『奇跡の四国遍路』

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO31816570V10C18A6MY7000/ 【】「奇跡の四国遍路」黛まどか氏

痛みを乗り越え触れた世界

あとがきのあと

「1400キロの道のりを歩いて、普段は閉じていた感覚や思考の回路が開かれ、見えない世界に触れた気がします。『縁』というべき不思議な出会いや神秘的なことが起きました」

50代半ばになった俳人が、母の大病をきっかけに四国八十八カ所霊場を一度に巡る「通し打ち」に挑んだ。20年ほど前にスペインを横断するサンティアゴ巡礼道800キロを歩いたが、遍路道は思いのほか、厳しかったという。

「雨は大変だし、晴れて...


https://henro.ll.ehime-u.ac.jp/post-1853/ 【書評 黛まどか著『奇跡の四国遍路』】より

四国遍路・世界の巡礼研究センター  胡 光(愛媛大学法文学部教授)

 俳人の黛まどか氏が2017年の春から夏にかけて、四国遍路を歩き通し、結願した。本書は62話からなるこの時の道中記であり、各話に瑞々しい俳句が添えられる。

四国遍路は、四国一円に広がる弘法大師空海ゆかりの八十八箇所霊場を巡る、全長1400キロメートルに及ぶ壮大な回遊型巡礼である。四国遍路の原型は、1200年以上前に空海が行ったような、四国の自然と同化しようとする山林修行であり、その後も「辺地修行」と呼ばれる時代が続き、今につながる「四国遍路」という巡礼になるのは江戸時代と考えられる。現在では、バス・マイカー遍路が多く、歩き遍路は少ない。

 両親や自身の病気もあって遍路に出た筆者は、先祖だけでなく知人や震災の犠牲者の供養をしながら歩き続けた。「巡礼」というより「修行」に近い、幾多の困難を経て、不思議な出会いが重なり合い、「奇跡」と呼ぶのにふさわしい結末を迎える。出会った人々の人生に向き合い、自らを見つめ直す。旅中の真摯な姿勢が感動を生む。

 親しみやすい語り口は、随筆や吟行集として読んでも楽しめるが、かつてスペイン・サンティアゴ巡礼も経験し、『星の旅人』(光文社)を上梓している筆者の思考は、巡礼論・文化論・人生論へと達する。出会った人々の発する言葉を書き留め、紡いだのは筆者であり、筆者の思考と考えても良い。巻末の西垣通氏との対談も参考になる。

 俳句を詠むオーストラリア人キエランは「俳句は短いけど、自然や人や宇宙などあらゆるものと繋がっています」と言う。「ただの旅人」と答えたドイツ青年ユリウスは「みんな前に進むことばかり考えている」「ゴールよりプロセスが大事なのにね」と笑う。初老のフランス人ダニエルは「サンティアゴの道は聖に至るけど、四国の道は無限へと伸びる」と語った。

 八十八番札所で結願した筆者は、そのまま一番札所へ向かい、「円」を完成させる。他の巡礼と異なる四国遍路の特徴と意義を理解しているのである。そこでは、円の中心には「真実」があり、それに触れる機会と能力は全ての人に備わっていると悟ったユリウスもいっしょだった。

 本書は四国遍路の現代史料と捉えることもでき、世界遺産を目指す四国遍路の現状と課題が分かる。現在の歩き遍路には外国人の割合が高い。彼らは、サンティアゴ巡礼を経験していることが多く、四国とスペイン・ガリシア州との協力協定は有効であることを知る。失われた日本の自然や文化を四国に求める彼らは、歩き、野宿をする。安価で清潔な宿の情報と整備、道路の開発と伝統的歩き道の共存なども課題である。

 日本人は、悩み苦しみ、様々な願いを抱いて歩いていた。石手寺に伝わる四国遍路発生譚には、弘法大師のもとで「死と再生」の物語が説かれる。現代でも、大師の道を辿ることで大師に救われ、再生しようとする。それを支えているのが「お接待」に代表される生きた四国の文化と自然である。恩返しをしようとする筆者に男性が言う。「次の人に送ってください。『恩送り』です」

夏めくや船をあわひに空と海 まどか


https://miehigashi.sekiaikai.jp/2020%E5%B9%B4/ 【「奇跡の四国遍路」黛まどか】より

黛まどかさんの漂泊の旅を知ったのは、つい最近のこと。黛さんの文章には時折キラリと光る言葉が浮かぶ。俳人は、心の言葉で機織りをする人だ。ホンネで書いている文章は胸を打つ。

生きることは、頭ではなく体験によって刻むことではないか。体験のなかに挫折や喜びを感じとることではないか。そのような暗示が随所に啓示される。

遍路は、個人のなかで和解させることだ。黛さんはそう考える。

<読書メモ> ・サインはいっぱいあるのに、見逃している人は多い。なぜなら先ばかり見ているから。だから”今”しか見ないと決めたんです。

・万葉集に詠まれた夢の構造には、二つのパターンがあります。一つは自分の念によって思い人が夢に出てくる。もう一つは相手の念によって、その人が夢に出てくるというものです。

・達成感を超える感慨に包まれ、終わりに近づくほど譬えようのない空虚感のようなものに襲われました。

・小さな一歩もたゆまず重ねていけば必ず終点に着くということを「身体」に刻んだことです。三百十二万歩のどの小さな一歩なくしてもゴールにたどり着けなかった。それを「頭」ではなく「身体」が知ったことが大きな収穫でした。

・今生きている人と人との間に見えない「縁」が縦横無尽につながっていて、その中で生かされていること。私たちの意思ではコントロールできない「大いなる力」によって導かれていることなどです。

・自然の中で身体を動かしていると、波動のようなものを感じるようになります。対象(自然や人など)が出す波動と自分の波動が合致した瞬間に、命の交歓が生まれ、俳句が生まれます。

・俳句を詠むことは能動ではなく、むしろ受動に近い感覚です。「待つ」と言い換えることもできます。その根源にあるのは「身体性」です。歩くことによって、現代生活で鈍くなってしまっている五感のアンテナが立ち、日常にはない思考回路へと導かれます。

・子供には明日も昨日もないの。ただ、”今、ここ”を生きているだけなのよ。遍路も俳句も、過去や未来にふらふら彷徨する頭を、「今、ここ」に引き戻してくれる手段です。

・遍路は結局は一人になり、孤独を味わうために行くのです。でも孤立とは違います。絆や信頼を得たければ、煩わしさも引き受ける覚悟が必要です。絆と煩わしさはカードの裏表、どちらか一方は選べないのです。

・たとえば「春雨」「朧」「五月雨」「涼し」「野分」「時雨」などは気象学上の言葉ではないのです。長い歴史のなかで詠み継がれ、風雪に耐え、洗練され、先人たちの悲喜交々を抱えて残った一雫です。意味だけではなく、気配や匂い、情趣など質感が重要なのです。つまり意味によって支えられていないということです。

・俳句は「切れ」によって句の世界は一度分断されますが、その断絶が飛躍をもたらし、余白に余韻や余情を孕ませます。切れによって眼前の風景に加えて現実にはない世界を呼び起こすのです。

・遍路とは自分との和解なのだと思いました。和解を妨げるものは、「疑い」です。疑いを取り払い、自分も「愛」を受け取ることができるのだと諾った瞬間、和解の時が訪れたのです。

・フランクルは生きる意味についての問いを百八十度方向転換することが必要だと述べています。「私たちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ」と言うのです。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。身体を使ってひたすら歩くことは、歩く意味・生きる意味についての問いを百八十度方向転換させます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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