https://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/diary/201603060000/?scid=we_blg_pc_lastctgy_3_title 【芭蕉の紀行文を読む】より
沈丁花が爽やかな香りを放っています。
NHKラジオ古典講読の時間佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」。
まずは、芭蕉の言葉。土芳の編んだ「三冊子」より。
=詩歌連俳はともに風雅なり。上三のものはそのあますところなり。俳は至らづと言ふことなし=言語での表現活動としての、漢詩、和歌、連歌、俳諧はすべて風雅である。
(当時、俳諧は和歌より一段も二段も下のものとされていた)しかし、求める風雅は同じであり、それだけではない、他の3つの扱わないものを扱うのが俳諧だ。
春雨の柳を歌うのが連歌で田螺を捕るカラスを詠むのが俳諧だ。連歌と俳諧は異なるが、それは俳諧のランクが下、というわけではないのだ。
和歌では鴬といえば花に啼く声を称美する。俳諧では現実のあり方にも視点を合わせることができる。
*鴬や餅に糞する縁の先 ・・・みたいにね♪
こうしてみると、どんなことにも対象を見つけられるので、俳諧の可能性は広がる。
見るもの,聞くもの、作者が感じること、それが俳諧の真・誠=俳諧の価値、俳諧自体が真を証明するものなのだ!という章らしい。
では、嵯峨日記 本文 =廿六日
*芽出しより二葉に茂るの柿の實 史邦 *畠の塵にかゝる卯の花 芭蕉
*蝸牛頼母しげなき角振て 去来 *人の汲間を釣瓶待也 丈草
*有明に三度飛脚の行哉らん 乙訓
廿七日 人不来、終日得閑。
<解釈>
26日は、一切の文がなく、句のみ。去来は24日の夕暮れ、京からやってきた。丈草、乙訓、史邦は25日にやってきた。集まったメンバーで1句づつ句を読む=一巡。人が集まり少しでも時間があると連句を巻いた。
発句*芽出しより・・・芽が出て双葉になってよく繁っている
脇*畠の風景・・・白い卯の花が畠の塵となって咲き散っている
*かたつむりが頼りなげな様子で角をふっている。上の2句が植物なので「かたつむり」を出した。3句目は「て」で止めるのが良いとされた。
雑*季節が変わるときには「雑」の句を。誰かがつるべを使って水を汲み終えるのを待つ。前句のかたつむりが水を好むので。
*前句が皆が水を使う「朝」の様子なので有明の月を。有明の月=秋。まだ月が残っている有明どき、道を駆けていくのは三度飛脚=江戸と上方を付きに3回往復する=であろうか。
27日
誰も人が来ない。だから1日中静かな時間を持つことができた。(去来たちは昨日のうちに帰ったらしい)。
=本文= 廿八日
夢に杜國か事をいひ出して、涕泣して覚ム。
心神相交時は夢をなす。陰尽テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。飛鳥髮をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。睡 枕記・槐安國・荘周夢蝶、皆其理有テ妙をつくさず。我夢は聖人君子の夢にあら ず。終日忘想散乱の気、夜陰夢又しかり。誠に此のものを夢見ること、謂所念夢也。我に志深く、伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をと もにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。
<解釈>
28日、杜国の夢を見て泣いて目が覚めた。(杜国は不遇のうちに元禄3年1690年3月20日に没)。
陰陽思想ではこの世の全ては陰と陽があり、陰が満ちると陽になり、陽が満ちると陰になるという。陰が尽きると火の夢を見、陽が尽きると水の夢を見るとい う。飛ぶ鳥が髪をくわえるときは飛ぶ夢を見、帯を敷いて寝ると蛇の夢を見るという。睡枕記では夢に自分の一生を見たという邯鄲の夢が出てくるし荘子の夢で 胡蝶になったのか、胡蝶が自分なのかという話もある。皆、道理ではあるものの、予の夢は聖人君子のものではない。
杜国の夢を見たのは、予 の思いが夢になったもので、私のことを深く慕ってくれ、伊賀の故郷まで来てくれて、夜はともに起き伏しし、旅の苦労をともにして、百日ほども共に過ごし た。心を共にした彼の志が予の心に深く染みて、忘れることができないからだ。目覚めて、また涙に袂をしぼるのだった。
=本文= 廿九日 一人一首、奧州高舘ノ詩ヲ見ル。
晦日
高舘聳天星似胄、衣川通海月如弓。其地風景聊以不叶。古人とイへ共、不至其地時は不叶其景。
<解釈>
29日。「本朝一日一首」=1665年刊行の漢詩集のなかの「奥州高館」の詩を読んだ。
晦日。その詩、高館は天にそびえ、星は兜の飾りに見える。衣川は海に通じて流れ、月は弓のようである・・・とあるが、その地の風景は、この詩と少し異なっている。昔の人といえども、その地に行ってみないことには、その景色のままによむことはできない。
ほそ道の旅の経験から、その地に行ってみることの重要さを書き記した芭蕉さん。
今週はここまででした♪ 杜国の夢を見たこと、泣かせます!あんなに楽しい吉野の旅だったのに!
