https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten179-.files/0190.pdf 【雛祭りの起源】より
1 雛祭りの起源
(1) 禊みそぎ祓はらい「三月上巳じょうしの日(陰暦三月初めの巳みの日)」または「上巳の祓(じょうしのはらえ)」三月の初めの巳の日に水辺に出て、穢けがれを祓い清める儀式で中国から伝承した。日本では顕宗けんぞう天皇元年(485年)三月上巳を文献上の初見とする。この日、贖物(あがもの)天児(あまがつ)と呼ばれる人形(ひとがた)に自分の息を吹きかけ、体にこすりつけて穢れを移し、水に流して災禍さ い かを払った。源氏物語でも、須磨す まに隠棲いんせいした光源氏が三月上巳の日に身の潔白を訴えるために人形を海に流している。この禊ぎ祓いの風習が後の「 曲きょく水すいの 宴うたげ」になった。
(2) 曲水の宴
「曲水の宴」は『日本書紀 巻十五』には…二年(顕宗帝二年)の春弥生の上の巳の日に後苑に幸して曲水の宴きこしめす。この時喜び集へるまへつきみたち、臣、連、くにのみやつこ、とものみやつこをつどへてとよのあかり(宴会の意味)したまふ。まへつきみたち頻(しきり)によろこびまうす。 とあり、顕宗帝時代(486年頃)に 禊 祓みそぎはらえの風習が伝来し、曲水の宴として定着したようである。
(3) 雛遊びの語源
日本書紀巻五には崇神帝時代(4世紀半ば~5世紀半ば)、雛祭りの起源とされる「比賣那素寐ひ め な そ び」の故事が書かれている。帝の油断を戒める乙女の歌を聞き、敵の蜂起を知って勝利を得たという故事。ただし、「比賣那素寐」が「雛遊び」と言い切れるかは疑問。「比賣那素寐」とは女性と 戯たわむれることで、「姫遊」と書く。
2 雛遊びから雛祭りへ
(1) 平安王朝と雛遊び
宮廷の姫君たちの遊びとして、平安王朝の文学には 雛ひいな遊びが登場する。源氏物語では末摘花すえつむはな、紅葉賀も み じ の が、 蛍ほたる、夕霧ゆうぎりの各帖に出てくる。また、清少納言の枕草子には…過ぎにしかた恋しきもの(なつかしいもの) 枯れたる葵 ひいなあそびのてうどうつくしきもの(かわいらしいもの) ひいなの調度 とあり、雛遊びが貴族の生活の中に定着していたことがうかがわれる。
ここでは、ままごと遊びや着せ替え人形と同じように雛の着物や小さな調度品も揃えて遊んでいる。まだ三月三日の雛祭りの行事はなかった。
(2) 雛祭りの始まり
二代将軍徳川秀ひで忠ただの娘で、後水尾ご み ず の お天皇の中宮として入内した東福門とうふくもん院が三月三日に雛の宴を催している。ただし、雛祭りとはいわずに雛遊びと呼んでいた。雛祭りの名が一般的になるのは江戸中期以降のようである。元禄以降(1688~)庶民の間にも雛祭りが急速に広まっていった。雛人形は武家の子女など身分の高い女性の嫁入り道具でもあった。
二年(顕宗帝二年)の春弥生の上の巳の日に後苑に幸して曲水の宴きこしめす。
この時喜び集へるまへつきみたち、臣、連、くにのみやつこ、とものみやつこをつどへて
とよのあかり(宴会の意味)したまふ。まへつきみたち頻(しきり)によろこびまうす。
過ぎにしかた恋しきもの(なつかしいもの) 枯れたる葵 ひいなあそびのてうど
うつくしきもの(かわいらしいもの) ひいなの調度
酒田市立資料館 雛人形の種類
1 享保雛
江戸中期、享保(1716~1736)頃流行したといわれる雛。享保雛という名前は明治時代につけられた。時代は享保年間に限っているわけでなく、明治になっても製作・販売された。町屋などで多く飾られ、大型のものが多い。装束は金襴や錦を使い、男雛は袖を張り、太刀をさし、笏を持つ。女雛は冠をかぶり、檜扇を持ち、五衣、唐衣姿で袴は綿を入れて、大きく高く膨らませている。
