https://note.com/t0yama_k/n/nc73110ff4227【僕たちは(きっと)歩いている―「歩行」の俳句史(最終回)―】より
ここまで、八回にわたって「歩く」という行為に着目して俳句について考えてきた。最後に、なぜ俳句表現そのものではなく、「歩く」ということを介して俳句を考えるという、いかにもまわりくどい方法をとってきたのかということについて書いておきたい。
ヴァージニア・ウルフのエッセイ『自分だけの部屋』(川本静子訳、みすず書房、昭和六三)は、オックスブリッジの男子学寮で開かれた午餐会の場面から始まる。
奇妙なことに、小説家たちは、午餐会はきまって何か気の利いたことが言われることで、或は何か分別あることがなされることで、忘れ難いものだと私たちに思わせる術を心得ています。それなのに、彼らは何が食卓に供されるかについては一言も割いていません。スープや鮭や小鴨など全く取るに足らないものであるかのように、誰一人煙草を吸ったり葡萄酒を飲んだりする者はいないかのように、そういうことについては何も言わないのが小説家の習わしになっています。
こう書いた後、彼女はこの「習わしを打ち破って」、午餐の内容を語り始めるのだが、このような語りのありかたはある重要な示唆を含んでいるように思う。
俳句を書くということについて考えるとき、僕にはいつもひそかに思い浮かべるいくつかのイメージがある。たとえばそれは、ある一句が彼や彼女によってたしかに書きつけられたその瞬間の指先の動きだ。その指はペンを軽く、あるいは強く包んでいただろうか、そのペン先が触れていたのは冷たく滑らかな上質紙だったのか、ざらついたメモ用紙だったのか。いや、もしかしたら、彼や彼女はパソコンやスマートフォンの画面を前に、少し前かがみになりながら、キーボードにタッチしていたのかもしれない。
同じように、多くの俳句の書き手にとって歩くことは重要な身ぶりであり続けている。吟行でなくとも、街や部屋を歩きながら俳句を書くことはたしかにある。ある句を書きつけるその瞬間、彼や彼女の足もとはどうなっているのだろう。明治のころなら土ぼこりで汚れていたかもしれない。いまならアスファルトで磨り減ったスニーカーを履いているだろうか。あるいはベッドをようやく這い出た後で、裸足のままうろついているのだろうか。
こうした想像には何の根拠もないが、それは、ひとつにはそもそも身体の運動としての「俳句を書く」という現象そのものを、ほとんど誰もまともに書き残そうとしてこなかったからである。「俳句」とは、ある特定の人間の、ある瞬間における身体的な運動の軌跡にほかならない。だがこれまで身体の運動としての「俳句」という現象がそれ自体重要なものとして書き残されることがどれほどあったか。ましてや体系的な「俳句史」として語られることがどれほどあったか。その意味では、身体の運動としての俳句の歴史は、いまだ書かれざる俳句の歴史であった。
身体の運動としての「俳句を書く」という現象を、ほとんど誰も書いてこなかったのはなぜなのだろう。俳句がいまここにあるのは誰かがいつかの瞬間にその句を書きつけたからにちがいないが、しかし、その指先の運動や感覚を書き残されることはほとんどない。自句自解の類でさえ、その句の成り立ちの説明はあっても、その句を書きつけた指先の運動や足先の感覚がつぶさに記されていることはほとんどないのである。いわばある一句が書かれたとき、その瞬間に身体は消されてしまう。それこそ「全く取るに足らないものであるかのように」、俳句を書きつける身体については「何も言わない」のが俳人や俳句史家の「習わし」になっているようである。たしかに、先の僕の想像は「全く取るに足らないものであるかのように」ように見える。俳句を書いているときにどんなふうに歩いていたかなどということが、俳句を読み、考えるうえでいったいいかなる意味を持つというのだろう。けれども、そもそも「全く取るに足らないものであるかのように」見えるから語らないという論理そのものに欺瞞はないのか。むしろ、語らないからこそ「全く取るに足らないものであるかのように」見えるということはないのか。
