婆羅門

http://shinshu-hondana.net/knowledge/show.php?file_name=baramon 【婆羅門(バラモン)【ばらもん】】より

バラモンとは、古代インドの四姓しせい制度せいどの最上位の身分で、サンスクリット(梵語ぼんご)・パーリ語ではブラーフマナ。漢訳かんやくでは「婆羅門」と記される。四姓制度とは、人びとを

司祭者しさいしゃ ブラーフマナ(婆羅門)

王族おうぞく クシャトリア(刹帝利せつていり・刹利せつり)

庶民しょみん ヴァイシヤ(毘舎びしゃ)

隷民れいみん シュードラ(首陀羅しゅだら・首陀しゅだ)

の身分に分け、さまざまな制約をつくることにより、より上位の身分が優遇されるという差別制度である。これは、紀元前1500年頃からアーリア人がインドに侵入し、先住せんじゅう民族みんぞくを征服する中で、自らの民族の優位性と支配構造強化のために、『ヴェーダ聖典せいてん』の編纂へんさんを通してバラモン教きょう(『ヴェーダ聖典』に基もとづく開祖のいない宗教)を確立し作り上げていったものである。紀元前1000年~紀元前600年頃にはガンジス河上流の地域で確立し、現在のカースト制度に至る。

最上位のバラモンは、梵天ぼんてん(ブラフマン)の口から生まれたとされ、『ヴェーダ聖典』を教授きょうじゅし、その教えであるバラモン教の司祭を司つかさどり、古代インドの宗教・文化・学問の中心となり、王族もバラモンの教えには逆らうことができず、支配階級の最上位であったことが窺うかがえる。

しかし、年代が釈尊しゃくそん在世ざいせの時代に下がり、商業の発達などによりマガダ国やコーサラ国などの都市国家が誕生すると、バラモンを支えてきた氏族制しぞくせい農耕のうこう社会しゃかいが崩壊していった。これによりバラモンの権威は失われていき、社会的勢力は王族クシャトリアや商人である庶民ヴァイシヤの力が増していった。このような時代背景の中、「反バラモン教」的宗教が数多く成立し、仏教もその一つであった。仏教学者の中村元は、原始仏教の社会的背景に関しては、その当時急激に優勢となった商人階級は、バラモン教によってあてがわれた以上の社会的地位を認めてくれた教説(仏教)に魅力を感じた。バラモン教においては、バラモンたちと王族たちの優位が認められていたのに、仏教はそれを理論的には承認しなかったからである。

(『ゴータマ・ブッダ 上<普及版>』P.23より)

と釈尊の出現しゅつげんの背景を述べている。 また、釈尊は『スッタニパータ』において、

一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為(こうい)によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

(『ブッダのことば - スッタニパータ - ワイド版』P.35より)

と、人は生まれによって人の価値が決まるのではなく、その行為によって決まるとして、バラモン教の四姓制度を厳しく批判している。

古代インドでは、社会情勢や仏教など新宗教の興起こうきによりバラモンの権力は失われ、バラモン教の教えも衰退していった。しかし、『ヴェーダ聖典』の教えはヒンズー教として受け継がれた後、仏教がヒンズー教に吸収されるかたちで衰退すると、四姓制度などの差別制度は遺のこされ、一層差別の厳しいカースト制度へと移行して現在まで多くの人々を苦しめている。ヒンズー教に吸収されるときに仏教ぶっきょう徒との多くはカースト制度の最下層に置かれたともいう。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)

[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)

[3] 『ゴータマ・ブッダ 上<普及版>』(中村元 春秋社 2012年)

[4] 『ブッダ その思想と生涯』(前田專學 春秋社 2012年)

[5] 『ブッダのことば―スッタニパータ(ワイド版)』(中村元 岩波書店 1991年)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99 【ヒンドゥー教】より抜粋

