Facebookイーハトーブ心身統合研究所投稿記事
探求の旅で急激な意識の変容が起きると16世紀のキリスト教神秘家十字架の聖ヨハネが語った「魂の暗夜」とよばれる魂の危機を経験します。
この危機の「機」は機会(チャンス)の機でもあります。この危機を通過することにより新しい意識の次元が現れます。
しかし、今までの人生で困難で受け入れがたい経験、恋愛の破綻、親しい人との死別などの人間関係の喪失、経済の破産、計画の失敗、挫折などを受け止めずに避けてきた人は欲圧されたエネルギーが蓄積されているので、「魂の暗夜」の最中に再浮上してくるのです。
この探求の旅のプロセスは次のようになります。
1.セパレーション
今まで身につけていた偽りの自我がまわりの環境と合わなくなり葛藤が強くなって自我がゆらぎます。いままでに築き上げてきた物質的なもの、人生に価値があると思っていたもの、すべてが意味を失っていきます。
今までの古い自我を脱ぎ捨てることが起きます
2.イニシエーション
古い自我の境界を超える時にしまい込まれた過去の辛い記憶や否定的な情動と出会います。
シャーマンは地下世界へ旅たち、すさまじい拷問や試練を課す悪魔たちの攻撃を受ける経験をします。古事記のオオナムチは根の国へ行って苦しい困難な試練を受けます。
その葛藤をあるがままに受け入れることで未知の経験をします。自我の境界が溶けだし、通常の時間と空間の感覚を消失します。
超自然的なサトルの領域に入り、光と闇、善と悪、賞賛と嘲罵の相克の中で世界の創造と破壊のヴィジョンが現れます。
3.リターン
混乱の時期を過ぎると神と溶け合う経験をします。神と融合した「聖なる結婚」に至ります。
この経験は見る事も理解することも表現出来ないので6世紀の聖ディオニシウスは「神の暗闇」といいました。
十字架のヨハネは暗闇について魂はそれを識別することも命名することも出来ない。それを理解する事も説明する事、知らせる事も出来ない、語り得るような概念を形成することも出来ないと言っています。
マインドが停止したとき神と出会うのです。見る事も理解することも出来ない神との合一をどうやって理解するのかという問いに聖テレジアは「神のみが与えることが出来る心のうちに残された確信によって」と答えます。偽りの自分から、ゆるぎない本当の自分に戻ります。永遠の命と至福という宝物を手に入れるのです。
新しい自我を得て故郷(日常世界)に帰還します。古事記の英雄神話でオオナムチは試練を乗り越えスセリ姫と結婚をして人間界に戻り中つ国の王となります。
探求の旅は驚きと至福と美しさに満ちています。それと同時に困難と危険な旅でもあります。恐怖と悲しみと不安、深淵な虚無の暗黒が待ち受けています。探求の旅では目の前に繰り広げられる冒険に魅了される自我から影響されない自覚が要求されます。
日常の覚醒意識(グロス・粗大)、夢を見ている状態(サトル・微細)、熟睡状態(コーザル・原因)、この3つの意識状態を通してどの段階にも影響されないのが観照者(プルシャ・アートマン)です。
夢を見ている(サトル・微細)段階では日常の覚醒意識はありません。眠っていて夢の中で起きる印象に巻き込まれたままです。観照者が目覚めていると眠っていても覚醒夢を見る事が出来ます。
熟睡状態では日常の覚醒意識は眠っているのでわかりません。熟睡状態(コーザル・原因)は無限の空間、空間を持たない空間、永遠の時間、時間がない時間、はてしない沈黙、今ここだけがあります。マインドは眠っているので精神的な喜びや至福を感じる事はありません。この沈黙をキリスト教神秘主義では暗闇と表現したのです。観照者が目覚めていなければコーザル(原因)の状態を知る事はできません。
観照者は3つの意識状態のどの段階にも存在しています。ですから瞑想の訓練をつんでいない人でも観照者を直感的に把握することは誰でもできるでしょう。自分が存在していることを知るのに時間は要らないのです。誰でも即座に知る事が出来るのです。本当は秘密などなく常にオープンにされていて隠されてはいないのです。
自分で目隠ししているだけなので自分で気がつけばそれはいまここにいつもあります。
偽りの自我が消えるとたちまち光に照らされた朝もやのように罪と悲しみは百合たちの間にかすんでいくのです。(百合はキリスト教で神への深い信頼、純粋さを象徴します)
(以下略)
