている出口なおのお筆先の言葉は以下の通りである。
うしとらのこんじん (艮の金神)
のこらずのこんじん (残らずの金神)
りう五(も)んのをとひめさま (龍宮(門)の乙姫さま)
ゆわのかみさま (岩の神さま)
あめのかみさま (雨の神さま)
かぜのかみさま (風の神さま)
あれのかみさま (荒れの神さま)
じしんのかみさま (地震の神さま)
出口王仁三郎作耀盌「瑞雲」
出口王仁三郎楽焼茶碗
(2)「顕神の夢」展の5つの展示ゾーンと主要出品者は以下の通りである。
●見神者たち(神的なものとダイレクトな「交流」があり、制作した人たち)出口王仁三郎、出口なお、岡本天明、金井南龍、宮川隆、三輪洸旗
●幻視の表現者(宗教的なビジョンあるいは幻視・幻覚を制作のモチベーションとした作家たち)村山槐多、関根正二、河野通勢、萬鉄五郎、古賀春江、高橋忠彌、三輪田俊助、芥川麟太郎、内田あぐり、藤山ハン、齋藤隆、庄司朝美、八島正明、花沢忍
●内的光を求めて(心に浮かんだ「幻」の素材である内的な光をそのまま表出した作家たち)横尾龍彦、藤白尊、上田葉介、黒須信雄、橋本倫、石塚雅子
●神・仏・魔を描く(既存の神仏に依拠した作品のほか、独自のビジョンによって感得した神仏の姿。得体のしれない「魔」も表現される)円空、橋本平八、高島野十郎、藤井達吉、秦テルオ、長安右衛門、平野杏子、牧島如鳩、佐藤溪、八島正明、石野守一、真島直子、吉原航平、若林奮、黒川弘毅、佐々木誠、三宅一樹
●越境者たち(既存の世界を越境して常人とは別の視点からこの「世界」を改めて見直した作家たち)宮沢賢治、草間彌生、岡本太郎、横尾忠則、馬場まり子、赤木仁、舟越直木、中園孔二、OJUN
【開催予定館】
川崎市岡本太郎美術館 2023年4月29日(土・祝)~6月25日(日)
足利市立美術館 2023年7月2日(日)~8月17日(木)
久留米市美術館 2023年8月26日(土)~10月15日(日)
町立久万美術館 2023年10月21日(土)~12月24日(日)
碧南市藤井達吉現代美術館 2024年1月5日(金)~2月25日(日)
【助成】地域創造
【監修】鎌田東二(京都大学名誉教授・天理大学客員教授)
【各開催館担当者】
川崎市岡本太郎美術館 館長 土方明司 学芸員 佐藤玲子、喜多春月
足利市立美術館 次長 江尻 潔
久留米市美術館 副館長 森山秀子 学芸員 原口花恵
町立久万美術館 館長 高木貞重 学芸員 中島小巻、本田李璃子
碧南市藤井達吉現代美術館 館長 木本文平 学芸員 大長悠子、中島未紗
また、同展図録の巻頭エッセイとして、以下の短文を寄稿した。
「顕神の夢」という「顕幽出入」の時代 鎌田東二 図録原稿
「顕神の夢」展、画期的なネーミングであると思っている。
かつて、公立美術館でこのような名称を持つ、あるいはこれに近いタイトルの展覧会が開かれたことがあるだろうか? そのすべてを承知しているわけではないが、おそらくこれに近い展覧会名はないのではないかと思う。
「霊性」をテーマとする先行の展覧会として二〇一四・一五年開催の「スサノヲの到来 いのち、いかり、いのり」展(足利市立美術館、DIC川村記念美術館、北海道立函館美術館、山寺芭蕉記念館、渋谷区立松濤美術館)、二〇二〇・二一年開催の「デビュー50周年記念 諸星大二郎 異界への扉」展(北海道立近代美術館、イルフ童画館、北九州市漫画ミュージアム、三鷹市美術ギャラリー、足利市立美術館)が思い浮かぶが、本展はそれ以上に独創的でラディカルでパワーアップしていると言えると思う。先行二展に関り、本展の監修を務めた者として、まずこの点を強調しておきたい。
しかし、古典を紐解けば、「顕神の夢」に近い言葉は、日本最古の不思議なテキストである『古事記』(七一二年編纂)と二番目に古い正史の『日本書紀』(七二〇年編纂)に出てくるのである。
まず、太安万侶が書いたとされる『古事記』序文の冒頭にこうある。
「臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、氣象未だ效れず。名も無く爲も無し。誰かその形を知らむ。然れども、乾坤初めて分れて、參神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二靈群品の祖となりき。所以に、幽顯に出入して……(以下略)」(倉野憲司校注、岩波古典文学大系本)
問題の箇所は、「顕幽に出入」するという部分である。ここには、「顕」の世界と「幽」の世界に分かれていて、その両方を行き来することができるという世界観がある。それが前提となってこの語が意味を持つ。分かりやすく言えば、「顕」はこの世で(『古事記』の場合では「葦原中国」)、「幽」はあの世(「黄泉国」)である。つまり、この世とあの世、葦原中国と黄泉国とを往来できるという世界観だ。
もちろん、『古事記』も『日本書紀』も『万葉集』も、当時はひらがなもカタカナもなかったのですべて漢字で表記されているが、その部分の漢字表記は「出入幽顯」である。その「出入」を誰がしたかと言えば、国生みの原母伊邪那美命と原父伊邪那岐命である。
イザナミは、火の神カグツチを産んでみほと(女陰)が焼かれ衰弱して「神避」り、黄泉国に身罷ったと『古事記』は記す。その後を追いかけて夫イザナギが黄泉国に趣く。そして、一緒にこの世=葦原中国に戻って、さらに神生み・国作りをしようと、黄泉国に身罷った妻に呼びかけるのだが、「見るな」のタブーを破ったイザナギは妻の体の変容に耐えきれず、穢れたものを見てしまって逃げ帰り、「黄泉比良坂」(『日本書紀』には「黄泉平坂」)を「千引の岩」、すなわち千人がかりで引くほどの大岩で塞いで、「顕幽出入」をできなくした。これが「顕幽出入」から「顕幽分断」への大きな変化である(1)。
