淡島信仰と流し雛

https://blog.goo.ne.jp/shizechemg/e/9a63bbb1d6e22dd37e16f088a78e122e 【淡島信仰と流し雛~流し雛は雛人形の源流か?~ 上:石沢誠司】より

はじめに

 昭和の末から平成の現在にかけて流し雛がブームになっている。以前から行われているのは(戦後復活されたところも含めて)鳥取市用瀬町、鳥取市、広島県大竹市、岡山県笠岡市北木島、和歌山県の粉河町、奈良県五條市などがある。新しく始めたところは、昭和47年に地元の宮崎さんという方が鳥取県の用瀬でおこなっている流し雛に倣って俳句仲間と始めた福岡県柳川市を嚆矢として、鳥取県倉吉市(昭和60年開始)、東京の隅田川(昭和61年開始)、埼玉県岩槻市(昭和62年開始)のように今年で20回を超えたところもあるが、平成に入ってからも京都の下鴨神社(平成元年開始)、兵庫県龍野市(平成5年開始)、また開始年は不詳だが、山口県下関市など、さまざまな場所でおこなわれている。

 新しく始めたところは、雛祭りを彩る話題の行事としてこのイベントを始めたと思われるが、私はこうした流し雛のブームが雛祭り本来の歴史をゆがめてしまわないかと恐れている。それは流し雛の隆盛にともなって、雛祭りの成立を流し雛と結びつける次のような説明がよくなされるからである。「雛人形の本来の姿は流し雛。災厄を人形に託し、穢れを祓い流し去る雛祭りの原型です。流し雛の風習は今日まで受け継がれており、鳥取の流し雛など古俗を色濃く残しています」(あるウェブサイトの説明)。はたしてこの説明は正しいのだろうか。流し雛は本当に雛人形の源流たり得るのだろうか。

日本で最も有名な流し雛の里・用瀬

桃の花や菜の花を添えられた流し雛(用瀬の「流しびなの館」で)

地元の小学生による雛流し(用瀬で)

 現在、日本で行われている流し雛で最も知られているのは、鳥取市用瀬町の流し雛であろう。山あいの町でひっそりと続けられていた流し雛の行事は、昭和30年代中頃に週刊誌や月刊誌等で取り上げられて紹介されるようになり、その後、テレビの普及とともに映像でも紹介され、現在では全国的に知られるようになっている。鳥取県では昭和60年、この行事を県指定無形文化財に指定した。また地元の用瀬町では「流しびなの館」という展示施設を作り、観光振興を図っている。今年(平成17年)の流し雛がおこなわれた4月11日(月)、わたしは用瀬を訪れ、この伝統ある行事を見学するとともに、流しびなの館の田中倫明氏と綾木弘氏のご協力をえて流し雛に関する資料を収集することができた。

 まず用瀬の流し雛が昭和60年に鳥取県の無形民俗文化財に指定されたときの資料を紹介させていただく。これをみると流し雛の民俗的位置づけが把握できる。

(鳥取県教育委員会告示第十号  昭和60年6月25日)

名 称 用瀬のひな送り

特 徴 旧暦の三月三日の夕方に、男女一対の紙びなを桟俵などに載せ、川に流す行事。用瀬町を中心に県東部に広く伝わっており、本来女性の無病息災の祈願であったものが、今日では一切の災厄を払い流すことを祈願するようになったと考えられている。

所在地 八頭郡用瀬町  保護団体 用瀬民俗保存会

 なおこの資料には、県指定文化財の候補物件として申請されたときの説明資料も付属しており、こちらにはさらに詳しい説明がなされている。

名 称 用瀬のひな送り  所在地 八頭郡用瀬町

説 明

 市販されている男女一対の紙びなを買い求め、それを内裏びななどといっしょにひな檀に飾り、3月3日の夕方、桟俵や藁苞(わらづと)などに載せ、別に菱餅・アラレ・タニシ・桃の花・線香・ローソクなどを添えて千代川に流す行事である。

 紙びなは立びな形式で流しびなと呼ばれている。竹の骨に白い花模様をあしらった赤紙を貼り、土を丸めた小さな頭をつけて胡粉を塗り、それに目・鼻・口などを描き、男びなには金紙の冠をつけ、女びなは髪を黒く塗った簡素なものである。

(由来)

 この行事は、江戸時代末期に鳥取城下の都市民の間で始められてものが、しだいに周辺の農村へ伝わっていったものと推定されるが、ひなを送る際の唱え言などからすれば、この行事には明らかに淡島信仰の影響が認められ、その成立の動機としていわゆる淡島願人の関与が想定される。従ってこの行事の目的も、本来は女の病の祈願であったと思われるが、しだいに拡大され、今日見られるように一般的に無病攘災を祈願し、一切の災厄を払い流すことを意味するようになったと考えられる。

※以前は新潟県から鹿児島県にわたってその風習が残っていたが、現在は不祥。指定物件としては笠岡市(岡山)「北木島の流し雛」(S55.3.27市指定)がある。

 以上が指定の文書である。なお流し雛に淡島信仰の影響が認められる点については、地元・鳥取県の民俗研究者である坂田友宏氏は、その論文「因幡の雛送り(流し雛)」(『神・鬼・墓』所収 米子今井書店)の中で「水に浮かんで流れてゆく流し雛に手を合わせて以前はいろいろ唱え言をした。(中略)そうした中で、『女の病を病みませんように』『帯から下の病いを治してつかんせい』『長血・白血を病まんように』というように、祈願の内容を女の帯下の病気に限っていう場合が多いことが注目される。実はそうしたところでは唱え言と同時に、多くのところで『アワシマサンに行ってつかんせい』と唱えているのである」と述べて、雛送りと淡島信仰の関係を指摘している。

鳥取の流し雛の始まりは江戸末期

 この指定時の資料によると、用瀬の流し雛は江戸末期に鳥取城下の都市民のあいだで始められていたものが、次第に周辺の農村へ伝わっていったと推定されている。先に挙げた論文「因幡の雛送り」のなかで著者の坂田氏は流し雛のルーツを、「鳥取城下の武家や商人といった都市民のあいだで始められた習俗のように思われ、流し雛もはじめは武家の家内などの手で作られていたものが、しだいに商品化され、周囲の農村に伝わっていったと考えられ、その時期も明治以前のそう遠くない時代ではなかったか」と想像している。