https://note.com/t0yama_k/n/n474d4cef566d?scrollpos=comment 【高浜虚子の「歩く」―「歩行」の俳句史(1)―】より
虚子の自伝や散文集を読んでいると、虚子が実によく歩く人であったことがわかる。東京から京都まで徒歩旅行したという若き日のエピソードは極端な例かもしれないが、たとえば京都の第三高等中学校に在籍していたころ、子規が帰省の途中で京都に立ち寄った際には、嵐山までの道のりを絶えず文学の話をしながら歩いたことがあった。「初冬の良い天気であつた」その日、二条口から嵐山へと歩きながら子規は「文筆の上で志を述べてみようと思つてゐる」という自らの将来について「頗る意気軒昂たる」様子で話したという(『虚子自伝』青柿堂、昭和二三)。「二里の道も知らぬ中に歩いてしま」ったというこの二人歩きのなかで虚子もまた自分の志を打ち明けるが、虚子はこのときのことを「この時ほど子規の言ふことが一々私の頭に響き、また私の言ふことを子規が容易に受け入れたことは前後になかつたやうに思ひます」と回想しており、二人が身体的な並行感覚を通じて内面的にも通じあっていくさまがうかがえる。
しかしやがて、こうした二人歩きのかなわなくなる時期がやってくる。子規が須磨で療養を行っていたころ、子規に付き添って三、四日をそこですごした虚子は「子規と共に松原を散歩したり、二階の手すりにもたれつゝ、雨の如く降る松の落葉を眺め」たりしていたが、このとき、余命の短いことを自覚していた子規から自分の後継者を委嘱されてしまう(『俳句の五十年』中央公論社、昭和一七)。これが後の道灌山での後継者辞退の一件へと結びついていくのである。そして数ヶ月後に虚子が新橋に迎えに行ったとき、子規は「少し跛をひいてをつたやう」だった。子規の腰痛はしだいにひどくなり、すでに以前のように歩くことが難しくなっていた。虚子と子規が道灌山へ散歩に出かけたのはまさにこのようなときであり、「杖に縋つて歩いた」子規の後ろを、虚子は無言で歩いたのだった『俳句の五十年』前掲書、『子規居士と余』日月社、大正四)。実はこの日のことを子規もまた五百木瓢亭宛書簡(明治二八・一二・一〇頃)に記している。それによると碧梧桐に失望した子規は後継者を虚子に定めるべくこの日の前夜に「寒風凛々たるをものともせず」虚子の家に出かけたらしい。しかし虚子が不在であったため「直に手紙を発して今朝来れと命」じた。子規と虚子との互いにすれ違う歩みは、両者の心持ちそのもののようだ。
今朝起きて待てどもく虚子来らず けふはやけになつて分類に従事致居候へども虚子の事のみ気になりて捗取り不申 やがて虚子の来りたるは十一時頃なりしならん それより共に午餐をたうべ、社へは不参の趣届置虚子を携へて道灌山に到り申候 小生未だ歩行に馴れず行程十町三四十分を費す
この日、二人は道灌山の茶店で話をしたあと御院殿の坂下で別れている。子規は「遅き歩」が「更に遅く」なるのを感じつつ、やがて涙を浮かべつつ歩く(前掲瓢亭宛書簡)。一方の虚子は「居士に見放されたといふ心細さ」と一種の解放感と「悔恨の情」とがないまぜになった「一種名状し難い心持に閉されてとぼとぼと上野の山を歩いた」という(『子規居士と余』前掲書)。
とはいえ、とくにホトトギスの経営の責任が虚子に移って以降、子規と虚子とは親密な関係を続けていた。しかしとうとう子規に死が訪れることになる。虚子は子規が亡くなった夜、看病のため子規の家に泊まっていた。死の直後に虚子が記し数日後に新聞『日本』に掲載された「子規終焉の記」(明治三五・九・二五)によれば、明治三五年九月一九日午前一時に子規が亡くなると、虚子はすぐに碧梧桐を呼ぶために子規宅を出ている。そして歩く道すがら「十七日の月」を見る。「一点の翳もなく恐ろしき許りに明かなり」と記されたその月はやがて〈子規逝くや十七日の月明に〉と詠まれることになった。この夜のことは、十余年後に発表された『子規居士と余』(前掲書)のなかでもう少しくわしく記している。そのなかに、子規の死の直前について次のようにある。
其十八日の夜は皆帰つてしまつて、余一人座敷に床を展べて寝ることになつた。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。其は十二時頃であつたらう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛かつてゐた。余は黙つて其月を仰いだ儘不思議な心持に鎖されて暫く突立つてゐた。