語源と名称

「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ[4]、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した[1]。同じ語がギリシアを経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した[1]。漢訳では「身毒」「印度」と表記され、唐代にインドへ旅した仏教僧玄奘による「印度」が定着している[1]。インドが植民地化された時代にイギリス領インド帝国を支配した大英帝国側が、インド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。そのため、英語のHinduは、まずイスラム教徒(ムスリム)との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派[注 1]を除いた、インドで5億人を超えるような多数派である、インド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である[1]。

同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが[1]、一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す[1]。このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教(Brahmanism)、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(Vedic Religion)と呼ぶこともあるが、これは西欧で作られた呼び名である[1]。インド哲学研究者の川崎信定は、これらの用法は、日本の漢訳仏典の中の仏教・内道に対応する婆羅門教(ばらもんきょう)の用法に対応していると言える、と述べている[1]。


狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。

紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった[7]。その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。

神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)や職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。

三神一体(トリムールティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち

ブラフマー:宇宙、世界に実存、実在の場を与える神

ヴィシュヌ:宇宙、世界の維持、平安を司る神

シヴァ:宇宙、世界を創造し、その寿命が尽きた時に破壊、破滅を司る神

は一体をなすとされている。 しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。ヴィシュヌ神を信仰する派をヴィシュヌ教、またシヴァ神を信仰する派をシヴァ教と呼ぶ[8]。

ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。以下にヒンドゥー教の特徴を解説する。

ヒンドゥー教の範囲

インド国内の広義の定義においては、「ヒンドゥー教」にはキリスト教やイスラム教などインド以外の地域で発祥した特定宗教以外の全ての宗教が相当する。一例として、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一派とされる。インド憲法25条では、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている[9]。

ヒンドゥー教には極めて様々な信仰、霊性や風習が包括され、かつ体系化されている。一方でキリスト教に見られるような教会制度や宗教的権威は存在せず、また預言者も居なければ纏まった形の共通の聖典も存在しない。よってヒンドゥー教徒は多神教、汎神論、一神教、不可知論、無神論、ヒューマニズムを自身の思想として自由に選ぶことができる[10][11][12]。ヒンドゥー教の包含する信仰、思想、真理は広範で、そのため「ヒンドゥー教」に包括的な定義を与えることは困難である[13][14]。これまでにも、1つの宗教である、1つの風習である、信仰の集合である、生活様式である、と言った具合に様々に定義されてきた[15][注 2]。西洋の言葉上の観点からはヒンドゥー教は、例えばキリスト教等と同様に1つの宗教であるとされているが、インドでは「ダルマ」(dharma)という語が好まれる。この語はいわゆる「宗教」よりも意味が広い。特にヒンドゥー教の伝統主義者はサナータナ・ダルマ(Sanatana Dharma、永遠の、あるいは古代のダルマの意)という語を好む[16]。

ヴィシュヌ神

世界維持の神、慈愛の神、毘盧遮那、盧遮那。鳥神ガルーダに乗る。10大化身と呼ばれる多数の分身を有するが、それぞれの分身にはヴィシュヌ神としての自我は無く、それぞれの自我を持つ。例えば釈迦は釈迦であって釈迦ではなく、ヴィシュヌ神である。10大権現という概念の方が理解しやすい。

ラーマ

ヴィシュヌ神の化身。叙事詩『ラーマーヤナ』で大活躍する。

クリシュナ

ヴィシュヌ神の化身。叙事詩『マハーバーラタ』の英雄、民間に人気のある神。

釈迦

仏教の開祖である釈迦牟尼はヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の9番目の化身とされている。

ラクシュミー

ヴィシュヌ神の神妃、富と幸運の女神。北伝仏教では吉祥天。

シヴァ神

創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディン、虎の皮をまとい首にコブラを巻く。しばしば結跏趺坐して瞑想する姿で描かれる。北伝仏教では大自在天(降三世明王に降伏され仏教に改宗したとされる)。

マハーカーラ

シヴァ神の化身。チベット仏教など仏教においても信仰される。北伝仏教では大黒天。

パールヴァティー

シヴァ神の神妃、ヒマラヤ神の娘。穏やかで心優しい。

ドゥルガー

パールヴァティーの化身の一つで美しい戦いの女神。虎に騎乗して水牛に化けた悪魔を倒す美しい神像が有名。

カーリー

パールヴァティーの化身の一つで荒々しい殺戮の神。しばしば多くの生首を首、腰に巻き付け殺戮に狂う荒神の像で現される。コルカタ(カルカッタ)の地名はカーリーから来ている。

