ストロベリー・ムーン

片柳弘史@hiroshisj

宇部の空に浮かんだ、6月の満月。北米ではイチゴの収穫時期にちなんで「ストロベリー・ムーン」と呼ばれ、ヨーロッパでは薔薇の開花時期にちなんで「ローズ・ムーン」と呼ばれるそうです。いずれにしてもロマンチックですね(^O^)


Facebook麻生 隆尋さん投稿記事

💥💥💥💥💥💥💥💥【ストロベリームーン】

今日は生憎雨模様で、満月を拝むことが出来ませんね😅💧

神棚にて日頃からの感謝と自分自身の浄化いたしました😇💕

💥💥💥💥💥💥💥💥

【月待之祓 】

掛巻も 畏き 月弓尊は 上絃の 大虚を 主給ふ

月夜見尊は 圓滿の 中天を 照給ふ

月讀尊は 下絃の 虚空を 知食す

三神三天を 知食と 申す事の由を 聞食て

祈願 圓滿 感応 成就 無上 靈法 神道 加持


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【今日は満月】 #ストロベリームーン  きょう6月4日(日)は満月です。

満月は夕方の日暮れの頃に東の空から昇り、翌日の明け方の日の出の頃に西の空に沈みます。

6月の満月はアメリカの農事暦で「ストロベリームーン」とも呼ばれます。

https://weathernews.jp/s/topics/202306/030145/


FacebookKenji Sakaichiさん投稿記事

昨夜は「スノームーン」でした。

「ストロベリームーン」等々”満月”の呼び名も色々ありますが、これらはアメリカの先住民が各月の満月に独自の名前をつけることで季節の移り変わりを捉えていた伝統に由来するものだそうです。

 ちなみに、この「スノームーン」は10月の「ハンターズムーン」に対して地球から最も遠い位置になります。雲が少しかかってきましたが、なんとか捉えることが出来ました。

 来月の満月は25日で「ワームムーン」だそうです。


Facebook渡辺和見 K Watanabeさん投稿記事

🌕 ストロベリー•ムーンの奇瑞 ① -十和田湖とキリストの墓にて-

令和5年6月3〜4日、"ストロベリー•ムーン"の満月とも重なったこの日、十和田湖〜青森県戸来村の"キリスト祭り"〜東北町"日本中央の石碑"を駆け巡りました。

 十和田湖の秋田県側の鹿角市は、私自身の幼少期の故郷で、私は幼い時分から大自然の素晴らしさを肌身で感じる機会に恵まれ、それが秋田県民歌では "神秘の十和田"と歌われるのは知っていましたが、それが正に "キリスト渡来伝説"と関係のある特別な湖であることを知ったのは、成人を過ぎてからでした。

 皆さんは、ゴルゴダの丘で磔刑となったキリストが、実は落ち延びて日本に渡来し、海路青森県の八戸港から上陸して西へ向かい、十和田湖から程近い戸来村(現新郷村)の地に定住し、106歳まで生きて晩年ここで亡くなったという伝説があるのをご存知でしょうか?

 一見、誰が聞いても荒唐無稽なトンデモ話にしか聞こえない"キリスト伝説"ですが、実際にこの逸話を掘り下げてみると、意外な発見があります。

 例えば••、この一帯には、一戸から始まって二戸、三戸〜九戸まで至る町名を冠した町々があります。

 日本には、淡路島の"ダビデの霊石"や京都"蚕ノ社"の三柱鳥居や"イサラ井"を初めとする、"日ユ同祖論" の根拠ともされる古代ユダヤ民族や原始キリスト教徒達の足跡とされる史跡が珍しくありませんが、縄文王国の北東北もまた、実はそんな縁の深い土地なのです。

 恐らくは、一戸〜九戸という地名は、紀元前八世紀にアッシリアの攻撃による「北イスラエル王国」の崩壊の際に行方不明になったとされる "失われた十支族"、それから約140年を経た紀元前六世紀に滅亡し"バビロンの捕囚"に遭った「南ユダ王国」の二支族ユダ・ベニヤミン族の一部の集団が、遥か東方を目指して日本まで辿り着いた古代の歴史に由来するものではなかろうか?

(青森県の回答では奥州藤原一族の興隆した平安時代の区画割り行政に由来するとされるが、その淵源は更に古い時代に遡るのでは••?)

 日本的な表現をすれば、一ノ鳥居、二ノ鳥居〜九ノ鳥居まで。その「ヒフミヨイムナヤコト」の数霊の最後に開く "ト"こそ、"十和田"であり、キリスト伝説と関係するということなのでは••?