 この点について流しびなの館で展示解説をされ、古老の聞き取りもおこなっておられる綾木弘氏は、地元の明治31年生まれの女性が、「わたしの母も祖父も昔から雛を流していたと言っていました」という事例を紹介して、用瀬でも江戸末期まで遡れるのはほぼ間違いないとおっしゃっている。

 また坂田友宏氏は同じ論文のなかで、「因幡地方において雛送りが行われていたのは、岩美町・福部村を除いては、すべてが千代川(鳥取市で日本海に注ぐ)とその支流に沿った村々であり、ほぼ一水系に限ってこれだけの広がりを見せる民俗はきわめて珍しく、その意味で雛送りは千代川の生んだユニークな文化である。雛送りに使われた雛は、ほとんど例外なく市販されたものであった。以前は流し雛を売る店が鳥取市・河原町・船岡町・用瀬町・若桜町などにあったが、鳥取市以外でそういう店ができたのは比較的あたらしかった。それ以前は、多くの主に鳥取からやってくる行商人を通して購入したのであって、行商人たちは一軒一軒回って流し雛を売り歩いていた。」と因幡地方の流し雛の製作と流通の特徴を説明している。

 しかし流しびなの館の綾木弘氏は坂田論文とは少し異なった見解を持っておられた。綾木氏は、「用瀬では鳥取や河原町から売りにきた行商人から流し雛を買ったこともあるが、明治のころから地元でも作っていました。明治10年頃、海老十郎という旅役者が用瀬に住みついて流し雛を作り、お菊さんという女の人がそれを売って歩いてまわったという話を古老がしていました。また明治中頃、津山から来た伊賀さんという男の人が、明治後期の頃には矢部さんという人がいずれも用瀬で流し雛を作っていたという話も古老がしています。これを見て地元の女性も見よう見まねで作るようになり、戦時中も絶えることなく流し雛を続けられたのは、自分たちで作れたからです」と言われ、用瀬が流し雛の伝統を守り続けられたのは、自分たちで流し雛を作ることができたことが大きいと強調されていた。

 いずれにしても、用瀬および鳥取市を含む千代川水系の流し雛は江戸時代末期まで遡ることが明らかになった。しかし日本の雛祭りは江戸時代初期にはそのかたちができている。用瀬や鳥取の流し雛に限っていえば江戸初期からの伝承はなく、この地方の流し雛が雛人形の源流でないことは明らかである。

北木島に見る淡島信仰の影響 

 岡山県笠岡市の北木島は、瀬戸内海にうかぶ小島であるが、ここでおこなわれる流し雛はさらに淡島信仰との関連をはっきりと示している。わたしは用瀬を訪問した前日の4月10日(日)にここを訪れて調査をおこなった。(本来は用瀬と同じく旧暦の3月3日である4月11日に行なわれるのだが、最近は島外に出ている子どもや孫などが参加しやすいように日曜日に開催している。)北木島の流し雛は昭和55年に笠岡市の重要無形民俗文化財に指定されている。調査でご協力いただいた北木島の流し雛保存会長の天野秀範氏から提供いただいた指定書の文面をまず紹介したい。

(笠岡市指定第55号)

1 名 称 北木島の流し雛

2 種 別 重要無形民俗文化財

3 内 容 

 小麦わら、板、紙箱等を利用して小舟を作り、その中に紙雛12体、閏年には13体を作り乗せる。紙雛は千代紙を工夫して作る。内裏1対、官女9体(閏年には1人増える)、船頭1体を1組とする。その外に、菱餅、アサリ貝を主とした料理、桃の花の小枝を添えて、満潮を期して海へ流す行事である。

4 行われる時期及び場所

 毎年旧暦3月3日、正午前に満潮を期して北木島大浦地区一帯において行われる。

5 由 来

 この行事は、和歌山県加太の浦に鎮座する淡島明神の信仰にもとづくもので、北木島地方に元禄年間(1688~1704)淡島願人(遊行僧侶)によって伝えられたという伝承がある。行事の目的は、本来婦人病の病気祈願であったが、近年では家庭内の一切の災厄を払い流すことを意味するようになっている。

6 その他参考となる事項

 淡島神社は、和歌山県海草郡加太にあり、世俗婦人病の神とされ、近世には淡島願人が各地を回って婦人たちから衣類や髪等を集めて歩く風があった。淡島願人が建てたという淡島堂が諸所にあり、周辺の婦人たちの信仰を集めている。

 紀州の淡島神の由来については、天照大神の第6の姫宮が16歳で住吉神の一の后となったが、女の病にかかったため、綾の巻物12の神宝をとりそろえ、空ろ船に乗って堺から流され、3月3日に淡島に着いたという伝説が近世にあった。3月3日の雛祭に形代を諸方から流す習俗に乗じて発展したらしい。(歴史大辞典より)

 昭和55年2月15日付けで、北木島流し雛保存会(会長 河田千里)から市指定文化財について指定申請がなされた。

7 指定理由

 流し雛行事は、全国各地に残されているが、中国地方では鳥取用瀬のものが全国的に知られている。しかし岡山県には北木島大浦地区以外にその例を見ない珍しい民俗行事であるので、永く保存するため笠岡市の無形民俗文化財に指定するものとする。

 昭和55年3月27日

大浦の浜から流されるうつろ舟  流し雛が乗せられたうつろ舟(雛壇の前に置かれる)

 このように指定書には淡島信仰の影響がはっきりと書かれている。わたしが当日、流し雛作り体験教室が開かれている会場で、うつろ舟を製作実演していた奥野さんという年配の女性に流し雛の由来を尋ねたところ、「むかし住吉明神へ嫁いだお姫さまが婦人病にかかって離縁されて、堺からうつろ舟に乗せられ12の宝物と一緒に流された。流れ着いた先が加太の淡島さんで、旧3月3日だった。淡島でお姫さんは女性を守る神さんになった。そこで旧3月3日に、病気にならず健康に過ごせますようにと願って、淡島さんに流れ着くようにと雛をいれたうつろ舟を流します」とすらすら話してくれた。この話は淡島願人がこの島へ伝えたのだそうである。 