ブラフマー神

形而上および現実に存在する全てに対して実存する為の縁起を与える神。神であれ、人であれ、実存しているのならばブラフマーの働きに依存している。神学的哲学の根元。擬人化され水鳥ハンサに乗った老人の姿で表される。北伝仏教では梵天。新義真言宗では大日如来。釈迦もしばしば言及したとされる。

サラスワティー

ブラフマー神の神妃、北伝仏教では弁才天。

3大神は、信者個人の信仰においては並立しているわけではない。たとえば「シヴァ神」を最高神と崇める人にとって、「ヴィシュヌ神」は劣位ではあるが敬うべき神である。また神話の中で3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神も信仰されている。

ガネーシャ

シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司る。北伝仏教では歓喜天(聖天)。

ハヌマーン

外見が猿の神、叙事詩『ラーマーヤナ』でラーマ王子を助けて活躍する。身体の大きさを自由に変えられる。孫悟空の元になったと考えられる。

インドラ

雷神、天空神。『リグ・ヴェーダ』の中心的な神で、古くバラモン教の時代には盛んに信仰された。北伝仏教では帝釈天。

カーマ

恋愛、性愛、和合を司る神。

インドの国立博物館にヒンドゥー教の神々の多様な神像が収蔵・展示されている。

四住期

四住期(アーシュラマ)とはヒンドゥー教独特の概念で、最終目標の解脱に向かって人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務を設定したもの。なお四住期は、上位ヴァルナのバラモン、クシャトリア、ヴァイシャにのみ適用され、エーカージャ(一生族)であるシュードラ及び女性には適用されない[20]。四住期について概略を示す。

受胎から入門式(8 - 12歳)までは四住期に入らず、この間は一人前の人間とは見なされない。

学生期 - 本来の意味は、特定の師匠(グル)に弟子入りして聖典ヴェーダを学習する時期であったが、クシャトリアは武人としての技能の鍛錬や行政統治の実務の勉強も行い、ヴァイシャも世襲の職業に関する勉強も行った。現在では就学期間に相当。

家住期 - 学生期を終えると家業に務め結婚して家族を養う家住期に入る。男子をもうけて先祖の祭祀を絶やさないことが重要視される。このためインドでは中国のような一人っ子政策は受け入れられにくい。『カーマ・スートラ』は家住期を充実させるための経典である[21]。家住期において家長は家業を繁栄させて大いに儲け、その金を喜捨することも重要と考えられている。

林住期 - 家住期を終えると解脱に向けた人生段階に入る。孫の誕生を見届けた家長は家を離れて荒野や林に住み、質素で禁欲的な生活を営む。

遊行期 - 林住期を終えると住まいを捨てて遍歴行者となって放浪し、解脱を目指す。

過去においても現在でも、全てのヒンドゥー教徒が四住期を全うするわけではない。ちなみに仏教の開祖釈迦も当時のバラモン教の教えに従い、四住期に則った人生を送っている。即ち男子をもうけた後、29歳で釈迦族の王族の地位を捨て林間で修行をし、その後悟りを開いて布教の旅に出ている。

業と輪廻

詳細は「輪廻#ヒンドゥー教における輪廻」を参照

業(カルマ)

業はサンスクリットで 本来は行為の意味。因果思想と結合し、業はその善悪に応じて果報を与え、死によっても失われず、輪廻に伴って、代々伝えられると考えられた。『ウパニシャッド』にもその思想は現れ、輪廻思想・業感縁起の基礎となる。宿業思想に発展し、一種の運命論となった。中国、日本の思想にも影響を与えている。

業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。

輪廻(サンサーラ)

ヒンドゥー教では、輪廻を教義の根幹とし、信心と業(カルマ、karman)によって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。生き物は、行為を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ変わり、来世は前世の業(行為)によって決定される。これが、因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されて一部のインド人の死生観・世界観を形成してきた。

