Facebook石川 真樹夫さん投稿記事
ひとたびこの空(くう)の一瞥(いちべつ)を得れば、あなたは世界の現れがあなた自身の投影でしかないことを知って、いつも幸せに生きることだろう。
プンジャジの教え
https://www.ben-clinic.net/blog_ben/index.php?ID=372 【プンジャジの教え [知的生活]】より
沢山の本を読みましたが今、読んでいる「覚醒の炎:プンジャジの教え」は、他のどの本とも比べることができません。
生涯、これほど心の安らぎを感じたことはありません。
自由を求める心がなければ読めません。無理に文字を追いかけて読んでも読めないと思います・・・
<お化け屋敷の設計・企画に飽き飽きしてスピリチュアルを引退した凡人>
の心境になった、今だからこそ、読めるのだと思いました。決して、皆さんにお勧めすることもしません。
「あなたはすでに「それ」なのだ。
修練をして真我になるのではない。修練をすることは自我でしかない。努力を棄てなさい。
あるがままに在りなさい。一つの想念も起こさずに、ただ静かにしていなさい。
そうすれば、世界の現れも真理の探究もすべては自分の心の投影でしかなく、束縛も、解脱も、解脱を求める人も存在しないという究極の真理にあなたは目覚めるだろう。」
シェリー H・W・L・プンジャジ
https://note.com/davidenouta/n/n196e19d47ccc 【デーヴィッド・ゴッドマン「覚醒の炎―プンジャジの教え」】より
質問者
私は昨夜自分の部屋で座っていました。そこにはとても美しいエネルギーが感じられました。突然、私はラマナが部屋の中にいるというとても強烈な感覚をもったのです。彼の姿を見たわけではありません。それはただとても強力な存在でした。それが起こっている間はとてもリアルに感じられましたが、その後で、私はそれが何かの幻覚ではなかったかと怪訝に思いはじめたのです。
パパジ(プンジャジ)
あなたは自由となった人、解脱した人のヴィジョンを得たのだ。たとえ身体的な姿は見えなくとも、それは一種のヴィジョンなのだ。解脱した人が存在という姿であなたを訪れた。それは純粋で霊妙な想念として現れた。だが、あなたは以前の愚かな心に戻り、それを過去の文脈で解釈してヴィジョンと呼び、それからそれを「幻覚」と名づけることで疑いはじめるのだ。
他の者も真我の体験を得ることはあるかもしれない。だが、それは永久的なものではない。そこには忘却があり、それがふたたび心へと連れ戻す。そして自己の真の本性は記憶として残される。それはふたたび真我へとあなたを呼び戻す。これはジーヴァン・ムクティではない。心とその性癖が完全に根絶されてはいないからだ。
生きている間に心と真我の間を行き来する人が、死においてヴィデーハ・ムクタ(ヴィデーハ・ムクティに達した人)(死の瞬間に解脱に達する)となることはあるだろう。だが、彼はジーヴァン・ムクタではないのだ。
質問者 それでは、ヴィデーハ・ムクタは真我の覚醒を努力によって維持しなければならず、一方、ジーヴァン・ムクタはそうする必要はないということでしょうか?
パパジ
ジーヴァン・ムクタの境地が努力を通して達成されようと、努力なしで達成されようと、その人はカルマの束縛から解放されていることを知っている。彼にはもはや束縛も無知もない。カルマは身体にその活動を続けさせていくだろう。だがそれが束縛をもたらすことはない。カルマの影響を受ける人が存在を消したからだ。 真我の中に完全に確立されていない人の未完結のカルマは来生に繰り越される。だが、ジーヴァン・ムクタにその可能性はない。そのため、ジーヴァン・ムクタの最後の人生の運命はしばしば困難なものとなる。なぜなら、それらは次の生に延期することができないからだ。
質問者 しかし真我の体験をした人がそれを失った場合、彼がジーヴァン・ムクタとなるためにできることはないのでしょうか? あるいは彼はただ人生の最後の瞬間まで待って、ヴィデーハ・ムクタとなることを期待するだけなのでしょうか?