しかし―それでもなお、なぜ「歩く」という行為をとりあげるのか、という疑問が残るかもしれない。もちろん、そのような疑問が出ること自体が「全く取るに足らないものであるかのように」見えるから語らないという論理を吟味していないことの証なのだ、といってしまえばすむ話なのかもしれないけれど、もう少しきちんと考えてみたい気もする。
たとえば、先ほどの『自分だけの部屋』には、歩きながら思索を重ねる場面がしばしば記されている。『自分だけの部屋』は「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に五〇〇ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」という主張で知られているように思うけれども、実際にはそのように考えるに至るまでの―あるいはそのような考えを抱きながら思索を重ねていく―ウルフの様子が延々と記されている。しかも、それはしばしば歩きながら思考する彼女の姿として記されているのである。これは彼女がジェイン・オースティンを語るなかで「女性は一人で出歩けなかったのです」といい、「彼女は旅行したこともなく、バスに乗ってロンドンのあちこちに行ったこともなく、一人で店に入って昼食をとることもありませんでした」と述べていることをふまえるならば、むろん意図的な演出であろう。このエッセイの魅力は、口先だけでなく、何よりも彼女自身が自由な歩行を示してみせた点にある。いわば鍵のかかる部屋を持てる者は、歩くことのできる者でもあるのであって、そして、そのような者としてウルフが自らを記しているからこそ、『自分だけの部屋』は読み手にある種の勇気を与えるのではあるまいか。
歩くことと思考の自由(ないしは不自由)との密接なかかわりは、プリーモ・レーヴィがアウシュヴィッツでの経験を語った『これが人間か』(竹山博英訳、朝日新聞出版、平成二九)からもうかがえる。同書において、レーヴィは同じコマンドー(労働部隊)でピコロ(書記を兼ねた使い走り)をしているジャンとともに食糧運搬の名目で歩いたひとときを回想している。
私たちは歩調をゆるめた。ピコロはくろうとだった。抜け目なく遠回りして、少なくとも一時間歩いても疑われないような道を選んだ。私たちはストラスブールやトリーノの家のこと、読書、勉強の話をした。そして母のことも。
コマンドーの中で一番若いジャンは「ずるいところもあったが、人が好くて親切」であり「収容所や死に対して、自分自身の、個人的な、ひそかな闘いを、勇気をふるって、粘り強く行っていたが、恵まれない仲間と人間的な関係を持つことも忘れな」い青年だった。やがて、イタリア語を習いたいというジャンに対し、レーヴィは『神曲』のなかにあるオデュッセウスの歌を語り始める。二人は監視の目を気にしながら次第に歩調を速めていく。正午が近づき、いっそう足を速めつつ、きれぎれの記憶でレーヴィは語り続ける。「ピコロ、注意してくれ、耳を澄まし、頭を働かせてくれ、きみに分かってほしいんだ」。レーヴィ自身も「初めて聞いたような」思いで語り、ピコロもまた「繰り返してくれるよう言う」。だが二人は厨房に着いてしまう。慢性的な飢餓状態にあったレーヴィたちにとって、食事は何よりも重要な行為である。「もう締めくくらなければ」という焦りとともに、なおも彼はオデュッセウスの歌を思い出そうと努める。このとき、ついにレーヴィはピコロの歩きを遮るのである。
私はピコロの足をとめる。手遅れにならないうちに、この「かの人の心のままに」を聞き、理解してもらうのが、さし迫った、絶対に必要なことなのだ。明日はどちらかが死ぬかもしれない。あるいはもう会えないかもしれない。だから彼に語り、説明しなければ、中世という時代を。このように、予想もできないような、必然的で人間的な時代錯誤を犯させる時代を。そしてさらに、私は今になって初めて、一瞬の直観のうちに見た何か巨大なもののことを、おそらく私たちにふりかかった運命の理由を説明できるもの、私たちがここにいるわけを教えられるものを、説明しなければ……
