https://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/post-177.html 【般若心経は真言を説いたお経】より
『般若心経』ほど、一般によく知られよく唱えられる仏典はありません。日本の仏教各宗では日蓮宗や浄土真宗を除きどこでもこのお経を常用経典として、ご葬儀やご法事に、護摩祈願やご祈祷に、巡礼やお遍路の際に、檀信徒の日常のお勤めでも、お唱えします。また解説書の出版や雑誌の特集ものも多く、高田好胤師や松原泰道師や瀬戸内寂聴氏やひろさちや氏などの「心経講話」「心経解説」ものがよく読まれています。
しかし残念なことに、この方々の出版物も、これまで公表された仏教学者や学僧の解説書も、すべて(と言っても過言でないほど)『心経』の本当の姿や内容を伝えていませんでした。敢えて言えば「ダメ」「デタラメ」「ごまかし」の類です。
なぜか。理由は簡単です。どなたも『心経』で最もだいじな最後の結論の部分、つまり「般若波羅密多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚故 説般若波羅密多咒 即説咒曰 掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 薩婆賀」のところのとくに「大神咒 大明咒 無上咒 無等等咒」をいい加減に解釈したり、「掲諦 掲諦・・・」の意味がわからないため「行ける者よ、(彼岸に)行ける者よ」などという意味不明の解釈で逃げていて「なぜ、般若波羅密が咒なのであって、一切の苦を能く除くのか」というこのお経の最大のテーマに答えられていないのです。これは『般若心経』の解釈としては尻切れトンボのごまかしです。
しかしそれはある意味でもっともなこととも言えます。この『般若心経』は、サンスクリット語学を相当にやった人でないとわからない、インドのタントラの伝統たとえばマントラの言語感覚をわかっている人でないとわからない、インドの仏教思想史をきちんと学んだ人でなければわからない、大乗と密教の勉強をかなりした人でなければわからない、のですが、解説書を書いた人たちにその該当者はどうもおられないからです。
失礼ですが、瀬戸内寂聴さんなどに『心経』はわかりません。よく僧形でテレビに出演し、わかったような仏教解説をしますが、あれはテレビ局が視聴率を高めるために「タレント」を使うためであって、瀬戸内さんがつけている天台宗の輪袈裟が「この方は本当に仏教を勉強した人だ」と証明しているわけではありません。彼女はテレビでそう装うのは上手ですが、彼女の解説がかえって仏教の深遠な教えに誤解の種を撒くことになっているとしたら「越法の罪」ものです。
さきほど密教の研究をかなりした人と書きました。最後の「掲諦 掲諦・・・」はマントラつまり真言だからです。さらにもっとだいじなことは、弘法大師空海がこの『心経』の解説書『般若心経秘鍵』を書き、破体『心経』という書を残して経文の漢字まで梵字化(マントラ化)している、ということです。
近代仏教学の学術の世界では、『心経秘鍵』を知っている真言系の学者まで「あの空海の解釈は密教独特の解釈であって仏教学界に通用する解釈ではない」という説に反論できないまま鵜呑みにしてきました。なぜか空海の『心経秘鍵』は「心経ばやり」のなかでも光を当てられませんでした。
そういうことを全部わかった上で、このたびサンスクリット語も密教も空海もわかっている宮坂宥洪師が、空海の『心経秘鍵』をベースに新しい『般若心経』解釈を試み、もののみごとにこのお経の全体像とその主題の解明をされました。この日本にやっと最初から最後まで「整合性」のある「心経解釈」が誕生しました。これではじめてヨーロッパやアメリカの知識人と共有し議論できる仏教思想のデータベースが完成したのです。
サンスクリットローマナイズおよび漢訳原文
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※本コンテンツは、宮坂宥洪師が月刊誌『大法輪』(平成13年1月号~6月号)に6回にわたり連載したものをもとに、平成14年6月3日「公開フォーラム<『般若心経』のほんとの意味>」で行ったプレゼンテーションの画像を加えて、事務局にて再編集したものです。
https://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/post-201.html 【第2章 四層の建物】より
