日本語の起源はタミル語にある

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今年もまもなく祇園祭の季節がやってきます。

この祇園祭を主管するのは、八坂神社ですが、この神社の開祖・八坂氏について、「新撰姓氏録 (嵯峨天皇の命により編纂) 」には、「八坂造 出自 狛国人 久留 川麻乃 意利佐也」との記載があります。その意味するところは、八坂造 (やさか の みやっこ)は 、意利佐(オリッサ・インド)→川麻乃(チェンマイ)→久留(中国江南)→狛国人 (こまこく、高句麗)を通って日本にやって来たということになるのだそうです。つまりは、八坂氏が、インドから東南アジアを経て、はるばるやってきた氏族であることを、公の文書が認めているわけです。

現代のオリッサ州(インド東部に位置する)にあるプリーという町では、毎年ラタヤートラ祭が開かれます。

この祭のクライマックスでは、写真のような山車が街を練り歩きます。その光景は、なんとも祇園祭の山鉾巡行にそっくりです。八坂氏がどこから来たのかを雄弁に物語っているかのようです。

さて、斎木雲州氏の著者「出雲と大和のあけぼの」によれば、出雲族もインドからやってきたと地元で言い伝えられているそうです。

出雲地方には、縄文時代から続く幾つかの旧家があり、代々、貴重な文書や豊富な伝承が伝えられています。

それらを知る古老たちによれば、「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下ってきた」のだそうです。

「砂の平原」とはゴビ砂漠、「広い湖」とはバイカル湖、「長い川」とは黒竜江(アムール川)

と推測されます。

これらのことから、イズモ族は、八坂氏と異なり、朝鮮半島の民との摩擦を避けるように大回りして青森に入り、そこから南へ広がっていったと考えらるのだそうです。

言語学者の大野晋氏は、著者「日本語とタミル語」で、タミル語の単語や文法が日本語と似ていることを指摘しています。

タミル人や北隣に住むドラビダ人が、イズモ族の起源である可能性を斎木氏は指摘しますが、実際にインド東部のオリッサも、これらの地域にピタリ重なってくるのです。実に興味深いです。

八坂氏とイズモ族は渡来ルートこそ違え、同じようなルーツを持っているのかもしれません。

彼らが携えてきた神道の様式が、古代イスラエルの祭祀形式によく似ていることは多くの研究家が指摘しているところです。インドは彼らにとって、中東からの単なる通過点であったのかもしれません。

ところで、イズモ族には、サルタヒコ信仰があり、「サルタ族」との呼称もあるそうです。サルタとは、ドラビダ語で、「長い鼻」を意味します。

猿田彦といえば、天孫系とされる伊勢神宮でも、道の守り神として大切にされています。

猿田彦がイズモの神なら、伊勢の地で重視されていることが、少々不自然にも思えます。しかし、伊勢神宮は、明治天皇が参拝するまで歴代天皇が参拝していませんでした。

ご先祖であるはずの神アマテラスを参拝しないなんてことがあるんでしょうか、もともと伊勢神宮に祀られていた神は誰なのか、イズモのサルタヒコ信仰を考えると、とても気になってくるところではあります。

ちなみに、ここかしこの神社で祀られてるオオナムチは、古代出雲王国の主王であった役職名、「大名持 オオナモチ」のことで、個人名が別にあり、オオクニヌシは、初代ヤツミミの6代目の孫、8代目の主王なのだそうです。

さらに言うと、副王は少名彦(スクナヒコ、少彦名ではありません)と呼ばれたそうです。

何かゾクゾクするものを感じます。出雲の神々は、市井の民たちの手でしっかり守られてきているようです。

またしても長くなりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m でも話はまだまだ続いていきそうです。


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日本語の起源は何だろうという本を読んでいたら、南インドのタミル語に系統が近いよという記述がありました。(さらに遡るとお馴染みのシュメールに近づくと書いてあります。)

57577の韻律や土器に種実を入れる習慣など共通点があるようです。

弥生時代あたりに南インドあたりから移民があったと分かれば、濃い顔立ちの方々を時折見かけるのにも納得ですね。日本の古代史ではどなた方にあたるでしょうね。

その頃インドでは何があったのが気になっていますが、まずは面白い話を見つけたというご報告でした。\(^o^)/


https://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/40e7828aeff3b477386cc99497c21e91 【タミル人は来たか?縄文人の痕跡を探す。】より