つまり、日本の原初の神々は、最初は、「顕幽」に自由に出入りできていた。しかし、それが大岩で塞がれた。そのために出入りが困難になった。そこで、「顕幽出入」するようなことは特別のこととなり、巫女やシャーマンや霊能者など特殊な能力を持つ人たちだけの独占行為や経験となってしまった。とまあ、そのようなことになるだろう。
ではもう一つの古典、『日本書紀』にはどう出ているか。ここでは「顕露」と「幽事」が対比的に用いられている。いわゆる「国譲り」の記事の中で、天孫は「顕露事」を、大己貴神(大国主神)は「神事・幽事」を治めるという分治論が示されているのである。『日本書紀』神代下第九段第二の「一書曰」に次のようにある 。
〈二神(経津ふつ主ぬしの神かみと武たけ甕みか槌づちの神かみ)、出雲の五十田狭いたさの小汀おはまに降くだり到いたりて、大己貴神に問ひて曰はく、「汝、此の国を以ちて天神あまつかみに奉らむや以い不なや」とのたまふ。対へて曰さく、「疑はくは、汝二神、是吾が処に来ませるには非じ。故、許すべからず」とまをす。是に経津主神、還かえり昇りのぼり報告かえりこともうす。時に高皇産たかみむす霊ひのみ尊こと、乃ち二神を還遣かえしつかわし、大己貴神に勅みことのりして曰はく、「今者もし汝が所もうす言ことを聞くに、深く其の理有り。故、更に条々をちをちにして勅せむ。夫れ汝が治らす顕露之事あらわなること、是吾が孫治しらすべし。汝は以ちて神事かくれたることを治らすべし。又汝が住むべき天日あまのひ隅宮すみのみやは、今し供造つくらむ。即ち千尋ちひろの𣑥たく縄なわを以ちて、結びて百八十ももやそ紐むすびとし、其の造宮みやつくりの制は、柱は高く太く、板は広く厚くせむ。又田みた供つ佃くらむ。又汝が往来かよひて海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋と天鳥船も供造らむ。又天安河にも打橋を造らむ。又百八十縫ももやそぬひの白楯を供造らむ又汝が祭祀まつりを主つかさどらむ者は、天穂日命是なり」とのたまふ。是に大己貴神報こたへて曰さく、「天神の勅みこと教のり、如か此く慇懃ねもごろなり。敢へて命に従はざらむや。吾が治らす顕露事は、皇孫治らしたまふべし。吾は退さりて幽かくれた事ることを治らさむ」とまをす。乃ち岐ふなとの神かみを二神に薦めて曰さく、「是、我に代わりて従へ奉るべし。吾は此より避去さりなむ」とまおし、即ち躬に瑞の八坂瓊にを被とりかけて長とこしえに隠りましき。〉(日本古典文学全集本、岩波書店)
要するに、天皇家の祖先はこの世=葦原中国=顕露事を、大己貴神=大国主神はあの世=神事=幽事を治めようという条件を国譲りの交渉条件として出したということになる。
こうして、出雲系の大国主神があの世を治める「幽世の神」となる。平田篤胤は『霊能御柱』の中で、「大倭心を太ク高く固メまく欲するには、その霊の行方の安定を知ることなも先なりける」と記し、(『新修平田篤胤全集』第七巻、名著出版、一九七七年)と述べ、死生観的な探究と確信が無いと大和心や大和魂の真の鎮まりと安定はないと考えた。
そして、そうした探究のまとめとして、かつて「スサノヲの到来」展で展示されたことのある『古道大元顕幽分属図』に、最上段に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の「造化三神」、第二段に伊邪那岐命・伊邪那美命の「国生み・神生み」の原父母神、第三段に天照大御神・須佐之男神の「三貴子」中の対立する二神、第四段に豊受大神・皇美麻命・大国主命を置き、皇美麻命(天孫・天皇)が「顕露事」を治め、大国主命が「幽冥事」を治めることを明記し、最下段の第五段に人草万物(人間と万物)を位置づけたのである。
とすれば、「顕幽出入」は、原初日本の世界観への再出入ということになるだろう。
このことを考えると、「顕幽の夢」展の第一ゾーン「見神者たち」で、出口なおの「筆先」と出口王仁三郎の書画や耀盌から展示が始まることが、日本の思想史の中で必然的な意味を持っていることがよく分かる。
つまり、出口なおも出口王仁三郎も、「顕幽分断・顕幽分治」された世界を「顕幽出入」し、「幽顕一如」(それを出口王仁三郎は「霊主体従」と表現した)に世直ししようとしたからだ。じっさい、出口なおと出口王仁三郎は、明治三十四年七月一日(旧五月十六日)に出雲から「火」をいただいてくる「火の御用」という神業を行なっている。そしてその二ヶ月前には、天橋立の元伊勢籠神社に趣き、水をいただく「水の御用」を行なった。このような「火水」(これを「カミ」と訓ませる説がある)の御用により、この世界の陰陽を和合させ、分断され、分治されてきた元伊勢的伝統(水=豊葦原の瑞穂の国【葦原中国】の尊称)と出雲的伝統(火継神事)とを統合し、「霊主体従」や「幽冥一如」の「世の立て替え立て直し」の運動を展開していったのである。
もちろん、これは大本という近代日本に大きく展開した一宗教運動の表現なのだが、日本史をつぶさに見ていけば、「顕幽出入」の歴史の積み重ねであることがよく分かる。
たとえば、聖徳太子の建てたという法隆寺の「夢殿」。役行者小角が開いたとされる修験道の修行。空海が請来した密教の曼荼羅の世界観。恵心僧都源信の『往生要集』、法然や親鸞や一遍の開いた日本浄土教思想とその実践。吉田兼倶の提唱した唯一宗源神道などなど(2)。