2 有職雛
宝暦(1751~1764)の頃に作られた雛で、公卿の装束を有職故実にもとづいて正しく仕立てられたもの。明治以降この名前で呼ばれている。公卿が特別に作らせたのが始まり。宮中に仕えて正式の装束を製作していた高倉家と山科家に衣服を作らせたので高倉雛、山科雛とも呼ばれる。雛商人も一般の雛と区別して親王雛と呼んだ。
3 次郎左衛門雛
京都の人形師、雛屋次郎左衛門が創りだした雛で制作者の名前が付いている唯一の雛。初めは上流階級の雛だったが、作者が宝暦十一年(1761)江戸に下り日本橋に店を出して売り出すと、江戸の人気を集めた。しかし、舟月の古今雛がでると旧式扱いされ、人気は急速に衰えた。
4 古今雛
江戸時代後半にかけてあらわれた江戸製の雛。明和年間(1764~1772)頃、江戸・池ノ端の雛人形問屋、大槌屋半兵衛が十軒店(じっけんだな)の人形師、舟月に作らせて売り出した。これまでの雛の衣装を一層華やかにして、金糸・色糸などで縫いとりをほどこし仕上げた。顔も写実的で眼にガラスなどをはめ込み精巧に作られた。江戸っ子雛として大流行し、京・大坂でも人気を得た。古今雛という名前は大槌屋が売り出すときに付けたもの。
5 芥子雛
江戸時代中期以降に流行った小形の雛で、三寸(10センチ弱)以下のものをいう。大形の雛が幕府によってたびたび禁止されたため、小型化した。なかには高さ3センチ以下のものも作られた。
京都からやってきた雛と、江戸からやってきた雛
1 京都製の雛
酒田は京都・大阪との交易が盛んで、酒田湊に入った京都製の雛人形が一般の家にも渡って愛好された。京都から船で運ばれたものは手を加えていないので優れた物が残っている。
2 江戸製の雛
江戸から陸路を通って入ったものは国境の峠を越さなければならないため、荷物を出来るだけ小さくし、また人形の破損を防ぐために頭や手足、付属品を解体して運び込み、それを土地の人形師が組み立てる方法を取った。
男雛と女雛の並べ方
向かって右が男雛、左が女雛の形式が大正時代まで受け継がれてきた。平安時代では左の位が高い(左大臣)。雛の左右が逆転したのは昭和三年(1928)、昭和天皇の即位式が京都の紫宸殿し し ん で んで行われ、その時の天皇、皇后の位置で決めたと言われている。
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御祓、朝の日の出を待つ 輝くアマテラス光の時が訪れる前が一番暗い時
今や日本はまさにその丑三つ時のような時期に完全に入ってしまったように感じています。
しかし、漆黒の闇 丑三つ時には 何か強く直感力が沸いたり、覚醒し、目の奥、第三の目が開くような体験が多々あります。
夜遅くまで起きている方 朝早く目覚める方 同じこのゾーンを体感しているのでしょうね。
あらためて 大宇宙根源の御使い(みつかい)の龍の年に 氣を入れ直し、心を定め、覚悟をもって、一刻一刻を感謝と祈りと共に 本日1/10はみなさまの御前では本年初となる響き
以前に夢の中で訪れた美しきどこかの星 絶え間なく流れていた女性的な声 イルカと泳いだ時に 振動してきた鯨の声今、最も宇宙的な神秘の響きを感じるドイツのモノリナという楽器
16名ものモノリナオーケストラとの響き合わせ
そして、昨年ご縁としかいえないようなタイミングで繋がったかつての親友
それこそ、何をすればよいかわからず、探し求めていた頃、彼の曲にむすんだ言葉
祈りも音楽も、、、縄文の記憶を思い返せば職種などなく、きっと日本人の日常のくらしの中でそれぞれにあったこと
