https://www.nagasaki.catholic.jp/?page_id=95 【教区の歴史 長崎の教会・・・・・日本二十六聖人記念館長 結城了悟】より
(1989年発行)
1.教会の誕生2.港の教会3.長崎教会の黄金時代4.長崎の十字架の道
現在の長崎教区の地に福音の最初の種を蒔いたのは、言うまでもなく聖フランシスコ・ザビエルであった。1550年8月末頃に鹿児島から船で西九州の海岸に沿って樺島に着き、そこから平戸へ赴いた。平戸では数人に洗礼を授け、その信者の共同体をコスメ・デ・トーレス神父に任せた。ザビエルはその道を開拓し、トーレスは最初の牧者となった。つづいて、バルタザル・ガゴ神父、ガスパル・ヴィレラ神父、イルマン、ルイス・デ・アルメイダなどがその教会を育てた。ガゴ神父から洗礼を受けた籠手田家は、平戸の教会の柱となった。こうして生まれた日本最初の教会は、消えることなく今日まで存続している。
1562年7月には、教会の道に新しい門が開かれた。ルイス・デ・アルメイダをはじめトーレス神父、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育て、そこからその年の暮れには平戸の根獅子、生月、度島に布教した。
1年後の1563年には横瀬浦から宣教が広がり、西彼杵半島の村々の主だった人々が洗礼を受けていた。同年4月には、ルイス・アルメイダが有馬領内に入り、島原と口之津に教会を開いた。ついに、6月初めごろ大村純忠と20名の家臣たちが横瀬浦の教会で受洗した。
その年の秋に横瀬浦が破壊され、トーレスは口之津に移り住み、そこから布教活動に対して指導を与えていた。1564年、福田と平戸に教会が完成し、1565年アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建てられた。福田の信仰の火花が戸町へと飛んだ。
こうして長崎教区の全地域に福音が宣べ伝えられていた1567年大村純忠は口之津にいたトーレス神父を訪れ、その話合いの結果で、ルイス・デ・アルメイダは長崎に入り、すでに信者であったベルナルド長崎甚左衛門から土地と小さな寺を受けた。1568年トーレスも長崎を訪れ、福田の宣教師ヴィレラ神父を長崎に任命し、自分は大村に移った。そこで12月8日、無原罪の聖母に捧げられた教会を三城城の麓に開いた。
長崎でのヴィレラの宣教は効果的で、1569年11月1日諸聖人に捧げられた教会が完成した。『小さくて美しい』その教会に1570年の春にはトーレス神父も移り、いろいろの試練を乗り越えて信仰を守り続けた大村純忠が、トーレス神父を見舞いに訪れている。
ザビエルが平戸に着いてから20年目には、現在の長崎教区の至る所で布教が行われ、その活動の結果がもう一つの出来事を招いた。1570年7月には、来日した新しい布教長フランシスコ・カブラル神父が天草の志岐(苓北町)で宣教師会議を開き、その会議で長崎の新しい町と港の問題が協議決定された。10月にトーレス神父が志岐において聖なる死を遂げた頃、フィゲレイド神父は福田から長崎湾に入り、卜ラバソス船長と一緒に新しい港の位置を決めた。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/categories/1145444 【サダナ】
https://sadhana.jp/a4.html 【アントニー・デ・メロ師について】より
経 歴
1931年、インド ボンベイ(現:ムンバイ)に生まれる
1948年、イエズス会に入会する
1961年、スペインで哲学、アメリカで心理学を学び、インドに帰って 東洋と西洋の霊性の統合、心理学とイグナチオ的霊性の統合を試み、司牧的カウンセリング研究所「サダナ」を主宰する。
1987年、米国ニューヨークで帰天
【邦訳書】
「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」 「小鳥の歌」「心の泉」 「何を、どう祈ればいいか」 「ひとりきりのとき人は愛することができる」 「蛙の祈り」 「こころの歌(ミニ本)」
などを執筆する(邦訳書について詳しくは、こちらをご覧ください)
アントニー・デ・メロ師の経歴
アントニー・デ・メロ師は1931年インドのボンベイ(現:ムンバイ)で生まれ、1948年イエズス会に入会、スベインのバルセロナで哲学、米国のシカゴのロヨラ大学で心理学、 その後ローマのグレゴリアン大学で霊性の神学を学びました。
1968年司祭・修道者としての養成期間が終了したときプネにあるイエズス会神学院の院長に任命され、神学生の霊的指導者となりました。
院長の任務を終えたとき、彼は優秀な霊的指導者になっていました。