ここには、ヨーロッパの知的伝統の上に立ち、できる限り道徳的にふるまおうとする人間の姿と、そのふるまいを押し流してしまう状況とのせめぎあいがある。そして、そのようなせめぎあいの表象としての歩行がある。だが、ここで見逃してはならないのは、歩行がたんに道徳的なふるまいを遮る暴力としてのみ機能しているわけでもないということだ。そもそもレーヴィがここで神曲を思い出し語ることができたのは、ジャンと歩いていたからである。アウシュヴィッツという、ものを考えることが死につながりかねない極限の状況にあったレーヴィにとって、それでも思考することを可能にしたものは、まさにひとときの歩行であったのであり、同時に、思考を遮ったものもまた歩行なのであった。いわば、歩行とは、人がいま・ここの状況と否応なく切り結ぶ行為の謂であろう。そして、歩行を続けるなかで、多分に葛藤を孕みながらも不断に生成される結節点が次第に綾なすもののありよう―いわば足跡―に、僕らは自らの人間性だとか誇りだとかいったものを賭していくのではあるまいか。レーヴィがこのひとときの歩行を重大な行為として回顧しているのはそれゆえであろう。僕は、個人の自由な歩行がそれ自体尊重されるべき理由はこうした点にあると思う。
とはいえその一方で、歩行が本当に自由になされうるものなのかという点については、もう少し慎重な議論が必要だろう。たとえば夏石番矢は『現代俳句キーワード辞典』(立風書房、平成二)において、「道」について「ある場所から場所へとのびる線的空間」であり「質と次元を異にする場と場をつなぎ、あるところへ予期しないすばらしい存在もしくは恐ろしい存在を運び入れる道は、神的空間であった」としている。夏石が同書のなかで引いているのは〈蜩やいつしか園の径ならず〉(富安風生)〈陽炎の道がつくりときりぎしへ〉(川端茅舎)〈ただ長くあり晩秋のくらまみち〉(田中裕明)といった句だが、たしかに、道を歩くことは「みち」びかれることなのかもしれない。
このような認識は特別なものではない。たとえばアパラチアン・トレイル(アパラチア山脈に沿って伸びる長距離自然歩道)のハイカーであるロバート・ムーアは、何か月にもわたってトレイルを歩き続けるなかで次のような認識に達している。
一言で言うなら、道を歩くとは世界を理解することだ。ある場所を通り抜けるには無数の通り方がある。選択肢は膨大で、落とし穴も多い。道の機能とは、この混沌を理解可能な一本の線に変えることだ。古代の預言者や賢者たち(彼らのほとんどは主に徒歩で移動していた)はこの事実を理解していた。主だった宗教のほぼすべての根本経典で道の隠喩が用いられているのはそのためだ。(『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』、岩崎晋也訳、エイアンドエフ、平成三〇)
ムーアはまた、「トレイルでは、歩くことはあとに従うことだ」「権威にひれ伏し、あるいは見習い工が親方に従うように、トレイルを歩くには謙虚さが要求され、またそうした態度が自然と体に染みついてくる」とも述べる。
とすれば、歩くことは歩かされることなのだろうか。そういえば「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と書いた高村光太郎でさえ、すぐそのあとに「自然」や「父」に向かって「僕から目を離さないで守る事をせよ」と書きつけていて、なにか大いなるもののもとに歩いているという自意識を示していたし、萩原朔太郎にしても「おれはよにも悲しい心を抱いて故郷ふるさとの河原を歩いた」とか「うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを歩きまはつた」とかいうふうに、結局は歩くというよりも悲しみや孤独さによって歩かされている姿を書いているのである。―ならば、「歩く」とはやはり不可能な行為なのであろうか。
自らの意志と超越的な存在のそれとの相克、あるいは意志と運命とのはざまで葛藤しつつ生きる者のありようについて考えるとき、たとえばオイディプス王の最後の姿が思い起こされる。父親を殺し、生みの母と交わって子をなしたことがわかると、オイディプスは自ら目をつぶしてしまうが、そのとき彼は次のように叫ぶのである。
コーラスの長 恐ろしいことを!なぜそのようにお目の光を消されました?人力を超えた何か鬼神の唆しとしか考えられませぬ。
オイディプス それはアポロンだ。みんな、よく聞け、アポロンがこの身の禍いを、次から次へと堪えがたい苦難を、この俺にもたらしたのだ。だが、この両の目を抉ったのは、ああ、紛れもない俺の手だ、誰でもない、この惨めな俺がやったのだ!
