Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
作品の「品」は、品物の「品」であり、また品性とか気品の「品」でもあります。この字にはどんな意味が込められているのでしょうか。
品は口が3つ。それぞれ、心・体・魂をあらわしているそうで、密教の三密加持=体・口・意や日本の伝統的な心・技・体にも通じるような気がします。
三位一体とか三種の神器(三人寄れば文殊の知恵もそうでしょうか)など、三は調和を象徴しているようです。「霊」という字も、旧字体は「靈」。雨の下にはみっつの口が並んで、やはり心・体・魂(=調和)のことでしょう。
三を読みにして「みっつ」は「満つ」の響きもあります。こういう符丁?はなかなかに奥が深いですね。
さて「品」にもどり、上品・下品の「品格」とは、つまり、心・体・魂のステージのことで、それを上げていくことが品格を磨いていくということでしょう。
作品、とはものと同時に品(ひん)を作る作業です。すると、もの、とは心がカタチになったものと考えられますね。大量生産・大量消費では、感じられないものの、伝統的にものづくりの基本でしょう。
「人」というのも作品に違いないと思います。まわりからつくられながら、自分でつくっていきます。作品である人が人生をつくるという作品づくり・・・。仕事であり、自分である・・・。
東寺の個展まで一週間ほどになりました。
開催の初日である16日から夜桜を楽しむためのライトアップが開催されます。東寺で有名なのは不二桜。弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と名付けられたそうです。
霊魂こめた作品を、見ていただければ幸いです。東寺の春景色とともに、みなさまをお待ちしております。
https://kyototravel.info/toujifujizakura 【東寺不二桜】より
●東寺不二桜は樹齢130年を超えるとも言われる高さ約13メートル・枝張り約10メートルのエドヒガン(江戸彼岸)系の八重紅枝垂桜(やえべにしだれざくら)です。不二桜はかつて岩手県盛岡市の旧家に植えられていたが、1994年(平成6年)に三重県鈴鹿市の鵜飼農園(うかいのうえん)に移されました。その後2006年(平成18年)が真言宗(しんごんしゅう)の開祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の入唐求法(にっとうぐほう)の旅から帰国した1,200年の記念の年にあたることから東寺信徒総代から寄贈され、現在の場所に移されて植えられました。なお不二桜の名称は弘法大師・空海の不二の教えに由来しています。弘法大師・空海は不二の法門を求め、奈良・東大寺(とうだいじ)の大仏殿に願を掛けて、「我に不二の法門を示したまえと」熱祷されたと言われています。
八重紅枝垂桜は桜の野生種で、彼岸(3月中旬~3月下旬)の頃に花を咲かせるエドヒガン(江戸彼岸)系の園芸品種です。八重紅枝垂桜は濃い紅色の花びらが重なって咲く八重咲きの桜です。八重紅枝垂桜は江戸時代から栽培され、「桜品(1758年(宝暦8年))」には千弁糸桜(せんべんいとざくら)と記され、遠藤桜・仙台八重枝垂・仙台小桜・平安紅枝垂などとも言われています。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
http://mitsumonkai.na.coocan.jp/prefaces/preface200610.html 【ちまたに臨んで幾たびか泣く】より
織田隆深
空海が偉大な宗教家であったのは、 いうまでもないが、 小生が親しみを感じることができるのは、 密教を大成された入唐以後より、 名も無く山野を跋渉ばっしょうされた青年時代である。