大野晋博士は「日本語の起源はタミル語にある。」という説を唱え以下の仮説を提唱しました。

 日本には縄文時代にオーストロネシア語族の中のひとつと思われる四母音の母音終わりの簡単な子音組織を持つ言語が行われていた。そこに紀元前数百年の頃、南インドから稲作、金属器、機織りという当時の先端を行く強力な文明を持つ人々が到来した。その文明は北九州から西日本を巻き込み、東日本へと広まりそれにつれて言語も以前からの言語の発音や単語を土台として基礎語、文法、五七五七七の歌の4形式を受け入れた。そこに成立した言語がヤマトコ

トバの体系であり、その文明が弥生時代を作った。(以下略)

私は大野晋著『日本語の起源』を再読してみてタミル語は日本語の基層語のひとつであろうと思いました。しかし日本語の祖語がタミル語であるとするには現代日本人と現代タミル語の話者には容姿や血液型遺伝子の分析結果からみて人種的な共通性がほとんどみられないのです。

タミル語を話す人々はインド亜大陸の先住民でインダス文明を開化させたドラヴィダ族の一派で、現在は南インドのタミルナード州やスリランカの東部や北部に多く居住していますが、ドラヴィダ族(タミル人)はネグリトの一種族で肌の色が黒く、背は低いが、手足が長いという身体的な特徴があります。

ネグリトには他にインド洋の離島であるアンダマン諸島人やインドネシア、ミクロネシア、ポリネシアに居住しているアエタ族がおり染色体ハプログループk2b1-p378を60%保有し、ニューギニアに多いハプログループと祖を同じくするもので出アフリカ後インドを経由して「南周り」で到達したオーストライドの系統とされ、またフィリピンの先住民でルソン島東北部の山地や太平洋沿岸に居住しサンバル語を話す人々は皮膚の色が黒く背の低い人の意味の「ママ

ヌア」と呼ばれています。

現代日本人の外見からみれば私達の祖先がドラヴィダ族(タミル人)であるとはとても思えません。ところがY染色体のDNĄ塩基配列のĄからRまで18種の大分類のうちDグループ(東アジア全体に特有の存在であり、中央アジアや中東北東インドなど東アジアに隣接する地域でも散発的に点在している。)を中国アカデミーなどの遺伝学者6名が分析、解析した研究論文を日本の伊藤俊幸氏が翻訳した『Y染色体D系統の分布の謎』(ネットで『Y染色体D系統の分布の謎』と検索すると論文を読むことができます。)の中に日本の近隣にはないがチベットとアンダマン島と日本人のみが高頻度を示す例があることを知りました。

「東アジアにおけるD系統の平均頻度は9.60%であるがチベット(41.3%)日本(35.08%)アンダマン島(56.25%)が高い頻度を示す一方、ほかの東アジアの集団の頻度は希薄(5%未満)である。」とあり、このデータにドラヴィダ族(タミル人)は無かったのですが、ドラヴィダ族と近縁と思われるアンダマン諸島人あるいはタミル人がはるか昔の日本列島に到来し、定住しなければタミル語が日本語の祖語にはなりえません。

はたしてその痕跡はあるでしょうか?「肌の色が黒く、背が低く、手足の長い人」の痕跡を考古学的なものと、記紀の記事、神社伝承、民間伝承などから探そうと思いをめぐらしている内に、これまで縄文時代を全く意識してこなかったために考えが及ばなかった様々な記述の中に

縄文人の存在が隠されていたのではないか?そして隠さねばならない理由は弥生

時代以降に渡来してきた北方系の民族(我々の祖先)が異形の彼らを排除してしまった歴史があったためでは?と気がつきました。

「タミルと日本の考古学的痕跡」は大野晋著『日本語の起源』の中に様々な痕跡が記されていますので詳細ははぶいて目で見てご理解頂けるように写真を借用します。

 *南インドにも日本にも支石墓という共通の墓制がありました。

 *壺がたの土器に小さな口がいくつもある子持ち壺。日本では使途不明でしたがインドでは
       五面鼓という太鼓として今でも使用されています。

 *甕棺墓は北九州の墓制のひとつで、遺跡から多数の甕棺に葬られた遺骨が発掘

  されています。南インドでも甕棺を使用しています。

 *発掘された縄文人の特徴は北方系の渡来人と比べると低身長であることが分かっていま
  す。男性は150cm位、女性は140〜145cm位のようです。

 *古代の海部は海に潜って漁をしていたので水圧で耳の内耳の骨が変形した人骨があるが、
  九州のみではなく対岸の朝鮮半島の狗耶韓国?の人骨にも同じような頭蓋骨が見つかり日
  本と伽耶地域には同じような種族がすんでいた可能性があるようです。