平田篤胤以前に大活躍した「顕幽出入」者は五万といるのである。もちろん、本展で出品されている宗教家や画家や詩人たちも、その時々の「顕幽出入」者である。そして何より、本展提案者で総論を担当した江尻潔足利市立美術館学芸員も詩人で「顕幽出入」者の一人である。そのような「出入」の経験とまなざしがなければ、「スサノヲの到来」展以降のこのような系列の展覧会がさらにパワーアップする形でダイナミックに展開することはできなかった。その点でも、本展は日本展覧会史上特異でありながら、もっとも伝統的な内容となっていると言えるのである。
さて、二〇二二年十二月三十一日未明に起きた山形県鶴岡市の山崩れの惨事には、多くの人が震撼するとともに、これからの時代の日常に対する不穏で不気味な感触を持ったのではないだろうか。亡くなった方々を篤く葬り悼むのは当然であるが、同時に、さまざまな危機に対する対処と備えを怠ってはならないだろう。
現在、今日の危機は構造的に連動している。まず何よりも、環境危機。気候変動による自然災害の多発や激甚化はこれまでとはまったく異なる規模と頻度になっている。また、それと関連して起こってくる食料やエネルギーの危機。そして、電力不足やサプライチェーンの分断がもたらす経済危機や政治危機。ウクライナ戦争や各地の紛争の激化と収束の見えない対立と分断の連鎖。さらには文化危機や教育危機。居場所も生き甲斐も見失い、いじめや差別の拡大の中で自己肯定感が持てず苦しんでいる子どもたちが直面している家庭危機や健康危機。そして、旧統一教会問題が突きつけた宗教(教団)や宗教活動に対する不信感と警戒感がもたらした宗教危機などなど。構造的なカタストロフィックな大危機の中にある。
そうした「危機」を打開し、突破していくためにも、心や魂の扉を開き、霊性の奥底を覗き込み、もう一度「顕幽出入」の往来を遊びながら、世界開顕の夢と希望と可能性を望み見る必要があるのである。本展は、そのための素材と叡智をたっぷりと秘匿し、あなたを根底から賦活するだろう。
注
(1)このイザナギとイザナミの黄泉平坂での絶縁については、拙著『悲嘆とケアの神話論』(春秋社、二〇二三年)を参照していただきたい。
「スサノヲの到来展」で展示された平田篤胤の『古道大本顕幽分属図』
(2)この点については、拙著『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(ともに角川選書、二〇〇九年、二〇一二年)を参照していただきたい。
(3)「NPO法人東京自由大学」の旧HPに次のコラム記事を掲載しているので参照していただきたい。 http://jiyudaigaku.la.coocan.jp/koramu.htm#1
東京自由大学 コラム#1 「宇宙的協奏としての横尾龍彦の瞑想絵画」 鎌田東二
瞑想画家としての横尾龍彦が提唱するのは、「水が描く、風が描く、土が描く」という世界と技法である。人間が描くのではない。私が描くのではない。そこでは、描く主体は私ではなく、水であり、風であり、土である。
それでは、どのようにして、水が、風が、土が、描くのか。水や風や土と私が同調し、その道具となることを通してである。水や風や土が私のイメージの道具となるのではない。その反対に、私がそれらの道具となり媒体となるのである。私が水や風や土の意志と波動とエネルギーを変換する回路となるのだ。
そのような横尾龍彦の描法は、その名のとおり、「龍画」である。それは、龍が風に乗って空を翔け、水の中をめぐるような、波動の流れと一体となる「流画」である。気息やヴァイブレーションの流動に身をゆだね、分子の波動が微細に変化し変容していくことを映し出す気配の錬金術師・横尾龍彦。
その描法には異界からの風が吹き渡っている。異次元界からの魂風が。それは、神秘不可思議なそよぎでもあるが、大変明晰な合理と直観が一如となった流動でもある。無意識・無差別・無分別界からの風のメッセージ。無の宇宙の中に清々と風のそよぎが立ち現れてくる。その風の起源は何処であるか、定かではないが、確かに存在する。
宮沢賢治の童話に「龍と詩人」という作品がある。詩人は瞑想状態の中で、龍の歌う歌を聴いて、それを詩に書く。詩人スールダッタのその詩法は、こう表現される。「風が歌い、雲が応じ、波が鳴らすその歌をただちに歌うスールダッタ。星がそうなろうと思い、陸地がそういう形を取ろうと覚悟する。明日の世界に叶うべきまことと美との模型を作り、やがては世界をこれに叶わしむる預言者、設計者スールダッタ」と。
この「風が歌い、雲が応じ、波が鳴らす」世界とは、「水が描く、風が描く、土が描く」世界と同じではないか。「風が歌い、雲が応じ、波が鳴ら」す波動や声を、「月明かりや林や鉄道線路」から採って来たという宮沢賢治の詩法と、「水が描く、風が描く、土が描く」という横尾龍彦の画法とは、同じような瞑想的描法ではないか。そこには、宇宙そのものの律動に耳を澄ますコズミック・パーセプションがある。
宮沢賢治は『農民藝術概論綱要』の中で、「神秘主義は常に起こってくる」と予言し、「職業芸術家は一度滅びねばならぬ。誰人も皆芸術家たる感受をなせ」と歌った水が描く時、風が描く時、土が描く時、「職業芸術家は一度滅びる」であろう。その時、誰もが「芸術家たる感受」の受信装置となるであろう。横尾龍彦が誘おうとするのは、そのような万人芸術家の道、いや万象芸術家の道である。
横尾龍彦は宣言する。「水に描いてもらう、風に描いてもらう、土に描いてもらう、そして、死者達に描いてもらう。自然の奥に潜む真理の声に描いてもらう」と。
その「声」の感受者となろう。その「声」の回路となろう。その「声」の媒体となろう。
