https://tamegoro.exblog.jp/29443526/ 【武士道とキリスト教】より
「源氏物語」を思う度に、イメージがキリスト教なのです。死=神の国へ行くという発想。
「源氏」の表のストーリーでもそんな場面がある。あくまでも「仏教」ということになっていますが。「源氏」が「死」の物語で、「暗夜行路」「和解」「細雪」と、「死因の物語」が受け継がれている。一方で、芭蕉や其角などにキリシタンの影がちらつく。
大高源吾の仇討ちを「殉教」ととらえていると思われる句がある。北斎も雅号が卍。北斎=写楽の絵にも十字がいっぱい。クリスチャンの新渡戸稲造が「武士道」を書いている。
キリシタンも武士も「死を恐れない」という発想が一緒。
それで、この絵。前に書いています。この北斎、どうでしょう。(弘法大師)/「場面混合」のダジャレかよ!ってことで終っていますが、北斎には絶対にこの先があるはず。
じつはこの絵、「葬送」のラストの章と一致という読みです。「旧約聖書」の「ヤコブと天使の闘い」が出て来る。
前々から、景教(キリスト教)が日本に入って来ているのではないかと思ってはいた。
そしたら「弘法大師」と景教を結びつけた説が結構あるのね。戦国時代のイエズス会とは違うキリスト教です。そのことを、この絵は表しているんじゃないかと思ったわけ。
場面混合=アーメン混合
弘法大師をありがたがって、キリスト教を排斥しようとする当時の坊さんたちをバカにしている絵か、もしくは、弘法大師の方を「民の利」を考えていないと批判しているのか。
「弘法大師修法図」=公の利大事、バカ坊主*修=しゅ=朱=あか=バカ
「葬送」に「アントワープ大聖堂」が出て来ます。「フランダースの犬」でおなじみ。
「アントワープ」=ワン(犬)とワープ空間が歪んでいるっていうギャグ。場面混合です。
どっかに、仏教とキリスト教の混合が描かれていないかと捜しました。
ドミノに凝るエピソードがある。ドミノにそっくりなのが中国の天九牌。
ここから想像を膨らまして行くと、景教が、当時の大帝国「唐」から伝わって、都の作り方から漢字、漢詩などの文化も一緒に入って来た。
血縁という繋がりではなく、宗教と文化という繋がりで、日本は唐の支店みたいな状態ではなかったかと思う。で、本店の唐が滅ぶ。
そうなるとですね、景教を仏教にカムフラージュして、ずーっと守ってきた国が日本。
こうゆう感じなんですが、いかがでしょう。
ちなみに、弘法大師とは
〈8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。〉
日本の神話「古事記」と「旧約聖書」って、共通点とかないのかなあ……。
【古事記と聖書:古事記がわかれば聖書がわかる】(著) 配山實
古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ (松尾芭蕉)
大自然界に棲息している生き物は、喰うか喰われるか、凄まじい生存競争を延々に繰り返している。生き物は他者の命を横取りして己が命を永らえさせている。人類も例外では無い。肉や魚は無論のこと、米や野菜も生き物である。それら生き物達の命を横取りして人の命は永らえている。
狩猟採集時代(原始的アニミズム時代)の人びとは今しがたまでピョンピョン跳ねまわっていた獣や空高く飛んでいた鳥、たわわに稔った木の実や土深く根を張っていた菜類を口にしていたために、他者の命(八百万神)を己の命に「接(つ)ぎ木」していることを実感できていた。
現代人にとっては食べ物は単なる「物」に過ぎないのだが、物自体に命の存在を認めていた時代の人びとにとっては命ある物は「神」であり、自分たちが神を食べていることに気付いていた。そして他者の命を以て己自身が生き永らえていることに気付くと、八百万の神々に感謝する気持ちと敬虔な信仰心が萌え出る。「いただきます」と手を合わせて箸を取る日本的食事マナーの原点には、食べ物(八百万神)自体への感謝の気持ちが込められていた。
八百万の神々が割拠していた神代の世界では、神が神を喰うことで命(みこと)(神)のリングを次々に繋ぎ留めることが出来ていた。換言すると、命(いのち)の環を繋ぎ留め出来る貴重な糧が「神」であり、その「神」を体内に取り込んだ方が「命(みこと)」と称され崇拝されていた。
そして、他者の命を体内に取り込んだ以上、その命(みこと)(神)は、己一代で終息させてはならないとの責務感が付きまとう。すなわち「命(みこと)」とは、己が口にした「神」を次代へと受け継ぎ渡す責務を負った方の尊称であり、その点、万世一系を誇る天皇家の先祖を「……命」と称していることも頷ける。歴代の天(すめら)皇(みこと)は、代々受け継ぎ渡されてきた原母(天之(あまの)御(み)中(なか)主(ぬしの)神(かみ))の命の中継ぎ役を果たしていたことになる。
