歩いて詠む・歩いて書く

https://ourage.jp/life/interview/330551/【ウクライナからの俳句に向き合った黛まどかさん(インタビュー/前編)】より

ウクライナ女性の句集が日本で発刊されることになり、注目を集めている。

まだ24歳、日本に住んだことのない彼女がなぜ俳句を作るの?そもそも俳句って、外国語でも作れるの?俳句って、のんびりしたイメージなのに、戦時下の俳句って?

いくつもの「?」を抱えながら、翻訳と監修を務めた俳人・黛まどかさんに会いに行った。

撮影/フルフォード海 取材・文/岡本麻佑

黛まどか 俳人 ポートレート

黛まどかさん

まゆずみ・まどか●俳人。1962 年、神奈川県生まれ。2002年、句集『京都の恋』で第2回山本健吉文学賞受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン、サンティアゴ巡礼路、韓国プサン-ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。2021年より「世界オンライン句会」を主宰。現在、北里大学、京都橘大学、昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、紀行集『奇跡の四国遍路』、随筆『暮らしの中の二十四節気 丁寧に生きてみる』など多数。公式HP http//madoka575.co.jp

戦争の現実を伝える五七五の17音節。

翻訳はすごく大変でした

新刊本『ウクライナ、地下壕から届いた俳句 ~The Wings of a Butterfly~』の帯には、代表的な一句が大きく載っている。

地下壕に紙飛行機や子らの春

戦時下の地下壕の中で、避難している子どもが飛ばす紙飛行機。暗く冷たい暗闇の中で、それでも春という季節を予感して詠まれた句だ。今目の前にある現実の中から、印象に残るアイテムをピックアップして、五七五の17文字にアレンジしている。

なるほど、これはまさしく戦時下の俳句。決して戦争に飲み込まれまいとする、強い意志と希望が伝わってくる。

ウクライナに住む作者のウラジスラバ・シモノバさんは1999年生まれ。14歳のとき、入院中の病院で偶然、さまざまな分野の詩をとりあげた本と出会った。

その中にあった日本の俳句が、短い言葉の中に多くの意味を込めることができることに感動して、以来、自分でも作り始めたという。

日本語で作るのと同様に、音節を数えて五七五の形式で作る。やがて国際的な俳句コンテストに応募するようになり、何度か賞を獲得したこともあった。

そして2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、シモノバさんの日常は一変。作る俳句は、戦場と化した国に住む人々の惨状をありのまま記録するものになった。

この句集には、彼女が俳句を始めた10代の頃から現在に至るまでに詠んだ700以上の句から、厳選された50句が掲載されている。

翻訳と監修を担当したのが、俳人の黛まどかさんだ。

「初めてシモノバさんの句を読んだとき、俳句というものをちゃんと理解して作っている方だな、と思いました。俳句は“物”で表現する文学なんです。目の前の“物”、目に見える“物”に自分の想いを託して詠んでいるので、すぐに風景が見えてくる。俳句的な表現をすでにつかんでいる人だと思いました。

ちなみに短歌は、五七五七七ですが、“事柄”を詠むんです。七七とすこし分量が多い分、想いや思想を詠み込める。想いを伝えたい人なら短歌のほうが向いていると思うんですけど、彼女の場合は全部風景に昇華し、託しているので、俳句に向いている人だと思いました」

たった17文字でも、彼女が見ている現実とそれを伝えようという想いは、こちらの胸に飛びこんでくる。

「それはたぶん、俳句ならでは、なんです。17音節しかないので、その分余白が大きい。その余白をどうやって読み解いていくか、読者に委ねられるんです。

ですから想像力を使って、句の背景にある作者の思いとか状況を察していこうと、読んだ人は句に歩み寄っていく。俳句はそういう、詠む人と読む人両方の双方向性が強い文学だと思います。

この句集を読むと、読み手はウクライナが置かれている状況とか人々の思いを想像し、追求せずにはいられない。そうするうちに、気づきが生まれます。そこが、とても重要なことじゃないかと思います」

気づき、とは?