このような「声」の媒体(メディア=霊媒)であるということの意味において、横尾龍彦の芸術は、シャーマンのワザオギと近似する。そして、その「声」は多様多元な宇宙からの音信を奏で、変奏する。そこでは、横尾龍彦の芸術は、宇宙的協奏を奏でるシャーマンの歌声であり、その律動の響きそのものなのである。
https://nagisamagazine.wixsite.com/t-jiyudaigaku/post/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%83%B2%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA-%E7%AC%AC%EF%BC%98%E5%9B%9E 【スサノヲの冒険 第8回】より
鎌田東二
ドラマチックスサノヲぶり
指先に告ぐ
指先に告ぐ
死期を悟らしめよ
天晴れて 月傾ぶける大文字
庵は朽ちて 草いきれ
天声人語は聞こゆれど
ただひたすらに 開けの明星
のうまくさまんだばだらだん
のうまくさまんだばだらだん
海月の島は今にも沈まんとして
最期の咆哮を上げている
ゆくりなくも おっとり刀で駆けつける
さぶらいたちよ
汝ら騎士のちからもて
この腹裂きて 岩戸を開け
夢の彦星 産み出せよ
夢の姫星 産み出だせ
友在りて 天声人語を 聞かせれど
狂天慟地の 只中を往く
二〇二三年一月十七日五時四十六分
阪神大震災の起こった時間に大文字山を見上げながら記す
(第七詩集『いのちの帰趨』港の人、2023年7月22日刊))より
『古事記』の中のスサノヲと『日本書紀』の中のスサノヲと『出雲風土記』の中のスサノヲとはずいぶんその描かれ方も、キャラクターも、位置付けも異なる。
『古事記』では、スサノヲはキーマン的神として描かれているのは以前指摘した通りである。だが、『日本書紀』では、見放された悪神として描かれる。それも指摘した。
そして、『出雲風土記』では、周辺神として端役扱いで描かれる。
この三者三様の描かれ方の中で、共通しているのは、その芸能的な、演劇的な、ドラマチックな振る舞いである。
まるで、神楽を見ているような、能を見ているような、歌舞伎を見ているような、そして近現代に脚色された諸種の演劇を見ているような、そんな芸能やドラマの原点をスサノヲに見ることができる。
今回は、そのドラマチック「スサノヲぶり」を考えてみる。
スサノヲぶりの第一点は、「なきぶり」である。
『古事記』では「啼伊佐知伎(なきいさちき)」と表記されている。八拳須(やつかひげ)が胸先に伸びるまで泣き叫んでいる。その泣き声で、山の樹々は枯れてしまい、海の水は干上がってしまった。そのさまは、「海原を治せ」という父イザナギの命に完全に背いている。というより、海原を治すどころか、海原を大荒れに荒らしまくっている。その「なきぶり」の尋常ではない点。
スサノヲぶりの第二点は、「おわれぶり」。父に葦原の中国を追放され、姉に高天原を追放される。居場所がない。定住定着できない。休まるところがない。この追放された、というところも、ドラマチックの重要要素である。
それに関連して、第三点は、赴く神、旅する神であるという、その「あるきぶり」。放浪神スサノヲは、葦原の中国から姉アマテラスの支配する高天原まで歩いていった。その際、「山川・国土」が激しく震動した。「山川悉(ことどと)に動(とよ)み、国土皆震(ゆ)りき。」(『古事記』)
その凄まじさに驚いたアマテラスは、弟スサノヲが「国」(=高天原)を奪いに来たと思い、武装し、陣取って待ち構えた。が、結局、そこからも追放(「神やらひ」されて、放浪せざるをえなくなる。
第四点は、「あかしぶり」。つまり、国を奪う野心など、微塵もないと、身の潔白を証明する神事として、互いの「物実(ものざね)」から神々を化生させる「宇気比(うけひ)」を行なったのである。それは、アマテラスとスサノヲそれぞれの霊性を象徴する「八尺(やさか)の勾瓊(まがたま)の五百個(いほつ)の御統(みすまる)の珠(たま)」と「十拳剣(とつかのつるぎ)」を噛み砕いて、息とともに吐き出して、それぞれ五柱の男神たち(その筆頭が、天孫降臨する邇邇芸命の父の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)と御柱の女神たち(宗像三女神)であった。この神々を生む神聖なワザの行使もドラマチック重要要素である。じつに、ファンタスティックで、ファンタジー文学の原点がここにある。
第五点は、その「あばれぶり」。この「うけひ」の神事で、「異心(ことごころ)」がないことも「清明心(きよくあかきこころ)が証明されたと有頂天となり、勝鬨を上げ、その勢いで、田んぼの畦道を毀し、溝を埋め、大嘗殿に糞をして穢し、神に捧げるための神聖な忌服屋(いみはたや)に、「天の斑馬(あめのふちこま)」を逆剥ぎに剥いで投げ入れたので、驚いた天の服織女が機織りの針(梭)で女陰を衝いて死んでしまった。
そこで、我慢が出来なかったアマテラスは、天の岩屋戸に籠り、世界が真っ暗闇で、諸々の災いが次々と発生する世界最大の危機に見舞われたので、それを修復する(「修理固成」する)ために、岩戸の前で祭りを行なうことにしたのは、有名なエピソードである。これは、「祭り」や「神楽」という日本文化の原点の発生を物語る伝承で、生存危機を脱出する生存戦略と生存哲学を示した最重要神話である。