倭(やまと)詞(ことば)の「米(こめ)」とは、「子(こ)芽(め)」の謂である。日本人にとっての米は特別な存在となっているが、米が信仰の対象にまで昇格された原点には、遺体を「子芽」と崇める「再生(よみがえりの)道(みち)」があった。物すべてに霊魂の宿りを信じ切っていた鬼(おにがみの)道(みち)、再生道の世界でのこと。その「子芽」(精子、卵子)に醸し出される遺体を口にしたことで、「子芽」が生成されるとのアニミズム的科学である。
現代人の感覚では己の遺伝子あるいはDNAは性行為によって子や孫へと受け渡すことになるが、物自体に霊魂の宿りを信じ込んでいた原始的アニミズム時代の人びとには「子芽」自体の継承が絶対視されていた。そして、この「子芽」の受け渡しで以て、「子の芽」の元手である先代の命は世継ぎの体内を経て生み戻しされると固く信じていた。
正月恒例の箱根駅伝は二日間に亘ってタスキの受け渡しをするが、鬼道の世における「命の緒」(タスキ)は子々孫々に受け渡しされた駅伝の様相を呈していた。それは現代人的遺伝子のバトンタッチではなく、身体丸ごと、すなわち肉体に宿っている霊魂の受け渡しが必要とされた。
「万物の霊長」と天狗になり切って久しい人類だが、元を質せば地球上の生き物の一員であり、宇宙創造の観点から捉えると、アメーバーのような単細胞生物と本質的な違いは無い。全ての生き物を八百万神と崇め、共生していたアニミズム時代の人びとは人類のこの存在性を的確に把握していたと言える。
本書は古事記神話をナビゲーターとして、原始的アニミズム時代に誕生した鬼道なる宗教の歴史と真相を捉え、再生道(命のバトンタッチ)の実体を描くものである。
https://renaissance-media.jp/articles/-/595 【歴史を探偵するユダヤ系秦氏が語る邪馬台国【第1回】】より
ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国
日本古代史最大の謎へ立ち向かう新説立証!
日本各地に存在する、ユダヤを連想させる地名や家名。古代日本史実に数多く残されている、ユダヤの足跡。しかし、その関連性はいまだかつて解明されていない……。古代史の謎に挑み続ける歴史探偵・石川雅晟によるユダヤシリーズ第4弾!
はじめに
老境に達した筆者は、そろそろ残り時間を気にする頃合いになった。既に3冊を出版し、以下の二と三は店頭にも並んだ。
第一作『古事記』の中のユダヤ平安京に隠された「ダビデの星」2017年3月第二作隠された「ダビデの星」東寺曼荼羅と平城京外京2018年4月第三作魏志倭人伝の中のユダヤ出雲大社に隠された「ダビデの星」2019年4月(必要な時は、1=第一作、2=前々著、3=前著と略記する)
偶然と幸運にも恵まれ、それらの中で、4つの「ダビデの星」を発見することができた。
①平安京に内接する「ダビデの星」、②東寺曼荼羅の下絵として隠されたもの、③平城京外京に内接するもの、④出雲大社境内遺跡の巨大本殿遺構に内接するもの。その存在はたった一つの数学的公式を当て嵌めることで、機械的に判断することができる。
すなわち、もし「ダビデの星」が内接する長方形があれば、その長辺と短辺との比は、2:√3(=1・1547)となる。逆にその比が1・1547か、それに非常に近い値が得られるなら、その長方形には「ダビデの星」が内接していると言える。だから長方形の長辺・短辺の長さが分かれば、誰にでも簡単に検証ができるのである。
「ダビデの星」の使用は近世になってからであるというように、古代の日本にそれが在ったとすること自体が疑問視されているが、そんな歴史の常識とは別に、数学的な検証によって「在るものは在る」のである。すると、ユダヤ系秦氏を活写した古代史が書かれなくてはならないのだが、歴史学者には、精密な学問的裏付けがないものを書くことは許されないであろう。この一点に、歴史には素人ではあっても、騎馬民族渡来説やユダヤ的視点などとも合わせて、複合的に歴史を見ようとする著者の、存在意義がある。
また前著からの繰り返しにもなるが、本書に掲げる地名などはユダヤ系のものに偏って挙げている。だから朝鮮半島経由のもの、例えば高句麗、百済、新羅、加羅、伽耶、安羅など、またそれらから派生している地名や人名は、もう数えきれないくらいであるから、一々それらを網羅的に述べることはしていない。このことを著述のどこかで、なにかいい訳でもしたくなる時があるので、あらかじめお詫びしておくことにした。
副題にもしたが、神話や魏志倭人伝の相互関係を調査するには、主に次の3点の書物を参考にした。何れも岩波文庫版である。『古事記』、『日本書紀』、『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』。
そしていつものことながら、この本の結末がどのようになるのか分からない。過去に学んだことがふっと蘇ってきたり、新しい疑問点が出てくれば、次々に史料を繰っていく。
そのうち著述内容が次第に固まってくる、それが著者のやり方である。よく考えたら、趣味の範囲ではあるものの、もう50年も同じようなことをしてきた。著者の過去は、いつの間にか長くなってしまった。