カースト

詳細は「カースト」を参照

身分(ヴァルナ)と職業(ジャーティ)

ヒンドゥー教の特徴のなかで、カースト制度の存在が大きい。カーストは歴史的に基本的な分類(ヴァルナ)が4つ成立し、その下に職業を世襲するジャーティ(生まれ・出生)と呼ばれる社会集団が形成されて、例えば「牛飼い」や「大工」や「床屋」などの職業が世襲されてきた[22]。結果としてインドには非常に多くのカーストが存在する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれた後にカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生などの生で高いカーストに上がることができるという。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。

基本的な4つのカースト(ヴァルナ)とカースト外の身分には、以下のものがある。

ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門・バラモン)

神聖な職についたり、儀式を行うことができる。バラモンというのは「ブラフマン(梵)を有するもの」の意味で自然界を支配する能力を持つものとされている[23]。「司祭」とも翻訳される。本来のバラモン層は下層集団が持たぬ知識、認識及び、その発見方法としての母(汎)知識-例えば数学-の存在を発見し、蓄積、独占した集団である。

クシャトリア(クシャトリヤ)

王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「戦士」とも翻訳される。釈迦がこの階層に生まれた。

ヴァイシャ

商業、農業、牧畜、工業及び製造業などの職業につくことができる。のちには主として「商人」を指すようになった。

シュードラ(スードラ)

古代では、一般的に人が忌避する職業のみにしか就くことしか出来なかったが、時代の変遷とともに、中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは商売を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。「労働者」とも翻訳される。

ヴァルナをもたない人びと

ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおりアチュートという。「不可触民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット(Dalit)」と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。カーストによる差別は1950年に憲法で禁止されている。

改宗

他宗教から改宗してヒンドゥー教徒になることは可能である。しかし、そこにはカースト制がある。カーストは親から受け継がれ、カーストを変えることが出来ない。カーストは職業や身分を定める。他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、次の生まれ変わりで上のカーストに生まれるしか方法はないと経典には記されているのが特徴である。そのため改宗による移動を行えないという点がある。

ヒンドゥー教からイスラム教や仏教へと改宗する場合は、下位のカーストの者が差別から抜け出すためであることが多い。しかし、皮肉にもイスラム教徒や、パキスタン人の間にも若干のカースト意識は有ると言われている。カーストはヒンドゥーに限らず、イスラム教徒や仏教徒なども含めた全インド文化に共通する意識であるとも言える。

ヨーガ

庭園に坐すヨーギー

ヒンドゥー教の修行としてヨーガが挙げられる。ヨーガは『心身の鍛錬によって肉体を制御し、精神を統一して人生究極の目的である「解脱」に至ろうとする伝統的宗教的行法のひとつである』[28]。ヨーガはヒンドゥー教の専有物ではなく、インドの諸宗教で実践されており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本の禅宗などの修行法にもつながっている。

ヴェーダの権威を受け入れ、ブラーフマナ(バラモン、司祭)階級の社会的階層の優位を容認する諸学派は「正統バラモン教」と認められ、その6系統のうちヨーガ学派は、心身を鍛錬しヨーガの修行で精神統一を図ることで、解脱に達することを説いた[29]。正統バラモン教の各学派も、その学派の教学を学ぶことと並行して、ヨーガの修行を行っている[30]。ヨーガ学派に代表される古典ヨーガの沈思瞑想による修行法は、4-5世紀頃に編纂されたといわれるヨーガ学派の教典である『ヨーガ・スートラ』にも書かれている。

また身体を鍛錬するヨーガは、13世紀に始まる「ハタ・ヨーガ」と呼ばれる流派がある。「現代ヨーガの父」と呼ばれるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(英語版)(1888年 - 1989年)らによって、体操などの西洋身体文化をもとに作られたヨーガも、伝統的なハタ・ヨーガに倣って「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるが、古典ヨーガとも元来のハタ・ヨーガとも関係は薄いという[31][32]。現在日本で行われている「ヨーガ教室」等の多くはこの流派に入る。

