『新潟医科大学の俳人教授たち

https://bungaku-report.com/blog/2024/03/post-1465.html 【中本真人『新潟医科大学の俳人教授たち』(新潟日報メディアネット)】より

目次

はじめに

序章

1、虚子の新潟医科大学附属病院入院       2、入院生活の虚子

3、入院中の句会                4、虚子の入院生活を支えた俳人たち

第一章 中田みづほと俳誌『まはぎ』創刊

1、帝大俳句会時代のみづほ           2、みづほの新潟医科大学赴任

3、浜口今夜と新潟医大俳句会の発足       4、俳句雑誌『まはぎ』創刊

5、みづほの『ホトトギス』選者、同人推挙    6、「句修業漫談」の連載

第二章 高野素十と新潟医科大学

1、「秋櫻子と素十」の『ホトトギス』転載    2、秋櫻子の『ホトトギス』離脱

3、素十の新潟医科大学着任           4、みづほの妻 妻子の活躍と早世

5、衛生学教授及川仙石             6、新潟医科大学の四俳人教授時代

第三章 花鳥諷詠の拠点 新潟医科大学

1、武蔵野探勝会の新潟開催           2、虚子の佐渡初訪島

3、素十の「当季雑詠」選者就任と今夜の死   4、みづほ、素十が育てた俳人医師たち

5、新潟医科大学と俳人教授たちのその後


http://twkameda.blog.fc2.com/blog-entry-5.html 【亀田の俳句:高浜虚子】より

高浜虚子は明治7年(1974年)正岡子規と同じ松山市に生まれた。そして昭和34年(1959年)、85歳で天寿を全うした。師事した子規が35歳で早世したのに対しまことに長寿であった。虚子は大正2年(1913年)に初めて新潟市を訪れました。没する2年前の昭和32年まで16回にわたり新潟県を来訪。うち4回、亀田町に足を踏み入れている。

亀田に最後に来たは昭和23年なので、亀田在住の俳句人で虚子の姿を目の当たりにした方が

まだご存命なはずだが、私は知らない。

さて、話は明治26年(虚子19歳)に戻ります。虚子は同郷で仲が良かった河東碧悟桐と一緒に京都の第三高等学校へ進学します。

河東碧梧桐

翌年学科改変により二人とも仙台の第二高等学校へ転入します。当初医師をめざしていた虚子は数学ができなかったこともあり、文学に転向します。

子規に文学を学んでともに身をたてようと、碧悟桐と一緒に学校を辞めて上京し、根岸にある子規庵の近くに下宿して浪人生活を始めます。

子規庵

子規の病状は悪化する一方で、発行していたホトトギスも虚子に編集を手伝ってもらったりしていましたが、明治35年に子規が亡くなると、後継者に指名された虚子はホトトギスの発行責任者となります。ところがこの文芸雑誌(当時は小説が主で俳句は少々)の売れ行きが芳しくありません。虚子は妻(なんと碧悟桐の元許嫁)と次々生まれる子供(最終的には54歳の時に7人目)を抱え、ホトトギスの収入が落ち込む中、下痢を繰り返し、胃を痛め、ノイローゼに陥ります。

同じころイギリス帰りの漱石もノイローゼになっていましたが、子規庵には顔を出していました。そこで虚子に「気晴らしになるから」と勧められ、漱石は小説を書き始めます。

漱石は当初この「猫伝」もしくは「吾輩は猫である」という題名を決めかねていた処女作を長く書くつもりはなかったが、虚子に題名は「吾輩は猫である」とし、さらに続きを書くよう強く勧められた。明治38年にホトトギスに掲載されたこの小説は、漱石を文壇への道を開かせることになりました。

漱石は明治40年には東京帝国大学の教師を辞し、朝日新聞に入社します。

『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『こころ』など彼の代表作となる作品を次々と新聞紙上に掲載し、職業作家への道を歩き始めます。

一方、ホトトギスでは、明治39年に「坊ちゃん」が掲載され、発行部数を伸ばし虚子はそれによりようやく一息つくことができました。

その後ホトトギスは俳諧雑誌として全国に名を馳せ、虚子は子規の俳句を継承していきます。

すなわち子規が提唱した「写実主義」から「客観写生」と「花鳥諷詠」へと昇華させたのです。これに共鳴した俳句詠みがつぎつぎと虚子に師事していきます。

俳壇即ホトトギスと言われるほどに勢力を伸ばし、虚子は俳壇に君臨する存在になっていきます。

大正初期、東大医学部に在籍していた中田瑞穂は、水原秋桜子(医学部血清学)、山口誓子(法学部)らと東大俳句会を興します。ここで虚子に師事し、さかんにホトトギスに投句。