(ソポクレス『オイディプス王・アンティゴネ』福田恒存訳、新潮社、昭和五九)
ここにあるのは、自らの生に生じた数々の「禍い」をアポロンがもたらしたものだとしながらも、それを―どうにもならない運命だとわかっていながらもなお―自らのなした行為として引きとろうとする人間のありようである。古田徹也はこうしたオイディプスの姿について、次のようにいう。
後年の老いたオイディプスがまさにそうであったように、どれほど「神の仕業」だと割り切ろうとしても、「あれは自分がやってしまったことだ」という認識と苦悩から完全に離れることは、実際には困難だろう。その割り切れなさの中で、運命を呪いつつ、しかし神々に帰依も屈服もせず、行為者であることをやめないオイディプスの姿―運命によって引き起こされたのではなく、あくまで、それは私がしたことだと過去を回顧する彼の姿―は、紛れもなく、このままならない世界で日々行為者としてあり続ける我々の姿の写し絵なのである。(原文は「それは私がしたことだ」に傍点。『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』新曜社、平成二五)
ならば、「歩く」こともまた、僕らが「それは私がしたことだ」と回顧しながら生き抜こうとする営みのひとつであろう。いわば歩行とは不合理なこの世界における切ない認識の作法であり倫理の輪郭をかたちづくる行為なのである。だから、実は、歩行とはいつも命がけの営みなのだ。こうした歩行のありようをもっともよく示しているのは岩片仁次の次の句であろう。
夕焼けや みな殺されて 歩きだす(『死者の書』胡球儀の会、昭和四八)
一四歳で終戦を迎えた岩片は「戦争に終りがあるとは思われず、いずれにしろ二十歳までには死ぬと思っていた」といい、「大人達に戦争責任というものがあるとすれば、生き残った私達の世代、少なくとも私は戦後責任を持つべきものと思われた」という(「戦後へ」『夢幻航海』第六二号)。とすれば、この句に記されているのは戦争によって殺された者たちであろう。「歩き出す」のは殺された人々自身だ。真っ赤な西日を浴びながら、殺されたことを引き受けながら、生と死のあわいのような黄昏どきの世界を歩きはじめる。それはちょうど「運命を呪いつつ、しかし神々に帰依も屈服もせず、行為者であることをやめない」かのように。あるいは、歩いているのは「みな」が「殺され」た世界を歩くのは、「戦後責任を持つべき」者としての生き残った者たちなのかもしれない。いずれにせよ、この句の三行目にある空白とは、課せられた運命を自らの意志による行為へと転じていくためにどうしても必要な、切ない飛躍の痕跡であったにちがいない。いわばこの空白の一行は、歩行の自由をかちとるための命がけの一行であった。
https://note.com/t0yama_k/n/n626d8d85637a 【歩かされる俳句 ―「歩行」の俳句史(番外編)―】より
ここまで「歩く」ことを手がかりに俳句について書いてきたが、このテーマで書くのは(予定では)あと一回、そこで最終回の前に今回は番外編である。
小説を読んでいると、ふいに俳句が登場してくることがある。そんなとき、僕はなんだか気恥ずかしいような思いがするとともに、その作品における俳句の機能や位置づけを考えること通じて、「俳句」なるものの認知のありようについて思いを馳せてしまう。これは映画やテレビドラマでも同様で、たとえば俳句甲子園を扱った映画「恋は五・七・五!」(荻上直子監督)では、荻上監督の他の作品によく出てくるような、「小さな共同体に強固な幸福感をもたらすためのニッチな愛好物」的なもののバリエーションとして俳句が発見されているように見えるし、「タナカヒロシのすべて」(田中誠監督)では主演の鳥肌実が加藤楸邨を「しゅうとん」と何度も間違えるシーンに、シュールなおかしみというよりもむしろ俳句や俳壇に対する冷ややかなまなざしが感じられたりもするのである。テレビでいえば、サスペンスものにときどき俳句が使われることがある。考えてみれば、子規や山頭火といった俳句に詳しくない人でも知っているような俳人がことごとく松山という温泉地ゆかりの人であることも、俳句とサスペンスとの食い合わせのよさに一役買っているのかもしれない。