グル信仰

ヒンドゥー教で重要な位置を占めているのが、グル(サンスクリット語で「重いもの」「闇から光へ導くもの」「木星」「導師」という意味)である。グルはヨーガの修行を成就するにあたって、必要不可欠なものとされ、尊敬と崇拝を集めている。

バラモン教からヒンドゥー教へ

バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。

更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンドロス大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。このため広義のヒンドゥー教にはバラモン教が含まれる。

ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。

紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、この頃に今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。

また東南アジアの「インド化」に伴い、5世紀頃から中国の史料にヒンドゥー教に関する記述が見られる[48]。以降、島嶼部では古マタラム王国やマジャパヒト王国など、大陸部では扶南国などで栄えた。アンコール朝では12世紀前半まではヒンドゥー教のシヴァ派とヴィシュヌ派が立国の思想となっていた[49]。

六派哲学

バラモン教は上記のように具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた[50]。インドの学問のおよそ全般は、輪廻からの解脱を究極の目的とし、宗教的色彩が濃く、固有の思想体系を伝える哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別することができない[51]。

ヴァイシェーシカ学派 - 多数の実在を認め、物質を無数の原子からなるものと規定した。

ニヤーヤ学派 - 実在を認めつつ、主宰神「シヴァ神」の証明を試みた。

サーンキヤ学派 - 世界は精神と物質から成るとした二元論を展開した。純粋精神が物質から離れた時に「解脱」が達成されるとし、最高神の存在を認めない。

ヨーガ学派 - 教説のかなりの部分をサーンキヤ学派と共有するが、最高神の存在を信じる。「解脱」の手段としてのヨーガの行法を発達させた。

ミーマーンサー学派 - ヴェーダの「供犠」を受け継ぎ、正しい祭祀が(神を通さず)直接果報をもたらすものとした。

ヴェーダーンタ学派 - 根本聖典『ブラフマ・スートラ』に則り梵我一如を追求した。この学派がその後のヒンドゥー教の正統派の地位を継続している。

不二一元論とバクティ

ヴェーダーンタ学派の思想の中で最も有名なものに不二一元論がある。これは、精神的実在であるブラフマン(梵)またはアートマン(我)以外に実在する物は無い、言い換えれば「今目の前にある世界は幻影に過ぎない」という思想。この思想を突き詰めてゆくと、シャンカラ(700年 - 750年頃)の説くように「ブラフマンは人格や属性を持たないもの」となり、無神論的一元論に達する。この教義は現在でもヒンドゥー教の正統派としてインドの5箇所の僧院で代々「シャンカラ・アーチャーリヤ」の名を継承する学匠によって不二一元論の法灯が維持され続けている。シャンカラ後の不二一元論は、11世紀の神学者ラーマーヌジャによる被制限者不二一元論、13世紀の神学者マドヴァ(英語版)の二元論へと発展していった[52]。現代インドのパンディット(伝統的スタイルのバラモン学者)の大部分はヴェーダーンタ学徒で、その八割以上はシャンカラ派に属していると言われる[53]。ヴェーダーンタ哲学がその2000年以上の歴史において、インドの宗教、文化、社会、政治等に及ぼした影響は非常に大きい[53]。

5世紀〜10世紀の南インドでは「至高の神への絶対的帰依」「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とするバクティと呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。バクティーは一般庶民の信仰形態として現在まで広く行われている[54]。不二一元論とバクティは正反対とも言える形態だが、現在のヒンドゥー教の中では問題なく同居している。

その後のヒンドゥー教

カジュラーホーのヴィシュヴァナータ寺院(1002年頃)シヴァ神を祀る。寺院の壁面には多数の彫刻が浮き彫りされている

その後北インドではイスラム教徒の征服王朝が交代する時代に入る。タージ・マハルなど北インドの著名な文化財はイスラム教様式である。しかし庶民や南インドの王朝はヒンドゥー教を信奉した。ヒンドゥー教では ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが3大神とされた。各神は多様な側面を持ち、その性格は一様ではない。その中でヴィシュヌやシヴァは民間宗教の神を取り込んでゆき、多様な神話を通じて多くの信徒を有している。ヒンドゥー教の複雑さ・分かりにくさの一例として、たくさんの神々を崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌを至高の神とする一神教的な姿、教理を哲学的に極めた不二一元論のような無神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられる。