 なお指定書は北木島の流し雛の始まりを、「元禄年間(1688~1704)淡島願人(遊行僧侶)によって伝えられたという伝承がある」としているが、これについては疑問がある。確かに元禄のころ淡島願人はこの島に来たと思われるが、その時に流し雛を伝えたのかどうか定かでない。後述するように流し雛は淡島願人が日本の各地をまわって築いた淡島信仰のうえに成立したものであるが、最初からあったものでなく淡島神社への代参機能のひとつとして後に発生したというのがわたしの考えである。

 地元笠岡市の郷土史家で民俗研究家でもある奥野鉄夫氏は、論文「島の流し雛 瀬戸内北木島に今も残る雛祭り習俗」(「ふるさと展望」2号・昭和53年1月)のなかで、「北木島の大浦では旧二月二八日に雛を取りだして雛段に飾る。この日から三月三日の祭りの前夜までのあいだに、雛段の前に家族が集まり、祖母や母親から作り方を教わりながら流し雛用の紙雛をつくる。つくった雛はボール箱か重箱に入れて雛段のかたわらに飾っておく。三月三日の当日は、正午近くなると流し雛を、あらかじめ作っておいたうつろ舟に乗せ、雛に供えておいた菱餅、あさり飯等を弁当としていっしょに積む。うつろ舟は正午に流すことになっている。当地の旧暦三月三日は、正午頃が満潮で潮流が東に向くので、この潮流に乗せれば舟が早く紀州加太の浦へ着くだろうという発想からである。遅れる雛のないよう隣近所誘い合って海岸へ揃う。家内安全、健康、安産など、女性のあらゆる欲ばった願いをこめて、『どうぞ無事に淡島さんへいんでおくれ』と祈りながら流す」と紹介している。北木島の流し雛は、まさに淡島信仰と直接結び付いた習俗なのである。

各地の流し雛の伝承

 それでは日本の各地に伝わる流し雛にはどんな伝承があるのだろうか。今川花織氏は「流し雛」(「郷玩文化」121号・平成9年6月)の中で、福島県大沼郡金山町西谷の流し雛行事を紹介し、小学生の女児がいる家ではお雛様とよばれる紙の人形を一~二体(以前は一家の女の数)作り宿元に持って集まり、淡島様に無事送り届けるようにと宿元が作る紙の船頭人形を一緒に舟に乗せ、只見川に流しに行くと報告している。また同県三島町高清水地区の流し雛でも、流し雛をする理由は、「女性の幸せを願って身の汚れや不幸を紙雛に移しかえ流し去る、遠くて参ることのできない淡島様に幸せや願い事を紙雛に託して代参してもらうためといわれる」と報告している。

雛を板に貼りつけた大竹の流し雛

 また広島県大竹市では市内を流れる河川のあちこちで各家庭で「雛去なし」「雛送り」と呼ばれる行事が明治・大正時代は盛んにおこなわれたが、そのとき古くなった雛人形・壊れた雛人形も流しており、「手足の取れ壊れたり古くなった雛は淡島様に流れ行き、元通りの姿に直って帰ってくる」と言い伝えられていたことも報告されている。大竹市では戦後になりこの行事が復活したが、現在、青少年育成市民会議が主体となって流し雛行事を推進している。紙粘土、ようじ、色紙などで作った流し雛を折敷(おしき)とよばれる板に貼り付け、桟俵に供物とともに乗せて小瀬川に流すが、頭と折敷は青少年育成市民会議が作成し、女子児童のいる家庭に配布し、桟俵は当日会場で配布されるという。この折敷に雛を貼り付けた流し雛は、市民会議で販売もしており、大竹の流し雛として郷土玩具になっている。

 日本の各地では、流し雛の習俗が行われている地域で市販される流し雛が郷土玩具となって存在している。先に挙げた地域のなかでは、鳥取・用瀬・大竹の流し雛が郷土玩具として売られている。これ以外の郷土玩具の流し雛の伝承はどうなっているのだろうか。

粉河の流し雛(北村芙美代氏提供)

 和歌山県粉河町の粉河の流し雛は、「この地方では古くから、身の穢れや不治の病をこの紙雛にうつして紀ノ川を利用して作った水路小田井に流す風習があった。旧三月節句の雛人形と並べてこれを雛壇に飾り、節句の済んだあと、これを付け木や竹の皮の舟に乗せて流せば、紀ノ川の川口、加太浦に着き淡島明神の加護があると伝えられる」(斎藤良輔『郷土玩具辞典』)と書かれ、やはり淡島信仰が反映されている。

竹皮の舟に雛が乗った五條市南阿田の流し雛  吉野川で雛流しをする南阿田の子供たち

 奈良県五條市の流し雛は、「五条付近では、世間普通の雛飾りもするが、また別に千代紙や色紙で三・四寸位の人形を家族中の女の数だけ作り、竹の皮の船に倒れぬように一つ一つ糸でくくりつけて雛壇の下に飾って、菱餅を供える。この人形は出来るだけ早く祭る方がよい、というので、旧三月三日(今は四月)の朝早くから祭る。四日の朝は、女の子は、この竹の皮に載せた人形を吉野川に流す。この日、広い吉野川の川原は、この紙人形を流す人で一ぱいになる。この流し雛の盛んにおこなわれた頃は、売りに来る商人もあったが、今では大抵自分の家で作る。ソラ豆を水に浸し、それに細い棒をさして、ソラ豆を顔に見立て、千代紙などで着物を作る。この人形は、紀ノ川の川口に近い淡島まで流れて行く。こうしておくと、女の下の病気にかからぬと信ぜられている。」(『五條市史 下巻』昭和33年刊)と書かれており、淡島信仰の影響が指摘されている。

 五条の流し雛は、戦中戦後は途絶えていたが、昭和44年に歌人の亀多亀雄氏が中心となって南阿田で復活された。現在は4月の第一日曜日に地元の女性たちが作った流し雛が源龍寺で供養されたのち、少女たちによって近くの吉野川に流される。地元の手作りの流し雛は一般の人も入手でき郷土玩具となっている。