第1節 自分とは何か
自己の究明こそ、仏教に限らず、古来よりインドのすべての哲学・宗教の根本的なテーマでした。もちろんそれは〈私たち〉にとっても重要な問題です。
〈私〉とは何か─。これは自明のようでいて案外、いや非常にむずかしい問題です。自明のように思われるのは、正常な人なら誰でも自分を他人と混同するようなことはないからです。私は私であり、私以外のものではない。こんなことは言うまでもなく当たり前の話です。わざわざ例をあげるのもどうかと思いますが、たとえば他人が食事をしても私は満腹になりません。
では、どうして私が他人ではなく、私であるということを知っているのでしょう。私が私である根拠はどこにあるでしょう。
まず、「身体がある」ということが、おそらく一番わかりやすい〈私〉の根拠だといえるでしょう。鏡に映った自分の姿を見て、誰でも「私が映っている」と言いますね。体のない私は考えられません。
次に、痛いとか熱いとか楽しいという感覚も〈私〉の根拠だといえるでしょう。もし、何の感覚もなければ、たとえ体があったとしても〈私〉はないも同然です。
それからイメージも〈私〉の根拠です。〈私〉はいろんなことを思い浮かべます。それがイメージです。いろいろと経験したことが、もし何一つとして頭に思い浮かばなければ、〈私〉はやはりないも同然です。
イメージというのは表層意識です。これに対して深層意識というのがあります。イメージを映像にたとえるなら、深層意識はフィルムにあたると考えればわかりやすいでしょう。この中に〈私〉に関するありとあらゆる情報が蓄えられています。それがなければ映像も生まれません。この深層意識があるということも〈私〉の根拠です。
また〈私〉は物事を識別し、いろいろと判断をし、決断を下します。理性のはたらきといったらよいでしょうか。これがないと体を動かすこともできません。この判断能力というのも〈私〉の根拠です。
とりあえず以上の五つを、〈私〉の根拠と考えてさしつかえないでしょう。さて今述べたことは、実は、観自在菩薩が考えた通りのことなのです。
自分とは何だろうか。自分を自分たらしめているものは何だろうか。それをつきつめてゆくと、「体がある」「感覚がある」「イメージを持つ」「深層意識がある」「判断をする」、この五つがある。これらが〈私〉を〈私〉たらしめている根拠だと思い至ったのです。
この五つのことを「五蘊」といいます。般若心経に出てくる用語では、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)がそれぞれに対応します。「薀」とは、〈私〉という経験主体を構成する基幹的な要素、といったほどの意味です。
五蘊があるから〈私〉という存在は確かめられるわけですし、この五蘊のうち、どれ一つを欠いても〈私〉は〈私〉でなくなってしまいます。いいかえれば、〈私〉という存在は五蘊なのだ、ということです。
第2節 五蘊の瞑想
もう少し続けます。でも、本当に〈この体〉が〈私〉なのでしょうか。手足や髪の毛が〈私〉なのでしょうか。この考えは少しよく考えてみれば、おかしいということに気づくはずです。
ふつう「私には髪の毛がある」と言って、「私は髪の毛である」とは言いません。体のどの部分をとっても、また全体としてみても、それはあくまでも「私の体」にすぎません。体は〈私〉のいわば所有物なのです。
体は〈私〉を〈私〉たらしめている根拠には違いありませんが、どうやら〈私〉そのものと考えるのは無理のようです。
感覚も同様です。「私は痛い」という時、それは「私に痛みがある」ということであって、痛みそのものは〈私〉ではありません。「私は痛みである」とは誰も言わないでしょう。表層意識としてのイメージや深層意識や判断もまた同様です。これらは「私のもの」ということはできても、それじたいは〈私〉ではありません。
そうすると、五蘊は〈私〉の根拠だとは言えても、五蘊そのものは〈私〉ではない。つまり、〈私〉は五蘊ではない、ということになりはしませんか。では五蘊以外の〈私〉がどこかにいるでしょうか。体もない、感覚もない、表層意識も潜在意識もなく、判断もしない〈私〉という存在がどこか別にあるのでしょうか。
五蘊とは別に〈私〉は、やはりどこにもいそうはありません。でも、五蘊は〈私〉ではない。すると〈私〉は一体どこにいるのでしょう。〈私〉とは何でしょう。
ふしぎなことに、〈私〉はどこにも見当たらないのです。これは一見とても奇妙な結論です。〈私〉を探究していくと〈私〉はいなくなった!