この相性のよさを証明するものかどうかわからないけれど、小説の世界、とくにミステリーに俳句が登場することは決して珍しいことではないような気がする。齋藤愼爾編集の『俳句殺人事件 巻頭句の女』(光文社、二〇〇一)は、そうしたミステリーのアンソロジーだ。タイトルにも含まれている「巻頭句の女」は松本清張が一九五八年に発表した作品だが、清張はこの五年前に杉田久女をモデルにした「菊枕 ぬい女略歴」も発表していて、俳句には関心があったようである。清張だけではない。泡坂妻夫も森村誠一も西村京太郎も法月綸太郎も俳句をネタにした作品を書いているのである。
齋藤は先のアンソロジーの冒頭で次のようにいう。
俳句にはミステリーが似合う。いやミステリーに俳句が似合うのかもしれない。この文庫に収録されたミステリーを繙読し、そう痛感した。五・七・五の十七文字の俳句は世界で最短詩型の文学だが、それ自体がダイイングメッセージのようなものである。
俳句はダイイングメッセージのようなものである、というのはなるほどその通りで、とりわけミステリーにおいては、ある俳句が物語を展開させるための重要なアイテムになっていることがある。ミステリーにおいては、いわば俳句が登場人物たちを歩かせるのである。そんなわけで、(前置きがずいぶん長くなったが)今回は人間を歩かせる俳句について少しだけ考えてみたい。
さて、改めて先ほどの齋藤の言葉に戻ると、俳句はダイイングメッセージのようなものであるという表現は、もちろん比喩としてのそれなのだけれども、しかしながらミステリーにおいては本当にダイイングメッセージや犯人特定の手がかりとして機能することがある。勝目梓が『俳句殺人事件』のために書き下ろした「死の肖像」はまさにダイイングメッセージとして血文字の〈菜の花や月は東に日は西に〉が用いられている例だが、ここでは同じく蕪村の句が謎を解く鍵となる『女高生俳句殺人事件』(光文社、一九八四)をとりあげてみたい。
本作は三部構成で、第一部「愛人」では、国会議員の友納由人とその愛人羽根真利子とのあいだに生まれた子どもである羽根久留美が誘拐される。友納の趣味は俳句で、彼は国会議員仲間の句会を主宰したり外国人向けの俳句誌「MISOGI」の会長を務めたりしている。国会議員が俳句を趣味にする、というのは現実にもよくあることだが、その子どもで女子高生の久留美も俳句を趣味にしていて「俳句クラブ」の部長までしているという設定になっているのはかなり唐突で、いくら「内向的」「派手なところの少ない娘」と説明されてもなんだか釈然としないものが残る。最近の俳句甲子園ものの小説やマンガなら、高校生なのに俳句をやっている、という点をめぐる心理的な錯綜や葛藤をこそ丁寧に描くところだろうが、本作の眼目はそこにはないということなのだろう。とにかく、誘拐された久留美は友納たちに手紙をしたためる。その最後に書かれているのが〈さみだれや大河を前に家二軒〉であり、これが犯人を示す暗号のようなものとして機能することになるのである。