最初の段階としてイグナチオの霊操を強調し、一か月のイグナチオの大黙想を指導していました。
大黙想には神学生ばかりではなく、イエズス会の司祭も参加し指導の訓練を受けていました。
彼はイエズス会の若い司祭に大きな影響を与え、しばらくの間インドのイエズス会の中で1ヶ月の霊操運動が広がりました。
彼は優秀な霊的指導者として認められたのです。
1974-1975年ボンベイ管区の代表として第32回イエズス会総会に参加し、毎朝総会参加者のために祈りの集いを開き指導し、好評を博しました。
この祈りは評判が良かったそうです。
著書”SADHANA”は古典的な名著となりつつあります。
アントニー・デ・メロ師の霊的過程
彼はあだ名でトニーと呼ばれていたのですが、トニーは自分の霊的指導者がカルベラス神父であったことをたびたび強調していました。
1950年代カルベラス師はバルセロナのサンクガト神学院の有名な霊的指導者でした。
イグナチオの霊性と霊操の指導をする真のマエストロでした。
トニーはつぎのエピソードを感動的に述べていました。
あるとき、霊的な面接でカルベラス師はト二一に尋ね、「あなたはどう祈りますか。ちょっと説明して下さい」と。
トニーは困った。どういうふうに祈っているかと考え、苦労しながらなんとか説明しましたが、カルペラス師は彼の説明をじっと聞いてから、言いました。「あなたはまだ祈りの体験がない」続いてイグナチオの祈りの三つの方法の三番目を教え、次のことを勧めました。
「主の折りをゆっくり呼吸しながら(Per anhelitos)唱えて下さい」その時、トニーは初めて祈りの体験をする事ができました。
ホセ・ビセンテ・ボネトの「Tony Demello、Companero de Camino」という本で次のように書いています。
「トニーはカルベラス師の霊操指導と霊操知識によって多大の影響を受けました。 カルベラス師の霊操指導は現在の個人同伴のやり方に近いものでした」(2002年、P116)
何年間もトニーはインドで大黙想を指導し、沢山のイエズス会員に影響を与えだけでなく、自分のやり方によって若いイエズス会員の中に霊操運動を興しました。
トニーはイエズス会の神学生がインドとアジアの霊性を体験しなければ、インド人に大きな影響を与えることが難しいことに気づきました。それだけではなく、現在の心理学も取り入れなければならないと確信しました。そういう訳でキリスト教的霊性だけでなく、段階的に東洋の霊性にさらすよう、種々のプログラムを組みました。
例えばヴィパッサナの有名な専門家ゴエンカ師を招き、十日間のヴィパッサナの瞑想指導を受講し、また心理学の専門家であるイエズス会員に依頼して1週間の治療研修(group therapy)を実施しました。
トニーは指導を続けながら三つの根本的源泉を見いだし、ひとつの流れとして指導を継続しました。
それはイグナチオとキリスト教の霊性、東洋の霊性、現在の心理学の三つです。
イエズス会神学生の霊的指導者としての期間が終了した時、新しい時期が始まりました。
それは男女修道会の修練長と養成責任者のためのサダナ研修でした。最初はプネで、その後プネから40km離れたロナープラに移動しました。ロナープラは山間部で夏休みの避暑地です。
そこにイエズス会ボンベイ管区の別荘があります。10月から3月までは殆ど使用していませんでしたので、しばらくの間そこでサダナ研修を行ないました。
アントニー・デ・メロ師の霊的過程における聖イグナチオの影響
パルマナンダ・ディヴァルカル師は、Contact with God(何をどう祈ればいいか)と、いう本のまえがきで次のことを書いています。
「彼の働きは種々異なった段階を通り抜けたことを知っておられよう。 彼は援助の手を差しのべた人々の必要によく調和し、彼らの内的な発展の要求に合致する働きであった」
「彼は卓越した指導者、精神療法家、グルーであった。デ・メロ師は大いなるキリスト教の伝統のなかで、最初で最後の霊的指導者だと賞賛する人もいる」 J.V.ボネトによれば
「トニーは最初の霊的な指導を忘れず、最後まで聖イグナチオの影響は大きいものでした」
(Toni jamas adjuro de sus comienzos) (p. 116)
聖イグナチオの影響はトニーの著書にはっきり現れています。
例えば、最初に書いた「サダナ」をはじめ、七冊の本でも同じことが言えます。
具体的には聖イグナチオの「原理と基礎」のindiferencia (不偏心)(妨げとなるかぎり、そこから離れるべきである)であり、もうひとつは「愛をえるための観想」(contempiacion para alcanzar amor)のなかの神を探し求める(buscar a Dios en todaslas cosas)という心の態度はたびたび出てきます。