第五点は、「だましぶり」。トリッキーな知恵の行使。神話の英雄は、さまざまな騙しの術を持っている。その「騙し(だまし)」は悪いことではなく、知恵の発露と肯定的に表現される。スサノヲは、髭を切られ、手足の爪を抜かれて、高天原を追放され、世界をさ迷う。その時、オホゲツヒメに食べ物を請い、オオゲツヒメが鼻や口や肛門から種々の食べ物を出すのを目撃して殺してしまう。そこから五穀+蚕(頭から蚕、2つの目から稲種、2つの耳から粟、鼻から小豆、女陰から麦、肛門から大豆が成り出たので、出雲系の「命主神(いのちぬしのかみ)=神産巣日御祖命(かみむすひのみおやのみこと)」は、それを取って「種」とし、いのちを養う源の初源としたのである。この点、スサノヲの殺害は、単なる殺しではなく、いのちの変容、という側面を持っている。その後、よく知られたヤマタノヲロチを酒を飲まして騙し、ぐでんぐでんに酔っぱらったところを切り倒して、その尾っぽから、後に三種の神器の第三の神器となる「都牟刈大刀(つむがりのたち)=草薙大刀(くさなぎのたち)」を取り出し、アマテラスに献上するのである。
この「だましぶり」による騙し討ちによって、スサノヲは罪滅ぼしというか、贖罪をしたことにもなるのだが、これはある意味での「自分殺し」である。荒ぶる神スサノヲのあらぶり・すさびは、2つのかたちに自己変容する。すなわち、自己のいのちのいぶきの生命力がオホゲツヒメの変容の姿の五穀や蚕となり、自己の暴発のあらびがもう一人の自己であるヤマタノヲロチとなって現われ、それを殺して草薙の剣となるのである。
第六点は、「うたいぶり」。これは、すでに繰り返し説いてきた「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」に表出され、これまた生命危機、生存危機を救出するものとして表出され、「祭り」や「神楽」と並ぶ日本文化の原型となるワザである。
そして、最後の第七点は、その「いわいぶり」である。これは、自分の住む「根の堅州国(ねのかたすくに)」にやって来たオホナムヂ(後の大国主神)にさまざまな試練を与えて、その成長を祝福する長老的な、翁的な役割を果たす、スサノヲぶりの最終段階を言う。ここで、スサノヲは最愛の娘須世理毘売を奪って逃走するオホナムヂに告げる。「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟(ままあにおと)をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)となりて、その我が女(むすめ)須世理毘売を嫡妻(むかひめ)として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴。」と、諭しとメッセージと祝福を贈るのである。
以上、今号は、短文であるが、ドラマチック・スサノヲぶりの特徴を挙げてみた。スサノヲの子分である私は、そのすべての要素を容れて、変容につぐ変容を遂げていきたい。実は「三つ子の魂百まで」で、何一つ変わっていないのだが!
最後に特筆しておきたいことがある。
それは、スサノヲ以外に、高天原と葦原中国と根の堅州国の三層世界を旅した神も人も一人もいないということだ。スサノヲだけが、高天原から根の堅州国までをつなぎ、つらぬき、いのちの脈動を与えている。それは、確かに破壊に充ち溢れて居る。だが、その破壊の後に創造と新生と変容がある。その変容のさまこそ、いのちのいぶきとも、荒ぶり=新ぶり、とも言える事態なのである。
ゆえに、破壊も死も過剰に恐れる必要はない。それは、その先に続く脈動の予兆であり、準備でもあるのだから。
それだけは、言っておきたい。
https://nagisamagazine.wixsite.com/t-jiyudaigaku/post/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%83%B2%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA-%E7%AC%AC%EF%BC%99%E5%9B%9E 【スサノヲの冒険 第9回】より
鎌田東二
一遍のスサノヲぶり
昨今の自然災害や戦争や事件を知らされるたびに、今こそスサノヲの発動と鎮魂が必要だと思われてならない。大本から出た霊能者・神業者の岡本天明は「日月神示」を世に問うたが、スサノヲは「地球神」と述べている。
そのことは、2023年10月21日より12月24日のクリスマス・イブまで愛媛県久万町の町立久万(くま)美術館で開かれている「顕神の夢」展の出品作「三貴子像」を見るとよく分かる(https://youtu.be/wc7Nxy9er6M )。
岡本天明作「三貴子像」
(現在、愛媛県久万町の町立久万美術館で開催中の「顕神の夢」展で展示されている。『顕神の夢―幻視の表現者』図録26‐27頁)
岡本天明の「三貴子像」では、高天原―天つ神々の主宰神格である天照大神が真中にいない。アマテラスは向かって右にいて両手で鏡の形の太陽を持っている。対して、向かって左にはツクヨミがいて、両手で三日月形の月を持っている。そして、真中にスサノヲがいて、左手に赤子をのせ、右手で風か何かを招くような仕草をしている。三貴子ともに龍の背にあぐらをかいている。
岡本天明は、昭和19年(1944)6月10日に千葉県成田市台方に鎮座する天之日津久神社を詣でた時から17年間に及ぶ自動書記を始め、それが『日月神示』としてまとめられるに至った。上掲「三貴子像」は昭和23年(1948)ごろ、帰神中にわずか30分ほどで描いたという(同展企画者江尻潔「顕神の夢」図録338頁)。真ん中のスサノヲは、じつは「国常立大神」で、「素鳴大神(すさなるのおおかみ)」と呼ばれている。