でも、現に〈私〉はここにいるではありませんか。議論の進め方が間違っていたのでしょうか。それとも現にここにいると思いこんでいる〈私〉は幻なのでしょうか。
この奇妙な考察は何を物語っているのでしょう。
これは実はインド人が考え抜いてきた「自己と世界のあり方」についての、とても厄介ながら重要な問題に関連しています。インドのサンスクリット語では、たとえば「私は痛い」を「私に痛みがある」と表現します。インドの哲学者たちは、これは、〈私〉という実体(じったい)に〈痛み〉という属性(ぞくせい)がある、ということであると分析しました。
さらに別の例をあげると、「このバラは赤い」という場合、これは、バラという実体に赤色という属性がある、ということです。
実体と属性とはどのような関係にあるのでしょうか。属性なき実体も、実体なき属性もありえません。色も形も香りもないバラを考えることができないように、バラでも何でもなくて、ただ色だけ、形だけ、すなわち属性だけが単独で存在することも不可能です。しかし、その一方で、実体と属性とが別物であることも確かです。
ややこしい話になってしまいましたが、般若心経を理解するうえで必要と思われる予備的知識として申し上げました。ただ、ここではこれ以上は深入りせず、要点だけを大雑把にまとめますと、あらゆるものごとを実体と属性という枠組みでとらえて世界の成り立ちを考えようとしたのがインドの伝統哲学でした。それに対して、実体と属性に分けることは人間の思惟が生み出した虚構であると主張したのが仏教だったのです。
仏教はインドのバラモンの伝統的(すなわち「正統」)哲学に対して巨大なアンチテーゼ(すなわち「異端」)として登場し、かつ最後までアンチテーゼであり続けました。その最大の論点のひとつとして、〈実体─属性〉をめぐる認識論があったのです。
観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の行をしている時、(わが身は)五蘊なり、(しかもその五蘊は)皆空なりと照見した。
般若心経の最初のこの短い一文は、そうしたインド哲学史上の大論争を背景に生まれたものです。仏教側の結論を一言でいうと、「五蘊皆空」ということだったのです。そして、重要なことは、これは単なる哲学上の一つの見解というよりも、「般若波羅蜜多の行」という瞑想実践によって得られる修行の成果であったということです。
第3節 五蘊皆空のヴィジョン
漢訳の「五蘊皆空」は「五蘊は皆(みな)空(くう)なり」としか読めません。五蘊というものがあるのだけれど、それはすべて空なのだということです。「空」については次回に説明しますが、この読み方では、五蘊というものはとにかく否定されなければならないということになってしまいます。実際に一般の解説書では、そうしたニュアンスで五蘊と空との関係が理解されているように見受けられます。
ところが、サンスクリット語の原典によると、この箇所は「(わが身は)五蘊なり、しかも、その五蘊は空である」と、二段階に分けて読まねばなりません。
同じことではないかと思うかもしれませんが、全然違います。漢訳が間違っているわけではありませんが、この読み方の違いは重要で、般若心経全体の理解にかかわってくると言っても過言ではありません。
観自在菩薩は、まず「(わが身は)五蘊なり」と観察し、その次に、「それらはすべて空である」と観察したのです。この空のヴィジョンは、はるか高みにおけるこの上ない見晴らしというべきものでした。それが「照見した」という語に表れています。「観ること自在」という名の観自在菩薩にして会得しえた高度なヴィジョンだったわけです。
ここで肝心な点は、その前段階として五蘊のヴィジョンが不可欠だった、ということです。そして、それもまた、やはり高度のヴィジョンには違いなかったのです。
第4節 仏伝レリーフの教え
お釈迦さまが初めて説法をされた場所として知られるサールナートの考古博物館に、一つの興味深い石造のレリーフ(浮彫)が展示されています。
お釈迦さまのご生涯の中で起こった四つの著名な場面を刻んだもので、その図柄じたいは仏伝レリーフとして特別に変わったものではありません。誕生、修行、初転法輪(初説法)、涅槃(入滅)の四大事跡を描いたものです。
ただし、そのレリーフは、四つのエピソードがちょうど四層の建物のように配置されているのです。建物の一番上には瞑想中のお釈迦さまの姿が刻まれています。
四層の建物と屋上の釈尊─。この構図のレリーフは般若心経のモチーフを余すところなく表現しています。