だから筋道の途中で横道に逸れたり、余談で道草をしたり、通常の書籍とは異なることが多いが、歴史を探偵するというのは、結局そういうことである。さて、何処に辿り着けるのか、着けないのか。毎度のことながら、不安混じりの愉しい船出である。
https://renaissance-media.jp/articles/-/597 【第一章 伊都国と日向神話】より
1.ユダヤ系秦氏と『旧約聖書』
渡来人として知られる「秦氏」は、「ユダヤから来た(YUDU+KI)」という意味の「弓月君(ゆづきのきみ)」がその祖である。従って、秦氏は『旧約聖書』の神話とともにやって来たといえる。
わが日向神話の系図と旧約聖書の系図を比べてみると、その類似に驚くだろう。ここに、第一作から両神話の系図骨格を抜き出して、再掲・比較した。「別紙1 アブラハム以下の系図」と、「別紙2 アマテラス以下の系図」である。
写真を拡大 [別紙1] アブラハム以下の系図
写真を拡大 [別紙2] アマテラス以下の系図
以下も第一作からの引用で、両神話が密接な関係にあることを述べた部分である。世代構成としては、アブラハムからヨシュアまでの十五世代とアマテラスからスジンまでの十五世代が比較され、世代数が同じであることを確かめた。ユダヤ側の世代数と同じにするためには、日本側系図に、いわゆる「欠史八代」を挿入する必要があったことも確認した。
また双方の系図骨格線も非常に似かよっていて、ほとんど同じと断言できる。物語については当然ながら登場人物の名前がそれぞれの国で違っているものの、話のあらすじとしては、大枠が一致していると認めざるを得ない。そしてこれらの事実から、どのような結論が導かれるのか。
『古事記』は、古代ユダヤの『旧約聖書』が下敷きになってできている、これが結論である。異を唱える人が多いと思われるが、では日ユ神話・系図と同様の例題に挑戦してほしい。
例えばアフリカかどこかの民族神話の世代数とそれぞれの世代特有の物語において、その神話を知らない人が自らの想像(創造)でそれを創作してみてほしい。だれがやっても、類似の神話を作り出すことは不可能である。
従って『古事記』の編纂者のなかに、ユダヤに精通した人物がいたか、あるいはユダヤ人そのものがいたか、またはユダヤに関する知識を伝授するグループ人脈が存在していたか、その他さまざまな類推が可能である。『日本書紀』の編者の一人でもある太安萬侶こそ、その要素を兼ね備えた人物である。(『日本紀竟宴和歌』序)
両系図を比較することによって、山幸彦や海幸彦などでお馴染みの日向神話は、その下敷きとしてユダヤ神話の系図が利用されていることが分かった。この事実は驚くべきことであり、ユダヤ系秦氏の介在を前提にしないと絶対に納得できないことである。後述するが、日向は秦氏が住んでいた国(移住させられた国)であることは、明らかである。
しかし古代においてユダヤと日本には歴史的関連性ありという、どちらかといえば首を傾げる人が多い題材を選んで議論するには、双方の系図が相似形であることや同世代間の物語が類似していることのほかにも、一層の慎重さが必要になる。すでに第一作では、『旧約聖書』の中のアブラハムからヨシュアまでの15世代と、『古事記』のアマテラスから崇神までの15世代とを比較して、その記述量をベースにして双方の相関を調査している。
「別紙3 記述分量比較表」がそれである。一目して分かることは、他の世代が同じような相対的記述量になっているのに対し、6代目のベリアとジンムのところが大きく違っている。[ベリア≒0% ⇔ ジンム=28・4% ]と、大きな差が生じている。これは違和感が漂う差異であるから、少し詳しく見ることにする。
ベリアの子はレバ、その子はレセフ、その子はテラ、その子はタハン、その子はラダン、その子はアミホデ、その子はエリシャマ、その子はヌン、その子はヨシュア。
綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化
15代目のヨシュアには、『旧約』「ヨシュア記」に多くの戦闘記録があって、その記載分量比率は36.9%に達する。彼は戦術的な騙し討ちさえ駆使して、神がイスラエルの民に約束した土地「カナン」(ヨルダン川・死海の西側で、地中海までの間の地)を獲得するのである。
このヨシュアと比較するのが相応しいのは、ヤマトを戦い取った⑥神武や⑮崇神である。その尊称は二人ともに「ハツクニシラススメラミコト」であり、初めて日本(や まと)という国を肇(はじ)められた天皇という意味である。二人の記載量を合わせると、ほぼヨシュアの記載分量に合致するのだが、しかしなぜ「ハツクニシラススメラミコト」が二人もいることになったのか。
なぜ「ハツクニシラススメラミコト」が二人もいることになったのか
前著『魏志倭人伝の中のユダヤ』では、ヤマトの意味を以下のように解釈した。《ヤマト=ヤ+ウマト=神ヤハウェの土地。神に選ばれた民・国》。
さてカナンも、神がアブラハムとその子孫に与えた土地であった。「乳と蜜が流れる」約束の地である。そのカナンを征服したのがヨシュアであり、神の土地であるヤマトを平定したのが崇神であった。