広島の淡島堂から領布された「おんたちめんたち」(昭和初期)

 このように郷土玩具として我々に親しまれている流し雛も淡島信仰と深い関係がある。なお第二次大戦前まで広島市木挽町にあった淡島堂から、俗に「おんたちひいな」あるいは「おんたちめんたち」と呼ばれる紙雛が領布されていた。これは白い小さな頭に紙の着物を着せたもので、大小一対が紙帯で括られている。これは淡島雛の一種で、流し雛に使われたかどうかわからないが、淡島信仰にもとづく紙雛である。北村英三氏所蔵のものを参考までに写真掲載させていただいた。

加太淡島神社とは

 ではどうして流し雛は淡島信仰と関連があるのだろうか。それは和歌山市にある加太淡島神社の成立とその後の歴史に深く関わっている。

 全国にある淡島神社の総本社である加太淡島神社は和歌山市加太に鎮座する。この神社は平安中期の延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社で、祭られている神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の三柱である。少彦名命は体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、医薬・まじないなどの法を創めたとされ、大己貴命は大国主命の別名で少彦名命と協力して天下を経営したとされる。息長足姫尊は神功皇后である。

 江戸後期に和歌山藩によって編纂され天保10年(1839)に成稿した『紀伊続風土記』により簡単にまとめると、神社の由来は次のとおりである。「神社は上古、加太の沖にある友ヶ島(淡州または淡島また粟島とも言う。沖ノ島・地ノ島・神島・虎島の4つの島からなる)の神島に鎮座していた。当時は少彦名命と大己貴命の二座を祀っていた。神社の社家では次のように伝えている。神功皇后が筑紫から凱旋するとき、皇子を竹内宿禰に託して紀伊国に赴かせ、皇后が難波の方に至ると海上でにわかに風波の難にあった。皇后は自ら苫(葦や茅でできた舟の覆い)を海に投げ入れて神の助けを祈り、苫の流れゆくままに舟を漕がせてゆくと、淡島(神島)に着いた。これは神の擁護によれるなりと韓国で得た宝物を神殿に納めた。その後、仁徳天皇が淡路島に遊猟されたとき、この社を加太の地に遷し、神功皇后の崇敬された神社であるので、皇后を合わせ祀り、一宮三坐の神とし加太神社と称した。」

江戸初期にひいな遊びを神社の由来に取り込む

 以上が加太淡島神社の由来であるが、続いて『紀伊続風土記』は奇妙な文を続けている。それは「寛文記に、淡島明神は天照大神の姫宮で住吉明神の后という。俗信には天照大神の第六の姫宮という、(中略)何れも索強付会(無理にこじつけた)の説にて信じかたし」という内容である。

 寛文記とはどんな書物か特定しかねるが、寛文(1661-1672)というと江戸前期である。この頃、淡島神社の由来にこじつけ(索強付会)と『紀伊続風土記』の著者が呼んだ俗説が登場したのである。どんなこじつけなのか。江戸後期の風俗見聞集である『続飛鳥川』(19世紀中頃刊)にこじつけの典型的な内容が残っているので紹介してみよう。

 「淡島明神、鈴をふる願人、天照皇大神宮第六番目の姫宮にて渡り給ふ。御年十六歳の春の頃、住吉の一の后そなはらせ給う神の御身にも、うるさい病をうけさせ給ふ。綾の巻物、十二の神楽をとりそへ、うつろ船にのせ、さかひ(堺)は七度の浜より流され給ふ。あくる三月三日淡島に着給う。巻物をとり出し、ひな形をきざませ給ふ。ひな遊びのはじまり、丑寅の御方は、針さしそまつにせぬ供養、御本地は福一まんこくぞう、紀州なぎさの郡加太淡島明神、身体堅固の願折針をやる」

 これは淡島神社の御利益を語って各地をまわった淡島願人(特殊な乞食)が話す内容を記録したものである。それによると、「淡島の神は天照大神の六番目の姫宮として生まれ、十六歳のとき住吉明神の一の后となった。しかしうるさい病(白血・長血などの下の病)にかかったので、綾の巻物および十二の神楽とともにうつろ船(中が空になった船)に乗せられ堺の七度の浜から流された。翌三月三日に淡島に着いた。巻物を取り出してひな形を切り出した。これがひな遊びのはじまりである。(以下略)」となっている。

 なんと淡島の神は天照皇大神宮の姫宮で、しかも下の病を患い船で淡島に流されたという民間伝承が広まったのである。しかも淡島に流れ着いたのが三月三日で、そこでひな形をきざんだことから、これがひいな遊びのはじまりであるという俗説まで成立した。しかしこれはあくまでも民間の俗説である。

加太淡島神社の御守雛

(昭和初期・北村英三氏提供)

加太淡島神社御守雛の縁起。由来を簡単に記し、常に懐中に持てば武運長久・海上安全・腰より下の病に苦しむ事なしと説いている。(昭和初期・北村英三氏提供)

 神社の社家の言い伝えでは、「今の世に例年三月三日、九月九日、女子雛祭りの遊戯あることは、往古神功皇后手ずから少彦名命の御神像を作りて、当社に奉納なしたまひしより事起れり。其後仁徳天皇の御宇、神託によつて天下婦女幼児の病苦を払除のため宇礼豆玖物(うれつくりもの)とて雛がたを製してこれを玩遊ばしめ玉へり。また天児といへるも少彦名命の御神像にしてこれをまつること雛遊ひの巻に見えたり。」(『紀伊国名所図会』文化9年・1812)とあって、神功皇后がみずからが少彦名命のかたちを作って神社に納めたのが、雛遊びの始まりと説明している。なお現代の加太淡島神社は、この由来を「御祭神の小彦命、神功皇后の男女一対の像が男雛女雛の始まりであると言われる」としている。淡島神社が領布している御守雛は、御祭神の小彦命、神功皇后の男女一対の像をかたどったものである。