一体何のことかと思われるかもしれませんが、順を追って説明しましょう。
仏伝レリーフは次のようになっています。
一階──釈尊誕生の図 二階──釈尊修行の図 三階──釈尊説法の図
四階──釈尊入滅の図 屋上──釈尊瞑想の図
般若心経が想定していると思われる四層の建物とは次の通りです。
一階──幼児のフロア 二階──世間のフロア 三階──舎利子のフロア
四階──観自在菩薩のフロア 屋上──仏陀のフロア
より一般的な名称をつけると次のようになるでしょうか。
一階──幼児レベルのフロア(無意識の領域)二階──日常レベルのフロア(自己形成の領域)
三階──小乗レベルのフロア(無我を知る領域)四階──大乗レベルのフロア(空を観る領域)
屋上──秘蔵レベルのフロア(人知を越えた眺望の領域)
般若心経には観自在菩薩と舎利子のふたりしか登場しません。しかし、このお経は観自在菩薩が舎利子に語りかける(教えさとす)というストーリーですから、両者の間にはレベルの相違があります。
具体的にいうと、 「五蘊あり」というヴィジョンは、舎利子のいる三階の小乗レベルのフロアで得られるものです。それを踏まえて得られる「すべては空」というヴィジョンは、観自在菩薩のいる四階の大乗レベルのフロアに至って初めて会得されるものです。
ところで、この対話を作り出しているのはお釈迦さまの瞑想だったわけですから、当然、観自在菩薩の上に仏陀のレベルがあります。そこが「仏説」の位置です。ただし、そこは人知を越え、全方位に眺望のきく最高無比のレベルですから、「五階」ではなく、やはり「屋上」とするのがふさわしいでしょう。
また、舎利子といえども、お釈迦さまの十大弟子の筆頭と呼ばれたすぐれた出家者です。舎利子はすでに三階のレベルに達しています。その下(つまり二階)は一般世間に相当するでしょう。通常の人々はこの世間に生きています。それは普通のおとなの世界です。そこに至るまでのプロセスとして、幼児レベルの世界があるのは当然でしょう。
お釈迦さまも人の子として誕生しました。お釈迦さまも、幼児レベルから出発したのです。そして人の子として成長し、修行のすえに、ある段階を経て仏陀となりました。その段階を象徴的に、舎利子のレベルと観自在菩薩のレベルとしたのが般若心経なのです。
仏伝レリーフはお釈迦さまの偉大な生涯を偲ぶためのものには違いありませんが、同時にまた、それは人が達し得る最高の高みへのプロセスを示したものであり、それゆえにこそ仏弟子たちが歩むべき規範として尊重されてきたものでした。
それはちょうど一階から二階へ、二階から三階へと階段を昇っていくプロセスに喩えられます。サールナートのレリーフは、その消息を如実に描き出したものでした。
般若心経をさまざまな観点から解釈し、たとえば「何事にもこだわるな」といった処世の教訓を引き出すことは、出来ないことではありません。ほとんどすべての解説書はこのたぐいのものですが、ただ、それはあくまでも「世間」のレベルの話です。そこにとどまるのも結構だけれども、その上に三階、四階のレベルがあるんだよ、この見晴らしのいいところに昇ってきてごらん。「観」の一字に始まり、至高の観点そのものを説く般若心経にこめられた、この大いなるメッセージをこそ読み取るべきでしょう。
そこで問題は階上への通路ですね。どうやって昇るか? もちろん、答えは用意されています。般若波羅蜜多が、階段です。具体的には、「掲諦、掲諦、...」の真言を念誦すること。この「般若波羅蜜多」と称する真言(心、心咒)こそが、階上への通路なのだというのが、般若心経の究極のメッセージです。最上階に至った観自在菩薩が舎利子に伝えたのは、まさしくこのことでした。
https://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/post-202.html 【第3章 「空」とは何か】より
第1節 一切の苦厄を度す
観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の行をしている時、(わが身は)五蘊なり、(しかもその五蘊は)皆空なりと照見した。
この冒頭の一節の最後の「一切の苦厄を度したもうた」(度一切苦厄)という文は、サンスクリット原典には、小本にも大本にもありません。おそらく漢訳者が心経最終段の「よく一切の苦を除く」(能除一切苦)を強調するために、ここに挿入したのでしょう。