インドがイギリスの植民地となって久しい19世紀に、ベンガル州を中心に知的エリート層によってキリスト教とヒンドゥー教の知的交流が盛んになり、西欧的な合理主義に基づいて、インドの近代化とヒンドゥー教の復興・改革を目指すヒンドゥー教改革運動(英語版)が起こった。インドの歴史的個性・古典・文化のすばらしさが説かれ、ヒンドゥー教の近代的解釈を行って信仰態度を確立し、植民地時代のインド(英語版)で民衆に自信と勇気を与え、「インド」を認識し、ナショナリズムを盛り上げた[55][56]。こうした現代ヒンドゥー教の改革運動を担った人々は、多くが上部カースト出身のインド人だったが、神智学協会のアニー・ベサントのような外国人もいた[57]。

のちに「ヒンドゥー・ルネサンス」「ベンガル・ルネッサンス(英語版)」と呼ばれる改革の創始者は、「近代インドの父」とも呼ばれるラーム・モーハン・ローイである[52]。バラモン階級出身でウパニシャッドの影響を受けていたローイは、ユニテリアン主義の影響も受け、神は超越的な存在であり聖像などで表現し得ないものと信じ、宗教は合理的で倫理的な体系であるべきであり、道徳法は理性によって理解されるべきと考えた[52]。ローイの兄の妻はサティー(寡婦殉死)で死亡しており、彼はこれに大きなショックを受けたと言われ[58]、サティーや幼児婚といったヒンドゥー教の慣習を非道徳な儀式として非難し、1829年のサティー禁止法の発布に影響を与えた。また、聖像礼拝やカルマ、輪廻といった概念を迷信として、キリスト教の改革運動をモデルとしたブラフモ・サマージ(ブラフモ協会)という宗教団体を設立した。

ローイは訪英中に客死してしまうが、その仕事はデヴェンドラナート・タゴール(英語版)やケーシャブ・チャンドラ・セーン(英語版)に引き継がれた。プラーナやタントラを否定するブラフモ・サマージの思想は知識層の関心を集めたが、大衆レベルではまったく人気が無かった[52]。

1875年にローイの影響を受けたダヤーナンダ・サラスワティー(英語版)は、ブラフモ・サマージに内在する民族主義を発展させたアーリヤ・サマージ(アーリヤ協会)を発足させた。アーリヤ・サマージはヒンドゥー教を純粋なヴェーダの形態に戻すべきと主張し、ヴェーダ文化を振興させる活動を通じてインドの国民意識を喚起した[52]。アーリヤ・サマージは教育面での貢献が大きく、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーは、「抑圧された階級の地位をあげ、女子の状態を改良し、少年、少女の教育のためにアーリヤ・サマージは多くの仕事をした」と評価している[56]。

また、ロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーらによる神智学協会は、本拠地をアメリカからインドに移し、ヒンドゥー教や仏教思想を取り入れて、転生(輪廻)やカルマ(業)を強調した神秘思想を説いた[59]。インドには聖者とされた人々が数多あるが、その内にはブラヴァッツキーに始まる近代神智学(接神論)の者もおり、彼らは外国人ながらインド独立運動に関わり、2代目会長のアニー・ベサントは国民会議の年次大会議長になる等、インド・ナショナリズムの運動に大きな影響を及ぼした[59]。なお、ヴィヴェーカーナンダは、神智学協会を疑似ヒンドゥー教であるとしており、真面目な宗教運動であったか疑問視する声もある[59]。