パパジ ときには仕事や責任を背負い、それに従事することがあなたのカルマとなるかもしれない。それが起こったなら、どうすることもできない。 最終解脱が起こった後で、いかにカルマが過去の活動や出来事と関連していたかを理解することもあるだろう。だがそれ以前は、カルマはただあなたをつかみ取り、あなたはそれに耐えていくしかないのだ。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=b_tfObQ1USw
https://starpeople.jp/column/20190913/7752/ 【パパジの愛弟子、ニーラジャのメッセージ/エゴを超越する炎(フォース)との出会い《前編》】より
ラマナ・マハルシのもとで覚醒を得て以来、世界中の求道者たちを真我に目覚めさせたことで知られる、シュリー・H・W・L・プンジャ(通称パパジ)。彼の教えが書かれた『覚醒の炎』(ナチュラルスピリット)は絶大なる支持をいただいています。
そのパパジの愛弟子として、世界中を巡って教えを伝えるニーラジャさんが、2019年10月に日本でリトリートを行うことになりました。
先の7月にローマ郊外で一週間開催された「サットサン瞑想リトリート」の講話内容から、真我を目覚めさせる教えを抜粋してお届けしましょう。
※講話内容の要点をまとめた文章を翻訳しています。
※太字部分は、原文での太字をそのまま活かしています。
パパジが存命の頃、ニーラジャさんと。
世界中の求道者たちを目覚めさせたパパジの教えが書かれた『覚醒の炎』(ナチュラルスピリット)。
内なる核心が呼びかける自由への巡礼とは?
巡礼は、単なる普通の旅ではありません。
旅行計画に基づいたものではなく、決められた目的地や限られた終着点を目指すわけではありません。
巡礼とは、それ自体があなたに呼びかけます。
それにより、あなたは「物質界」と「スピリチュアル界」の2つの界層で働く、内なる衝動に従うことになるでしょう。
巡礼は外的な活動のように見えますが、存在の内なる次元に向かうものであり、常に、目に見えない内なる核心から始まります。
自由はあなたが思っているよりも、近くにあります。
もし長年、自由への強い欲求があるなら、あなたは何がどうであれ、それを得ることになるでしょう。
ニーラジャさんが運営するセンター。「このセンターは、私のグルであり、卓越した非二元論のマスターであるパパジから直接受け継いだものです」とニーラジャさん。
教えはハートに到達することで目覚めを促します
多くの人が教えに耳を傾け、頭で理解しようとします。
それを理解しようとすることで、教えの種は頭に到着し、そこに定着します。
その教えは「私」というエゴの「所有物」となり、本人が役に立つと思えば、使われるようになります。
それは「得た知識」として、「私」というエゴの都合の良いときに使うことができるものです。このことは、怠惰と不毛を招きます。
自由には、多大な謙虚さと、精査を経た真実を必要とします。
教えはハートに到着し、浸透しなければなりません。
そこでフルに芽吹き、花を咲かせ、あるがままのあなたの真実に目覚めることができるまで、そこに留まらなくてはなりません。
私というエゴがこの世界というゲームを創っています
「私」というエゴはただの夢に過ぎず、それは、未だかつて実在していません。
「私」というものは、どこにもいないのです。
全てのマトリックス(母体)も、全てを内包するものも、屋根から床まで、そして星々までも、「私」と呼べるようなものは何もなく、全てが無であり、何ひとつ個性を持つものはなく、単にマインドが、この世界というゲームを創っています。
例えば、木を取り上げてみましょう。
木とは何でしょうか?
もし、私たちが土壌や空や雨や木と呼んでいるものを構成する要素をすべて取り除いたら、もし、大地やあらゆる化学成分、個々に含まれる成分をひとつずつ取り除いたとしたら、「木」と呼べるものはどこにも存在しません。
これは明白なことですが、そのことを実感するには、自分の内側の深いサイレンス(沈黙)に身を委ね、自身で確かめなければなりません。
そうすれば、存在する何物の中にも個としての自我は無い、ということを目の当たりにするでしょう。
自由という名の炎に飛び込んで姿を消してください
私の記憶によると、パパジのサットサンで、こんなふうな異論を唱える人たちが
しばしばいました。
「もし、私というものが存在しないのなら、何かを為す主体がいないことになります。それでは、あなたが行おうとしていることの行為者は誰なのでしょう?
『私』がいないのなら、そこには自由意志は存在しません。
なぜなら自由意志を持つためには、私という存在が無ければならないはずだから。
『私』という存在が無ければ、それは自由意志が存在しないことを意味します」。
異論の全てが、そのような類のものでした。
このような追求は大切なことでもあります。
しかし、今このコースで、私はその核心に向かいたいのです!