もし、岡本天明が描いたように、国常立大神=素鳴大神(須佐之男命・素戔嗚尊)が地球神格であり、人類を養育してきたとすれば、今、そのスサノヲは自分が養育してきた我が子の一員である人類をどう評価するであろうか? 地球=スサノヲにダメージを与え続けている人類に何らかの警鐘を与えて当然であろう。すでにそのような警告は何度も繰り返し発せられていたとわたしは受け止めている。
だが、それによって、大きくは何も変わらぬどころか、いよいよ我欲と競争でほしいままに奪い合いをし、対立と分断を煽り、壊滅的な戦いをつづけていて、とどまることをしらない。
であれば、しびれを切らした地球神スサノヲが荒ぶりすさぶるのは当然であろう。昨今のクマによる被害の頻発もその一つの徴憑であると思っている(https://youtu.be/SDBrGUl0f9M?si=q8vBu9gUUs9SLto3)。古代より熊は山の神とも森のヌシとも崇められてきたのだから。クマの出没は人間界のふるまいに対するリアクションであるが、自然界からの警告ともメッセージとも受けられる。少なくともそのような見方を否定せずに、クマを「駆除」するという思想から、熊や諸動物に対する畏怖畏敬の念に基づく生態学的連鎖の深遠な仕組みに気づいて、われわれ人間のふるまい、活動、生活のありようをチェックし、再構築する必要がある。それが、イザナギ・イザナミという原父母神に託された「修理固成」のメッセージの再確認であり、再構築であろう。
そんなことを考えながら、「顕神の夢」展の久万美術館でのオープニング鼎談に臨んだ。そして、そこは、一遍上人が籠って修行した洞窟のある岩屋寺から5キロほどの距離にある。岩屋寺は四国遍路の第45番札所となっている。本尊は不動明王で、現在は真言宗豊山派(総本山は奈良県桜井市の長谷寺)所属である。久万美術館は標高500メートルの久万高原にあるが、そこから数キロの岩屋寺は標高700メートルで古来修験道の修行の地であり、山岳霊場であった。
岩屋寺のHP(https://shikoku88-iwayaji.com/about.php)には、<弘仁6年(815)、弘法大師が霊地を探してこの地に入山したところ、法華仙人と称する土佐の女性に出会います。大師の修法に深く帰依した仙人は、全山を献上し往生を遂げました。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本堂に安置し、石像は岩窟に秘仏として封じ込め、山全体をご本尊の不動明王としたのです。大師は「山高き 谷の朝霧海に似て 松ふく風を波にたとえむ」と詠じ、寺号を海岸山岩屋寺と名づけました。」>とこの寺の開山のいきさつが説明されている。
ここで、鎌倉時代中期に一遍上人(1239‐1289)が参籠修行したことは、国宝『一遍上人聖絵』に大変印象深く描かれている。そこでは、一遍が、鋭く聳え立つ巌峰の頂上にある岩屋寺の仙人堂に向かって梯子をよじ登ろうとしているところが描かれている。その「仙人堂」は上記の「法華仙人」を記念して建てられたお堂であろう。
興味深いのは、標高700メートルの山中にもかかわらず、山号が「海岸山」であるところだ。雲海に包まれる様子が海のように見えるために「海岸山」と付けたのだろう。
国宝「一遍上人聖絵」(清浄光寺)岩屋寺
仙人堂に向かって梯子を上っていく一遍
そこに一遍がやって来たのは、文永8年(1271)かその翌年のことと思われる。一遍智真は延応元年(1239)に伊予の国の道後温泉で生まれた。そこは現在遍照院宝厳寺となっており、一遍上人の誕生寺として知られている。一遍は、その生涯の事蹟により「捨聖(すてひじり)」とも「遊行(ゆぎょう)上人」とも呼ばれるようになるが、もとは河野水軍を率いた豪族河野氏の出自を持つ 。だが、承久の乱(1221年)で京方についたために一族が流罪となり没落。10歳にして母を喪い、天台宗の継教寺において出家し、隨縁を名乗った。建長13年(1251)、13歳で大宰府の聖達(法然の高弟証空の弟子)の下で12年間浄土宗西山義を学んだ。
25歳になった弘長3年(1263)、父河野通弘の死により還俗して故郷に帰るが、所領争いに巻き込まれ、文永8年、32歳の時に再出家した際に岩屋寺で念仏修行に励んだのである。その後、文永11年(1271)から「遊行」に出て、各地を遍歴しつつ念仏札(「南無阿弥陀仏」の名号を書いた札)を配って歩くが、ある僧に受け取りを断られ、不信の者に念仏札を配るべきかどうか悩んでいる最中の同年の夏、高野山から熊野に向かい、熊野本宮大社証誠殿で参籠した際、熊野権現(家都御子命、須佐之男命)の「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」という夢告を得る。これにより迷いが吹っ切れ、念仏札に「決定往生六十万人」と書き、全国を巡って念仏札を配りつづけ、弘安2年(1279)、信濃の国の佐久の小田切で「踊念仏」を始めたのである。
この「決定往生六十万人」の「六十万人」とは、「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」(六字名号は一遍の法なり。十界の依正は一遍の体なり。万行離念して一遍を証す。人中上々の妙好華なり。『一遍聖絵』第三)の四句の頭の字を取ったもので、また智真を「一遍」に改めたのも、この偈を得てからである。したがって、一遍にとってスサノヲ=熊野権現の夢告と偈頌の感得は決定的な意味を持つ。
熊野権現との出逢い(http://tono202.livedoor.blog/archives/24211779.html)より