〇比較の第一段階………約束の地を征服する
約束の地を征服する
説明
・国譲り戦の対戦相手は、出雲本国が大国主とその後継者事代主、建御名方
・邪馬台国は政教分離国家。卑弥呼を支援する出雲系饒速日(大物主)も対戦相手
・従って崇神の国譲り戦は、主として対出雲本国と対大和戦の二局面から成る
・対戦相手の崇神と大国主・饒速日は同時代人。神話形成は第二段階へ→神話をユダヤ側に合わせて、全15世代に再編する
〇比較の第二段階………ユダヤ側と同じく、出雲+日向神話を導入して全15世代にする
写真を拡大 [比較の第二段階]………ユダヤ側と同じく、出雲+日向神話を導入して全15世代にする
上記の③同士を兄弟にしたことで、出雲神話と日向神話も一続きのお話になった。『古事記』の該当部分である。
この御子(②オシホミミのこと:筆者注)は、高木(の)神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師比賣(よろづはたとよあきづしひめの)命に御(みあひ)して、生みませる子、天明(あめのほあかりの)命。次に日子番能邇邇藝(ひこほのににぎの)命 二柱なり。
説明
・ユダヤ側の15世代に合わせて、当初は出雲神話から①②③とした
・後世の持統女帝の皇位継承都合に合わせ、日向神話の①②③に変更
・女帝から皇孫への皇位継承を正当化するため、アマテラスを女神とした
・この神話変更によって、持統女帝から皇孫文武への継承が正当化された
・血統も正当化するため、布留(ふる)[ニギハヤヒ=天火明(あめのほあかり)]とニニギを兄弟とした
・崇神と同時代人の布留(ニギハヤヒ)を系図③に置いてニニギの兄としたため、崇神ではなく建御雷(たけみかづち)が天孫軍を率いた(崇神は⑮世代のまま)
・天孫として降臨したニニギは、その母の名に多くの情報を含んでいる
萬=多くの 幡=秦氏(が住む) 豊=豊国(秦王国。宇佐神宮の大分県や福岡県東部京都郡など) 秋津=大和 師=〜の 全体の意味は、「多くの秦氏が住む豊国と大和の(姫)」である
〇比較の第三段階………持統女帝の都合に加え、ユダヤ系秦氏自らの都合を加味させた
写真を拡大 [比較の第三段階]………持統女帝の都合に加え、ユダヤ系秦氏自らの都合を加味させた
説明
・ユダヤ系の渡来は、応神朝の「弓月君」が最初ではない
・出雲国にもユダヤ系秦氏。さらに出雲そのものがユダヤ系首長の国であった
・豊国(のちの豊前・豊後)も、「秦王国」であった
・出雲は邪馬台国の大和盆地にも進出。ユダヤ系豪族に混じるユダヤ系秦氏
・大和盆地の政治体制は古代共和制であり、最初に共立されたのが神武
・その神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこの)命(諡は神武)を、「ハツクニシラススメラミコト=初めて国を治められた天皇」として⑥に置いた。神武を秦氏が支持。后は秦氏出身・その和風諡号(=かむやまといはれびこ)の意味は、「神ヤハウェに選ばれたといわれる男」である
・天孫降臨(崇神の大和平定)のまえに大和に入部していた神武が、大和盆地におけるハツクニシラススメラミコト[始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)]となった
・欠史八代は大和盆地南部に宮居を構え、その周辺のユダヤ系女性を后(きさき)にした
・騎馬民族の首長崇神(ミマキイリヒコ)が半島の任那(みまな)から渡来し、国譲り戦を戦い、それまでの覇者出雲を駆逐し、倭国における覇者となった=ハツクニシラススメラミコト[(御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)]
・結果として、二人のハツクニシラススメラミコトが系図上に載ることになった
・欠史八代を含む秦氏が関係した系図は、開化のところで一転し、崇神からの新しい系図が開始する
・カイカ(開化)という諡号には、「新しい系図に入る」という意味がある。半島から渡来してきた騎馬民族首長である崇神の系図が、新規に始まっていく
・二人のハツクニシラススメラミコトの解釈は、一人目の神武は秦氏が関与する
奈良盆地の首長レベルであったが、二人目の崇神は、出雲との国譲り戦によって倭国に覇を唱え、「天皇」の称号に相応しい大王であった
・ミマキイリヒコ[任那(みまな)の城(き)から渡来]の崇神は、神話系図上は開化の子となっている。秦氏系と騎馬民族系を一つにするための工夫と思われる
秦氏のためには、奈良盆地における同氏の活躍を記念するため、どうしても一人目のハツクニシラススメラミコトである神武が必要であった。后のお名前「富登多多良伊須須岐比賣(ほとたたらいすすきひめの)命」にも、ユダヤ系出身を示す特徴的な言葉=HOTOが見られる(著者第二作)。HOTOは「ユダヤ」のことであり、TATARAは「蹈鞴(たたら)製鉄」の意である。すなわち「ユダヤ式たたら製鉄」の技術を背景にもつ后であることが、名前からして分かるというものだ。