 *南インドのコーサラ国の公主が伽耶の首露王に嫁いできたという伝承がありますが、コー
  サラ国の太陽の紋章と同じデザインの銅器が日本で71発掘されており、その分布は佐賀
  県、熊本県、長崎県、福岡県、広島県、香川県、鳥取県、奈良県、岐阜県、愛知県、長野
  県、群馬県、茨城県と広域にひろがりをみせています。

「記紀の伝承や神社の伝承に見え隠れする小人(背の低い人)の存在」

 *土蜘蛛

記紀には「身短くして手足長し」と表現される土蜘蛛の記述があります。

古事記の神武記に土雲八十建が忍坂の大室にいて打ち殺され、日本書紀・景行天皇記・神功摂政前記にも見えます。風土記では肥前、豊後、日向、摂津、越後、常陸、陸奥など各地におり、土雲、都知久母、土蛛、土朱、土知朱と記されており、大和朝廷に従わない先住者を蔑んで呼称したものと思われます。身短くして手足長し」縄文人はまさしくネグリトの特徴を持っていたようです。

 *少彦名命(すくなひこなのみこと)

多くの古代文献に見える広い信仰圏を持つ神ですが、記紀の神話での活躍は少ない。生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子で指の間から零れ落ちたと記される小さな神であり、出雲の大巳貴神(大国主命)と共に国作りをした後に常世の国に去ったと伝えられる。出雲の大国主命は新治を開いて米(稲)作りにより国土経営をしたと伝えられているが、少彦名命は石(いわ)に示現する神として歌われ、粟茎に弾かれて淡島より常世国に至ったとされるので、米作り以前の焼畑農業的な穀霊と考えられている。巨石文化を持つインドから到来した縄文時代の神であった可能性が濃厚です。

 *安曇磯良(あづみのいそら)

以前真弓常忠著『大嘗祭の世界』を読んだときに、民族の始原を語る神楽を始める前に、安曇氏の祖とする安曇磯良を呼び出す「阿知女作法(あちめさほう)」を行うという記述があり、平安時代には民族の始原に海人の安曇氏を比定していた事が心に残りました。安曇磯良とは『八幡愚童訓』や『太平記』に記されている安曇氏の祖神ですが神功皇后三韓遠征に際して神々が軍議に集まった時に遅れて現れて、永年海底に住んでカキやヒシにとりつかれて醜い顔になっているのを恥じて浄衣の袖で顔を隠して青農(細男・才男)を舞ったと伝えられています。神功皇后の時代に永年海に住んで醜いほどカキやヒシが付いていたとすれば、相当古い年代に存在していたことになり、縄文時代を想定できそうです。

この神の姿を描くときには顔に白い布が置かれ表情は見えませんが、後代の記紀には鯨面(入れ墨)をしている記述があり、異形の相であったことは確かでしょう。ただ鯨のように黒い肌であったかはわかりません。群馬県、栃木県、茨城県、千葉県から発掘された古墳時代の埴輪には身の丈が立派な首長の傍らに身長が小さく入れ墨をほどこした馬曳きと思われる人物が馬の埴輪と並んで配置されています。縄文人が騎馬系渡来人の元に隷属していった様子がうかがえます。

 *摂津・西宮神社の逆さ門松

当ブログの2013年9月から11月かけて5回ほど安曇磯良に関連した記事を掲載していますが、2013年11月17日の「秘事は睫毛」という諺についての謎解きに摂津・西宮神社の十日戎(えびす)の宵宮に行われる正月の門松の枝を逆さに付け替える風習があることを知りその訳を知りたいと思いました。

西宮神社は九州の宇佐八幡宮に隷属し畿内に移り住んだ海人族・傀儡子の一大拠点ですが、この社の主祭神は西宮大神とされ実体は不明ですが、中世以来えびす神として信仰を集めていることから海神(綿津見神)つまり安曇磯良を指していると考えられています。

門松をなぜ逆さに吊るすのか?その答えは「(正月があけて宇佐からお帰りになる大神さまは)背が小さいので目を傷めないように逆さに吊るす。」と言い伝えられているようです。

「秘事は睫毛」の諺の睫毛は目にある物。目は芽に通じ「国土の芽(始原)にあたる神の名は秘事です」という伝えのように思いました。なんとウイットに富んだ諺ではありませんか。