こうして、一遍上人の生涯と軌跡がスサノヲのナラティブと重なってくるのだ。武将の名家に生まれ、幼くして母を亡くして出家し、一旦は還俗して元の侍に戻ったものの、一族の相続の争いに嫌気がさし、再出家して、スサノヲ=熊野権現の夢告によって迷いを断ち切って念仏道に邁進する。その孤高の流浪の旅は、同時代の仏教者の中でも群を抜いて過酷であり苛烈である。確かに、遍歴の最初の頃には、超一、超二という母子を連れていたように見えるが、それとも別れ、あらゆるものを捨てに捨てて「南無阿弥陀仏」の名号一すじに生きた。その徹底した「遊行」遍歴に「妣の国」に向かって流離いの旅をつづけたスサノヲを重ね見る。
一遍はその語録に次のような言葉を残している。
<興願僧都、念仏の安心を尋ね申されけるに、書きてしめしたまふ御返事。
夫れ、念仏の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿弥陀仏と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の様々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に対したる仮初の要文なり。されば念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念仏すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。
念仏の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏し給ふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、余れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏し給ふべし。南無阿弥陀仏。>(『一遍上人語録』岩波文庫、1985年)
ここで、一遍は「念仏の行者」の「用心」すなわち心構え=心の使い方を示す。それは、ただただひたすらに南無阿弥陀仏と称えることだけと言うのである。念仏行者は、智慧も、愚癡も、善悪の境界も、貴賤高下の道理も、地獄を恐れる心も、極楽を願う心も、諸宗の悟りも、すべてのことを捨てて、ただただ念仏を称えるだけだ、と断言するのだ。空也はその境涯を「捨ててこそ」と言ったという。
さすれば、仏もなく我もなく、道理も理屈もなく、善悪の分別境界もなく、みな浄土である。その時、生きとし生けるすべてのものも、山河草木も、吹く風立つ波の音まで、みな念仏でないものはない。人間だけが阿弥陀如来の本願によって救われるというものでなく、すべてがすでに救われてあるのだ。だから、このようなわが説明説法もみな打ち捨てて、ただ一介の凡夫の「愚なる者の心」に立ち帰ってひたすらに念仏するのである。なむあみだぶつ、なんまんだぶ、と。
一遍は、「真言」を説いた空海や「題目」を説いた日蓮がその意味の宇宙的豊穣を説くことによってめくるめく実相世界に参入し生命と力とを充填しようと試みるのに対して、その逆に、徹底して意味の捨象と空無化をはかることによって逆説的に絶対の一に到達しようとする。
そのスピリチュアリティは、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
と歌ったスサノヲの「ヤエガキ・シュプレヒコール」にまっすぐに通じている。スサノヲの「八重垣ソング」は、一遍の「なむあみだぶソング」と同質同道である。であればこそ、「信不信を選ばす、浄不浄を嫌わず、念仏札を配るべし」と夢告したスサノヲ=熊野権現のメッセージはしっかりと一遍のたましいを打ち抜いたのである。一遍は、出家した際の隨縁という法名をある時に智真に変えたが、熊野夢告の後、それをさらに「一遍」に変えた。そこにどのような覚悟があったか? 「一遍」の「法・体・証」の感得体現である。
『一遍上人語録』には次のようにある。
異議のまちまちなる事は我執の前の事なり。南無阿弥陀仏の名号には義なし。若義によりて往生する事ならば尤此尋は有べし。往生はまたく義によらず名号によるなり。法師が勧る名号を信じたるは往生せじと心にはおもふとも、念仏だに申さば往生すべし。いかなるゑせ義を口にいふとも、心におもふとも、名号は義によらず心によらざる法なれば、称すればかならず往生するぞと信じたるなり。(中略)さのごとく名号もをのれなりと往生の功徳をもちたれば、義にもよらず心にもよらず詞にもよらずとなふれば往生するを、他力不思議の行を信ずるなり。(一遍上人語録)
ここには名号の「義」に執われずに、名号そのものがみずからに実現することの功徳と力への絶対的な信がある。もはや意味とか義とかは問題ではない。こうして、一遍の境地は次の2首の歌に如実に表わされることになる。
となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして
となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみた仏 (同上)
この2首の歌の1首目は、神戸の南禅寺派の宝満寺の法燈国師のもとで一遍が問答した際に歌った歌であるとされるが、これは法燈国師により「未徹在」とその不徹底を指摘される。そこで、さらに一遍が深くその信の境地の究極を歌い直した。それはただ下の句の最後の七音の「声ばかりして」を「なむあみた仏」に言い換えただけの修正である。