*吉野にて桜見せふぞ檜の木笠 芭蕉 *吉野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸(杜国)♪
https://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/diary/201603130000/?scid=we_blg_pc_lastctgy_2_title 【芭蕉の紀行文を読む】より
この前行った吉野の竹林院さまのお庭の桜です!
NHKラジオ第二放送、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」49回。
まずは、「芭蕉のことば」 土芳の三冊子より。=學ぶことはつねにあり席にのぞんで文台とわれと間髪をいれず思ふことすみやかにいひいでてまとふ念なし
文台は小さな机で、連句のときには記録係りがそこで句を書きとめるらしい。
連句の場の心構えとして、日常的に学んで工夫を重ね、創作力を鍛えておかねばならない。そうして席の場では間髪をいれずにすみやかに句を読むべし・・・・というものらしい。
芭蕉門下の人たちは教えのままに日々研鑽をし、連句の場ではその教えどおりに名句を展開していった・・・というエピソードがいくつもあるらしい。
嵯峨日記は最後まで。
本文= 朔(ついたち)江州平田、明昌寺李由被問。尚白・千那消息有。
*竹ノ子や喰残されし後の露 李由 *頃日の肌着身に付卯月哉 尚白
遣 岐 * またれつる五月もちかし聟粽 同
<解釈>
1日、来訪者があった。近江の平田(現彦根市)の明昌寺の住職の李由である。
尚白・千那からの手紙も届いた。(彼らは近江の蕉門の中心人物であるが、のち、若い人たちが台頭してきて、やや疎遠になったという)。
*竹の子が食べられることもなく掘り残されている、そこに露が光っている 李由
*4月もかなりたって、夏の肌着が身になじんできた 尚白
(ちまき)
*結婚後の最初の端午の節句に、婿が嫁の実家に粽を持っていく風習・・・待ちに待った5月も近い。娘が婿と一緒に粽を持って里帰りするのだ 尚白
本文=二日
曾良来リテよし野ゝ花を尋て、熊野に詣侍るよし。 武江旧友・門人のはなし、彼是取まぜて談ズ。
*くまの路や分つゝ入ば夏の海 曾良 *大峯やよしのゝ奧を花の果
夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮ニ及て帰る。
<解釈>
曾良がやってきた。吉野の花を尋ね、熊野にも詣でたという。江戸の人たちの話をしてくれる。江戸では芭蕉庵で世話をしてくれた曾良は、元禄2年1689年、芭蕉に会うため伊賀を訪れ、また、嵯峨日記のこの年、元禄4年1691年、江戸を発ち芭蕉のいる上方をめざした。曾良日記によれば3月4日 江戸を発ち 3月24日、京に着く。奈良方面に向かい
4月1日、吉野で桜見物 4月11日、熊野三社詣で~大坂などをめぐり 4月29日 京に着く 5月2日、嵯峨に来て芭蕉を訪ねるという行程らしい。筆まめな曾良くん!♪
曾良の発句
*熊野への山道青かき分けて進むと視界が開けてきた
*吉野の奥に分けいって花を見尽くして、大峯で今年の花見も終わることだ。
新古今の*見渡せば麓ばかりに咲きそめて花も奥あるみよしのの山
大僧正行尊の*もろともにあはれと思へ山桜花よりほかにしる人もなし
などの歌をふまえた句。夕日が傾く 自分に大井川を舟でのぼり雨がふってきたので帰った。
本文=三日 昨夜の雨降つゞきて、終日終夜やまず。猶其武江の事共問語。既に夜明。
四日 宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼雨降止ム。 明日は落柿舍を出んと名残をしかりければ、奧・口の一間/\を見廻りて、*五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡 (終わり)
<解釈>
3日、昨夜の雨が降りつづき、1日中やまない。江戸のことなど語りあっているうちに夜も明けてしまった。
4日、昨夜寝られなかったので疲れてしまい、1日だらだらと過ごした。昼に雨がやんだ。
明日は落柿舎を出るので、名残り惜しくなって、家の奥のほうから入り口のあたりまで、一間。一間を見て歩いた。
*五月雨が降り続いているこのごろ、色紙を剥ぎ取ったあとが壁に残っている・・・
満たされない不調の感じ・・・五月雨時の空気・・・が漂う名句。
そして、落柿舎を出る日のことは書かれずに、嵯峨日記は終わるのでした!