一方で、バクティ運動の直接の影響を受け、ローイらのように西洋式教育を受けていない田舎のバラモンであったラーマクリシュナは、聖典に興味を持つこともなく、純粋なバクティを説き、複雑な神学体系なしに、知性ではなく純粋な信仰を捧げることで神に近づこうとした[60]。彼の信仰はカーリー女神へのバクティを中核とし、タントラ的な性格を持つが[61]、イスラム神秘主義やキリスト教の修行も実践して様々な神を見たとされ、易々と神秘体験に入り得ることで注目を集め、『世界の全ての宗教は神に至る道』[62]と説いた。その神秘体験と、子供のような特異な人格で多くの人を魅了し、彼の影響下でブラフモ・サマージの流れとも異なるヒンドゥー教改革運動が生じた[60]。弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教は普遍宗教であると主張して、各々の宗教の寛容を強調し、神性の本質は各個人の内にあり、ヒンドゥー教の実践を通じて理解できると主張し、宗教統一理論をもとにヒンドゥー教を再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで開かれた万国宗教会議(英語版)に参加してヒンドゥー教を世界宗教のひとつとして認めさせることに貢献し[52]、1895年にはラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションを創設し、世界にアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)を根幹とするネオ・ヴェーダーンタ(英語版)を布教し、インド内で社会奉仕活動を行った。

教典

リグ・ヴェーダは最古の、そして最も重要なヴェーダであり[63]、世界的に見ても最も古い聖典の一つとされている。

詳細は「ヴェーダ」、「マハーバーラタ」、「バガヴァッド・ギーター」、「ラーマーヤナ」、および「プラーナ文献」を参照

古代のヒンドゥー教の聖典はサンスクリット語で書かれている。そしてこれらはシュルティ(英語版)(天啓)とスムリティ(英語版)(聖伝)の2種類に大別される。ヒンドゥー教の聖典は何世紀にもわたり口承にて編纂され、記憶され、そして世代を超えて伝承され、後に文字に起こされた[64][65]。何世紀にもわたりリシ(聖仙)たちは教義を磨き上げ、それをシュルティとスムリティに展開した。さらにはヒンドゥー哲学の6学派は認識論、形而上の理論をシャーストラと呼ばれる書物にまとめた。

シュルティ(聞かれた物の意[66])は通常ヴェーダのことを指す。ヴェーダはヒンドゥー教の聖典の中でも最も早い時期に記録されたもので、古代のリシ(聖仙)たちに明かされた永遠の真実が記されていると考えられている[67]。ヴェーダには『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』の4つが存在し、それぞれのヴェーダはさらにサンヒター(賛歌、祈り)、アーラニヤカ(儀式、祭祀について)、ブラーフマナ(儀式、祭祀の解釈)、ウパニシャッド(瞑想、哲学について)の4つの部門に分けられる[68][69][70]。最初の2つ(サンヒター、アーラニヤカ)はカルマカーンダ(Karmakāṇḍa、施祭部門)とよばれ、残りの2つがジュニャーナカーンダ(Jñānakāṇḍa、哲学的、宗教的思索部門)と呼ばれる[71][72][73][74][75]。

ウパニシャッドはヒンドゥー哲学の基礎であり[76][77]、シュルティの中でも特に優れた聖書であるとされ、その基本理念は後の時代のヒンドゥー教哲学や信仰にも継続的に影響を与え続けている[76][78]。サルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、ウパニシャッドは歴史に登場して以来ずっと支配的な役割を果たしていると語っている[79]。ヒンドゥー教には108のムクティカー・ウパニシャッド(英語版)が存在し、学者よって幅があるがそのうちの10から13は特に重要なものとしてムキャ・ウパニシャッド(英語版)と呼ばれる[80][81]。