私はあなたを炎というフォースへといざない、完全に燃やし尽くしたいのです。
あなたはここに座ったまま、ただ、炎のことを考えていることもできます。
しかし、それでは暖かくなりません。
炎のことを考えているだけでは、炎そのものとは何の関係もありません。
あなたが炎を直接体験するためには、炎に直に向かっていく必要があります。
ここで言っている「炎に直に向かう」とは、その炎の中へと消えてしまうことを意味します。
ここには「蛾」であるあなたがいて、自由への炎があります。
蛾はその炎にあまりにも魅せられてしまい、どんどん近づいて行きます。
そして遂に、その中に飛び込んで身を委ね、炎の中で燃え尽きてしまうのです。
こういうことです。
「私(自我)は自由になりたい」という名の炎に出会わなければなりません。
そして、その炎の中へ姿を消してしまわなければならないのです。
マインドの声をストップさせると別の世界が見えてきます
エゴは、好き(欲望)と嫌い(嫌悪)の二元的な流れの中に存在します。
それは、自分自身に条件づけられた思い込みへの執着です。
それは「縮こまりモード」の意識であり、その動きを捉え始め、それを追わずに気づいていられれば、超越することが可能です。
ほんの一瞬、立ち止まって、自分のマインドの声を止めてみましょう。
全身全霊で熱心に、素直に、エゴを超越することを望む意識状態で──。
ほんの一瞬、マインドが完全に活動を停止したら、あなたは、エゴの向こう側へと運ばれます。
そこにあるものはとても美しく、純粋です。
https://starpeople.jp/column/20190918/7754/ 【パパジの愛弟子、ニーラジャのメッセージ/エゴを超越する炎(フォース)との出会い《後編》】より
ラマナ・マハルシのもとで覚醒を得て以来、世界中の求道者たちを真我に目覚めさせた、シュリー・H・W・L・プンジャジ(通称パパジ)。彼の愛弟子として、世界中を巡って教えを伝えるニーラジャさんが、2019年10月に日本でリトリートを行うことになりました。
前回に続き、先の7月にローマ郊外で一週間開催された「サットサン瞑想リトリート」の講話内容から、真我を目覚めさせる教えを抜粋してお届けしましょう。
※講話内容の要点をまとめた文章を翻訳しています。
※太字部分は、原文での太字をそのまま活かしています。
世界中の求道者たちを目覚めさせた、パパジの教えが書かれた『覚醒の炎』(ナチュラルスピリット)。
執着や苦しみを感じ切ると、それらから解放されます
あなたの目の前に現れる、あらゆるものを手放しましょう。
なぜなら、それは本当のあなたではないからです。
本当のあなたになるためのゴールデンルールは、かたく握りしめている手を開くこと、そこから始まります。
何かに、かたくなにしがみついていることは、大きな障害となります。
それは傷つくのを避けるためなのかもしれません。
あるいは、平和でありたいがために、見たくないものがあるのかも知れません。
しかし、平和は愛そのものです。
さあ、躊躇せず、愛を持って炎へ飛び込みましょう。
炎へ飛び込む行為は、自己が消えた愛の動きそのものです。
無私の愛を使って「そこ」へ行ってみましょう。
もしあなたが「そこ」でしばらく待っていれば、あなたの奥深くに存在する苦しみと出会うことになります。
愛と慈悲とともに、勇気を持って、苦しみの中へと入ってみましょう。
あなたが、いまだに執着しているものは何でしょう?
そのストーリーに、あなたをべったりと貼り付けている接着剤を溶かしてしまいましょう。
そこに静かにとどまり、苦しみと向き合うという決意によって、接着剤が溶けていきます。逃げたり、拒否したり、抵抗することなく、そこにとどまり続けて、苦しみが全開になるままに任せておきましょう。
すると、苦しみがひとりでに手放されていきます。
その際、思考が入り込む余地はありません。
ニーラジャさんのセンター内では、集う人たちがゆったりと過ごしている。
エゴが消えると大きな変容が起き、人生はシンプルになります
このリトリートで伝えたいのは「感謝の気持ちで生きることの重要性」です。
現実生活で「私(エゴ)」が消えた時、どのようにして人生を送るかということです。
ここで、疑問が浮かぶのではないでしょうか?
「私(エゴ)」がなければ、どのような人生になるだろう?
「自我」を持たずに、どのようにして他者と関われるのだろう? もしこの世界に誰もいなかったら、自分はどんな行動を取るのだろう? どのような第一歩を踏み出すのだろう?