この唐突さは、芭蕉さんの大切にした世阿弥の「序・破・急」にならっているのかも。
https://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/diary/201603210000/ 【芭蕉の紀行文を読む】
田舎の家のボケの花です♪
NHKラジオ第二放送、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」 まずは芭蕉さんの言葉より
許六離別の詞より
=予が風雅は夏炉冬扇の如し。衆に逆ひて用ふる所なし。=予の思う風雅の精神は、実生活では無用のものだ・・・と言っている。しかし裏の思いがある。誇りをこめての詞。
さて、嵯峨日記は、すべて事実通りに書かれているわけではなく、取捨選択はあったろうが、日記として書かれた貴重なもの。落柿舎を出てからの芭蕉の動静は5月26日の曾良日記では、猿蓑の編集が深更に及んだ、と書かれているらしい。6月に入ると芭蕉が体調を崩し 10日頃病癒えて6月25日 大津に向かい7月3日 猿蓑刊行 京と近江を行き来9月20日 義仲寺の無明庵を出て江戸に向かう
10月29日江戸に到着 2年8ヶ月の不在だった。深川の芭蕉庵は人手に渡っていたので日本橋橘町の貸家に住む。当時、点取り俳諧が流行していたが、それには納得できない芭蕉さんなのでした。元禄5年1692年書かれた「栖去の弁」
ここかしこ浮れ歩きて*、橘町*といふところに冬ごもりして、睦月、如月になりぬ。風雅もよしや是までにして、口を閉ぢむとすれば、風情胸中をさそひて、物のちらめくや*、風雅の魔心なるべし。なほ放下して栖を去り、腰にただ百銭をたくはへて、抂杖一鉢に命を結ぶ*。なし得たり、風情つひに薦をかぶらんとは
<解釈>
旅がちの暮らしの果てに、今は橘町で冬ごもりして、睦月、如月になって。もう俳諧はやめにして句も作らず口を閉じようか・・・(点取り俳諧への批判めいた 思いもあり)とは思うものの、詩心が胸にわき上がり、何かが自分の目の前にちらつく。風雅の魔の心に取り付かれているのか。
これまで以上にすべてを捨て、この家を出て、百文の銭をもち杖と托鉢で命をつなごうか。俳諧ひとすじに生きてきてついに乞食行脚の身=ここまでになったのだなあ。
=許六離別の詞=
この頃、彦根の許六が参勤交代に伴い江戸に出てきました。(元禄5年、1692年8月~翌年5月まで) 彼は江戸滞在中、蕉門に入りのちに彦根俳壇の中心人物になりました。
元禄六年、1693年4月末、江戸を去ることになった許六に離別の詞を送った。
=本文=
去年の秋かりそめに面を合わせ、今年五月の初めに深切に別れを惜しむ。其の別れに臨みて、一日草扉を叩いて、終日閑談をなす。其の器、畫を好ム。風雅を愛 す。予試みに問ふ事あり。「畫は何の爲め愛すや。」「風雅の爲め好む」といへり。「風雅は何の爲め愛すや。」「畫の爲め愛す」といへり。其の學ぶ事二つに して、用をなすこと一なり。まことや、「君子は多能を恥づ」と云へれば、品二つにして用一なる事、可ㇾ感にや。畫は取って予が師とし、風雅は教へて予が弟 子となす。されども師が精神徹に入り、筆端妙をふるふ。其の幽遠なる所、予が見る所にあらず。
<解釈>
去年の秋、出会 い、今年の5月のはじめに別れを惜しむことになった。その別れに臨み一日話をした。彼は画を好み、俳諧を愛している。予は試みに「画は何のために好むの か」と聞くと許六は「風雅のために好むのです」と答える。「風雅は何のために愛するのか」と聞けば「画のために愛するのです」と答える。学ぶことは2つで あるが許六にとって画と俳諧は相互に補完するものだったのだ。君子たるものは多芸多能を恥じる、ものだが、許六にはその2つがひとつなのである。許六を画 の師とし、風雅俳諧は予の弟子とするけれどしかしながら師である許六の絵は奥深く、私にとって到底理解できるものではない。
=本文=
予が風雅は夏炉冬扇の如し。衆に逆ひて用ふる所なし。たゞ釋阿西行のことばのみ、かりそめに云ひちらされしあだなる戲れごとも、哀れなる所多し。後鳥羽上 皇の 書かせ給ひしものにも、「これらは歌に實ありて、しかも悲しびを添ふる」と宣ひ侍りしとかや。さればこの御言葉を力として、其の細き 一筋をたどり失ふる事なかれ。猶、「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」と、南山大師の筆の道も見えたり。風雅も又これに同じと云ひて、燈を かゝげて、柴門の外に送りて別るゝのみ。
