多文化都市ニューヨーク

https://www6.nhk.or.jp/sekaimachi/archives/data.html?fid=150804 【ニューヨーク・クイーンズ/ アメリカ】より

 ニューヨーク市は、5つの行政区から成り立っています。その中でも、最大の面積を有するのがクイーンズ。マンハッタンからイーストリバーを挟んで、すぐお隣の行政区です。人口は230万です。

 クイーンズは、ニューヨーク市最大の「移民の街」として知られています。多種多様な人種、文化、グルメが集まる地域で、そのため、最近、世界的なガイドブックで「アメリカで、おすすめナンバーワンの街」に選ばれました。

 ギリシャからの移民が多いアストリア地区、中南米からの移民が多いジャクソンハイツ地区、巨大な中華街のあるフラッシング地区など、アメリカにいながらにして、実にさまざまなお国柄に触れることができます。世界的観光地であるマンハッタンともひと味違う、ディープなニューヨークを体験できることが、クイーンズの魅力です。


https://www6.nhk.or.jp/sekaimachi/archives/arukikata.html?fid=150804 【変化を続ける「移民の街」クイーンズ】より

 「人種のサラダボウル」と呼ばれるニューヨーク。その中でも、特に多くの移民たちが集まっている地区がクイーンズです。ここでは住民の約半数が海外生まれ。そのため、さまざまな文化、人種が入り交じり、街は日々変化を続けています。

 歩きはじめたのは、街の西側、電車の高架下。通勤電車がごう音を響かせて走っていきます。それにしてもこの街、摩天楼だらけのお隣マンハッタンと違って空が広い!

 街を歩くと、オフィスビルの屋上に農園をつくって野菜を育てる人たちや、ギリシャ楽器を奏でて祖国の音楽を楽しむ理髪店の店主、集合住宅の中庭に集まりご近所で一緒に子育てをする住民たちに出会います。みなさん大都会の真ん中で、どこかのどかに暮らしています。

 常に変化し続ける「移民の街」クイーンズで、1日1日を楽しくエネルギッシュに暮らす人たちと出会う街歩き。


https://www6.nhk.or.jp/sekaimachi/archives/deai.html?fid=150804 【ニューヨーク・クイーンズ/ アメリカ】より

街の「屋上農園」

 大きな通りを歩いていくと、モダンなオフィスビルの前で男の人が2人、手に長いものを持って話し込んでいます。聞けば、農機具で、2人は農家なんだそう。こんな所で農業を?と聞くと、「ついて来なよ」と、オフィスビルの中へ。うながされるままエレベーターで屋上へ上がると、そこはなんと、一面の畑です。

 ここは2人が経営する屋上農園。5年前に農園づくりから始め、今では、ルッコラ、水菜、ラディッシュ、キュウリ、トマトなど、実にさまざまな野菜を育てています。2人は、ニューヨークに立ち並ぶビルの屋上が、ほとんど有効利用されていないことに目をつけ、このビジネスを始めました。屋上の緑化は、温暖化の緩和や雨水の吸収に有効で、更においしい野菜が作れれば一石三鳥、というわけなんだそうです。すでに2つ目の屋上農園もつくり、夢はニューヨーク中のビルの屋上を農園にすることなんだと教えてくれました。

街の「理髪店のご夫婦」

ギリシャ系の移民が多く暮らす地区を歩いていくと、なにやら陽気な音楽が。見れば、理髪店の店内でおじさんが気持ちよさそうに弦楽器を奏でています。楽器はブズーキと言って、ギリシャのもの。元々プロの音楽家だったおじさん、店が暇なときにはギリシャの音楽を奏でているんだとか。

 おじさんは音楽家になるためにギリシャからアメリカに渡って来ました。39年前に故郷の村から連れて来た奥さんと結婚すると、この国で娘2人を授かり、更に6人の孫を授かりました。奥さんは最初、2〜3年でギリシャへ帰る予定だったとのことですが、大家族になったことで、アメリカに住み続ける決心をしたのだそうです。

 「人生は予定通りにはいかないわ。だからロマンチックなのよね。」奥さんは笑います。移民の人たち、いろんな人生を経てアメリカで暮らしているんですね。

街の「中庭の集まり」

閑静な住宅街で、散歩中の親子に出会いました。見ていると、家と家の間の細い路地へ曲がっていきます。どこへつながっているんだろうと、その路地へ入っていくと、立ち並ぶ家々の裏に、緑あふれる大きな中庭が。数人の大人と子供たちが、イスをならべてくつろいでいます。