「たとえば『平和は大事』って、それはもうみんなわかっていますけど、それはあまりにも観念的で漠然としていて、実際私たちは何もできずにいますよね。日本は今のところ、とりあえず平和な国ですし。

でも彼女の句を読めば、戦争の中の日常という具体的な場面を通じて、もしかしたら次は自分事になるかもしれないと、本気で深く考えるきっかけになる。

戦争の真実を伝えるために、俳句はすごく役に立つと思っています」

ちなみにシモノバさんのオリジナルの句は、ロシア語とウクライナ語で詠まれたもの。彼女が生まれ育った地域ではロシア語が使われていたので、当初はロシア語で詠まれていた。

侵攻が始まってからは敵性語となったロシア語を捨て、ウクライナ語で生活し、句を詠んでいるという。

それが句集では、原文とともに見事な日本語の句に。翻訳するのは、かなり大変だったのでは?

「はい、本当に大変でした。俳句は訳次第、生かすも殺すも訳次第なんです。

戦時下にあるという特殊な状況ですし、解釈が私のひとりよがりになってしまうのも怖かったので、複数の目を使って、できるだけ彼女の本意に近づけよう、齟齬がないようにしようと。

まず12人の女性俳人を集めて、翻訳集団を作りました。ウクライナ人の俳人とロシア人の比較文学者にも参加していただいて、みんなで意見をすり合わせて、侃々諤々やって、そのくり返し。

ひとつの句に対して40~50の訳を作ったこともあります。シモノバさんご本人に確認しようにも、ネットのない地下壕にいたり、インフラを攻撃されて電力が不安定になっていたりした時期もあり、なかなか連絡がとれず。そのような中でも校了の最後の最後まで悩んで考えて、より良い翻訳をと諦めませんでした」

この本を読んで、俳句の面白さに改めて気付く人も多いはず。近年、俳句はちょっとしたブームにもなっている。ちょっとひねってみようかと、思ったりして。

「お勧めします! 俳句は人生を豊かにしてくれると、私は思います。私が始めたのは丸の内でOLをしていた頃ですが、俳句を始める前と後とでは、ものの見方が全然変わりました。

たとえば『通勤の途中に見かけた花の名を挙げてください』と言われても、当時の私はなにひとつ答えられなかった。街路樹があるんですから、花だっていくつも咲いていたはずなのに、見ていなかったんですね。

でも俳句を作ろうと思うと、とにかくよく見るようになる。空を見て、秋の雲に変わってきたな、とか。セミの声が秋のセミに変わってきたな、とか。五感のすべてが研ぎ澄まされていきます。アンテナが立って、キャッチしようキャッチしようとするから、いろんなことに気がつきます。

旅に出て美しい夕陽を見ても『すごいね』『キレイだね』で終わったりしますよね。でも俳句をやっていると、その一歩奥を見つめるようになります。

なんで美しいのだろう? なんで美しいと思うのだろう? って。それは、内観でもあるんです。何を見ても、最初の印象からさらに奥に、そして自分の心の奥にも踏み込んでいくから、そこでまた発見が増えるんです」

普段は日常の用事に追われて何も感じず、考えることなく、ただ忙しく生きている私たち。でも俳句という、まるでカメラのような視点を持つと、身の回りのあらゆるものにフォーカスが絞られる。

「初夏に咲く、カタバミという植物を知っていますか? 雑草のようなものですけど、名前を知ると雑草ではなくなります。そしてそれを俳句に詠もうとすると、その小さな花にかがんだりする。

通り過ぎるだけじゃ詠めないから、じっと見る。その小さな花にかがむわずかな時間が20秒、30秒でもある一日と、知らなければ踏んで歩いているかもしれない一日は、違うと思うんです。

俳句がうまくなるとかならないとか、それも大事かもしれないけれど、日常の中で詠む目を持つということ、表現する目を持つということがすごく大事ですし、そのことが自分を豊かにしてくれると思っています」

黛さんが最初の句集『B面の夏』を出してから、30年近い歳月が過ぎようとしている。

俳句とともに豊かな人生を送ってきたとはいえ、こんなにキレイで生き生き、チャーミング。昨年還暦を迎えたというのが信じられないくらいだ。いったいどんな生活を送っているのか、その美と健康の秘訣は、インタビュー後編で!


https://ourage.jp/life/interview/330790/ 【更年期に我慢しないで!と、61歳の黛まどかさん(インタビュー/後編)】より

『ウクライナ、地下壕から届いた俳句 ~The Wings of a Butterfly~』で翻訳・監修という大役を果たした、俳人の黛まどかさん。

「歩いて詠む・歩いて書く」をモットーに、創作活動を続けてきた。

日本のみならず世界各地で歩いて詠んで、俳句という文学に打ち込んでいる。

60代に入って今、自身の体と心に向き合いながら、何を想っているのだろう?