だが、一遍のこの境地は「言語道断心行所滅」(聖徳太子『法華義疏』、世阿弥『九位』など)という禅の境地と共通するものがあるのだ。人間的なはからいを徹底的に捨て去り、意味の対象性や差異性の徹底的な排除を通過することによって、念仏行者自体が「言語道断」を超えた大いなる宇宙的意味(=名号)の体現者となり、その受容器となる。1首目の「南無阿弥陀仏の声ばかりして」という歌ではいまだ声の対象性が残っている。しかし2首目の「南無阿弥陀仏なむあみた仏」の方はただその念仏名号の声のさ中にただただ洗われて「心行所滅」している。そうして初めてひたすらなる「なむあみたぶつ」の名号体験に参入できる。
こうしてくると、一遍の名号思想は、空海や日蓮の対極に位置するかにみえて、実はその逆説的な徹底化を試みているともいえる。
一遍は言う。
又云、念声是一といふ事、念は声の義なり。意念と口称とを混じて一といふにはあらず。本より念と声と一体なり。念声一体といふはすなはち名号なり。(中略)
又云、称名の外に見仏を求べからず。名号すなはち真実の見仏なり。(中略)
又云、念仏の下地をつくる事なかれ。総じて行ずる風情も往生せず。声の風情も往生せず、身の振舞も往生せず。心のもちやうも往生せず。ただ南無阿弥陀仏が往生するなり。(同上)
この何ともはやパラドキシカルな裏返った表現。捨てに捨て、手放しに手放す否定神学の如く、否定表現を積み重ねていって、その最果てに、「ただ南無阿弥陀仏が往生するなり」と突き放すその緊張と弛緩の絶妙の飛躍と拡充。一遍の苛烈な精神が如実に現われているではないか。そしてそれは、スサノヲの「ヤエガキ・シュプレヒコール」を徹底深化した、言葉の、あるいは歌の最果てを示すものではないか。
泥臭い一遍のドロドロの末なる澄明の極まりに、スサノヲの荒ぶる果ての「我が心、清々し」が響き合うのだ。そのような汚濁の中の澄明を生成する「遊行」が求められているのだ。今こそ。
そこに、スサノヲぶりのルネサンスとメッセージを読む(1)。
最後に指摘しておきたいのは、「踊るスサノヲ」と「踊る一遍」との共通性である。荒ぶり遍歴するスサノヲは『古事記』にも『日本書紀』にもかなり詳しく記されている。が、そこには、「歌うスサノヲ」はあっても、「踊るスサノヲ」の記述はない。
だが、『出雲国風土記』大原郡の佐世の郷のくだりには「踊るスサノヲ」が「古老傳云、須佐能袁命、佐世乃木葉頭刺而、踊躍為時、所刺佐世木葉墜地。故云佐世。」と記されている。つまり、古老が伝えて言うには、スサノヲ(須佐能袁)が佐世の木の葉を頭に挿して踊った時、頭に挿していた佐世の木の葉が地面に落ちたから、その地を「させ(刺せ・挿せ=佐世)」と言うようになったということである。想像をたくましくするが、この時、スサノヲは頭に差した木の葉を地面に振り落とすほどに激しく踊ったということではないか。それはそのまま一遍の踊念仏に直結する。スサノヲの荒ぶる狂いは、一遍の踊念仏の狂いにそのまま接続している。そのように、わたしは一遍のスサノヲぶりを解釈する。
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【スサノヲの冒険 第10回】
鎌田東二
糞と言
ステージⅣの大腸がんが頭頂と側頭葉の間、および前頭葉の2ヶ所に転移していて、長い文章が書けないので、変則だが、断章を綴る。
1. AOパイプと糞と言
稲垣足穂は、ニンゲンをAOパイプ、すなわち、エイナス・アヌスanusからオーラルoral=口唇に至る円筒と見切った。秀逸な見立てであり、見切り、である。
そして、この両端の孔から排泄される物が、糞と言葉である。
スサノヲはすさび、荒ぶりの果てに大嘗殿に糞をまきちらして穢しに穢した。が、追放されたあと、八岐大蛇を退治して、「八雲立つ」の麗しき喜びの歌を歌った。
人体両端・上下南北から吐き出された糞と言が世界を動かし、変えた。
大腸(上行結腸癌)を50センチほど切った後、最重要課題は、きちんと排便ができるかどうか、であった。毎朝、排便を医師か看護師にチェックされた。その後自分でチェックするようになり、ちゃんとでていたら、合掌して便を拝み、写真に撮る。それがもう500枚近くたまった。500万円だと錬金術であるが、これだけだと錬糞術にすぎない。けれども、この錬糞術なくしては、わが身体は快調に作動しないのだ。
毎朝の錬糞術は健康のバロメーターであり、元気といのちのいぶきの表現・表出なのである。
これは、死活問題なのだ。
片や、歌としての言の発声、これも、いのちと世界を蘇らせる死活問題だった。
であれば、スサノヲのAOパイプは世界を破壊と混沌と救いに導くAOパイプであった日本史上最強・最重要のAOパイプであった。
2. 一遍上人のおしっことスサノヲぶり
先号で、一遍上人のスサノヲぶりに触れたが、その指摘を聞いた森正経三奈良神社宮司(愛媛県東温市下林)が13世紀末に出来た『天狗草子』の中に、一遍上人の出したおしっこを「万病に効く薬」と時宗信徒が先を争って有難く押し頂く様子が描かれていることを愛媛新聞2023年12月19日付けの記事に書いてくれた。この錬尿術は本邦最古のおしっこ療法である。
3. 結論
要するに、世界を造るのも、毀すのも、甦らせるのも、みな排泄物なのである。
であるから、そこから生まれむすぼれたわれらは、その神仏AOパイプの排泄物にうやうやしく手を合わせ、心から感謝しなければならないのである。そして、おのれの2種の排泄物についても、よくよく練りに練り、吟味入魂しなければならないのである。
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