しかしこれ以外にも、神武の崩御年を記念碑的に使用したと思われる節がある。2016年4月4日(月)の各紙に、「神武天皇二千六百年式年祭の儀」が行われた記事が出た。現在は上皇・上皇后となられている両陛下が、畝傍山麓の神武天皇陵を参拝されたのである。ユダヤとの関連では、それこそ偶然でありまたこじつけでもあるかもしれないが、いまから2600年ほど前の大事件、いわゆる「バビロン捕囚」のことが想起される。
B.C.586年、南ユダ王国の首都エルサレムが陥落し、征服者である新バビロニア国王ネブカドネザル2世は、ユダヤ人約11万人をバビロニアに連行した。そののち約50年間にわたって、彼らユダヤ人は捕囚生活を余儀なくされたのである。
ユダヤの故地に戻ることが許されたあとも、そのうちの10部族は世界に離散(ディアスポラ)した。ユダヤ系秦氏の日本渡来は、元を正せばこの「バビロン捕囚」に起因するので、その苦難を決して忘れないために、エルサレム陥落を起算点にするのは理に適っている。
また、神武崩御年から2016年までがちょうど2600年間になるように、その後の天皇在位年数を調整したので、神話初期の在位年数が異常に長いことになったのではないか。すなわちバビロン捕囚というユダヤ屈辱の年(B.C.586)を忘れないため、神武崩御年を利用した可能性がある。
神武天皇2600年式年祭≒B.C.586年+A.D.2016年
日ユ双方の神話について、系図骨格や記載分量について比較してきたが、物語の内容にも立ち入らなくてはならはい。こちらも驚くほどの類似である。③のヤコブとニニギ(瓊瓊芸)、④のヨセフと火遠理命(=山幸彦)および⑥のベリアと神武の3世代の物語を比較する。系図骨格・分量ばかりか物語の内容においても、双方の神話は共通の基盤をもっている。
それらの類似を達成できるのは、日ユ両方に情報網をもつ太安萬侶が、『記紀』の編纂に関わっていたからである(『古事記』序および『日本紀竟宴和歌』序)。そして彼は、秦一族が住んだ笠縫邑(かさぬひのむら)(奈良県田原本町)では隣人同士であり、ユダヤ系の文化を知る機会も多かったと思われる。さらに自分の姓すら自身の出身を示す「多(おお)」ではなく、ユダヤ系に特徴的な「太(おお)」を使って、日ユの神話情報が『記紀』の下地になったことを暗に示している。
まず、③代目のヤコブとニニギのことである。二人とも兄を差し置いて家督を継ぎ、実の姉妹を配偶者に迎えるのだが、姉が不美人・妹が美人といった共通項をもつ。
写真を拡大 ③代目のヤコブとニニギ
次は④代目のヨセフと火遠理命(=山幸彦)である。
写真を拡大 ④代目のヨセフと火遠理命
次は6代目のベリアとジンムである。
写真を拡大 6代目のベリアとジンム
以上の比較によって『記紀』神話には、古代ヤマトに渡来したユダヤ系秦氏の活躍した痕跡が、多く残されていることが分かった。言い換えれば、『旧約』神話をベースにして『記紀』神話が編纂されたという事実抜きには、日本古代の歴史は語れないということである。
この事実は、古代史を語る上の大前提である。秦氏が「旧約の民」であり、最高神ヤハウェを「主」と崇めるユダヤ教の人々であることを考慮すれば、これは当然かもしれないが、古代史の常識からは大きく隔たっている。
しかし『記紀』などの中では「ユダヤ教」とか、それに類する言葉は使われていない。「ヤハウェ」と同じ概念で語られているのが、『古事記』の冒頭の一節である。一神教の創造主を感じさせる一文である。
天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主(あめのみなかぬしの)神。
ここでは「高天(たかま)の原」という場所は、ユダヤ系秦氏の信仰からすれば、何の疑いもなく「主」が坐(いま)すところとして描かれている。そこは「ヤハウェ」の御位がある崇高な場所という意味になる。そして「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時」であるから、それは原初の世界・状態であり、その中から最初の神「天之御中主(あめのみなかぬしの)神」が誕生したのである。
『古事記』は、この神と合わせ「三位一体」を成すと思われる、他の二神の御名を記す。
その高御産巣日(たかみむすひの)神とは前述の高木神のことであり、女(むすめ)がニニギの母となる萬幡豊秋津師比賣(よろづはたとよあきづしひめの)命である。
しかし以下の説明のように、高御産巣日(たかみむすひの)神は「獨神(ひとりがみ)」となっていても、天孫ニニギには祖父としての神になっている。系図としてはやや矛盾する親子三代である。
次に高御産巣日(たかみむすひの)神。次に神産巣日(かみむすひの)神。この三柱(みはしら)の神は、みな獨神(ひとりがみ)と成りまして、身(み)を隠(かく)したまひき。
「三位一体」という神の存在を表す神観様式は、西暦325年の第1ニカエア公会議以降のキリスト教の根本教義である。ユダヤ系秦氏が渡来したとき、すでにこのような神観をもって渡来したのか不明であるが、『記紀』編纂時期には伝来していた可能性を否定できない。