つらかった更年期。

我慢しないで!と、みんなに言いたい

黛まどかさんは36歳のときに、サンティアゴ巡礼路を踏破している。フランスの西の端からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩き続ける、過酷な徒歩の旅だ。

「1995年に、たまたまシンポジウムで作家のパウロ・コエーリョさんとお会いしたんです。彼が『星の巡礼』で書いていた風景が素晴らしかったので、『あの道は今もあるんですか? 私もいつか歩いてみたいです』と話したら、『本当にそう思っているなら、いつかじゃない。今でしょ』って(笑)。『いつかはないんだ、今なんだ』と言われて。

とはいえすぐには行けず、抱えていたレギュラーの仕事を徐々に整理していって、全部辞められたのが1999年の春でした。その年の5月に日本を旅立ったんです」

総行程およそ800キロを、自分の足で歩く。生半可な旅ではない。

「最初の1週間でピレネー山脈を越えるんですけど、これが大変で。そのピレネー山中で、『コンポステーラまであと700キロ』という道標を発見したんです。もう、そのときの気持ちといったら!

こんなに歩いたのに、まだ700キロも残ってると思ったら絶望しかなくて、こんな道標いらないって思いました(笑)。この虚しい一歩を重ねて、本当に最後まで着くのかなと途方に暮れましたね。

でも48日間かけてゴールにたどり着いたとき、万歩計を見たら312万歩。これは日本を発つときからの数字なんですけど、そのとき思ったんです。あの虚しいと思っていた、どの一歩がなかったとしても、このゴールには至らなかった。どんなに小さな小さな一歩も、すべて大事な一歩だったということをすごく感じて。

よく言いますよね、ゴールよりもプロセスが大事だって。自分でも頭ではわかっていたつもりなんですが、それを理屈ではなく、体でわかったことが、すごく大事だったと思っています。

今は情報の時代で、なんでもわかったつもり、知ったつもりになっていますけど、でもやっぱり体で獲得したこと、体験したことが、本当に知るということなんだろうなと。

それ以降はすごく、身体性ということを大事にするように、とにかく自分で体験して、体を通してつかんでいこうと思うようになりました」

韓国でも、歩いた。プサンからソウルまでを、春夏秋冬4回に分けて踏破した。

「日韓文化交流会議のメンバーに選ばれたことがきっかけでした。

私は外交の専門家ではないし、できることといったら、韓国の美しい山河とか人々との交流を俳句に詠んで讃えることしかないだろうな、と思いまして。

当時、反日感情が高まっていたタイミングだったのですが、実際に歩いてみたら、人と人で会っている分には、何も問題がありませんでした。それどころか、道を尋ねるとみんな『日本人か?』『歩く距離じゃないから、バスに乗りなさい。お金がないなら出してあげる』『ご飯は食べたの? まだならウチで食べて行きなさい』『結婚していない? じゃあ良い人を紹介するから』って、親身になってくれる方ばかりで(笑)」

さらには、日本でも。四国の遍路をぐるっと回った。

「来月、また行きます。今度は四国別格二十霊場を巡るもので、2カ月くらいかかる予定です。もともと私、運動嫌いで特に鍛えてもいないのですが、歩くのは好きで、歩けちゃうんですよね」そんな言葉を聞いていると、タフで無敵な元気印の女性なのかと思うけど。

「いえ、どちらかというと虚弱なほうで(笑)。若い頃からしょっちゅう頭が痛い、吐き気がする、肩が凝る、眠れないなどなど、いろんな症状があって。漢方の先生に『すでに更年期の症状だから、本当の更年期になったら勝ち組ですよ』って言われて、すごく希望を持っていたのに、実際に更年期になったらさらにひどくなりました。

ホットフラッシュなんて10分おきくらいに来て、汗をかいて寒い、汗をかいて寒いのくり返し。しかも夕方になると37度5分くらいまで熱が出て、悪寒で歯がガチガチ。それが毎日で、本当につらかったです」