 ともかく淡島神社は江戸時代に入ると急速に「雛遊び」を神社のいわれに取り込み、三月三日を祭礼とし、女性を対象に信者獲得に走りはじめたのである。室町時代の例祭が四月二十日(『式内社調査報告』第23巻)と書かれているのみで、三月三日がいつから祭礼となったのか定かでないが、江戸時代にはいると「四時祭礼三月三日、四月八日、九月九日、十一月十三日」(紀伊国名所図会)と、四つの例祭のひとつとなり、さらに『紀伊続風土記』では「祭礼三月三日を大祭とす」とあり、淡島神社の最も大きな祭りとなったのである。

 加太淡島神社が三月三日の例祭に何をしていたかについては、『紀伊続風土記』に「祭礼三月三日を大祭とす。御輿神幸所に渡御あり。神幸所は飽等浜にあり。児獅子舞、面かつき等あり。又村中の旧家、皆素襖を着て御輿供奉をなす。其式頗る賑はし。又加太浦は三月三日潮乾の名所なれば、国中の貴賤、他邦の男女船を泛(うか)へて群衆す。(中略)しん紳家(身分の高い人)諸侯方及び諸国の士庶(一般の民)より、雛ならびに雛の其婦人の手道具を奉納する事夥しくして、神殿中に充満す」とあり、飽等浜にあった神幸所へ御輿の渡御が行われ、子供の獅子舞や面かつき等があったこと、この日は干潮になるので諸国から大勢の人が船で訪れ潮干狩りを楽しんだこと、また雛人形や婦人の手道具の奉納がおびただしくて社殿中に充満している様子を記している。

 現在の加太淡島神社では、雛人形や婦人の諸道具などの奉納は当時と同じように行われているが、御輿渡御や子供獅子舞などはおこなわれていない。神社に問い合わせたところ、これらの行事は現在、近くの加太春日神社で「えび祭り」として五月に行われているという。当時、春日神社と淡島神社とは宮司が兼務していたため、春日神社の行事が淡島神社の例祭のように書かれたのではないかというのが、前田光穂宮司のお話である。

 ところで現在の加太淡島神社の三月三日は、雛流しが行われている。全国から奉納されたひな人形などが白木造りの船に載せられ海に流される。この雛流しは『紀伊続風土記』に書かれていない。いつから始まったのだろうか。この点について前田宮司にうかがうと、昭和37年(1962)からだそうである。それまでは神社で祈祷を受けたひとがたや人形を個人の方がそれぞれ海へ流していたという。それを神社の行事として昭和37年から行うようになったのだそうである。この有名な行事も起源は以外に新しいのである。

(本稿は『郷玩文化』169号 2005年6月刊 郷土玩具文化研究会発行、に掲載された論文を転載したものです) 


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淡島願人の活動

 女性信者をターゲットにした神社の活動を側面から支援したのが、淡島願人(がんにん)あるいは淡島坊主と呼ばれる下級宗教家であった。広辞苑によると、淡島願人は「淡島神社のお札を入れた箱を負って、その由来を語りながら門付けをした遊行者」と書かれ、また小学館の『日本国語大辞典』には、「淡島明神の小宮をたずさえたり、背負ったりして、その由来を語り、『紀州名草の郡、加太淡島さまへ代僧代参り』などと言って門付けをして歩いた行者」とある。 

『上方演芸辞典』(東京堂出版)は、『けいせい飛馬始』(寛政元年・1789)を引用して、「淡島さまへ代僧代参り、分けて女中は櫛・笄(こうがい)・簪(かんざし)・耳掻・たぼ留・前差し・両差・後差し、其うち似せ物は値打ちがない。本鼈甲(べっこう)を上げよとの御誓願でござる」と、淡島殿(淡島願人)の言草(語りの内容)の一例を紹介している。これをみると淡島願人は女性に代わって淡島神社に代参し、その際、櫛や笄(こうがい)・簪(かんざし)など女の装身具などを「淡島さんに納めるから」と供出させていたようである。しかも本鼈甲(べっこう)などの本物を出せと言っているところをみると、恐らく供出させた装身具をどこかに売り飛ばしていたのであろう。

 また『大阪ことば事典』(講談社)には、「アワシマハン」の説明に、「元禄の頃から、あわしまという一種の乞食があって、淡島明神を祀った小さい神棚に紅・紫とりどりの小布を結びつけたものを手に持ち、淡島の縁起めいたものを声高に唱えて、白帯下に悩む婦人に、祈願して病苦をのがれよと勧進した。上方では僧侶の風をなし、江戸では神主めいた扮装をしたという」とある。「縁起めいたものを声高に唱えて」というのが、先に示した『続飛鳥川』(19世紀中頃)に述べられている内容であろう。

 一方、奥野鉄夫氏は、先に引用した論文「島の流し雛」のなかで出典を明示していないが、「役の行者が開創したといわれる紀州伽蛇寺は、淡島様を強力に支援する寺であった。毎年3月には修験のため、諸国から300人あまりの行者がこの寺に集まったが、この行者たちが全国に淡島様を宣教して歩き、女性の頭のもの(くし、かんざし、かもじ)を供えて祈願すると霊験のあらたかであると説いて、衣類や米、銭を受けたという」と、修験の行者が淡島願人となって全国を宣教したと述べている。

淡島願人の図が示すもの

『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)に描かれた淡島願人

 この淡島願人を描いた図が『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)にある。編み笠を被った人物が、柄の先に小型のお宮を付けたものを手に持ち歩く姿である。小宮の中には立雛や這子らしきものが描かれており、宮の周囲からいくつも細い布が垂れ下がっている。この説明に「淡嶋殿、かれが向上、一から十まで皆誤りなれども、それをたゞす者もなし。女の身にとっては第一気の毒の病をまもり給ふといえば、愚なる心から、おしげなくとらする也。夫(それ)粟嶋は紀伊国名草郡蚊田(かだ)にあり。其神は陽躰(ようたい)にして女躰にはあらず。然(しかる)を、はり才天女の宮といふ也。わろうべしわろうべし」とある。 『人倫訓蒙図彙』の著者にとっても、淡島願人は荒唐無稽なことを言って婦女をたぶらかし、施しを受けるとんでもない者に見えたようである。