きっと今でなければならなかった 封印された響きが 今日に
昨日は眠れず心が過去にすっとんでいました。
いや、このことが定まった昨年から 自然と朝に日々を記すことをしなくなり、 発するよりも自分自身の内側を旅するような、静かに瞑想したり、いのる時が続いていました。
僕が今、大丈夫なんだから人類みんなちゃんと大丈夫そう思えるほどに辛く苦しかった時
そして 今本当に前世を旅行しているような今今をしっかりと結んで僕の道を またここから
歩みます。
まずは 今日みなさまと前世旅行社の旅を共にかけがえのない今をこの今をありがとうございます。 KNOB拝
https://withnews.jp/article/f0240229000qq000000000000000W0f710101qq000026627A 【イーハトーブの空を見上げて 三つの大津波を生き抜いて…102歳の歌人が「一番伝えたいこと」 昭和三陸津波・チリ地震津波・東日本大震災 岩手県の中村ときさん】より
「イーハトヴは一つの地名である」「ドリームランドとしての日本岩手県である」。詩人・宮沢賢治が愛し、独自の信仰や北方文化、民俗芸能が根強く残る岩手の日常を、朝日新聞の三浦英之記者が描きます。
50歳のときに詠み始めた短歌
岩手県山田町の船越半島。山の中腹にある老人施設で、102歳(取材当時)の歌人・中村ときさんは、眼下に広がる港を眺めていた。「良い天気ね。海がきれいに見える」
二つの眼に映るのは、真っ青な初夏の空と、すべてを奪い取った海だ。
大槌町で生まれ、網元の夫と結婚して山田町に移り住んだ。
1933年の昭和三陸津波と1960年のチリ地震津波、そして、2011年の東日本大震災。三つの大津波を生き抜いてきた。
「津波のお話をさせたらね、私は誰にも負けないと思いますよ」車いすを押す介護職員の方を向き、いたずらっぽく語りかける。「この目で3度も津波を見た人なんて、そうはいないでしょう?」
歌を詠み始めたのは50歳のときだ。
傾倒していた歌人の佐藤佐太郎が設立した短歌結社「歩道」に入った。少女時代から与謝野晶子や石川啄木に憧れ、短歌が大好きだったが、漁業を営む実家は忙しく、それまで時間を持てなかった。1984年、最初の歌集「海の音」で岩手県芸術選奨を受賞。当初は暮らしや自然を詠んだ歌が多かった。それが震災後、自らの被災経験をつづったものへと変化していく。
〈巨大津波火事と地震に怯(おび)えつつ寒き一夜の明くるをただ待つ〉
〈逃げよ逃げよと只管(ひたすら)に登りたり津波来しとふ声に押されて〉
震災で自宅を失い、姉とおいを亡くした。悲しみに暮れるなか、涙あふれる朝や眠れない夜に、抑えきれない感情をチラシなどに書き、ノートにまとめた。
そして2019年2月、震災をテーマに活動する福島県浪江町出身の歌人、三原由起子の誘いを受けて、3冊目となる歌集「大震災・前後」(いりの舎)を刊行した。
〈三度なる津波に遭ひて生きしわれ開かれし地に老の日積まん〉
「3度の津波を覚えていますか?」と尋ねると、中村さんは「大丈夫、はっきりと覚えているわ」と言った。恐ろしかった海の波音 1933年昭和三陸津波
最初に経験した津波は、1933年に起きた昭和三陸津波だった。3月3日未明、強い揺れに続いて大津波が押し寄せ、三陸海岸一帯で約3千人の犠牲者が出た。
当時13歳。大槌町で水産加工業を営む両親と兄、3人の姉妹と暮らしていた。
大地震の直後、両親と兄は家に残り、姉妹4人は高台に向かった。体が大きかった中村さんは、6歳の妹を背負って逃げた。