さらに、古代史の中で重要な史料を提供する「神社」についても、ユダヤの影響が非常に強い。ユダヤの神殿・幕屋と日本の神社に関する類似点をまとめた次の一覧表は、ユダヤ教の聖職者(ラビ)マーヴィン・トケイヤーの著作(『ユダヤと日本 謎の古代史』、『聖書に隠された日本・ユダヤ 封印の古代史』)を参考にしたものである。
写真を拡大
[図表1]ユダヤの神殿・幕屋と日本の神社に関する類似点
これだけ並べれば、日本の神社に参拝することは、意識するかしないに関わらず、ほとんどユダヤの神殿でお詣りしているのに等しいことが分かる。
そればかりか、榊を手にした神主が低頭する信者のまえで清めのお祓いをしてくれることは、ユダヤの祭司が植物の枝や穀物を上下左右に揺り動かして罪を清める古代イスラエルの風習そのものである。
さらに神主の白衣の裾から下がっている房が、ユダヤ神官のそれと同じような形式であることも、ユダヤの神殿と日本の神社が同じ起源をもっている確かな証拠であると思われる。
神社のお祭りには欠かせないお神輿も、その類似性には驚嘆するばかりである。
以上の感想は、第一作のなかで述べたものである。
また『日本の中の朝鮮文化』(金達寿/講談社)からは、神輿を担ぐときの掛け声も、半島由来であることを学んだ。
神輿を担いだ若い衆たちのかけ声、「ワッショイ、ワッショイ」というのは、これは朝鮮語「ワッソイ(来ました)、ワッソイ(来ました)」ということなのである。
祭のときの神輿というのは、いわば臨時に移動する神社であった。いまもそういうところがあるのではないかと思うが、かつては一軒一軒、そうして氏子の家をまわったものだそうで、つまり、ワッソイ(来ました)、ワッソイ(来ました)、さあ、みんな出ておがんでくれ、そして塩でも米でも寄進してくれ、というわけだったのである。
2.古代ヤマトの軍事的地勢
これまでの著書で、『記紀』神話は、『旧約聖書』をベースにして、ユダヤ系秦氏が深く関与していることを立証してきた。続いて魏志倭人伝の記述を精査して、邪馬台国時代の軍事的地勢についてもはっきりさせなくてはならない。
特に九州の自然環境は、その山河を要塞・攻守の要として利用することで、覇権国がその優越性を維持していくためには、不可欠の軍事的要素になるからである。そこで「倭人伝」が記した倭国内の軍事対立と、政治支配体制について再検討する。
まず軍事的対立を述べた部分は、邪馬台国の南に在った「狗奴国(くなこく)」のことである。
その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭(の)載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
方位を示す「南」のことであるが、邪馬台国の位置が近畿でも北九州でも、「その南」は現在の熊本県である。肥後菊池郡に比定できる。狗奴国の官が「狗古智卑狗」となっているが、男王の名前であると思われる。
菊池郡を本拠とする「キクチヒコ」が、女王卑弥呼の争う相手である。
あとの引用文では、その男王の名前が「卑弥弓呼」であると述べている。学説では「弥」と「弓」が入れ替わっていて、「卑弓弥呼(ヒコミコ)」が正しいと言われる。
「キクチヒコ」という名前の「ヒコミコ(男性のミコ=覡)」が狗奴国の王であったことを、「倭人伝」は伝えている。そして両国が相戦った様子を、邪馬台国の遣いである載斯烏越((戴斯烏越)たいしうえつ=武内宿祢(たけしうちのすくね))が、帯方郡に上って報告したのである。
狗奴国の王=ヒコミコ(覡)のキクチヒコ。邪馬台国の女王=ヒメミコ(巫)のヒミコ。相戦う二つの国は、神に仕えるカムナギを王とし、また神意を伺う特殊な宗教政治体制にあったことが理解できる。
カムナギとは巫覡(ふげき)のことであり、巫は女性・覡は男性のシャーマンである。
前著で述べたことであるが邪馬台国は、宗教分野を女王卑弥呼が担当し、出雲本国の大国主や大和の饒速日(大物主)が政治分野を受け持つ、いわば政教分離の国であった。だから神降ろしは卑弥呼が行ない、それが「戦え」という神意なら、今度は出雲の出番になったのである。
ところが出雲はユダヤ系首長の国(前著)であり、狗奴国との戦いの報告にも、出雲圏のユダヤ系人材が遣魏使として選抜された。先の「載斯烏越( 戴斯烏越(たいしうえつ)=武内宿祢(たけしうちのすくね))」もユダヤ系であり、この前途有望な若者はその後、邪馬台国の政治的な中心人物として、数代の天皇側近となって活躍するのである。
出雲がユダヤ系首長の支配する国であったことは、前著「追記9:発掘された出雲大社本殿と「ダビデの星」」の中で、数学的公式を使用して証明済みであるから、これを参考にしてほしい。
すなわち発掘された巨大本殿(長方形)の長辺(東西梁間13.4m)÷短辺(南北桁行11.6m)=1.1552であり、長方形に「ダビデの星」が内接する場合の理論値は、2÷√3=1.1547ある。1.1552-1.1547=0.0005である。
