不安と同居する

Facebook相田 公弘さん投稿記事【ありがとう、ありがとう・・・】

住職でありながら、「中陰の花」で芥川賞を受賞した作家の玄侑宗久さんは座禅の修行をしていたときのことをこう語っています。「座禅中に後ろから板で叩かれますよね。叩かれるとまず、『なぜいま叩かれたのかな』と思うんです。体が揺れたのかな、とかですね。ところが何度も叩かれていると、だんだん理由が思いつかなくなるんです。すると不思議ですよ。昔のことまで思い出すんです。高校時代にあの友達に意地悪したから、いま叩かれたんだろうなとか、小学生のときにウソついたからだなとか。そこまで記憶を蘇らせて、わたしたちはいま受けている仕打ちを合理化しようとするんです。それが禅の懺悔法なんです」

実は、ここに脳の使い方のヒントがあります。

ある現象が起きたときに、脳は、合理的な理屈を勝手に見つけ出そうとするのです。不合理なままでは落ち着かないのが脳なのです。これを、しあわせに生きるために応用するとどうでしょう。今日、あなたが会う人に「ありがとう」と言ってみてください。その人に全然ありがとうと思っていなくてOKです。面と向かって言わなくてもOKです。

家で、「○○さんありがとう」と、名前も呼んで、30回言ってみてください。ほら? 言う前と言った後で、その人に対する感覚がまるで違うでしょ?

ポイントは、声に出して「ありがとう」と言ってみること。すると、あなたの脳は落ち着かなくなるはずです。「なんで、アイツにありがとうなんだ」と。

そして、理由もなく「ありがとう」と言っているうちに、その人のどこかいいところ、感謝すべきところを、脳は勝手に探してしまうのです。

「あ、そういえばアイツ、昔お菓子くれたよな」とか。「ありがとう」といってしまった以上、その人のちょっとでもいいところを探さないと、脳は落ちつかなくなってくるのです。

「バカやろう」と言えば、今度は、その人のバカやろうの面を脳は検索をかけ探してきます。

つまり、「ありがとう」と思っていなくても、口にしていると、意識が自然に人のよい面や、小さい幸せにフォーカスして、感謝の気持ちが出てくるのです。

ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう 

ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう

ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう

ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう 

ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう

※いい言葉は人生を変えるより


https://news.yahoo.co.jp/articles/4854d3b5078c289972a7a8f28e3310ac50990203 【養老孟司86歳「死をタブー視して覆い隠し、人工物だらけの世界を拡張させている現代社会。不安を排除ではなく、同居することを覚えていくのが成熟」】より

「不安を感じるのは、マイナスの情報というか警報をキャッチできているということ。不安を排除するのではなく、不安と同居することを覚えていくのが成熟なのです。」(撮影:本社・奥西義和)

解剖学者として、生と死に向き合ってきた養老孟司さん。自身の大病や愛猫との別れを経験した86歳のいま、日々感じていることとは(撮影=本社・奥西義和 構成=山田真理)

【写真】毎日がメメント・モリだったと語る養老さん

* * * * * * *

◆不安や矛盾を受け入れるのが成熟

僕の生い立ちも含めていろいろ思い返すと、自分でも忘れていたような些末な事柄が人生を動かしてきたのかもしれない、と思うことが多いですね。初の自伝のタイトルは『なるようになる。』ですが、まさにそれが今の実感です。

人が希望や絶望に振り回されるのは、そういった葛藤が大事だったからじゃないでしょうか。長い歴史の中で、それがなかったら人間は滅びていたんだろうと思います。脳味噌ができて人間がものを考えるようになってからせいぜい100万年、生き物としてまだ不完全。生きることは、周囲の環境となんとか折り合いをつけ続けることだから、おそらく終わりはないんですよ。

周りから見れば安寧な老後を送っているのに、「病気になったらどうしよう」「お金が足りなくなるかも」と不安になるのは、現代人的なシミュレーションの病。もしそれが嫌なら、いちいち考えなきゃいいんですよ、そんなもの。

あるいは、あれこれ考えたくないなら、目先を変えるといいと思います。虫の乾燥でも犬や猫の面倒でもなんでもいいのですが、「気が変わること」があるといい。猫が粗相したとなれば、まず片づけなきゃならない。その間は老後の不安なんて、どこかへ飛んでいくでしょう。(笑)

一方で、不安や痛みを「よくないこと」と考える人がいるけれど、僕はそう思いません。僕は不安を感じない人と一緒に虫採りに行きたくない。不安を感じるのは、マイナスの情報というか警報をキャッチできているということ。不安を排除するのではなく、不安と同居することを覚えていくのが成熟なのです。

『なるようになる。僕はこんなふうに生きてきた』(養老孟司:著/中央公論新社)