最も重要なスムリティ(記憶されたものの意)はヒンドゥー叙事詩とプラーナ文献である。具体的には『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がヒンドゥー叙事詩であり、『マハーバーラタ』にその一部として含まれている『バガヴァッド・ギーター』は最も一般的なヒンドゥー教の聖典の一つであり[82]、ヒンドゥー教徒の信仰生活を実質的に規定してきた[83]。『バガヴァッド・ギーター』(「神の歌」の意)は時にウパニシャッドとみなされギートパニシャッド(Gitopanishad)と呼ばれる。そのためシュルティに数えられることもある[84]。また『ラーマーヤナ』はラーム・リーラー(英語版)、『マハーバーラタ』はラース・リーラー(英語版)という名で歌舞劇にされており、各地で祝祭に合わせて上演される伝統がある[85]。一方のプラーナ文献はおよそ西暦300年あたりから編纂され始め[86]、広範な神話を含む。これらはヒンドゥー教の共通のテーマを、生き生きとした物語を通して人々に伝えるという役割を担い、布教の中心となっている。またヨーガについて記された古典『ヨーガ・スートラ』は20世紀になって再評価されている[87]。

19世紀のヒンドゥー教現代主義者らはヒンドゥー教のアーリア人起原の要素を再評価し、タントリズム(密教)の影響を受けたヒンドゥー教を純化しようという試みのなかで[88]埋もれていたヴェーダの要素を強調した。たとえばヴィヴェーカーナンダは、たとえそれが古代のリシ(聖仙)たちに明かされたものでないにしても、ヴェーダは精神世界の法律であるという立場をとった[89][90]。タントリズムでは「アーガマ (ヒンドゥー教)(英語版)」という語が彼らにとって権威のある聖典全体を指す言葉であり、また同時にシヴァがシャクティに語った教えを意味する[91]。一方で「ニガマ」(Nigama)という語はヴェーダを意味し、同時にシャクティがシヴァに語った教えを意味する[91]。アーガマ派(聖典シヴァ派)ではアーガマをヴェーダと同等なものとして同様に重視している[92][93]。


https://www.y-history.net/appendix/wh0201-011.html 【ヴェーダ/ヴェーダ時代】より

アーリヤ人の自然崇拝の伝承を集約した聖典をヴェーダといい、それが作られていた時代(前1500年から前500年頃まで)をヴェーダ時代という。

 アーリヤ人は自然現象に神秘的な力を認める信仰を持ち、天・地・火・太陽・風雨・雷・川などを神として崇拝する多神教であった。彼らの有する最古の聖典をヴェーダ(本来「聖なる知識」を意味する)と言い、リグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァの四集から成っていた。その中でも最も古いものがリグ=ヴェーダである。リグ=ヴェーダ、サーマ=ヴェーダ、ヤジュル=ヴェーダはいずれも神々の伝承であり、アタルヴァ=ヴェーダは呪術を伝えている。リグ=ヴェーダはアーリヤ人がインダス流域に移住した前1500年ごろより後の、前1200~前1000年頃に編纂され、他の三ヴェーダはガンジス川流域に移住した前1000年~前500年頃に作られたとされている。

ヴェーダ時代

 ヴェーダは紀元前1500年ごろのアーリヤ人がインド西北地方に入ったころから、ガンジス川流域に広がる時代までに書き継がれた。アーリヤ人がガンジス流域に拡大を終えた500年頃までの時代を「ヴェーダ時代」とも言う。

 ヴェーダ時代は、「リグ=ヴェーダ」によって伝えられる前1500~1000年頃を前期ヴェーダ時代、アーリヤ人がガンジス川流域に移動し他の三ヴェーダが作られた前1000~前500年頃までを後期ヴェーダ時代に分けている。後期ヴェーダ時代にはヴェーダ文献の一つであるウパニシャッドをもとにしたウパニシャッド哲学が生まれた。

近代インドでのヴェーダの復活

 その後、ヴェーダ信仰はカースト制と結びついてインド社会に深く根を下ろし、グプタ朝時代にはヒンドゥー教として一つの宗教となった。しかし、イスラーム教のスーフィズムの影響を受けたバクティ運動を通じて、ヒンドゥー教はヴェーダ信仰から離れ、より現実的な民間信仰という面が強くなっていった。近代に入り、イギリス植民地支配という民族の苦難の中から、18世紀後半にヒンドゥー教改革運動が起こってくるが、その一つがダヤーナンダ=サラスヴァティーらが説いた〝ヴェーダに帰れ〟という主張であった。このようなヒンドゥー復古主義が、インドの民族運動の原動力となっていく。


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