子規臨終の直前、虚子は庭に向かって歩いていたらしい。そして「糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛つて」いるのを見たという。なおこの数日前、子規は「九月十四日の朝」(『ホトトギス』明治三五・九)と題する文章を虚子に筆記させている。
昨夜に限つて殆ど間断なく熟睡を得た為であるか精神は非常に安穏であつた。顔は少し南向きになつたままちつとも動かれぬ姿勢になつてゐるのであるが、其儘にガラス障子の外を静かに眺めた。(略)窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が三枚許り載せてあつて、其東側から登りかけて居る糸瓜は十本程のやつが皆痩せてしまうて、まだ棚の上迄は得取りつかずに居る。(略)余は病気になつて以来今朝程安らかな頭を持つて静かに此の庭を眺めた事は無い。
『病床六尺』にもこの日の前後の記事があり、子規は自らの苦痛を「極度にまで想像したやうな苦痛」(九月一三日)、「僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫」(九月一四日)と記している。それでもこの一四日の朝は気分が多少はよかったらしく、庭を眺めている。虚子が子規の死の間際に見た月は、このとき子規のまなざしのなかにあった糸瓜棚の上に掛かっていた月であった。子規の死の直後に見た「一点の翳もなく恐ろしき許りに明かな」月とは、この月と同じものであろう。子規が生涯の最晩年に「安らかな頭を持つて静かに」眺めた庭へと歩いた虚子―子規のまなざしのなかへと自らを映しこんでいくように庭へと歩いていったこのときの虚子の思いとはいかなるものであったか。糸瓜棚の上にかかる月を見たその思いとはいかなるものであったか。虚子はもう子規と並んで歩くことができなくなった。しかし、その夜、月に照らされつつ歩いた虚子はたしかに子規と歩いていたにちがいない。
余の真黒な影法師は大地の上に在つた。黒板塀に当つてゐる月の光は余り明かで何物かゞ其処に流れて行くやうな心持がした。(『子規居士と余』前掲書)
ところで、虚子は晩年になるとよく散歩をしていたようで、文章にも散歩にかんする話題がしばしば登場する。たとえば昭和一九年から二二年にかけて虚子は小諸に居住していたが、寒さが厳しく積雪もある小諸では冬になると思うように散歩ができなかったため、食後に縁側を散歩するようになったらしい。わずか三間半の縁側を一時間ほど往復するのである(「縁側散歩」『小諸雑記』青柿堂、昭和二一)。また、小諸の住まいには起き臥しする建物のほかに虚子が「俳小屋」と呼ぶ別棟もあった。虚子は朝九時半か十時ごろになるとこの俳小屋へ「出勤」していたが、やがてこの俳小屋でも「間の障子を開けて、一方の柱から他の柱へと移つて行つて、四角に歩き、又三角に歩く」という「俳小屋散歩」をするようになる(「冬籠」『小諸雑記』前掲書)。
そもそも虚子にとってこの室内散歩は健康維持のために行っていたものであったが、興味深いのは、虚子の文章から、わずか数間を幾度も往復しているうちに、この散歩が次第に精神性を帯びた行為へと変じてきているさまがうかがえることだ。虚子はこの室内散歩のなかで「之が私の不断の生活そのものであつて、かうして居れば満足であるやうな心持さへして来る」「こんなふうに運動を続けて時間を費して行くことが、私の晩年の生活そのものであるやうな感じがして来る」と考えるようになっていくのである。
もっとも、この種の歩きながらの空想癖のようなものは若いころからの虚子の特徴でもあった。たとえば「三つのもの」(『ホトトギス』明治三二・三)で、虚子は「退屈でたまらぬが表へ散歩に出かけることも出来ぬといふやうな時」に「座敷をあち歩きこち歩きし乍ら額の画を眺めるのが我が常である」と述べ、絵のなかに没入した虚子は画中の尼とささやかなやりとりを交わす。あるいはまた、やはり若き日の「浴泉雑記」(『ホトトギス』明治三二・七~九)においても、修善寺を朝夕散歩しながら縞蛇やすれ違った男に想像を膨らませるさまが記されている。これは晩年においても変わらず、たとえば庭の椿の木に対して、「その椿の花が赤い衣をつけた数多い天使のやうなものになつて、足の悪い目も覚束ない私をかき抱くやうにして自在に空中を飛翔して好きな所に連れて行つてくれる、とそんなことを空想」している(「椿の苗木」『虚子自伝』第一書房、昭和三〇)。