大正11年、みずほが新潟医科大学(脳外科)に赴任すると、虚子との師弟関係が新潟に持ち込まれました。同年、浜口今夜が内科の助教授として新潟医科大学に赴任。みずほから俳句を教わります。遅れること昭和10年、ドイツ留学を終えた高野素十が新潟医科大学に法医学の教授として加わり、ここに虚子門下の「越後の三羽ガラス」がそろいました。

高野素十は東大俳句会ではみずほの1年後輩にあたります。

高野素十

虚子が来県する際はこの3名がほとんど付き添っています。最後に虚子が越後とかかわった編年史を、亀田図書館が作成した資料からかいつまんで列挙します。

大正 2年(1913):新潟市を訪ね、弥彦をへて出雲崎の佐藤耐雪を訪ねる。

大正13年(1924):新潟医大で俳句会。終了後鍋茶屋で会食

            翌朝、信濃川畔漫歩、霧深し。「千二百七十歩なり露の橋」 

昭和13年(1938):新潟医大にて講演。翌日から二日間佐渡観光。

            初めて亀田へ来訪。佐藤暁華の家で休憩後、通心寺にて句会。

昭和14年(1939):青森からの帰路、瀬波温泉泊後に新潟へ。

            亀田北山の村木花圃にて句会。

昭和18年(1943): 浜口今夜、腎結石にて死去。

            虚子は「三羽居し春の鴉の一羽居ず」と追悼句を読む。

           

昭和21年(1946):中田みずほと高野素十が小諸にいた虚子を訪ね、

         虚子の体調がすぐれなかったのを見て、新潟へ連れ帰り、新潟医科大学田
        坂内科に10日間入院。同じ年、亀田の亀山其園居にて新潟玉藻会の句会。

昭和23年(1948):亀山其園居にて新潟玉藻会の句会。

昭和30年(1955):古町「かき正」にて句謡会。

昭和32年(1957):最後の来県。古町「かき正」にて句謡会。行形亭にて招宴。

昭和34年(1959):虚子没。85歳


https://blog.goo.ne.jp/cocoro110/e/55a99c64072a4eafff1eeb114b85fa71 【新潟市⑤萬代橋は“千二百七十歩なり露の橋”】より

人影も、車の影も少ない土曜日の、新潟市の、萬代橋通り?の、上大川前交叉点の、早朝風景。初めての、遠くの、知らない街を、ひとり歩く、ワクワクします。

新潟米の“シュー”が、何と!5個入りで“390円”ですか? まさかクリーム無しのシューだけ?そんなことはあり得ませんから、きっとカワイイ一口サイズなのでしょう。一個78円です。 

新潟市は、日本海側で唯一の政令指定都市で、人口は80万人の大都会なのです。かなり、都会ぽいビルです。地震が来たらかなり危ない気がします。新潟は災害の街なのです。

萬代橋が近づいて来ました。何やら、傍らに、石碑です。

歌碑のようですが、文字がヘナヘナで読めません。

あの“高浜虚子”の歌碑のようです。「千二百 七十歩なり 露の橋」ですか・・・・・・・。虚子らしく、大変具体的で判り易く、きっちり五七五で詠んでいます、がぁ、う~ん、唸ってしまいます。こんなんで俳句なの?

だいたいですよ、橋を渡るときに長さを歩数で測ると考えていても、下流の景色を見たり、上流の景色を見たり、川面を眺めたり、空を見上げたり、考えたり、歓心したり、いろいろしたりするのです。

いろいろ見たり、感じたり、考えたりしていたら、絶対に歩数を忘れるのです。渡りはじめから終わるまで、569・570・571・・・1124・1125・1126・・・・・・何て、“伊能忠敬”じゃあるまいし、ホントに本人が数えたのでしょうか? 

もしかして、ホントに虚子自身が、「いいか!みんな!これから俺はこの橋を何歩で渡れるかを数え、その歩数を歌に詠む、気が散るから、脇で余計な話しを絶対するな!」と宣言したのでしょうか。まぁ、それは、それで、面白いですけどね。

私の想像では、渡った後で、先生是非記念に一句となり、歌を捻っている時に“橋の長さを歩数で表現したら?”と思いつき、傍らの弟子に歩かせてその歩数を報告させたのでは?と思うのです。

それで、1270歩で橋の長さ782㍍を割ると、一歩が57.3㎝となります。歩幅は身長から100㎝を引いた値が標準だそうで、歩いた方の身長は157㎝と推定されます。

そこで虚子の身長を調べてみたら、何と!何と!180㎝の大男とか、137㎝の小男だと面白かったのですが、そのような身長に関する記述は発見できませんでした。

まあ、誰の歩数でも、この「千二百 七十歩なり 露の橋」を詠んだのは虚子に間違いありません。兎に角、萬代橋の袂の傍らには、高浜虚子が50歳の“露の頃”に詠んだ句碑があります。