ボネト師が書いているように、トニーは指導の流れのなかで次第に東洋的表現を用い、聖イグナチオの霊性の表現が東洋的なものに変わってきます。
彼によって仏陀の解脱(無執着) desapego radical は聖イグナチオのindiferencia (不偏心)に近くなっています。
だからこそ、ゴエンガ師はSantaindiferencia(聖なる不偏心)と呼んでいます。
『Call to love(ひとりきりのとき、人は愛することができる)』という本で、幸せになるためには物事から引き離されなければならないと言っています。
引き離す態度がなければ、幸せにはなりません。
神を探し求めるという態度は彼の著書「心の泉」の聖書という章で東洋的な表現で表しています。
ボネト師が書いているように
「トニーが話し書いた言葉は、インドのキリスト教にインド的な魂を吹き入れ、東洋と西洋の霊性対話をする試みである」
タゴールによって東洋と西洋は同じ人間の心臓の脈拍(収縮、拡張)になります。
トニーは東洋と西洋の文化のかけ橋となるという、壮大な苦労を厭いませんでした。
そのような仕事は必然性があり、避けて通れない事です。
トニーは亡くなる5年前即ち1983年7月31日聖イグナチオの祝日に、集まったインドのイエズス会員に講演し、次のメッセージを告げました。
「創造する力の聖霊に調和しようと願うならば、ときにはぶつかりあい、分かり合うことの難しい、私たちのカトリック教会を愛し、これに忠誠を示したいと望むなら、神へと深く沈潜する必要がある。 それは観想する道を通して初めて可能となる。 観想の道を歩む者だけが創造と軋轢のなかにあっても、忠誠と従順を統合する術を心得る。私はこの記念ミサでこう祈りたい。神の歴史が私たちを至らぬ者と見る事のないように、聖イグナチオが私たちを誇りに思ってくれるように」と。
サダナ
サダナとはサンスクリットの語句でヒンズー語で目標を立てること、神への道と道具を意味します。もっと具体的に言えば、自己を探る、道を歩む、導きを望む、等を意味するともいえます。先に申し上げたように、サダナの方法のなかで、根本的な源泉があります。
聖イグナチオとキリスト教の霊性、東洋の霊性、現在の心理学、このみっつです。
サダナ研究所は1973年インドのプネ市で、アントニオ・デ・メロ師によって創設されました。1978年に移動して、プネから40km離れたプネとボンベイの間の鉄道の山の駅にあります。デ・メロ師が開設したサダナ研究所は、霊操や霊的指導者の養成責任者が訓練を受ける霊性的な場所でした。
サダナの目的は人の内的自由を見いだし、体と心と霊の統合を目指して、すべてのもののなかに神を見て、神のなかにすべてがあることを体験するということです。
実際に指導してみて心理学の立場から見ると、サダナのプログラムの中にカウンセリング、NLP(neuro linguistic program)、フォーカシング(Focusing)、グループセラピー(group therapy)などを使っていました。
そのほかデ・メロ師はゲシュタルト(gestalt)や他の心理学を自由にこなして開発し指導していました。サダナのなかには、プロゴフ(Progoff)のダイアリー・サダナ(intensive journal)も入れていました。受講者は楽しんで参加していましたが、彼の指導はときには優しく、ときには厳しいものでした。
アント二-・デ・メロ師1987年帰天
トニーは1987年春米国に渡り、2ヶ月のサダナ研修を開催する予定でしたが、到着の翌日心臓発作で突然帰天しました。現在のロナブラ(Lonavla)のサダナ研究所は新しい建物となり、プログラムも大きく幅広くなっています。
霊性と心理学を統合し学ぶというよりも、経験することによって霊的なリーダーを育成しています。デ・メロ師のカリスマを守り続けて導いています。サダナが誕生してから35年経過しました。最初から人間の感情と霊性の統合を強調し、またキリスト教的霊性とインドの霊性の統合も強調していました。
今でもサダナの理想は、心理学的な統合と個人との一致によらなければ、養成責任者やカウンセラーの指導は難しいということです。
ですから、現在のサダナ研究所はデ・メロ師のカリスマを守り続けたいという決意があると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=SfQOczweyhI
https://www.youtube.com/watch?v=j5drfJCXiE0
0コメント