いずれにせよ、晩年の虚子は庭の小道や室内を何十周もすることに時間を費やしていたようだ。運動にしてはや奇妙な、ほとんど無為とも思えるような行動を虚子が毎日続けていたのはなぜだったろう。その理由を写生や創作のためだと説明することもできそうだが、若い頃と異なり、歩きのなかで人生観照めいたことさえ思うようになる虚子にとって、歩くという営みはもう少し別の意味合いも持っていたように思われる。
たとえば虚子は家族を連れて修善寺旅行をしたことがあったが、このとき伊豆鉄道の車内で妻とその友人が「今朝貴女と御茶水橋で電車で擦れ違つた事を考へると今頃もう此辺に来てゐるのが不思議だわねえ。全く人間といふものは妙なものねえ」「全くだわねえ。其んな事を考へ出すと此次にどんな事が起つて来るかも知れぬと何時でも私怖くなつて来るわ」と話すのを聞いている(「修善寺紀行」『ホトトギス』明治四二・八)。こうした恐れは、鉄道の登場によって点と点を跳躍するように移動するようになった、自らの身ぶりの変化に対する漠然とした不安が、ふいに顕在化したものであったろう。虚子にとってこうした変化は鉄道のみによってもたらされるものではなかった。ホトトギスの発行所を丸ビルへ移転した虚子には、エレベーターもまた身近な輸送手段であった。虚子はそれを「ドンがなると丸ビルの各事務所から下の食堂めがけて行く人は大変なものである。各エレベーターはことごとく満員で、そのエレベーターが吐き出す人数は、下の十字路を通る群衆の中になだれ込んで、肩摩轂撃の修羅場を現出する」と記している(「丸の内」『二三片』ほととぎす発行所、昭和五)。エレベーターでの移動をめぐる昼休みのほんの一コマからも、虚子の身振りがそれまでと同じではいられなくなっているさまがうかがえる。虚子が生きていたのは、いわば地点と地点との間隙にある物理的な時間をゼロにすることを夢みる社会であり、歩きの持っていた豊かな機能が移動という一点へと先鋭化され、同時に、歩き以外の移動手段が急速に発達していく社会であった。
ティム・インゴルドはこうした近代社会における歩き、あるいは歩行について次のように述べている。
かつて連続した身振りの軌跡だったラインは―近代化の猛威によって―ずたずたに切断され、地点ないし点の継起となった。(略)かつて運動と成長が多様に織り合わされた撚り糸でできた結び目であった場所は、いまや連結器による静的なネットワークの結節点になった。現代の大都市社会に住む人々は、さまざまに連結された要素が組み立てられて出来ている環境に自分たちがいることをはっきりと自覚している。しかし実のところ人々はそうした環境のなかでも自らの道を縫うように歩み(スレッド)続け、歩みながら小道を辿る(トレース)のだ。(『ラインズ』左右社、平成二六)
虚子の残した文章からその生活のありようについて思いを馳せるとき、僕にとってなにより不思議だったのは、鎌倉から東京まで毎日のように電車で通勤する生活を送りつつ、その一方では―とりわけその晩年において―ごく狭い範囲を長時間にわたって何往復もするというような散歩を飽きもせずに続けている虚子の、一見ちぐはぐに見える身体感覚であった。しかし、インゴルドの言にならえば、虚子の散歩とは急速に近代化の進む日本社会にあって喪失せざるをえなかった自らの歩行という身振りの軌跡―ライン―を回復する営みであったように見えてくるのである。
https://note.com/t0yama_k/n/n14bee211ac5c 【「俳句」とは何だったのか(四)―「俳句史」論のためのノート(9)―】より
さて、本稿では、俳句の本質をイローニッシュな対象把握にあるとする井本の主張(俳句イロニー説)について具体的に見ていくことにする。前回述べたように、井本が上記の主張を明らかにした例としては、神田秀夫との対談「写生説を超えるもの」(『現代俳句』昭和二三・六)がその最も早いものであろう。この対談は井本の「写生説の再検討」(『現代俳句』昭和二二・一〇)を受けて「写生にかはつて俳句の主流とすべきものは何かといふこと」を井本に聞くために企画されたものであった。