 聞けば、このエリアはサニーサイドガーデンズと呼ばれ、人口増加によりマンハッタンの住環境が悪くなっていった1920年代に、緑あふれる風通しの良い住宅街を作る目的で建設されたんだとか。中庭は住民によって共有され、休日などには住民たちが集まり、バーベキューをしたりするんだそうです。この中庭には子供たちもよく遊びに来て、居合わせた大人たちが、目を配って、時には遊んであげるんだとか。

 移民たちが集まり、発展し、姿を変えていく巨大都市ニューヨーク。しかし一方で、中庭には昔ながらのご近所のつながりが残っていました。


https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17710201/ 【米国におけるプエルトリコ移民の人種アイデンティティと政治意識に関する研究】より

今年度は、昨年度の継続として、ニューヨークにおけるコミュニティ活動に従事したプエルトリカンと、アフリカ系アメリカ人との交流・交渉から生まれるアイデンティティ構築と政治活動について分析を行った。なかでも、社会活動家であり、ジャーナリスト、詩人という多面性を持つヘスス・コロンという人物に焦点を当て、その作品を通して、1930年代以降のニューヨークというコンテクストに置かれたプエルトリカンの、人種意識と政治への関与を考察した。その際には、同時代を生き、ハーレム・ルネサンスの高揚を支えた人物としてアフリカ系アメリカ人研究では著名なA・ショーンバーグが、黒人としての人種意識に基づいて活動したことが、対照的な存在として言及されるが、それによって、ヘスス・コロンが人種問題よりも社会主義を重要視して活動したという一般的な理解では充分ではない、プエルトリカン固有の人種意識の困難さを明かにした。差別に曝されたアメリカ社会において、自らの白人性に執着したとみなされがちなプエルトリカン移民は、その政治的実践においてはむしろ黒人性への覚醒、アイデンティティ構築というコンテクストに照らすことで、その思想的状況をより豊かに析出可能となるのである。さらに、1960年代の公民権運動のなかで登場するコミュニティ自助組織「ヤング・ローズ」の、社会運動への影響力も重要であった。ブラックパンサー党への敬意から誕生したこの組織は、コミュニティにおける生活の問題を、アイデンティティの政治という表現を用いて主張してきた人々であった。その主張内容は、人種意識の特徴、人種の多様性についての認識を踏まえた、新しい社会運動への萌芽として重要であり、今後の研究の方向に指針を得ることが出来た。最終年度となる今年度は、これまでの3年間の研究をまとめる作業を行い、国際学会その他でのプレゼンテーションを実施したほか、雑誌論文として発表した。また、成果の一部は、出版準備中の本のなかの1章として、現在編集中の段階である。


https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16510199/ 【プエルトリカンのジェンダーとナショナリズムをめぐるパラダイム転換について】より

多くのプエルトリコ人が居住するニューヨークにおいては、プエルトリコ女性たちが地域活動において重要な役割を果たしてきた。バイリンガル教育の要望や地域の貧困対策など、マイノリティが都市部で抱える問題の解決策を模索す否運動のなかで、プエルトリコ女性たちは指導的役割を果たしてきた。

90年代以降、プエルトリコ人移住先はニューヨークからフロリダ中央部へと移動した。その結果、60年代、70年代にニューヨークのコミュニティ活動で活躍していた女性たちが退職後移住してきている例が判明した。同時に、移住地での経済的状況の相違などからプエルトリコ人コミュニティの政治的主張が変化し、コミュニティ活動やヒスパニック全体の生活改善運動に女性がかかわっている状況が生じている。.

また、プエルトリコ人市長を選出し、プエルトリコ人の割合の高いコネチカットのハートフォード市では商業組合がプエルトリコ人.ラテン系コミュニティの町づくりに取り組み、その中心地区に女性たちを支援するNPOなどがコミュニティへのさまざまな福祉サービスを提供している。また、マサチュセッツ州ホリヨーク市では、急激に移民人口が増加するなか、青少年の非行問題、教育の問題に取り組んできた女性活動家がコミュニティ活動の中心を担っている。また、前年度に実施したフロリダ州オーランド地区への調査も実施した。2006年初頭にプエルトリコで生じた政府活動が一時マヒ状態になったのを受け、多くの学校教師などが数週間で何十万とオーランドへ移動した実情、そこから派生するさまざまな問題点などが把握できた。急激なプエルトリコ人増加を受け、行政、メディア、学校などが対応に追われている実態が行政側で働くプエルトリコ人女性郡長補佐官より語られ、今後の動向が注目される。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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