100mにつき5㎝の誤差に収まる精度で、発掘本殿には「ダビデの星」がピッタリ内接しているのである。
さてここで難しいことは、邪馬台国と出雲国が「政教分離国家」であると同時に、両国がその宗主国である「漢」や「魏」の間接支配を受けていたことによって、倭国内の政治情勢は一層ややこしくなってくることである。
ここは非常に大切な部分であるから、慎重に筆を運ぶ必要がある。魏による「間接支配」の文献証拠が、「倭人伝」に残っている。
a.東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐(とど)まる所なり。
b.女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都国に治(ち)す。国中において刺史の如きあり。
aの読み方で問題になるのは、「世々王あるも、皆女王国に統属す」のところである。この原文は「丗有王皆統属女王国」となっており、「皆統属女王国」の部分を主語+動詞+目的語と並べる漢文の標準的な語順通りに訳せば、《(伊都国王の各王)「皆」は、「女王国」を「統属」する》のである。
代々の伊都国の王たちは、女王国(邪馬台国)を「統属」させて、間接支配下に置いた、と述べているのである。
またbの文は主語の明示がないが、「女王国」ではない。「倭人伝」では伊都国から遠く、多くの日数をかけて水行・陸行したのちに到着する「女王国」である。
従って「常に伊都国に治す」=「常に伊都国に(都して国を)治める=間接支配する」のが魏であるなら、文脈に不思議はないが、それが女王国・邪馬台国とすれば、「倭人伝」と矛盾する。
南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
女王の都する所は、伊都国から遥かに遠い「邪馬壱国」である。女王は伊都国に都していない。伊都国の王が都する所である。bの主語は魏、または(魏が支配する朝鮮半島の)帯方郡である。
(魏は)、「女王国より以北(正しくは「以西」:筆者注)には、特に一大率(いちだいそつ)を置き」、
(魏は)、「諸国を検察せしむ」。諸国(は、)これを畏憚(いたん)す」。
(魏は)、「常に伊都国に治(ち)す」。
(一大率は)、「国中において刺史の如きあり」。
間接支配の軍事制度として、魏は「一大率」を置いた。その場所が伊都国であり、「常に伊都国に治す」軍事態勢であった。魏の軍事力を背景にしていたため、邪馬台国傘下の「諸国」は、「一大率」を畏れたのである。
「諸国」にとって一大率(漢や魏では「刺史」)という官名には、軍事的畏怖と同時に、賄賂による手懐(てなず)け・扱い易さも感じられる。中国における当時の「刺史」は、まさに同じような役回りをしていたからである。
「国中において刺史の如きあり」とは、そんな厳格な監察と甘い賄賂という二重性格をもったものとして、人間的かつ現実的な政治が理解できる一文になっている。魏志の撰者陳寿の苦笑が、目に見えるようである。
さて女王国自体の統治体制は、「投馬国(出雲国)」を筆頭にした国々が、巫女王卑弥呼を共立する宗教国家であった。政治・軍事面では、主として出雲国が女王を支援する体制であり、政教分離国家として機能していた。
しかし卑弥呼が亡くなると、宗教面の共立関係が壊れて、邪馬台国に属する国々は大いに乱れた。政治一本やりの倭国では、まとまりがつかない現実があったのである。
卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。
これらの体制を簡略に図示してみると、以下のようになる。
[図1]古代ヤマトの軍事的地勢および体制
上の図には、基本的な欠陥がある。魏の間接支配力(軍事力支援や関心の度合い)が衰えて来ると、帯方郡からの軍事関与も減退することである。先の卑弥呼が亡くなった時の倭国大乱も、そのような支配力低下の現象として観察することができる。
そのような場合には、政教分離の倭国にあって軍事力に秀でた出雲国が、魏(帯方郡)に替わって、倭国全体に影響力を及ぼすことになる。要するに、邪馬台国の他の諸国に対し、態度がデカクなるのである。
魏の我慢の限界内にある軍事行動なら、「一大率」も見逃すことになるが、限度を超えることが度々あると、魏の直接行動を招来することになる。
すなわち魏が支援する崇神天孫軍の渡海と、出雲軍との国譲り戦の開始である。
『古事記』によれば、出雲軍の元締めは大国主であり、その子事代主と建御名方も主力部隊になっている。一方で、天孫軍の主将は建御雷であり、その本拠地は伊都国である。
本営所在地が分かるのは、建御雷の父の名前によってである。『記』にはその名前が相前後して二つ記載してあり、読む者には親切である。すなわち、天孫軍は伊都国軍のことである。出雲軍に国譲りを迫ったのは、伊都の天孫軍であったことを、神話は語っている。
そしてその神話のベースには、ユダヤ系の神々が隠れているのである。