この対談で井本はまず子規が写生説を唱えるに至った歴史的な必然性を二つ挙げている。その一つは、小規模のグループ内において了解されている約束に基づく作品制作を行っていた俳諧には少なからず「非常に主観的になるといふか、普遍性を欠くものがある」が、明治以降「新しい市民社会の芸術として、普遍性と客観性とを持たなければならなくなつた時」にあって、「写生説が、さういふ主観的なかたよりに対してある客観性を与へる意義を持つているんぢやないか」と説明されているものである。前回、この対談の前に発表された「季語の文学性」(『国語と国文学』昭和一七・二)において井本が子規の写生説に一定の評価を与えていたことを確認したが、この発言にも同様の評価がうかがえるだろう。
そして、井本の挙げるもう一つの歴史的必然性とは次のようなものだ。すなわち、俳句(俳諧)的な観照はイローニッシュなものであり、ある事象に対してこの俳句的な観照によってなされた本質規定が季節感と結びついたものが季題なのだが、季題を中心にした俳句的な観照が江戸末期から明治に至って固定化(観念化、抽象化)してしまった。そこで、「さういふ観念化、固定化から離れて、具体的に本当のそのものの本質を見ようといふ方法として、そこに写生説が登場してくる意義があつた」というものである。ここからわかるように、井本のいう「イローニッシュな対象把握」とは、本質であると言いながらも俳句史的には一度行き詰まりを見せたものであり、かつて写生説によって乗り越えられていったものである、というのが井本の基本的な認識であった。にもかかわらずここであえて先祖返りをするかのような主張をしていたのは、井本が写生説の発展にある歪みを見ていたからである。
さういふ意義をもつた写生説が僕の考へでは、むしろゆがめられて発展させられた、すなはち花鳥諷詠と結びつきそして現実の外に美の殿堂を築いて、そこに遊ばうといふやうな、僕のよくいふ草枕的な方向へ進んで行つたといふこと、これがこの写生説の誤つた発展になつて行つた。
ここには「写生説の再検討」に見られたホトトギス批判と同様の批判が見られる。「写生説の再検討」の発表やこの対談が行われたのは第二芸術論の発表後まもないころのことであったが、たとえば対談での井本の次のような発言を見るかぎり、俳句イロニー説は第二芸術論への多様な反応のひとつとして位置づけられるように思う。ただそれ以上に重要なことは、俳句イロニー説を終戦直後の俳壇の状況のなかに閉じ込めることではなく、むしろそこに、「戦後俳句」史がその本格的な展開を見せていく直前の―いわば胎動期にあったころの―「戦後俳句」が本来持っていたはずの多様な可能性の記憶を見出すことだろう。
近ごろ、俳句の本質を季題であるとか、あるひは十七字形式であるとかいふやうに規定する意見がいろいろ出てゐますね、だけれどもその二つだけにおいて規定したんでは、例へば連歌の発句はちやんと季の言葉が入つてゐる。そして十七字形式である。(略)だから俳句の本質といふやうなものは、十七字形式とか季題といふやうなもののみには求められない。どうしても俳句的な掴み方、俳句的な世界に対する身構へといふやうなものを考へざるを得ないのぢやないかと僕は思ひます。
川名大は昭和三〇年代の前衛俳句をめぐる論争について述べるなかで「戦後は、時間性の抹殺として俳句形式の内部構造を捉えた山本健吉や、イロニッシ(ママ)な対象把握を説いた井本農一、態度や方法としてのイロニイを説いた神田秀夫らの諸説があった。しかし、前述の論争では、これら先見の卓説はまったく生産的に継起されることがなかった」と述べているが(「『現代俳句協会』分裂前後の光景」『モダン都市と現代俳句』沖積舎、平成一四)、当時に限らず現在も―山本の説はともかくとして―井本や神田の俳句イロニー説が顧みられているとはいいがたい。とすれば、昭和二〇年代における井本の主張は結局のところ「戦後俳句」史のあだ花であったのだろうか―この点については後でふれるが、本稿ではその前に、そもそも井本の俳句イロニー説とはいかなるものであったのかを確認しておきたい。
井本の言う「イローニッシュな対象把握」については対談「写生説を超えるもの」以後のいくつかの評論において井本自身によって詳述されることになるが、この対談ではまず次のように説明されている。