元禄六盂夏末 風羅坊芭蕉述
<解釈>
予の俳諧は夏炉冬扇 のようであって、実際に用立つものではない。ただ、思いは古人西行の、かりそめに言い散らされたようなことばも、哀しみがあり、後鳥羽上皇の書かれたもの にも、「まことがあってしかも悲しみが供わっている」といわれているようだ。だからこの御言葉を力に、その細い一筋の道を横道にそれることなくたどるよう に。なお、「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」=古人の励んだ精神にならいつつ・・・と南山大師も言われている。俳諧の道も同じなのだ、 と言って、ともし火をかかげて草庵の外に送って別れたのでした。
この秋、芭蕉は体調を崩しがちであったらしく7月から1ヶ月、門を閉じて他人との交渉を断った。その折書かれたものに閉関の説というものがある。この家で芭蕉は子どもを3人連れた女性と同居していたのでした。
閉関の説
色は君子のにくむところ*にして、仏も五戒*の初めに置けりといへども、さすがに捨てがたき情のあやにくに*、あはれなるかたがた*も多かるべし。人知れぬくらぶ山の梅の下臥しに*、思ひのほかのにほひにしみて*、忍ぶの岡の人目の関も守る人なくては*、いかなるあやまちをかしいでむ。海人の子の波の枕に袖しをれて*、家を売り身を失ふためしも多かれど、老いの身の行く末をむさぼり*、米銭の中に魂を苦しめて*、ものの情をわきまへざるには*、はるかに増して罪ゆるしぬべく、人生七十を稀なりとして、身の盛りなることは、わづかに二十余年なり。初めの老いの来たれること*、一夜の夢のごとし。
<解釈>
男女の色欲は論語のいましめであり、仏の教えでも五戒のはじめに置かれている、とはいえ、あいにくどうにも捨てられないものだ。人知れぬ「くらぶ山」の梅 のちぎり、忍ぶの岡の人目をしのぶ逢瀬も、関守の目がなかったら、人はどのようなあやまちをおかすことだろう。海人の子の波の枕に惑い家を売り払い命を失 うこともあるけれど、物欲よりも色欲のほうがまだましだ。人生70年生きるのは稀。人生のうち身の盛んな時期はわずか20年と短い。この世に生まれて生を 重ね、初老の40歳を迎えるのは、あっという間だ。
五十年・六十年のよはひ傾ぶくより、あさましうくづほれて*、宵寝がちに朝起きしたる寝ざめの分別*、何事をかむさぼる。おろかなる者は思ふこと多し。煩悩増長して一芸すぐるる者は*、是非のすぐるる者なり。これをもて世の営みに当てて、貪欲の魔界に心を怒らし、溝洫*におぼれて生かすことあたはずと、南華老仙*のただ利害を破却し、老若を忘れて閑にならむこそ、老いの楽しみとは言ふべけれ。人来れば無用の弁あり。出でては他の家業をさまたぐるもうし。孫敬*が戸を閉ぢて、杜五郎*が門をとざさむには。友なきを友とし、貧しきを富めりとして、五十年の頑夫*、みづから書し、みづから禁戒となす。
*朝顔や昼は錠下ろす門の垣 芭蕉
<解釈>
壮年期を過ぎ、みじめに衰えて、宵寝がちに朝起きした寝覚めに、何をむさぼるのだろう。おろかなものは思うことが多く、才能は煩悩が膨らんだもので、もの の良し悪しがわかるというが、これを世渡りの営みにあてて、貪欲の魔界に心を怒らせば、狭い世間におぼれて豊かな生をおくることができない。
荘子がとくように、利益を考えず年も忘れて閑寂の境地になることこそが老いの楽しみであろう。人が来ればつい無用のおしゃべりをしてしまい、人を訪ねれば その家業の邪魔をしてしまう。孫敬がいつも戸を閉じて本を読んでいたように、杜五郎が30年間も門から外に出なかったこと。それらを思い、友がいないこと を友とし、貧しさを富と思い、50歳の今、自ら書き、自らの戒めとするのだ。
*昼は錠を下ろした門の垣根に朝顔が咲き、私をなぐさめてくれるのだ♪
昼は錠を下ろす・・・は何と意味深!来週はいよいよ最終回です。
https://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/diary/201603270000/?scid=we_blg_pc_lastctgy_1_title 【芭蕉の紀行文を読む】より
レンギョウの花が満開です!