「諸行無常」と並んで仏教が標榜する根本命題の一つが、「一切皆苦」です。この「苦」というのは、単に「楽しい」に対する「苦しい」という感覚のことではなく、この世は無常であるから「すべては思いのままにならない」ということを意味します。すなわち、何事も 不如意、という現実の認識が「苦」の原意です。
生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、この四つ(生老病死)の根本苦を四苦といいます。これに、愛するものと別れる苦(愛別離苦)、憎むものと会う苦(怨憎会苦)、求めて得られない苦(求不得苦)、五つの要素(五蘊)が仮に和合しているにすぎない人間存在は本質的に「思いのままにならない」という苦(五取蘊苦)、以上の四つの苦を加えて八苦。非常に難儀することを「四苦八苦」といいますが、それはこの最初の四苦とそれを含む八苦に由来する言葉です。ともかく「一切は苦」であり、これが仏教の根本命題。である以上、いかにしても苦は免れがたいように思われます。
ところが、観自在菩薩は、「一切の苦厄を度したもうた」。あらゆる苦・災厄から離脱した、というのです。この一見さりげない挿入文は、おそらくは漢訳者が意図した通り、実に重大な'宣言'(メッセージ)というべきでしょう。
仏教の実践的目標であり、かつ究極の救いを端的に示したこの一文にこそ、般若心経の聖典としての真価と人気の秘密があるといっても過言ではありません。
どのようにして観自在菩薩は、「一切の苦厄を度したもうた」のでしょうか。
これまで説明してきたことをまとめますと、観自在菩薩は般若波羅蜜多の真言を念誦する瞑想をして、その結果、ある眺めのよい境地に達します。それは高層の建物を昇っていくごとに得られる展望に喩えられる、という話をしてきました。もちろん、それは「自分自身を知る」修行のプロセスを喩えたものです。
一階は幼児のフロア。二階は世間のフロア。 三階から仏教のフロアです。でも三階はまだ小乗のフロア。そこに舎利子がいます。
四階が大乗のフロア。ここが事実上の最上階で、観自在菩薩が到達したところです。そこで観自在菩薩は何を観たのでしょうか。
観自在菩薩は、屋上の釈尊の瞑想にいざなわれるようにして、「般若波羅蜜多の行」という瞑想を実践して最上階に至り、そこで「空」を観たわけです。
この瞑想を「空観」といいます。これが尋常でないヴィジョンであったことは言うまでもないでしょう。なにしろ、それによって「一切の苦厄を度したもうた」のですから。
第2節 空(くう)の瞑想
一体あなたの得たヴィジョンとはどのようなものなのか―。
大本の「序」によると、これが舎利子の第一の質問です。(第二の質問は、そのヴィジョンを得る手段は何か、です。)それに対して、観自在菩薩は次のように答えます。
舎利子よ。色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ち是れ空。空は即ち是れ色。受想行識もまたかくの如し。
この文中のあまりにも有名な 「色即是空」という文句は、たしかにレトリック(修辞)として秀逸ですが、これは実は「五蘊皆空」をパラフレーズ(わかりやすく言い換える)した表現にほかなりません。
つまり、五蘊(色・受・想・行・識)の一つ一つについて「空である」ということを述べただけの表現です。「色即是空 空即是色」に続く文が「受想行識もまたかくの如し」ですから、当然、「受即是空 空即是受」「想即是空 空即是想」...ということが成り立ちます。
なぜ、そのようなことが言えるのか。なぜ色受想行識の五蘊がどれも「空」なのか。ここで注意していただきたい点は、これを「世間のレベル」や「舎利子のレベル」で解してはならないということです。
インドの宗教史上において、仏教が掲げた最もユニークな概念は「空」であると言って、まずさしつかえないでしょう。
もっとも、「空」という語自体は仏教が編み出したものではなく、インドではごくありふれた語のひとつでした。ただし、この語から数学史上最大の発見といわれる数字の「ゼロ」を導き出したのもインド人の功績です。インド仏教徒は、瞑想の極致のヴィジョンとして、「空」を「発見」したのでした。
世間のフロアでは、〈私〉は〈私〉です。人は自分というものがどのようなものであれ、自分は自分であり、かりそめにも他者でないことを意識して行動します。日常生活のレベルにおいては、自己の確立とか自己形成ということは、言うまでもなく、とても大切なことです。