『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)に描かれた淡島願人図

 それから40年後に出版された『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)にも淡島願人が描かれた図が出てくる。そこには僧の姿をした願人が、右手に鈴を持ち、左手に小宮の柄を持ちながら、通りかかった晒木綿の束を頭上にのせた女に声をかけている。小宮のなかには立雛が見え、小宮の床の回りからやはり布きれが垂れ下がっている。絵の題歌に「曝嚊(さらしかかあ) 血の道の出たらば恥や 晒(さらし)かゝ 淡島様を兼て祈らん」と書かれている。意味は、「晒しを運んでいるかかあさん、下の病で血がでたら恥ですよ、淡島さんにお祈りしませんか」というほどのものである。

 これら淡島願人の図を分析してみると非常に興味深いことがわかってくる。まず淡島願人は両方とも小宮をたずさえている。小宮の中には立雛が見える。『人倫訓蒙図彙』のほうには這子らしきものも描かれている。立雛は社家の言い伝えにあるように、神功皇后手ずから作ったという少彦名命の神像、すなわち淡島明神を表現している。(しかし立ち雛は男女1対である。これについて現在の淡島神社は、立ち雛を少彦名命と神功皇后の男女一対の御神像であると説明している。)

 また這子は『紀伊国名所図会』に、「天児といへるも少彦名命の御神像にして」とあり、天児は這子とも言ったことから、これも少彦名命を表現している。こうしてみると、淡島願人は淡島の神さまを小宮の中に携えていることになる。なお小宮の下方から垂れ下がっている細い布は、『大阪ことば事典』に、「紅・紫とりどりの小布を結びつけ」と記し、布の色が赤や紫などであるこがわかるが、この布が何を意味しているのか定かでない。

 さて『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690)の小宮に描かれた立雛図であるが、これが意外に古いのである。現在までに知られている立雛図のなかで古いものとしては、『女用訓蒙図彙』(貞享四年・1687)の「雛(ひいな)」の図、『日本歳時記』(貞享五年・1688)の雛飾りに描かれている立雛図が私の知るところであるが、『人倫訓蒙図彙』の小宮内の立雛図はこれらと刊年において2~3年の違いしかなく、ほとんど同時代といってよい。すなわち淡島神社は世の中にひいな遊びが普及しはじめた1600年代の後半にはすでに淡島の神として立雛をとりこんでいたことになる。

 平安時代から「ひいな遊び」と言われていた人形遊びが、三月三日に収斂してくるのは、俳諧歳時記の『俳諧初学抄』(寛永18年・1641)や『山之井』(正保5年・1648)の三月三日に「ひいな遊び」の詞(ことば)が見える1640年代のころと考えられている。それから40~50年後にひいなである立雛を神社の祭神として祭り上げているのは、世の中の動きを先取りした英断であったといえよう。なぜなら、ひいな遊びはその後、雛まつりへと発展して各地に普及し、淡島神社の信仰もそれに伴うように全国に拡がるからである。

淡島信仰の繁栄

 『紀伊続風土記』の著者が「索強付会(こじつけ)」とよび、『人倫訓蒙図彙』の著者も「一から十まで皆誤りなれども」と批判した淡島信仰は、しかし時代を経るにつれて拡がっていった。それは江戸時代の女性から圧倒的な支持を得たからであった。お布施を包み願掛けの品々を託せば、紀州の淡島明神に代参してくれるという淡島願人の活動は、病んだ女性たちにとって救いの神であったことだろう。まさに淡島信仰はこの下級宗教家が拡げたものいえる。

 この淡島願人の活動は歌舞伎のなかにも残っている。淡島物とよばれる一群の作品がそれである。平凡社の百科事典によれば、淡島物は淡島願人の風俗が歌舞伎にとりいれられて成立した一群の作品で宝暦9年(1759)閏7月、江戸市村座上演の「粟島園生竹」がその最初とされる。市村亀蔵演じる関東小六が淡島願人となって郭に入り込み、遊女大岸と恋の所作をする内容という。続いて明和7年(1770)秋、市村座で上演された「関東小六後雛形」で、市村亀蔵の丹波屋七郎兵衛が淡島願人となって郭に入り込み、遊女音羽と恋を語る。この後も淡島物は文化4年(1804)江戸中村座で、安政4年(1859)市村座で上演されている。これらの芝居は淡島願人が郭の遊女に信仰されていたことを示している。

 また淡島信仰が拡がるにつれて、神社も各地に増えていった。神社の境内に末社として勧請されたり、寺の境内に淡島堂として建てられた。また個人の民家の屋敷内に邸内社として一家の鎮守となっているものも多い。今も各地に残る淡島神社の多くは、こうして江戸時代以降、淡島願人の活動と平行して建てられ拡がっていったものである。

淡島信仰の流し雛はなぜ発生したのか

 こうして広まった淡島信仰の流れにさらに新しい動きが加わった。流し雛である。先に述べたように鳥取や用瀬では流し雛は淡島信仰と関連をもちながら江戸末期に鳥取城下で始められたのではないかと推定されている。また和歌山県粉河や奈良県五条の流し雛も江戸時代にその起源があると考えられる。いったい流し雛はどんな役割をもってなぜ始められたのだろうか。

 鳥取県の各地に古くから伝わる流し雛は先にも述べたように、水に浮かんで流れてゆく流し雛に手を合わせて、「女の病を病みませんように」「帯から下の病いを治してつかんせい」「長血・白血を病まんように」と、以前は女の帯の下の病気に限っていう場合が多く、そうしたところでは「アワシマサンに行ってつかんせい」と唱えていた(坂田友宏氏「因幡の雛送り」)。

 岡山県笠岡市北木島の流し雛行事でも、「当地の旧暦三月三日は、正午頃が満潮で潮流が東に向くので、この潮流に乗せれば舟が早く紀州加太の浦へ着くだろうという発想からである。遅れる雛のないよう隣近所誘い合って海岸へ揃う。家内安全、健康、安産など、女性のあらゆる欲ばった願いをこめて、『どうぞ無事に淡島さんへいんでおくれ』と各家庭で手作りした紙雛を麦わら製のウツロ船に乗せ、祈りながら海へ流す」(奥野鉄夫氏「島の流し雛」)。また奈良県五條市の流し雛は紀ノ川の川口に近い淡島まで流れて行き、女の下の病気にかからぬと信ぜられている(『五条市史』)。このように流し雛は、淡島さまに願い事が届くようにと紙雛に託して代参してもらうという役割を果たしており、純粋な祓いのヒトガタではない。こうした流し雛はなぜ生まれたのであろうか。

