Facebook長岡 美妃さん投稿記事
散る桜 残る桜も 散る桜・・・
「この国はあまりにも命を守ることを粗末にしすぎた」映画『ゴジラ-1.0』で語られる言葉。その通りだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるように、これが日本精神。
しかし咲き方を教えることなく散り方ばかりに重きを置く文明は、これはまた半円の見である。一円の見になるためには、散り方だけでなく咲き方を教えることだ。咲き方を知ってこそ、真の散り方を知るのだから。
人類は未だ、宇宙のロゴスを知らない。つまり、存在の本質をマスターしていない。しかしそれをマスターすることなく歩む道は、半円の見に止まる。そして存在の奇跡を観ることなく存在を眺める眼は、命の扱い方を見誤り結果、過度な延命治療があったり、爆撃一つで何十万人の命を奪ったりと、やっていることに全く一貫性がないとつくづく感じる。
日本文明は、死を身近に置く稀有な文明である。それは無意識のどこかで「生は死に裏打ちされてこそ有る」ことを知っていたからであろう。死の裏打ちのない生が意味のない泡沫であることを感じとっていたからであろう。
生とは刹那の奇跡である。そしてそれを観ることができるのは、完全死を起こした時である。。。日本文明の真の意志はここにある。完全に死んでこそ、完全に生きることができる。だからこそ、「死に方勝負」をしてきた。それが日本文明。
しかしその日本文明が一円の見になるためには、「死に方勝負」で止まってはならない。なぜなら、完全死とは身体の死ではないから。生きたまま死す、これこそが完全死なのだから。
それを空海は辞世の句にこう詠んだ。
生れ生まれ生まれ生まれて 生のはじめに暗く 死に死に死に死んで 死の終わりに冥し
日本文明が散る桜で止まらず、咲く桜へ開花するのは2024年の今。そうした時、耐え忍ぶ時代から歓喜の時代へ人類を向かわせることができる。
https://gakuen.koka.ac.jp/archives/635 【散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)】より
今月の言葉は、江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味は、「今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得ておくこと。」というように受け取れます。要するに限られた「いのち」です。
皆さん少し平生を振り返って考えてみましょう。今の世の中は色々悩み事が多くあります。仕事、家庭、対人関係、子育て、自分の将来、健康やお金のこと等、幸せな事より悩み事の方が多く重たくのし掛かっている毎日ではないでしょうか。
しかし、物事にはすべて結果があることは言うまでもありません。無常にも時間は止めることができません。ならばどう時間を過ごすのかを考えること。 即ち、限られた「いのち」の中で、その結果に到るまでを如何に充実したものにし、悔いの残らないようにすることが大事だと思います。
また、この良寛和尚の句から親鸞聖人が得度をされる時にお詠みになられたと伝えられる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という歌を連想させられます。「明日があると思い込んでいる気持ちは、いつ散るかもしれない儚い桜のようです。夜に嵐が吹こうものならもう見ることはできません。」とそのような心境で親鸞聖人は慈鎮和尚に得度を願われたことと思います。
この二つの歌から伺えることは、今生きている命を「如何に生きるか」ということではないでしょうか。自分自身が積み重ねてきた過去の経験(苦しみや楽しみ)を現在に生かし、そして未来につなげていくことができるのは、自分一人の力ではありません。いろいろな人に支えられているからこそ実現できるのです。
そのことに気付き、そして感謝の気持ちを持って日々充実した生活を過ごさせていただくことが私たちの使命なのではないでしょうか。(宗)
https://www.zen-essay.com/entry/tiru-sakura 【【禅語】 散る桜 残る桜も 散る桜 ~良寛禅師 辞世の句~】より
いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて、子どもらと無邪気に遊んでいたという良寛和尚。
「散る桜 残る桜も 散る桜」という禅語は、そんな良寛の辞世の句と言われている。
今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないと言い切る良寛の心。
桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負う。
ブッダが説いた「死」の原因
仏教の創始者であるブッダは80歳で亡くなった。
旅の途中、チュンダという人物から施しを受けた供物を食べたことによる食中毒が原因だったと考えられている。
それはキノコ料理だったとも、豚肉料理だったともいわれている。
極度の下痢と脱水症状に苦しみ、衰弱していくブッダの姿を見て、チュンダは責任を感じ泣き続けていたという。
しかし、そんなチュンダに、ブッダはこう言い聞かせた。
「チュンダよ。嘆く必要はない。お前は最後の供物を私に与えてくれた。大いなる功徳がお前にはある」
また、齢80になって死の淵をさまようブッダの傍で、不安にうろたえる弟子のアーナンダにはこう言い聞かせた。
「嘆くでない。悲しむでない。生じたものが滅しないということはありえないのだ。生まれた者は必ず死ぬのである」
人は生まれた時点で必ず死ぬことが決まっている。生まれたから、死ぬのである。
チュンダの食事を食べなくても、ブッダは死を免れることなどできはしなかった。
だからブッダはチュンダが罪の念に苛まれるのを防ごうとした。
自分の食事が死の原因だなどと思って嘆かなくていいのだ、と。
それどころか、貧しい身でありながら精一杯の食事を施してくれたチュンダに対し、あなたは大きな功徳を積んだと言って、感謝の気持ちさえ伝えている。
この言葉を聞いて、チュンダは一層涙を流したに違いない。
死に至る病を患い、余命を宣告されるのは、死を眼前に突きつけられることと同じであり、辛く厳しいことであるのは間違いない。
だが、余命というのであれば、人は生まれた時点で「寿命」という余命を宣告されて生きていることを忘れてはいけない。
誰もが、生きて、死ぬのである。
1年後の死は不幸で、10年後の死は幸福かといえば、そんなわけはないだろう。
ガンが不幸の元凶なのではない
ガンを患い医者から余命を宣告され、苦悩の日々を送っていた人がいた。
その人は当初、残りの人生を悲観することしかできなかったが、ある時、いまある命の尊さに深く感じ入り、これまでに味わったことのない幸福感を覚えたという。
「ガンを患うことがなければ、生きることの尊さも、命の尊さも知らずに人生を終えていたかもしれない。
命というものに意識を向けることなく死んでいたかもしれない。
だから今では、むしろ人生の最後にガンを患ったことを有り難いことだとさえ思っている」
その人はそう述懐した。
幸福や不幸といった概念がいかにあやふやなものであるかを思い知らされる。
致死率100%の寿命 人は死ぬ。
必ず尽きる命を得たこの人生は、致死率100%の「寿命」という病にはじめから冒されている。命があることと命が失われることは、まさにコインの裏表。
病に冒されたから死ぬのではない。生きているから、死ぬのである。
良寛の残した辞世の句は、哀れで、はかない。
人間は死から逃れることはできないという諦観のようにも聞こえ、命を諦めた言葉にも受け取れる。
しかし、禅において「諦める」という言葉は、物事の真実を明らかにするという意味の「明らめる」という意味で用いられる。
必ず死ぬこの人生とは何なのか。
それを明らかにすることが「諦める」であり、諦観という言葉の真意だ。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
桜は散る。命は散る。必ず散りゆくこの命とは何なのか。
人がその人生において本当に考え抜くべき問いを残してこの世を去った良寛の辞世の句に、潔さと美しさを感じるのは、私だけではないはず。
※良寛の辞世の句は「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」だとする説もある。
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