「死の肖像」にせよ『女高生俳句殺人事件』にせよ、鍵となる俳句があくまで高名句であることによって、俳句に詳しくない読者でも謎解きに参加する余地を与えられているというのがその特徴だ。いいかえるなら、その俳句が一般常識の一つとしての位置にあるがゆえに、読者も登場人物もその句を基点に思う存分歩きまわることができるというわけである。
これとは逆に、肝心の俳句のないこと自体が人を歩かせることに繋がっていく作品もある。先の「巻頭句の女」がそれである。俳句雑誌「蒲の穂」の主宰や同人たちが、志村さち女のうわさ話をしているところからこの物語は始まる。突然現れて早々に巻頭をとったこともある若手女性俳人の志村さち女がここ三ヶ月ほど投句しなくなった、というのである。主宰の石本麦人らは、投句欄の名前の上にある「愛光園」を手がかりにさち女の身の上を想像し、さち女の現在へと足を踏み入れていくことになる。俳句の才能があるのに不遇な女性俳人の人生に男たちが興味を抱く、という構図はまるで「菊枕」を書いた清張やその読者の姿そのもののようだが、おそらく意図してそうなったものではあるまい。「あるじよりかな女が見たし濃山吹」(原石鼎)と詠まれた長谷川かな女に限らず、とかく「天才女流俳人」の俳句は―たとえ俳句がなくたって―男たちを歩かせるらしい。
ところで、人を歩かせる俳句が出てくる作品のなかには、やや奇妙な作品もある。たとえば法月綸太郎の「六人の女王の問題」(『犯罪ホロスコープⅠ』光文社、二〇〇八)である。これは元劇団員で売れっ子ライターの虻原サトルが残した「辞世の句めいたもの」をめぐる物語である。謎解き自体もおもしろいが、のみならず、虻原が提唱していたという「イ非句」(いひく)という文芸ジャンルも興味深いものだ。このイ非句とは、おおよそ次のようなものであるという。
回文俳句を皮切りに、ケータイの絵文字で俳句を詠んだり(もちろん横書き)、和英和俳句(有名な句をウェブの自動翻訳サイトで英訳し、それをもう一度和訳して、とんちんかんな語感を鑑賞する)、ダーツ俳句(五十音図をあしらったコルクボードにダーツの矢を投げて、ランダムに五七五の文字列を生成する)、「ブヌヌでバナナ」俳句(名句の各文字を二字ずつ後ろへずらす)といった類の、無駄に手間のかかるわりに見返りのない言葉遊びがほとんどである。
虻原はこのイ非句を紹介するコラムに次の句を残した直後、マンションから転落して死んでしまう。
琵琶法師 手を暖めし 羽子板星
白衣の裏 死の遊びさえ 虚ろかな
物語では、例によって主人公の法月綸太郎が登場し、この二句をあの手この手で解釈しながら捜査に奔走することになる。つまりこの句に歩かされるわけだ。
それにしても、この句は何ともぎこちなく、気持ちが悪い。俳句に対する誤解としてありがちな、無意味な分かち書きが施されていること(この分かち書きは謎解きとも関係がないので本当に無意味な表記である)もそうだが、提示されているイメージが妙にもったいぶった出来の悪い物語風なものであるのも気持ちが悪い。いってみればこれらは技術的に未熟であり、おそらく俳句雑誌の類でこうした句を目にすることはほとんどないだろう(念のためにいえば、もしありうるとしたら、それは初期の『俳句評論』で行われていたような試行錯誤を知らないで書いているような無自覚な書き手によるものにちがいない)。
もっとも、これは虻原サトルという、前衛ぶったキャラクターの句としてはむしろ妥当なセンスなのかもしれないので、その気持ち悪さ自体をここで問題にするつもりはない。ただし、この二句に続けて虻原がコラムに記した次の言葉には注意すべきだろう。
なんだこれは、フツーの俳句じゃねえか、と思った君(オマエだよ、オマエ!)。君はすでに、小生のイ非術に惑わされている。日本で唯一の革命的イ非人である破羅僧こと、不肖虻原サトルが、ありきたりの辞世の句を残して去るわけがないではないですか!