 俳諧歳時記の『滑稽雑談』(正徳3年・1713)には、加太淡島神社に関わる俗説のひとつとして、「此の神ことに婦人の病をすくふ因縁ある故に、是を祈る婦女、雛を作りて奉るならし」と、参拝する婦女が病治癒のため雛を作って奉納する習俗を紹介している。こうした雛を作って淡島さんに奉納し病の治癒を祈願する習俗がもとになって、神社まで直接参拝できない紀ノ川流域の女たちが、淡島さんに届くようにと川に雛を流すようになったのが始まりではないかとわたしは推測している。

 流し雛の代参機能はもともと淡島願人が担っていたものである。のちに雛祭りの時期に行商人によって流し雛が売りさばかれたり、また各家庭で手作りされることもあったのは、日本の各地をまわって淡島さんの信仰を普及してきた淡島願人が築き上げた土壌があったからこそといえる。まさに流し雛は淡島願人の耕した土壌の上に開いた文化であるといえよう。

流し雛はいつから始まったか

 流し雛がいつごろから行われたのか。これを調べるひとつの方法として、各時代の俳諧歳時記の季語を比較分析する手法がある。俳諧歳時記は俳諧の季語(詞)を分類して解説や例句をつけた書であるが、その季語は発行された時代の社会風俗がかなり反映されている。そこで江戸初期から後期までの俳諧歳時記の三月三日の季語のうち、雛祭りに関連する言葉を抜き出してみたのが別表である。

         

 この表を見ると、江戸初期から1700年代までの歳時記には「流し雛」の詞(ことば)はでてこない。19世紀に入り『俳諧歳時記』(1803年)に初めて「流シ雛」がでてくる。その15年後に刊行された『季引席用集』(1818年)にも「流し雛」が出てくることから、この頃には流し雛の言葉が定着したようである。

 しかしそれまでの1600年代から1700年代の200年間の歳時記に「流し雛」はまったく見あたらない。歳時記の詞は、その時代に必ず行われていた事柄が書かれているわけではない。例えば「曲水の宴」はどの歳時記にも登場するが、江戸時代を通じて実際にどの程度行われていたか疑問である。しかし三月三日に欠かすことのできない古代からの伝統ある言葉として俳諧の詞に採用されているのである。一般的にいうと、いったん採用された詞は実体がなくなっても消えにくい傾向がある。

 これと逆に新しい詞が採用されるときは、社会にその詞が表す現象が現れたからであると考えられる。例えば、これまで「草餅」「蓬餅」という詞だけだった3月3日の餅に、『華実年浪草』(1783)から以降に「菱餅」が加わる。またそれまで「桃の酒」だけだった酒に、「白酒」が同じく『華実年浪草』から加わっている。これは江戸中期頃から菱餅と白酒が広く用いられるようになり、ついにこの言葉が歳時記に採り上げられたと考えられる。

 こうしてみるとき、「流し雛」は江戸後期の新しい現象として世の中に広まったものと考えられる。では歳時記にとりあげられた「流し雛」は何を表しているのだろうか。ひとつ考えられるのは古い雛や壊れた雛を流す雛流しの行事である。江戸後期に入り、雛祭りが盛んになり作られる雛人形の数が多くなるとともに、古雛や壊れた雛の処分という社会問題が発生してくる。これらの雛は神社などに納める「捨て雛」や、川や海に流す「雛流し」「雛送り」などの方法で処分される。これらの中で流される雛人形にたいして、「流し雛」という言葉が使われるようになってきたのではないかと考えられる。

 『嬉遊笑覧』(文政13年・1830)には「相模(神奈川県)愛甲郡敦木(厚木)の里にて、年毎に古びなの損したるを児女共持出て、さがみ河に流し捨ることあり。白酒を入、銚子携えて河辺に至れば、他の児女もここに来り、互いにひなを流しやることを惜みて、彼白酒をもて離杯を汲かはして、ひなを俵の小口などに載て流しやり、一同に哀み泣くさまをなすことなり。此あたりのひな、内裏ひなに異なることなし、其外に藤の花かつげる女人形多し」とあるのは、古い雛を流す様子を物語っている。『紀伊続風土記』(天保10年・1839)に加太淡島明神で三月三日に「雛ならびに雛の其婦人の手道具を奉納する事夥しくして、神殿中に充満す」とあるのは、江戸後期におびただしい雛が神社に奉納されたことを物語っている。

 もうひとつの「流し雛」は、もちろん淡島信仰の流し雛である。この淡島代参機能をもつ簡素な紙雛も、『俳諧歳時記』(1803年)が編集された江戸後期には始まっていたものと考えられる。

「巳の日の祓い」と「流し雛」の関係

 なおここでひとつ確認しておきたいことがある。それは「巳の日の祓い」のことである。歳時記の「三月」の項目にこの言葉はよく登場する。具体例は次のとおりである。

『はなひ草』(1636)の三月の詞に、「巳の日の祓」

『俳諧初学抄』(1641)の末春に、「須磨の御祓(みそぎ)、三月上ノ巳也」

『増山井』(1667)の三月に、「巳の日のはらへ 上巳。三月上の巳の日、水辺にてはらへして疾病を除くわさとかや。是、周の代にはしまれりを、魏の時よりのち只三月三日を用て、巳の日を不用云々。(中略) 須磨の御祓 是は光源氏須磨浦に左遷のとき、三月一日に出来たる巳の日、陰陽師におほせてみそきし給へり。舟に人かたをつくりてながせし事など彼物語にあり」

『滑稽雑談』(1713)の三月之部に、「巳日のはらへ」と題して中国文献の説明や源氏物語の須磨の御祓を説明している。

『俳諧手挑灯』(1744)の三月に、「巳の日御祓 上ノ巳日、川辺にて疫神除の祓なり、 須磨の祓 上に同 源氏」

『華実年浪草』(1783)の三月に、「巳日祓」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。

『俳諧歳時記』(1803)の三月に、「巳の日の禊」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。

 このように「巳の日の祓い」は、江戸期を通じて一貫して歳時記に登場する。しかしこの祓いは江戸時代に実際に行なわれた習俗なのであろうか。この点については今後、調査してゆきたいが、各種の俳諧歳時記は、中国での由来と源氏物語の須磨の御祓(みそぎ)を載せているのみである。