例へば「秋ふかき隣は何をするやらむひつそりとして物音をせず」としたのでは、反つて内面的表現が稀薄になつてしまふ(ママ)「秋ふかき隣は何をする人ぞ」といふ一見消極的な外形のいひ足りなさによつて反つて内面的表現が豊かになる、とまあ思ふんですが、さういふ点にもイローニツシユな関係が見られます。
ここでは十七字という形式の要請した表現上の特徴が(「外形のいひ足りなさ」)がイローニッシュな表現と結びついたと説かれているが、俳句イロニー説の理解のうえでより重要なのは、これに続く次のくだりであろう。
又さういふ表現の面だけでなく、対象の摑み方自体、或は大げさにいへば俳諧的世界観とでもいへばいへるものにも、さういふイローニツシユなものがあつて、それが俳諧性の本質をなしてゐるんぢやないかと思ふのですが。例へばですね、「本(ママ)枯の身は竹齋に似たるかな」といふ芭蕉の句でもね、わが身を狂歌を詠む藪医者の竹齋と観ずることは従来の公家的、和歌的伝統では到底考へられないことでせう、それを飄々たる藪医者に自分を比してそこに一種の自嘲と同時に又自負とを籠めてゐる、さういふ関係といふものは伝統的なもの、或は権威とか絶対者等に対してイローニツシユな対象の把握の仕方だと思ふんです。
このような対象把握は、ともすればニヒリスティックな態度ともつながるもののようにも思われる。だが井本自身が「ニヒリストの俳句、ニヒリズムがさういふイローニツシユなものの正当な発展の全部だとは思へない」と述べているように、両者を安易に同一視するべきではないだろう。そこで、この俳句イロニー説について、井本の評論を介してさらに詳しく見ていくことにしたい。
井本は「俳句的対象把握」(『天狼』昭和二四・三・四月合併号)において、イローニッシュな対象把握について、具体的な作品に即して解説している。同文章においてとりあげられている句としては波郷の〈初蝶やわが三十の袖袂〉や、すでに対談でも引いていた草田男の〈黴を拭き日に当て一と日一と日くらす〉などがあるが、ここでは誓子の〈炎天の遠き帆やわがこころの帆〉について述べた部分を引いてみたい。
この句は炎天の句である。音もなくじりじりと人間に迫り来る酷烈な自然の句である。と同時にある意味では遠き帆の句であろう。この句の焦点は「遠き帆」にあるといってもよいであろう。見ていると心の明るくなるような「遠き帆」である。しかしそれは炎天の遠き帆であるからこそ、それを見ることに心の慰めがあり、明るさがあるのであって、ただ普通の遠き帆ならばそれだけの話である。つまりこの場合の遠き帆という明るい肯定的なものは炎天といういわば否定的なものの中に置かれることによって、始めて真に肯定的になる。
このように述べたうえで、井本は「一応叙情が否定され、しかし否定されることによって反って抒情が生きてくるというような発想、或は素朴な抒情に満ちているようで、実は底の方で酷しく否定されているような発想、それらはむしろ俳句的把握の常識であるといってよいであろう」としている。つまり、(バリエーションは複数あるものの)ある対象についてのなにがしかの感慨を一旦否定することによってかえって肯定するというような態度を井本は「イローニッシュな態度」と呼び「俳句的把握」と呼んでいるようだ。
ところで、井本によるこうした俳句イロニー説を、その発表直後から高く評価していたのは神田秀夫であった。先の川名の評価にしても(昭和一四年生まれの川名が昭和二〇年代の俳論の状況に詳しかったとは思われないことから推しても)神田による井本評をふまえた評価であると思われる。川名は俳句の特色の一つとして「対象をとらえるイローニッシュな態度・発想・視角・把握」を挙げているが(『現代俳句』上巻、筑摩書房、平成一三)、ここに神田を介して「井本―神田―川名」へと途絶えることなく引き継がれた俳句イロニー説の現在のありようを見ることは、必ずしも無理なことではないだろう。したがって、戦後俳句史において相対的に埋没した主張であったとしても、ひとつの水脈を形づくっているともいえそうである。ただ、井本の説と神田の説は、イロニーと結びつけて俳句の本質を論じている点は同じでも、両者には異なる点もある。そこで、次稿では両者を比較しつつ、戦後俳句史が見落としてしまったものを検証する足がかりとしたい。
0コメント