虻原は先の二句を読者が「フツーの俳句」として受けとってしまうことを想定している。しかし、ここでいう「フツーの俳句」とはいったいどのような俳句を指しているのだろう。虻原の句は俳句雑誌で見かける句としてはむしろマイノリティの部類であって、その意味では、「フツーの俳句」とはとてもいいがたいと思う。この「フツーの俳句」の基準を考えるときにさらに興味深いのは、この二句について綸太郎が「俳句としてのよしあしはわからない」と言っていることである。そもそも綸太郎が虻原のコラムを読んでいたのも「語呂合わせへの無意味なこだわり」に「他人とは思えないところ」を見出したためであった。つまり綸太郎をはじめ、俳句に関心を持っているような人物はこの作品に一人も登場しないのである。したがって、この「フツーの俳句」の定義は宙に浮いたまま物語が展開していくことになる。ようするに、俳句はあくまで「俳句ではない何か」に名や価値を与えるための補助線にすぎず、実は俳句に徹底して無関心な姿勢をとっているのが本作であるといえそうだ。
俳句に歩かされているようで実は俳句をさっさと置いてきぼりにしている作品は他にもあって、たとえば『十津川警部 八月十四日夜の殺人』(実業之日本社、二〇一五)もその一つだろう。この作品では、まず、ホトトギス派の要会に所属し指導が上手いことでも評判だった俳人の田中彩女が殺されてしまう。物語全体を読んでも、この殺人犯を探すということがメインのストーリーであって、とすれば、いかにも俳句が鍵になりそうな気配がある。実際に本作にはこんなやりとりも出てくる。彩女が殺される直前の状況についての証言である。
「(略)この先生(彩女のこと―外山注)が、職業柄、言葉について、やたらにうるさい人でしてね。七人の生徒の作った俳句を、次々に遠慮会釈なく批評し、訂正するんです。例えば、『夏雲や 動く気配もなく 終戦記念日』という句を作った生徒がいたんです。その生徒に先生は、終戦記念日というのは、秋の季語だから、この句は、間違いである。夏雲というのも、おかしいと批評したんですが、それを聞いていた人のなかに、お年寄りがいましてね。自分の記憶では、八月十五日に、天皇の玉音放送を聞いたときは、大変に暑い日で、あれは、どう、考えても夏だ、秋ではない。どうして、終戦記念日が秋の季語に、あるんだと、文句を言ったりしましてね。季語について、えんえんと言い合いが始まって、時間がやたらに長引いたんです」
まず、仮にもホトトギス派であるなら季語ではなく季題という言葉をつかうのではないか―という茶々を入れたくなるが、それよりも気になるのはこの言い合いの内容である。〈夏雲や 動く気配もなく 終戦記念日〉という句に対して、「終戦記念日というのは、秋の季語だから、この句は、間違いである」という指摘は、指導の上手さで評判の俳人にしては少し杓子定規にすぎる気がする。それに「夏雲というのも、おかしい」というが、何がおかしいのだろう。だいたい、歳時記の傍題すら読んでいないであろう季語の吟味不足や、(例によってこの種の小説にありがちな)無意味な分かち書きの使用など、季節感のずれ以上に指摘する箇所がこの句にはたくさんあるように思う。ただ、先ほどの法月の作品と同様、この句の「下手さ」も彩女の杓子定規ぶりもそれぞれのキャラクターの性格を明確にするための仕掛けなのかもしれない。それに、読み進めていくうちに、謎を解くうえで重要なのは、実は俳句云々ではなく、「終戦記念日」という言葉と「えんえんと言い合いが始まって、時間がやたらに長引いた」ということのほうなのだということがわかってくるのである。ようするに本作では、たしかに俳句が人を歩かせている感じがするのだけれども、その実、この二つの要素を抽出するためのギミックとして用いられているにすぎないのである。
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