 江戸期に巳の日の祓いが行なわれていたとしても、これは三月の初めての巳の日の行事であって、三月三日の行事ではない。巳の日が三日と重なるときだけ、三月三日になるのである。さらに雛人形と異なるのは祓いの人形の名称である。それは古代においてヒトガタ(人形)あるいはカタシロ(形代)と呼ばれており、ヒイナ(雛)という呼び方はなされていない。

 こうしたことから、はっきり言えるのは、「流し雛は巳の日の祓いの人形ではない」ということである。源氏が須磨で御祓に用いたのは、「人かた」であって「ひいな」ではない。流し雛の源流を源氏物語の須磨の御祓に求めるのは、筋違いもはなはだしい。流し雛は淡島信仰を源流として発生したものであって、この人形は女性の祈りや願いが込められた奉納人形の性格をもっており、身のケガレを移して流し去るヒトガタ・カタシロとは基本的に異なっている。

明治以降の淡島信仰と流し雛

 明治以降の淡島信仰はどうなったのであろうか。淡島信仰を広めた淡島願人について近代の目撃証言がいくつか残っているので、それらのいくつかを紹介してみたい。

「昭和七、八年頃、私は何回か淡嶋願人が笈(おい)(背に負う箱)のような仏壇のようなものを背負い六部(巡礼)姿で家々を回って歩くのを見た。その中には髪の束や、赤い布切れなどがぶらぶら下がっていて薄気味悪く、何かお経のようなものを唱えていた。家々では米や、お金を供え拝んでいた。(秋田県横手市)」(川越雄助『押絵』秋田文化出版社)

「大坂ことば事典」の淡島願人図(模写)

「幼少のころ、「淡島はん」という背に祠(ほこら)を負い、きたない風体で門づけに来た人物がいました。祠から赤い布や髪などがのぞいていて、異様な感じがした記憶があります。よくごんたを言ったり(だだをこねる)、やんちゃをすると、大人から「淡島はんがくんど(来るぞ)」と言われ、恐怖をおぼえたものです。その淡島はんも戦後しばらくして、その姿を見かけなくなりました。(奈良県田原本町)」(ウエブサイト「田原本町に伝わる昔話」)

「年配の方は知っておられると思うが、当地(岡山県笠岡市)でも昭和12年頃までは、袖の違った着物で小箱を背負い、鉦をたたきながら、ときおり淡島願人がきた。背中の箱には黒髪が下がり、不気味であった記憶がある。(奥野鉄夫「島の流し雛」)

「因幡においては、淡島願人の活動は近代に入ってからも見ることができた。前述した(流し雛を売り歩いた)国府町三代寺の松坊主などもその一派であったと思われるが、八頭郡船岡町志子部などでは、昭和の始めごろまでその姿を見かけることができたという。彼らは俗にアワシマサンと呼ばれ、背中に背負った大きな箱(逗子)の中に神像を入れ、もっぱら婦人病の効験を説いて回ったようである。願掛けや願開きの際に納める櫛や笄・簪、それに髪などを背中の箱に飾り付けて歩いていた。(鳥取県因幡地方)」(坂田友宏『神・鬼・墓 因幡・伯耆の民俗学的研究』)

 以上の事例から、淡島願人は近代に入ってから昭和初期、場所によっては戦後まもなくまでその姿を見かけることができたようである。『大阪ことば事典』(講談社)のアワシマハンの項に、願人の図が載っているが、江戸期のような小宮でなく、背に祠を背負っており開いた戸に髪の束が下がっていることから、近代の証言に出てくる淡島願人に近い。

 ところで東北地方では淡島像といって右手に粟の穂を持った石像が、福島県を中心に分布しているが、これを調査した小坂泰子氏は「福島県中通り(福島市・郡山市を中心とした地域)の淡島像の造立年を調べてみると、他の石仏たちの造立がやや弱まった頃、江戸末期から淡島像の造立がなされ、昭和に至る現在まで、むしろ、昭和に入ってからの方が多く造立されている。(中略)女の日といわれる二月八日の針供養、三月三日の雛祭りなどもこの淡島信仰にまつわる俗信の名残りといわれ、現在もこの日を淡島講と呼んでささやかに、この講を続けている少数の村がある」(「東北地方の淡島様とその信仰」・『日本の石仏9 東北篇』所収 昭和59)と述べて、福島県では淡島信仰をかたちで示す淡島像の造立は江戸末期からなされ、昭和に入ってむしろ多くなったと分析されている。

 こうした状況をみると、今川花織氏が「流し雛」(「郷玩文化」121号)の中で紹介した、福島県大沼郡金山町西谷及び同県三島町高清水地区の流し雛の行事は、近代になってこれらの地方に伝わった可能性も考えられる。

おわりに

 流し雛の隆盛にともなってますます勢いを増す「流し雛は雛人形の源流」説。以前からこの説に違和感を持っていたわたしは、今回、これに対して正面から反論を挑んでみた。資料を求めて「流しびなの館」に問い合わせをさせていただくとともに、図書館にも足繁く通った。また今年にはいって奈良県五條市、鳥取県用瀬町、岡山県北木島へと現地調査もおこなった。その結果、以前から伝承されている流し雛のほとんどが淡島信仰の影響を受けていること、江戸時代の俳諧歳時記に「流し雛」の詞(ことば)は江戸後期からしか出てこないことなどがわかってきた。こうした事実をもとに流し雛は雛人形の源流でなく、淡島信仰を源流として江戸後期以降に発生した習俗であると結論を出したのが本稿である。今回、流し雛について荒削りではあるが、一定の方向を示せたと考えている。今後、みなさんのご意見をうかがってより内容を深めて行きたいと思いますので、忌憚のないご意見をお寄せいただければ幸いです。

  (本稿は『郷玩文化』171号 2005年10月刊 郷土玩具文化研究会発行、に掲載された論文を転載したものです)

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