先述のように「高天(たかま)の原」という名称自体が、ユダヤ系秦氏の信仰から生まれたものである。だから天孫族が天降った場所は「伊都」=「天(伊都国)」であり、お供に連れていたのがユダヤ系の人々であった。『古事記』が描くお供の面々にも、ユダヤ系に特徴的な名前が出て来る。次のcには、それらユダヤ系の人たちの名前を発見できる。またその次のdでは、天孫族が天降った場所を明示している。
c.ここに①天兒屋(あめのこやねの)命、② 布刀玉(ふとだまの)命、③ 天宇受賣(あめのうずめの)命、④ 伊斯許理度賣(いしこりどめの)命、⑤ 玉祖(たまのやの)命、幷せて五伴緒(いつとものを)を支(わか)ち加へて、天降したまひき。(中略) 故、その天兒屋(の)命は、中臣連等の祖。布刀玉(の)命は忌部首等の祖。天(の)宇受賣(の)命は、猿女君等の祖。伊斯許理度賣(の)命は、作鏡連等の祖。玉(の)祖(の)命は、玉祖連等の祖。
*神名の前の○数字は、筆者が便宜的に付したもの
この天孫ニニギの降臨には、職業分掌として得意分野をもった五人の神々がお伴に付いている。ユダヤ系と直ぐに分かるお名前は②と③であり、それを太字で示す。ユダヤ系に特徴的な名前・地名は、前著に一覧表にしてあるので、参照してほしい。
HUTO-DAMA
UDU-ME
加えて①は、ユダヤ系藤原氏の祖である。藤原氏がユダヤ系であることは、前々著に詳細に述べた。④は鏡作りを専門にする高熱処理技術者、⑤は玉(勾玉)作りを仕事にする専門集団であり、ともにユダヤ系が得意とする技術である。
高熱処理は鏡作りばかりか、鉄剣や銅製品また土器の製作に適した先進技術でもあった。彼らの技術を総合すれば、当然ながら「三種の神器」を作ることもできたのだ。
ちなみに伊都国周辺の、現在の糸島市や福岡市西区などの遺跡からは、大王の地位を象徴する勾玉・鏡・剣がセットになって出土した例が報告(下記*印)されている。
従って考古学的な見地からしても、「倭人伝」が伝えるように、伊都国には「刺史」の役割を兼ねた「王」があって、倭国を間接支配していたと考えるのが自然である。
「刺史」=「一大率」=「世々の伊都国王」が、倭国(邪馬台国+出雲国+諸国)を間接支配する政治体制であり、中国側の漢や魏(帯方郡)が、それを軍事支援したのである。
支援の証が、「漢委奴國王」や「親魏倭王」の金印であった、と考えられる。金印の用途は、重要文書や機密文書を密封したあと、その結節部分の土塊表面に押捺・封印するためである。
*平原遺跡(弥生時代後期・糸島市)
* 井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡(弥生時代後期・糸島市)
*三雲南小路遺跡(弥生時代中期・糸島市)
*吉武高木遺跡(弥生時代後期)・福岡市西区)
天孫降臨には、技術以外にも軍事力が必要不可欠であるが、軍事専門の二人の名前は、大伴氏と久米氏である。
故ここに天忍日(あめのおしひの)命、天津久米(あまつくめの)命の二人、天の石靫(いはゆぎ)を取り負ひ、頭椎
(くぶつち)の大刀(たち)を取り佩(は)き、天の波士(はじ)弓を取り持ち、天の眞鹿兒(まかこ)矢を手挟(たばさ)み、御前(みさき)に立ちて仕え奉りき。故、その天忍日命、こは大伴連等の祖。天津久米命、こは久米直等の祖なり。
武門の二人は完全武装して、天孫ニニギにお仕えしたのである。その姿は、矢を入れる靫を背負い、柄頭(つかがしら)がこぶしのように丸い大刀を腰に下げ、弓矢を手にしていたのである。
この二人の関係も興味深いので、後述する。
d.竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)のくじふる嶺(たけ)に天降りまさしめき。
此地(ここ)は韓國(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を眞來通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。故、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地(ところ)。
下記は、天孫ニニギが天降った場所の説明である。第一作では、「竺紫」と「くじふる嶺」を固有名詞とし、「日向」と「高千穂」は、「くじふる嶺」の形容詞として理解した。
・降臨の場所は「竺紫(筑紫)」=北九州の「伊都国」である
・「伊都国」にある「くじふる嶺」に降臨した
・その山は日向(日当たり)が良く、高千穂(麗しい峰々)に譬(たと)えられる
・韓国(朝鮮半島)に向き合っている
・(壱岐島北端=加須村の)笠沙の岬を抱くように通る航路である
・(到着した場所こそ伊都国である)
・(そこは東西から海が深く湾入して、怡土と志摩の間が水道を成す)
・だから朝日は海から直接昇り(朝日が直刺す)
・夕日も海に直接沈んでいく、甚だ良い土地である
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