恐怖と寒さに震えながらたき火にあたっていると、町は津波に襲われたらしく、ちょうちんの明かりが水面に揺れ、人の名前を呼ぶ声が聞こえた。
夜が明けて戻ると、家は道の真ん中まで流されており、押し入れは上段まで水につかっていた。
生きていた飼い犬が、泥だらけになって飛びついてきた。
その40年近く前に明治三陸津波を経験した大槌町では、「大地震が起きたら、津波が来るから必ず高台に逃げろ」と教えられていた。
中村さんは母親から「就寝時には布団の近くに着物をたたんでおき、逃げるときは長靴を履きなさい」「家が火事にならぬよう、囲炉裏の炭火には鉢をかぶせるように」と厳しくしつけられていた。「だから、私はしっかりと逃げることができたのよ」
4月、地元の女学校に入学すると、鎮魂と復興を願って詠まれた短歌を習った。
〈三度なる津波に遭ひて生きしわれ開かれし地に老の日積まん大津浪くくりて めげぬ雄心持て いざ追い進み 参い上らまし〉
余震が毎日のように続いた。津波で壊滅した街から響いてくる海の波音が、恐ろしかった。
顔を出した黒い海底 1960年チリ地震津波
次に襲われたのは、1960年のチリ地震津波だった。5月23日、チリ南部でマグニチュード9.5の超巨大地震が発生。津波は太平洋を横断し、翌日に日本各地の海岸を襲った。
三陸沿岸を中心に死者・行方不明者は140人以上。大船渡市では最も多い53人が亡くなった。
当時、中村さんは網元の夫と結婚し、山田町の船越半島に住んでいた。
津波の当日はちょうどワカメ漁の解禁日で、浜では多くの人が出漁の準備をしていた。
地震の揺れは感じなかったが、「海が変だぞ」という声を聞き、中村さんも浜に向かった。
護岸には多くの人が集まり、沖を見つめていた。
次第に潮が引きはじめ、係留している船が傾くと、黒い海底が顔を出した。
潮が湾に浮かぶ弁天島あたりまで引いたとき、人々が「津波が来るぞ」と叫んで逃げ始めた。
中村さんも近所の主婦に声をかけながら駆け出すと、脇道から津波が迫ってきた。
高台に続く坂道を、息を切らして登る途中、津波が船や浜小屋をさらっていくのが見えた。
「低地にいたら、津波に追いつかれて、私も流されていたかもしれないわ」
自宅のあった田の浜では、津波がこの27年前に起きた昭和三陸津波の後に造成された高台の下で止まっていた。
見に行くと、護岸近くの倉庫が津波に押し破られ、漁具などを失ったが、自宅は床下浸水で済み、大きな被害はなかった。
夜空を焦がす山火事の炎 2011年東日本大震災
そして、2011年3月11日。
東北沿岸部を襲った東日本大震災は、それまでに2度の大津波を経験していた中村さんにとっても、想像を絶する大きさだった。
午後2時46分、岩手県山田町にある自宅近くの郵便局で貯金をおろし、短歌結社に歌稿を送って帰宅したところ、激しい揺れに見舞われた。
津波が来るぞ、と直感し、日ごろから手元に置いているリュックにお金と通帳、補聴器の電池、ラジオを詰め込んで、同居していた孫の車で自宅近くの高台に向かった。
高台には古い家が2軒あり、長く空き家にしていたが、いざという時に備えて壊さずに電気も引いたままにしていた。
町中にサイレンが鳴り響き、「大津波が来るぞ」「逃げろ」と叫ぶ声がして、住民が高台からさらに高い山の方へと逃げ始めた。
足の不自由な中村さんは杖をつきながら、転ばぬように畑の道を一歩一歩登った。
途中からは知人がおぶってくれた。
その後、寒さをしのぐため、山道に止まっていた幼稚園のバスに乗せてもらった。
満員の車内には全身ずぶぬれの人もいた。バスの中で震えていると、山の木々の間から赤い炎が見えた。どこかで山火災が発生しているらしかった。夜になると、バスを出て高台の家に戻った。強い余震が来るたびに、家が潰れるのではないかと不安になって、外に飛び出した。