NHKラジオ古典講読の時間、佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」最終回でした。芭蕉さんの俳句って立派なものばかり有名で、詩情に欠けるような印象があり、今まで蕪村の ほうが好きだったのですが、たくさんの句を知って、俳句の道を求め続けた人生を知ることができて良かったです!これですっかり芭蕉つう♪感謝感謝です!
まずは、芭蕉さんに関する言葉
=桃青は全身俳諧なるものなり= 其角
元和2年、1682年 西山宗因没
その門下で俳諧を学んだ西鶴と芭蕉。元和2年ごろ、西鶴は「好色一代男」を出し、桃青芭蕉は「むさしぶり」を発表、俳諧の革新を進めていた。
この其角の言葉は、*唐崎の松は花よりおぼろにて
という芭蕉の句に対して、西鶴が「俳諧の言葉を使っていない。これは連歌ではないか」と疑問を呈したことについて、其角が反撃したことば、だそうです。師の桃青芭蕉は、その存在こそが俳諧なんだ!という言い切り!
そんな芭蕉の言葉として、支考の「続五論」のなかに、こういうものがある。
=先師曰く、俳諧は無くてもありぬべし。ただ、世情に和せず、人情に達せざる人は、是を無風雅第一の人というべし。=
俳諧はなくても良いのだ。もっと大切なことがある。それは人の生き方だ。世の中に和し、人情に達することこそ、風雅以前の大事なことなのだ・・・と。俳諧ひとすじの芭蕉が、もっと大事なものがある、と諭した重み!
いよいよ芭蕉の人生の旅も終盤を迎えます。閉関の説ののち、各方面への書簡には「軽み」の俳諧を目指して実践する芭蕉の姿が浮かび上がります。
元禄6年、1693年から翌元禄7年にかけておくのほそ道の推敲を重ねます。
元禄7年、1694年4月、おくのほそ道完成!
同年5月11日、芭蕉は寿貞尼の子の次郎兵衛を伴い、上方をめざします。
伊勢を通り伊賀上野には5月28日着
宇治~伏見を抜け大津へ。
閏5月22日嵯峨野の落柿舎に入り、
6月、京を去り大津、膳所(ぜぜ)に滞在、寿貞尼の死を知ります。
芭蕉最後の俳文は、骸骨絵讃
〈本 間主馬が宅に、骸骨どもの笛鼓を構えて能する処を画がきて、舞台の壁にかけたり。まことに生前の戯れ、などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として終 に夢うつつを分たざるも、ただこの生前を示さるるものなり〉と前書 「薄の穂」は小野小町の髑髏の目から薄が生えたという故事に則っている。
*稲妻や顔のところが薄の穂 芭蕉
<解釈>
本間主馬の家に招かれたところ、 骸骨たちが笛や鼓を構えて能を行っているところを描いた絵が舞台の壁にかかっていた。人間が生きている間の戯れというべき行いは、この骸骨たちと違うことがあろうか。
荘子が髑髏をみつけて質問をし、髑髏を枕に眠ったところ、髑髏が夢の中に出てきて、もう一度生の世界に戻らないか、との答えは、生の世界になど戻りたくない、というものだったという故事。ただこの逸話に対し、生きている人間の行いは、結局はかないもの、ということだ。
*稲妻が光り、髑髏の目のところから薄の穂が・・・小野小町の伝説もふまえて
9月9日 重陽の節句は奈良で
9月29日 床に伏し、容態は悪化。
10月10日 遺言3通 1通は兄半左衛門宛自筆
10月12日 大坂御堂前花屋仁左衛門宅にて客死
芭蕉の遺体は近江の義仲寺に運ばれ、埋葬される。51歳。
芭 蕉は、発句や連句をそれまでのものと変え、現在の俳句につながる変革をした。その一方で、俳文も追求した。漢詩、和歌、連歌と同じように風雅のひとつであ る俳句にも俳文があってこそ、と考え、風雅のひとつとして俳句も同等であり、さらに他の3つの及ばないところもカバーできる存在として高めたのでした。
芭蕉の果てしない実践のあとが俳句や俳文や夥しい書簡に残されて、私たちにその足跡を教えてくれているのですね♪ひとすじの道をつらぬいた爽やかな芭蕉さんの人生!
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