三十三歳で唐から帰国した空海は、 さっそうと中央に躍り出て、 押しも押されぬ高僧と認められるのだが、 青年期の空海は、 不二の法を求めてストイックに山野を抜渉し修行する私度僧しどそう (正式ではない僧侶) でしかなかった。 空海僧都伝に 「その苦節は厳冬の大雪には葛衲を著て、 顕露行道し、 炎夏の極熱には穀粒 を絶って、 日夕懺悔す」 とあるように、 艱難辛苦の道を歩まれたのである。 このとき修行された場所のひとつ が高野山であった。
最初、 空海は佐伯一族の希望の星として、 将来高級官僚となるべく、 政治に必要な儒教を学ばれた。 しかし、 立身出世のための忠孝の道に飽き足らず、 むしろ苦悩する人間の内面の問題を解決しようと、 無為自然を説く道教に傾倒していかれた。 その道教も社会から逃避し独り己の安心を求める消極的な教えである ことに気づき、 もっと深く心の内面に目をむけ、 一切衆生救済の為、 大智大悲を説く仏教に引かれていくのである。 これらの経緯について空海は 『三教指帰さんごうしいき』 に詳しく書いておられる。 この著書は、 いわば何故仏門に入るに至ったかを述べた出家宣言の書である。 空海は、 出家前後から、 当時日本に伝わっていた主な仏典は片っ端から読破されていた。 幸い母方は 阿刀大足あとのおおたりをはじめ知識人を輩出する家系で、 幼い頃から漢籍や唐語を学ぶことが出来た。 当時奈良に伝わっている経典を読み、 僧侶にも疑問点を尋ねられた。 後にこのときの求法の体験を 『十住心論』 にまとめられるが、 単に教えを整理したというのではなく、 自分も実際にそれらの教えを 実践した精神過程そのものを描いたといってよい。
空海が仏門に入る前の事は、 第二住心愚童持斎心 (儒教)、 第三住心嬰童無畏心ようどうむいしん (道教、 諸宗教) として書かれているが、 これは仏教以前の体験である。 空海が仏門に入ってからは、 第四住心唯蘊ゆいうん無我心から、 天台所依経典法華経の悟りである 第八住心如実一道心にょじついちどうしん、 そして顕教の中で最高峰と位置づけた 華厳経けごんきょうの悟りを説く第九住心極無自性心ごくむじしょうしんまで当時伝わっていた仏教を全て 研鑽し自らの悟りを更に深めていかれたが、 空海の心は満たされなかった。
どの道も先輩が歩まれた道だけに学ぶものも多かった。 しかし自身を含め一切衆生が成仏できる道には 程遠かったのである。 現に奈良の高僧方も、 今生では成仏は難しい、 生死を重ねて成仏に近づこうという 「三劫さんごう成仏」 を目指していた (「劫」 とは古代インドの最長の時間の単位で、 永遠ではないが、 気の遠くなるような長い時間をいう)。
青年空海は、 生きている間に成仏できないのだったら仏教は何のためにあるのかと煩悶された。 空海は発菩提心の信仰の原点に立たれ、 釈尊の教えを素直に聞かれた。 そこには、 誰でも、 いつでも、 どこでも成仏できると説いている。 ただし、 それを得る修行法は、 正しい行ないをし禅定に入るなら悟れる と説く七科三十七道品に象徴されるように、 なかなか成就できぬ難行道であった。
自分の疑問に応えてくれる教えに会えなかった空海は、 こういう文章を残されている。
「博く経史を覧みて殊ことに仏経を好む。 常に謂らく、 我の習ふ所は古人の糟粕なり。 目前、 なほ益なし、 況んや身斃たおるる後をや。 この陰いんすでに朽ちなん。 如しかず真を仰がんには」 (『三教指帰』)
「弟子空海、 性熏 (本有の仏性) 我を勧めて還源を思いと為す。 径路未だ知らずして 岐ちまたに 臨んで幾たびか泣く」 (『性霊集』 巻七 「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造る願文」)。 あの不世出の天才も何度泣いたかわからないと告白した言葉を読む時、 空海の深い苦悩と、 身命をなげうって求める姿が痛い程伝わってくる。
空海は、 終に不二の法門に出遭えず、 止むに止まれず東大寺大仏殿に願をかけて、 我に不二の法門を 示したまえと熱祷された。 華厳宗本山東大寺大仏殿で祈誓された、 ということは、 華厳の悟り以上のもの、 つまり密教を無意識のうちに求めていた証左である。