 *宇佐八幡宮に伝えられる放生会。

当ブログ2013年10月27日に宇佐八幡宮で行われる放生会の式次第を詳しく記していますが、登場人物の傀儡子(あやつられるもの)が両手を振り上げて舞う姿は宇佐八幡神によって滅ぼされた隼人(海人)が服従の誓いと共に、大和朝廷および宇佐八幡神への讃え言を奏上する様子を再現しています。舞をまう傀儡子はみな神様としてあつかわれ、上毛野の古表社と下毛野の古要社に収められていますが放生会には和間浜まで船で運ばれ細男舞と相撲を奉納する儀式を行います。

八幡古表社は中津市と川をへだてていて現在は福岡県の住所になっているそうですがこの由緒ある神社には地主神として住吉大神を西御殿にお祀りしています。八幡古表社のホームページには住吉大神のご神像の写真が掲載されていました。別名・御黒男神(おんくろうのかみ)と言われているそうですが、そのお姿はドラヴィダ人を思わせる黒々とした肌の持ち主でした。

 私が一番知りたいと思っていたお姿は現代人の容姿とは全く違うものでした。「日本語の起源はタミル語」という大野晋博士の説はたぶん正しいのではないかと思います。


 【タミル人は長崎県に住んでいた?『日本語の起源(新版)』(大野晋著)】

日本語とタミル語が似ているというお話は以前ブログに書きましたが国語学者であった故・大野晋氏の著書『日本語の起源(新版)』を友達が貸してくれました。

7,000キロも離れた日本とインドの長い歴史の中で2,000年以上も昔からそこに存在したであろう「物」や「精神」を調査し37年かけて日本語とタミル語の関連性を検証していくその想像を絶する研究の全貌を理解するのは簡単ではありませんが、タミル語が公用語である南インド・チェンナイに住む日本人として、「日本語の起源はタミル語にある」という仮説には時空を超えたどこかワクワクさせてくれるロマンがあります。

著書によると、日本語の同系語研究ではアイヌ語、朝鮮語、満州語、モンゴル語、トルコ語などが主流で、インドはサンスクリット語系統の言語であるヒンドゥー語が主な公用語であるためにインドの言語は、長い間、研究対象にされてこなかったようです。

が、しかし、実は南インドにドラヴィダ語族という別の語族があったことに気づいた日本人がその研究を始めたんだとかその日本人のうちのひとりが大野晋氏だったというわけです

さて、この著書を簡単に紹介すると、

日本語の、特に「やまとことば」には、南インドから伝わったと考えられる言葉がたくさんあるというお話です。例えば、「マツル(祭る:mat-uru)」という言葉

以下、著書より抜粋

「日本語のマツルとは、「神に食物その他を差し上げてもてなし、交歓し、生産の豊かなこと、生活の安穏、行路の安全などを求めること」」

「タミル語を見るとmat-uという動詞がある。その意味は「食べさせ、のませる」」

「名詞化するために接尾語-aiをつけてmat-aiとすると、「神に捧げる食物」とある。ここから日本の祭りは展開した。神に捧げ物をして気分をよくしてもらいたい、多くの恵みを得ることを願うのである。」

また、「ベツ(ベチ)・ナイ」がアイヌ語で「川」を意味するらしいのですが、今別(イマベツ)、腹別(ハラベツ)、苫米地(トマベチ)、仁別(ニベツ)平内(ヒラナイ)、洞内(ホラナイ)、笹内(ササナイ)、佐羽内(サバナイ)その言葉を含む地名が、北海道、青森、岩手、秋田に多いことはアイヌ人がそこに多く住んでいたことの証拠されているのと同じように、「pul-am(プラム)」はタミル語で「村」を意味するのですが、(実際、私の勤務先オフィスはR.A.Puram(アール・エー・プラム)という地域にあります。)

このpul-amに対応するfur-e(フレ:古文で「村」の意)という単語

この「フレ」を含む地名が、なぜか長崎県の壱岐島にだけ100以上もあることはここにタミル人が住んでいたことの証拠になるのではないか、というお話までそれが本当なのかどうかはとりあえず置いといて、チェンナイ生活をなぜか(笑?)前向きに楽しめているのも、自分がなぜか南インドのチェンナイに住むことを選択したことも、知られざる日本語とタミル語の特別なつながりから生まれたご縁のおかげなのではなかろうかとそう感じさせてくれる本書には心から敬意を表したいと思います。



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