さあ、三代目の萬代橋307㍍は目の前です。何歩で渡れるか数え?・・・・・・ます。


https://seiado.com/tokyo_fuga/4446.html/4 【寄り道 高野素十論 その十三】より

蟇目良雨

「寄り道 高野素十論 その十二」に「まはぎ」に掲載されていた中田みづほと濱口今夜の「句修業漫談」の第一回目を掲載して読んでみると、そこには水原秋櫻子を怒らせるような内容は見当たらず虚子の教えを忠実に守ることが俳句上達の方法だと自分の経験から述べている。これから句修業漫談の中身を掲載順に閲してゆくが医学部教授にあるみづほや今夜が喧嘩を売るようなことは考えられず、のちに何故、秋櫻子が「自然の真と文芸上の真」などの論を書かなければならないかが依然不明のままである。

今回の「俳句の廣さ其他」では、虚子のやり方からそれている秋櫻子を取り上げているがそれでもそれは表題にある通り「俳句の廣さ」の問題として議論して秋櫻子を貶すために取り上げていることでないことは読めば了解されるだろう。

俳人が喧嘩をする理由は何が多いのだろうか。主義主張が違えば会を出るか自分たちで別な結社を作ればよい。このとき揉める理由に会員の引き抜きが絡む。それは会員が減れば経営に支障を来すことがあるからである。昭和四年、五年、六年の時点において原因として考えれるのは、秋櫻子が「破魔弓」を発展的に解消して「馬醉木」に拠って立つために仕掛けたという考えもあるかもしれないが、まだ理由としては希薄である。

秋櫻子が著書『高濱虚子』で述べるところによっても、虚子のやり方に合わなくなる秋櫻子の苛立ちを書いているところもあるが、虚子や長年の親友の素十に、正式に別れを述べる個所はない。つまり辞めよう、辞めようとする意志を書いているが虚子に向かって辞めるとはどこにも書いていないのが不思議である。

「句修業漫談」は秋櫻子の親友である中田みづほと濱口今夜の俳句に向かう態度を漫談として記した記事である。俳誌[まはぎ]に連載され、秋櫻子もとっくに読んでいて掲載期間に何の反応も無かったのであるが、虚子がこの文章を「ホトトギス」の新入会員に俳句の基本を学ばせる上で有益と考えたところから一年遅れで「ホトトギス」に再掲したのである。そして四回に亘る掲載が済んでしばらくした昭和6年10月に突然として「馬醉木」誌上に「自然の真と文芸上の真」なる論文を掲載し虚子陣営に論争を仕掛けたということになっている。

一般論で言えば、無二の親友であった秋櫻子、素十、みづほ、今夜の間に波風が立つとすればそれは大変特殊な原因によるものであろう。例えば同時期に俳句を始めた二人がいたとして、一人だけがどんどん上手くなって取り立てられる機会が増えて、もう一人が妬むという図式は無いわけではない。こんな状況を前記四人に当てはめるとしたら俳句の経験は中田みづほが一番上(長谷川零余子指導の帝大俳句会から俳句を始めていた。東大俳句会は後にみづほと秋櫻子が再興)、秋櫻子は短歌から俳句へ移ってきたがみづほより後で素十より先輩。今夜は「その十二」で大正12年から俳句を始めたと言っているから素十と同期生と考えてよいが素十ほど俳句に打ち込まなかったので俳句の経験からは一番後輩といえる。

年齢に関しては水原秋櫻子が一番上(一浪していた)。四人全員東京帝大医学部卒。みづほと今夜は同時に新潟医科大学へ医学部助教授として早くから赴任)、素十は俳句をやりたくてぶらぶらしているうちに就職先が無くなり、みづほの斡旋で新潟医科大学法医学教室の助教授として拾われた。

みづほ、今夜、素十はドイツ留学の後に教授に就任。秋櫻子は家業の産婦人科をついで留学経験なし。昭和大学医学部創設に協力し同大の教授に就任したこともある。全員医学博士の学位を持つ。経済的には産婦人科医院と産婆學校を経営していた秋櫻子がダントツによかった。それは石田波郷が松山から上京したものを丸抱えしたことや加藤楸邨への援助の仕方などからも想像できるだろう。こんな環境の中で起こった「自然の真と文芸上の真」論争なのである。

今回は「ホトトギス」に掲載された第二回目の文章のうち「俳句の廣さ其他」を読んでみよう。

先ず、「まはぎ」掲載の「句修業漫談」のうちどれとどれが「ホトトギス」に再掲されたかをもう一度確認しておきたい。

再掲されたということは、虚子にとって都合がよい文章が含まれていたと言えるであろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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