その状態が約8年も続いたという。

「あと2年は続くと言われて、もうちょっと前向きに積極治療をしてくださる婦人科に行ってみたんです。そこでホルモン治療(HRT)を受けて、すごく楽になりました。

その婦人科で最初に検査をしたときに、『女性ホルモンがもう、ほとんど出ていません。これじゃあ、辛かったでしょう。あなたのように頑張っちゃう人は、ぎりぎりまで我慢してしまうんですよ。10年前に来るべきでしたね』って言われたんです。

ですから今更年期の方にぜひ伝えたいのは、我慢しないでください、ということ。

昔と今とでは、女性をとりまく環境ががらっと変わっている。ライフスタイルも違うし、子どもを産む回数も減っているし、寿命が延びているから閉経後の人生も長い。医学も発達しているのだから、我慢は必要ないですよね」

そして今。更年期のあれこれから解放されて、思う存分やりたいことに打ち込めるのかと思いきや。

「いえもう、体は正直だなと思います。55歳で目は硝子体剥離になり、つい最近、白内障が始まり。あと、物忘れがひどいんです。うっかりミスも増えました」

つまりは、老化のはじまり?

「ですね。でも友人にそのことを言ったら、『順調だね!』って(笑)。夜中にトイレが近くなるのも、白髪が増えるのも、それは順調な人生の証だと思うことにして。更年期がやっと終わったと思ったら、次の順調なのが来ちゃって(笑)。年を取るってこういうことかと思ってます」

なるほど「順調」って、ポジティブで前向きで、良い言葉。どんな変化が来ようとも、当たり前のこととして受け入れてしまえば、乗り越えられる。

しかも黛さん、そのままそこに留まることなく。

「最近、腸活のために、最新の腸内細菌検査を受けました。腸内フローラの状態を調べるもので、私は細菌の種類は多くて多様性はOKだったんですが、ビタミンB群を作る細菌がすごく少ない。そして同時に受けた血液検査でも、ビタミンB群が圧倒的に足りないという結果でした。

ビタミンBが足りないと、疲れやすくなるんですね。昔から疲れやすいと思っていたのは腸内細菌の不足が原因だったのかと納得しました。

それを補うためのサプリメントや食材も教えてもらって、私の場合はキクイモ、オオバコ、グアーガム、それら3つの繊維質をとるように、今は心がけています」

きっちり検査を受け、専門医の説明を聞いた上で、自分に必要なケアをするのが、黛さんのポリシー。

「そうですね、すべて自己流では、やらないですね。

今、私は1日2食。朝食は10時半、夕食は18時と決めているんですけど、それもお医者さまに相談した上で。1日3食にすると、どうにも体が重くて。『どうしても3食きちんと食べないとダメですか?』と聞いたら『2食でも決まった時間にとればいいですよ』と。

同じ時間に寝て、同じ時間に食事をしないと、自律神経が乱れるというので、不規則だった生活を改善しました。

以前、断食道場に行ったら、すごく爽快だったんですね。今の私ならなんでもできる!と思えるくらいの万能感が得られて。でもずっと断食しているわけにもいかないし(笑)。1日2食にしたら、今のところ調子は良いみたいです」

今は生まれ育った湯河原で、病気療養中のお母さまと暮らしている。

「闘病中の母のために、体にいいことをお医者さまから教わって、それを一緒に実践しています。

お砂糖は控えめにして、体を冷やさないようにとか、いろいろ。それらは母だけじゃなく、自分のためにもなっている実感があって、これは母からのギフトだなと思っています」

お母さまからのギフトは、それだけじゃなく。

「髪の質が良いのは母譲りだと、美容師さんに言われました。母は89歳なのに、今でもすいてもらうぐらい髪の毛が多くて、染めたことがないんです。

私も今、白髪はありますけど、髪は多いですね。我が家の家系はみんな、栄養が脳を通り越して髪の毛に入ってるのではないかと(笑)。

ただ美容全般に関して言えば、やっぱりまずは体。体に良いことは美容にも良いことだと思うので、とにかく健康であることが先ですよね」

それにね、と、最後にひとこと。

「規則正しい生活、食事、睡眠、適度な運動。昔からいわれていて、今さらいわれてもあまりピンとこないんですけど、結局それが一番大事ですよね。この年齢になって、それがよくわかるようになりました。

健康な体で、これから先も仕事をしながら乗り切りたいと思っています」




コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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