それを否定して、最初から、たとえば「無我になれ」などと言われたら、たぶんまるで主体性のない人間ができあがってしまうことでしょう。したがって、「無我」は日常的な教訓などではありえないのです。むしろ自己を真に確立しえた人が、さらにその上に至って見ることのできる高度なヴィジョンであり、それが、「自己は五蘊なり」という洞察だったのです。
それが舎利子のレベルであり、そこで〈私〉は五蘊が仮に和合したものにすぎない、と知ります。言い換えると、〈私〉なるものはどこにもない。つまり、ここでようやく、無我、という真相をさとるのです。観自在菩薩はこのレベルをも通過して、「その五蘊はみな空なり」と洞察します。
舎利子のいる三階から見れば、世間レベルの二階は苦悩に満ちた世界です。二階のフロアにおいて「自己の確立」は大切な徳目だったのですが、それを三階から見るならば、「自己の執着」にほかなりません。それがあらゆる苦悩の原因であることが、そこに至った人には、はっきりわかるのです。でも、それは三階から見て二階を否定することではなく、ただ二階を通り過ぎるということなのです。
まったく当たり前のことですが、階上は階下なくして存在しません。二階のフロアだけしかない四階建ての建物などありえません。どの階もなくてはならず、どの階にもそれぞれの意義があります。そして、上の階に行くためには、やはり一階ずつ順に昇っていかなくてはなりません。なお、この建物の比喩(ひゆ)が適切である証拠に、般若心経の本文の中に「遠離(おんり)」という言葉が出てきます。これは「超越する」という意味ですが、この原語を直訳すれば「階段を昇りきっている」です。この言葉は、まさにこの比喩通りの意味で理解してよいでしょう。
さて、最上階における「空」のヴィジョンとはどのようなものなのでしょうか。
それを窺い知るには、観自在菩薩と同じ境地に至らねばなりません。と言ってしまえば、とても歯が立ちそうにありませんが、「色即是空」という公式で示されたしくみは、およそ次のようなことです。
第3節 「色即是空」のしくみ
まず「空」という語自体の意味は簡単です。要するに「からっぽ」ということです。「空」と似た語に「無(む)」があります。このふたつはよく混同されがちですが、もちろん違います。
般若心経には「空」とか「無」という語がたくさん使われています。数えてみますと、このわずか二百六十余文字の経典の中に「無」は二十も出てきます。「空」は七つです。ついでながら「不(ふ)」という語も九つあります。
なんと否定的な語の多い経典だろうという印象を誰しも抱くことでしょう。その理由は後回しにして、ここで「無」と「空」の違いについて簡単に説明しておきますと、たとえば水の入っていない 空(から)のコップがあるとします。この場合、「コップは空」です。でも、「コップは無(む)」とはいえません。
コップが空(から)ということと、コップが無(な)いということとは別です。「無」と「空」の違いはこれで明らかでしょう。
無(な)いのはコップではなくて水です。インド人は、このことを「コップには水の無(む)がある」と表現します。もしコップに水があれば、コップは「水の場所」です。ないと、コップは「水の無の場所」です。「無の場所」が「空」なのです。おわかりいただけましたか。
コップはもともと空(から)です。空でなければコップの用をなしません。空だからこそ、水でも何でも入れることができるのです。一方、水もまた容器を必要とします。
ここで「コップが空(くう)であること」を「空である性質」という意味で「空性(くうしょう)」と呼ぶことにします。すると、空のコップには空性がある、と表現することができますね。(でも、この表現は日本語になじみませんので、空性とはコップの内部のスペースのことだと理解していただいても結構です。「コップにはスペースがある」ならわかりますね。)
さらに、こういうこともいえるでしょう。もしコップに空性(スペース)がなければ水が入る余地はないのですから、コップにおいて空性と水とは不可分の関係にあります。空性なくして水はありえず、また水なくして空性も意味をなしません。
なぜこんなことを申しあげたかといいますと、般若心経で用いられている「空」という語は、原語に照らして正確に訳せば、すべて「空性」と解さねばならないのです。すなわち、「空なるもの」ではなく「空なること」を意味するわけです。これは「空」を理解するうえでの大きなポイントです。
ここで再び建物の比喩を思い出してください。この建物はかりに百貨店だとします。一階は衣料品のフロア、二階は家具のフロア、等々としましょう。各階に陳列されている品物が、この百貨店を特徴づけています。