山火事の炎が夜空を焦がし、時折、「ドーン」という、プロパンガスのボンベが爆発したような音が響いた。
古家で2晩を過ごしたあと、ヘリコプターで避難するため、軽トラックの荷台に乗った。
山火事の炎はまだ燃えており、近くを通ると熱気を感じた。直後に歌を詠んだ。
〈わが思考持たざるままに導かれヘリに乗らんと運ばれてゆく〉
ヘリコプターに乗って避難所になっている山田高校に到着すると、宮古市の学校に勤務する孫娘が駆け寄ってきて、互いの無事を喜んだ。
避難所は満員だった。食事は朝夕の2回。誰かが差し入れを持ってくると、みんなで分け合って食べた。
自宅が流されたのに、活動を続ける保健師さんがいた。
母親を亡くした女児がよちよちと歩いているのを見て、胸を痛めながら書いた。
〈避難所に母失ひし女児のをりよちよち歩きを見つつかなしむ〉
震災5日目。釜石市に住む別の孫夫婦が会いに来てくれた。
車で釜石市に向かう途中、生まれ故郷の大槌町を抜けた。
記憶にある建物がすべて津波で流されていた。
町役場では、定年まであと半月に迫っていたおいが、行方不明になっていた。
初めてわが家を見たとき、車の中から声を上げて泣いた。
1階の壁には大きな穴が開き、向こう側のがれきが見える。
2階の割れたガラス窓に破れたカーテンが揺れていた。
〈生前に分たんとせしわが着物巨大津波に一枚もなし〉
流されずに残った服を拾い上げて水を絞ると、手が痛いほど冷たかった。
私が一番伝えたいことは…
あの日から10年以上。
中村さんが詠み続けている短歌について、短歌結社「歩道」の編集人・秋葉四郎さんは「大震災の悲しみ、苦渋、涙、周囲へのいたわりや感謝がつまっている」と評する。
取材の最後、中村さんは老人施設の車の助手席に乗って、思い出の場所を案内してくれた。
かつて自宅があった田の浜は、目の前に巨大な防潮堤が立ちはだかり、海が見えなくなっていた。「私のふるさとは失われてしまった」と中村さんは残念そうにつぶやいた。
「でも、私の短歌は残る。私にとってはそれで十分」別れ際、車いすに腰掛けてほほえみながら、手を振った。
「忘れないでね。大地震が起きたら、必ず津波が来る。そうなったらすぐ高い所に逃げるのよ。物は取りに帰らない。命より大事なものはないわ。それが私の一番伝えたいこと」
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%9B%9B%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%80%80%E7%A6%8A&x=wrt&aq=-1&ai=369c2c75-00a2-4383-8a15-3ea776818d2a&ts=8056&ei=UTF-8&fr=mcafeess1 【御祓(みそぎ) 晩夏】より
【子季語】禊/御祓川
【解説】
陰暦六月晦日、神社で行われる神事。人の罪や穢れを祓う。夏の疫病などの災いを逃れ、無事を祈願する。宮中では古くから六月と十二月に行ったが、現在では、六月三十日に行うことが多い。茅の輪潜り、形代を流したりする。
【例句】
吹く風の中を魚飛ぶ御祓かな 芭蕉「真蹟画賛」
沢潟による傾城や御祓川 蕪村「落日庵句集」
泪して命うれしき御祓かな 樗良「樗良発句集」
川ぞひを戻るもよしや御祓の夜 白雄「白雄句集」
夕虹も消えて御祓の流れかな 闌更「三傑集」
雨雲の烏帽子に動く御祓かな 正岡子規「寒山落木」
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