「…われ、 仏道に入って毎つねに要を知らんと求む。 三乗五乗十二部、 心の裏に疑ひ有って未だ以て 決をなさず。 仰ぎ願はくは、 諸仏、 われに至極を示したまへ。 一心に祈請するに夢に人有って曰く、 大毘盧遮那経、 これ汝が求むる所なりと。 即ち覚悟して歓喜す。」
(『空海僧都伝』)
祈りが通じ、 夢告で、 汝の求めるものは 大和国高市郡久米寺やまとのくにたけちこおりくめてらの東塔 にありと教えられ、 尋ねて行ったら果たして夢告通り経典 『大日経』 があったのである。
この 『大日経』 感得の逸話は、 物語風にとられるきらいがあるが、 空海の生涯においてとても重要な 契機であったと思う。 昔の高僧方はよく夢告によって人生の大転換期を乗り越えていった。 親鸞聖人にしても 明恵上人にしても素直に正夢と信じ行動した。
空海は 『大日経』 をむさぼるように読み、 如実知自心、 真言念誦、 法然加持等から、 密教は 絶対他力易行道であると感得された。 これこそ自分の求めていた不二の教えであると驚覚し且つまた 歓喜されたと思う。
『大日経』 自体は、 意外と早く、 わが国に伝わっている。 七六六年に書写された 『大日経』 が国宝に 指定されているぐらいだから、 空海が生まれる前から存在していたし、 それを繙いた坊さんも何人かいた かもしれないが、 問題意識が無ければ見れども見えずで、 その内容に注目した坊さんはいなかった。 『華厳経』 の悟りにさえ満足できず、 至極の法を得られずに泣いた空海であったればこそ 『大日経』 の 価値がわかったのである。
『大日経』 に書かれている梵語や儀軌については師匠に付かねばならなかったので、 是非入唐の機会を造り 正統な阿闍梨様から伝授してもらおうと密かに決意されたのである。
ところで、 密教の修行法は多岐に分かれるが、 私は、 その一番根本にあるのは、 如来の本誓を表現した 「真言」 念誦にあると云ってさしつかえないと思う。
空海は、 立教開宗された時、 宗旨の名称を 「真言宗」 と名づけた。 真言を宗むね とする教えであると 明確に宣言された。 唐の長安では密教を 「密宗」 と呼んでいた。 他にも、 マンダラ宗や大日宗、 金剛乗宗 と名づけてもおかしくないが、 空海は敢えて真言宗と名のったことに注目しなければならない。
密教の密教たるゆえんは、 誰でも、 どこでも、 いつでも修すことのできる真言念誦行を修行の根幹にしている 点にある。 もちろん阿字観や五相成身観ごそうじょうしんかん等の数々の観法もある。 観法はとかく 行者と本尊の間に距離を生じやすいが、 真言念誦は、 行者の信心と如来の慈悲心が因果同時で、 念誦する行者と真言との間に距離がない。 即、 自身と本尊たる真言が直結している。
後に天台宗を開かれた最澄も、 天台教学の一部として密教を取り入られるが、 遣唐船で入唐し、 天台山にお参りし、 寧波で帰りの船を待っている時に偶然に順暁じゅんぎょうという密教の坊さんに会い、 密教の存在を知った。 初めから密教を求められたわけではない。 これに比べると空海は天台華厳の教えに 飽き足らず、 不二の教えがある筈だと求めておられた。 この菩提心に必然的に応じた教えこそ密教であった。 顕教の限界を知っていたからこそ密教のありがたさを実感したのである。
今まで求めていたものは顕教の悟りであった。 自分の精進努力によって得られるのが悟りと思って 修行してきたが、 それは方便の教えで万人に共通する究極の教えではなかった。 時、 場所、 機根に制約される 教えであると覚られた。
密教はどんな機根 (人間の能力、 趣向、 男女、 老若、 職業等に限定された宗教的能力) でも、 時、 場所環境に制約されることなく、 平等に真実を見る智慧と、 それによって慈悲心、 加持力をもってわれらを 具体的に救済する教えである。
空海がこの密教に遭い、 我らを済度する為にどれだけご苦労なされたか、 青年期の空海の真摯な姿を思うとき、 師恩に感謝しても感謝しきれない。
南無大師遍照金剛、
南無大師遍照金剛。
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