 そして "十•和•田"には、あたかも"十と○で㊉"という暗号が隠されているかのように•••。

 しかれば、見えない歴史に刻まれた諸々の霊感を受けた芸術家、高村光太郎師は二人の乙女が出会い手を合わせる象徴的な姿をその湖畔に刻んだのでは••••。

 十和田は、"龍体"を成す日本列島の心臓にも喩えられます。それが、何故かしら古代ユダヤ民族の痕跡が色濃い場所にもなっており、往時からパレスチナと日本を結ぶ陸路•航路が開けていればこそ、その跡を辿ったキリスト自身もまた、晩年この地に留まり、後世にその封印の解除を託したということか••?

 まさに、人類の歴史的な"岩戸開き"とは、このことを指していたのでしょうか•••??

 この土地の人々に永年大切に守られてきた二つの古い塚が、キリストおよび身代わりとなった弟イスキリの毛髪を埋葬した墓に違いないということが、当地を訪ねた皇祖皇太神宮の竹内巨麿管長、鳥谷幡山、酒井勝軍、山根キク女史等によって確信され、世に公表されたのは昭和10年8月10日頃のことでした。

 では、何故に彼等はそれを確信するに至ったかですが、実はそれに先立つ昭和6年、古くから継承されてきた竹内古文書の巻物の内の一巻から、「道路奥戸来野月墓所館にイスキリスが汝が體骸お葬所」(↓下写真の書写された巻物資料に見出される-「キリスト伝承館の展示① ②」)の謎の一文が巨麿翁によって発見され、その根拠を日本各地に探し求めて数年を経た経緯があり、そんな折り、まさに古文書通りに「戸来•野月(ヘライ•ノヅキ)」の地名を冠した土地において村人によって古来「墓所館(ハカドコダテ)」と呼ばれ大切に守られてきた二つの塚が発見されたからでした。

 因みに、竹内文書によるとキリストが来朝したのはこれが初めてではなく、若い二十代の時分には、当時、第11代垂仁天皇の治世下、今の富山市にあった皇祖皇太神宮を訪ね、武雄心親王に師事して親しく古代神道の祭式を学んだ末にパレスチナの地に戻ったのだと言います。

 昭和10年秋、一時この問題は日本中央の政界•軍部の一部をも巻き込み、大変な騒ぎに発展しかけていました。

 しかしながら、よく知られる通り、間もない翌11年2月、あの2•26事件の前夜、皇祖皇太神宮および竹内文書は戦前の国家権力による徹底的な弾圧を受け、それから日本は足早に第二次大戦へと突入する道に向かいました••。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1199036857176272&id=100012099069148

 コロナ禍で暫くストップしていた新郷村のキリスト祭は、四年ぶりの開催で、村長の挨拶、観光協会会長の挨拶に続き、キリストの鎮魂祭の神事が厳かに執り行われました。

 その後に、よく知られる地元の民謡 "ナニャドヤラ" の踊りがキリストの十字架が立つ塚を取り囲む形で、奉納されました。

 この民謡の繰り返し歌われる文句や半ば哀愁を帯びた節回しは、あたかも古来のユダヤ十二支族、そして彼等の永年のメシア待望に回答を与えた後、日本の山間地で静かに余生を全うしたとされるキリストの遠い記憶を偲んでいるかのような、何とも言えない心に残るものでした。

(↓キリスト•レイラインのお勧め動画-筆者も参加した軍用観光ボートで巡るツアー

https://web-mu.jp/history/5075/)

この神事の後、国道を北上し、下北半島の付け根部分に当たる東北町を通過、ここには「日本中央の石碑」があります。

 なぜ、北の青森に"日本中央"と刻まれた碑が立っているのか••?

 十和田から遠くないこの地が、古来、世界民族が縦と横に交叉する十字路の中心点を成していたと解釈すれば、それもまた不自然ではないのか。

 また、戸来村から十和田湖に向かう途中にある十和田の外輪山である迷ヶ平のピラミッド山「十和利山」の一帯は、聖書創世記に記される"エデンの園" の伝説の元々の発祥地だったという言い伝えもあります(↓下写真「キリスト伝承館の展示③」)

 ならば、この辺りは、"日本中央"であり、また世界宗教の発祥地だった、という話まで飛躍してしまいそうです。

 別の見方をすると、古神道系でいう"丑寅の艮神" とは、一般的には鬼門に封印された"鬼神"とされ、日本列島の鬼門とは正に北東北や北海道を指すと見られます。

 が、実は"艮神様"とは全ての元親神であったとも伝承され、それを是とするなら、当地が元親の地として"日本中央"と刻まれても可笑しくないということになります。

 この "日本中央の碑"の存在は、12世紀から歌学者顕昭によって伝えられていましたが、実際に石碑が発見されたのは戦後の昭和24年になってからでした。

 ここを訪ねたのは、今回が初めてで、"龍玉" として知られる南米大陸から渡ってきたアクアマリン原石を、この場所にもご奉納させて頂くことができ、"丑寅の艮神"の仕組みに多少とも因縁ある私にとりましては、大変意味のあるストロベリー•ムーンの一日となりました。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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