あなたが「私」という夢から覚めると、大きなシフトが起こります。
エゴが消え去り、あらゆるものの真の姿がある「美しさだけがある領域」に対して
意識が開かれます。
生活のあらゆる面から「私(エゴ)」が消える時、大きな変容が起きるのです。
「私」がいなくなることについて、さらに言い換えると「私」という幻想が広大な「空(ボイド)」に出会うからです。
そこであなたの「既知」は死を迎え、「未知」へと生まれ変わります。
大いなる恩寵によって、このような現象が起きます。
しかしその瞬間、恩寵を受ける者も、与える者もそこにはいません。
それは自然に、ひとりでに起こります。
その瞬間、あなたは気づくでしょう。
「あぁ、私は消え、そして今、私は見つけることができた」と。
しかし、それを知るためのマインドは存在しません。
このようなフォースである「炎」は常にここにあり、いつでも使うことができます。
その炎は、この世界に創られたあらゆるものと、全く同じものでできています。
それはあらゆるものの中に存在し、時間や空間とは無縁であり、そこに存在していると同時に極めて空っぽでもある、何かです。
それは、何ら不思議なものではありません。
言ってみれば「公然の秘密」であり、見ることも、嗅ぐことも、味わうことも、
触れることもできます。
あなたが真にそれを知ることができれば、きっと「探求は終わりを告げた」と言うでしょう。
なぜなら、もし本当にこのエネルギーの領域、この次元に足を踏み入れたなら、ただ一度だけそれを垣間見た、という体験にはとどまらず、あなたは毎瞬間ごとに真実の中にいて、(エゴが)燃やし尽くされるからです。
この体験によって、すでに在る自分に、与えられるものも奪われるものも
何もないことを知るでしょう。
そして、全てが神であることを理解します。
どんな思考も、感情も、体験も、どれも同じものでできているのです。
それがわかってしまったあなたは、どこへ行き、何のために探求などするでしょうか?
もし、あなたが人生で一度でもこのような体験をしたら、それを決して忘れないでしょう。それはあなたのもとに、ずっととどまるでしょう。
それは、まるでお腹が空いたトラのようにあなたに飛びかかり、あなたの全ての疑念をむさぼり尽くすまで満足しません!
そうやって、人生は驚くほどシンプルになっていきます。
講話の際は、このようなスタイルをとることがほとんど。
ニーラジャさんが来日時の様子。
流れに身を任せ、安らぎの中で幸せを感じましょう
スピリチュアルな生活というものは、概念以上の何かに基づいていなければなりません。
単なる教えではない何か、それは、安らぎや静けさではないでしょうか。
静寂をもたらすには、あれこれマインドで思考するのを止める必要があります。
瞑想はその助けになるでしょう。
親愛なる皆さん、流れに身を任せましょう。
恩寵の風に吹かれるままに動きましょう。
自分の現地点を明らかにしてください。
そこにとどまり、安らぐとともに、決して執着しないようにしてください。
あなたの最も深いところにあるのは、叡智と愛に満たされた世界です。
それは、自分自身のサイレンス(静寂な状態)からやってきます。
自分のハートを覗き込んでください。
その広大さ、そのぼう大な“何もなさ”に身を委ね、幸せを感じましょう。
(翻訳/Chronicstudents 幸田良隆)
ニーラジャ
イタリア生まれ。シュリー・H.W.L.プンジャジ(パパジ)の愛弟子。子供の頃から神秘的な世界に惹かれ、24歳の時、スピリチュアルマスターを探しにインドへと旅立つ。長年、カル・リンポチェやダライ・ラマなどの高名なチベット仏教の師に付き、ヒマラヤの寺院でチベット最高の教えを実践。チベット医学や霊気等の自然治療に興味を持ち、レイキをアメリカやヨーロッパ各地で教える。マスターを探してインド中を旅する間、クリシュナムルティー、アナマライ・スワミ、ヨギ・ラム・スラット・クマーラなどの悟りを得た存在たちに出会い、1991年、パパジと出会う。その後、パパジの自宅に滞在し、何年も奉仕に専念し、蓮の花を意味する現在の名前を与えられる。1997年にパパジが肉体を離れたのを機にイタリアへ戻り、「シュリ・パパジ・センター」を立ち上げ、スピリチュアルな教えを分かち合う活動に専念している。
Sri Papaji Center(英語)
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