なぜいろんな品物を置くことができるかというと、当たり前のことですが、置くスペースがあるからです。ちょうどコップに空性(スペース)があるから水を入れることができるのと同じように、一つ一つの品物はどれも空性に裏づけられています。
この建物とは〈私〉自身のことでした。〈私〉をして〈私〉たらしめている五蘊(色・受・想・行・識)は、舎利子が到達した三階のフロアのアイテムです。それはとても大切なものに違いありませんが、いわば一フロアの品物として単に置かれているだけものにすぎません。それも置くスペースがあってのことです。
品物とそれを置くスペースは不可分の関係にあります。「五蘊はみな空なり」というのも、まったく同様のことです。したがって、「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空、空はこれすなわち色」というのは、その言い換えにすぎないわけですから、もはや説明するまでもないでしょう。
第4節 観自在菩薩が観たもの
ただし、ここで再び注意すべき点を確認しますと、これは最上階の観自在菩薩が三階のフロアのアイテム(舎利子の認識)を洞察して得たヴィジョンであったということです。
二階の世間のフロアでは、自己の確立は大切なことでした。しかし、三階のフロアから二階のその「自己の確立」を見ると、単に「自己の執着」にほかなりません。そして、そこで「自己とは五蘊にすぎない」と気づきます。それをさらに四階から見ると、「五蘊はみな空なり」と洞察することになるわけなのですが、問題は、以上の説明のように、それはただ単に「五蘊は空性(スペース)と不可分の関係にある」とみなすことだったのでしょうか。
この建物のあり方から推測すると、最上階の四階には「何もない」、すなわち「空性(スペース)のみ」ということになります。
実際、このあとの心経本文は、「空の中には何もない」として、そこに無いもの(言い換えれば、階下にあるもの)をことごとく列挙する文章がずっと続きます。ですから、「最上階は空性(スペース)のみ」と理解することは、まったく正しいことです。
問題は、「自己⇒五蘊⇒空性」を、ひとつのヴィジョンとして瞑想体験するとはどのようなことか、ということです。最上階に至っても、自己は消え失せるわけではなく、観自在菩薩は依然として観自在菩薩です。
ここで「空(くう)」とは「空(から)っぽ」のことであるという通常の理解からいったん離れる必要があります。なぜなら、観自在菩薩が観たものは、あくまでも自己自身であり、それが「空(から)っぽ」であった、という拍子抜けするようなことではありえないからです。
何にせよ、私たちが「自分とはこういうものだ」と考える時、そこに枠(わく)づけを行なっています。二階の「自己の確立」しかり、三階の「自己は五蘊なり」との自覚しかり。
それはあたかも地図の上に線を引くようなことです。地図は便利なものですが、単なる図面にすぎません。私たちが生きているところは図面の上ではなく、この地上です。そこにいかなる枠づけがあるでしょうか。土地の境界があるではないかとおっしゃる人がいるかもしれませんが、それは地図の投影にすぎません。土地そのものは、すべて繋がっています。宇宙から見た地球には、どこにも境界がありません。それと同じです。
自分、というのもひとつの枠です。それが枠である以上、どうしたって、いわば地図にすぎないわけです。地図ではない自分自身。それは、むしろ想像しがたいことでしょう。でも、どんなに精密な地図でも、それは地図にすぎず、それに較べて本物の地形ははるかに精妙です。本物の地形には、何ら枠はありません。この「枠がない」ということが、実は「空」の本義なのです。
言い換えると、まったく開放されている次元をさして「空(くう)」というのです。最上階は、たしかに「空(から)っぽ」です。でも、それは消極的な意味で空洞というのではなく、はるかに積極的な意味で、なにものにも煩(わずら)わされず開放された自由な空間の広がりがあるということなのです。ここにおいて、自己自身は、地図上の枠づけを離れ、豊潤で繊細なリアルな自己そのものに立ち戻ります。
枠が我欲の巣です。すべての苦厄はそこから発生します。これを突破するのが空観という瞑想です。観自在菩薩は、それを実現したのです。これは、やはり容易ならざるヴィジョンであったというべきでしょう。
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