死についても同じことが言えるでしょうね。死は、生と矛盾したもの。死と折り合うことが、生きることだと思います。

生きている以上、ある程度の「覚悟」は必要なんですよ。比較的若いときから死を考えたことがないと、人は不安になるものです。どうせなら最悪の状況が起こっても大丈夫、と一度想定して覚悟を決めておくのも、不安と折り合う一つの方法ではないでしょうか。僕は「年をとったらあとは死ぬだけだ」と覚悟しているので、何の不安もないですね。

中世のキリスト教修道院の修道士たちの挨拶に、こんなものがあります。「メメント・モリ」と一方が言うと、「カルペ・ディエム」と返す。前者は「死を思え」、後者は「その日を摘め」。つまり「いつか必ず死ぬことを忘れるな」、そして「今日の花を摘むように、今日を十分に生きよ」と声をかけあうわけです。

西洋絵画では、頭蓋骨を美しい静物画の中へ描き入れたり、書斎の机に飾ったりしたものがある。ローマには4000体の骸骨を装飾に使った骸骨寺が目抜き通りにある。これも日常生活で、「死を思え」という意識の表れでしょう。

僕は、仕事でつねに遺体を間近に見てきましたから、毎日がメメント・モリだった。人が死ぬというのは、まぎれもなく自然なこと。それすらタブー視して覆い隠し、人工物だらけの世界をどんどん拡張させている現代社会のほうが心配です。

愛猫に教わったこと

僕が今、心配なことですか? それは虫の急激な減少です。ドイツの自然保護区を対象にした調査によれば、この27年間で飛翔性昆虫の総量が76%も消えた。もちろん農薬や殺虫剤の影響も考えられますが、人間がその営みのなかで環境を自分勝手にいじってきた結果ではないかと思います。

ある種の祟りといってもいいかもしれない。虫が減ると、それを食べる動物が減り、このままでは地球は生き物が住めない世界になるんじゃないか。

じゃあ今、自分に何ができるだろうかといえばわからない。寝る前にそんなことを考え始めると、1、2時間はあっという間に経ってしまいます。眠れないときは、いっそ起きて原稿を書いたりする。

そもそも年をとると、なかなか寝つけないものです。とくに虫のことばかりやっていると肩が痛くて。このあいだ、体圧を分散するマットレスというのを知って「ほしいな」と言ったんだけど、和式の布団信者の女房から反対されて(笑)。どうしたものかと悩んでいる次第です。

飼い猫の「まる」のこともよく考えます。2020年12月に18歳で死んでしまいましたが、まるは、「生きているとはどういうことか」を考えさせてくれた存在で、僕の《ものさし》だった。今でも日当たりのいい場所を見ると、まるがいないか探してしまう。

猫は、その瞬間瞬間を生きています。僕も真似して、日向ぼっこをしているまるの脇へ寝っ転がったことがあって。鳥やリスが鳴いている。時間とともに日差しが移ろい、何もないようで変化がある。

いつも何をしているんだろうと思っていたけれど、まるはそれらを全身で味わって自足していたんです。自分はなんて頭でっかちで理屈ばかりこねているんだろう、と気づかされましたね。生きるうえで、自然をものさしにすることは大事なのです。

先日、箱根の別荘で過ごしていたら、鹿の鳴き声が聞こえてきたんです。「鹿鳴館になったよ」と、まるに報告しないとね。

(構成=山田真理、撮影=本社・奥西義和)


Facebook相田 公弘さん投稿記事【悩みは暇な人に降りてくる】

江原啓之氏の心に響く言葉より…

私はよく、不安は余裕のあらわれ、とお伝えしています。今を懸命に生きていれば不安という感情が芽生える余地は生まれません。逆に言えば、不安でたまらない、という人は、余裕のある人なのです。そういう人は余裕のよっちゃんだね、などと冗談で言うこともあります。

過去に行っていた個人カウンセリングの中で、私が「これは深刻だ」と受け止めた相談内容は数えるほどでした。

もちろん、みなさん悩みを抱えているからこそ私のもとへみえるわけですが、失礼ながら、自分の心の持ちようで乗り切ることができるだろうという相談であったり、物質主義的な欲求を満たすための相談内容がほとんどだったのです。

このことから私が得た教訓があります。それは「人間、暇でいいことなどひとつもない」というもの。時間を持て余していると、わざわざ厄介なことに首を突っ込んで傷ついたリ、人が何気なく口にした言葉について思い悩んでしまったり…。

そうした方に対して私は「あなたの余命は3か月ですと宣告されても、同じ悩みを抱えているでしょうか?」と尋ねるようにしています。

自分に残された時間がないと知れば、他人は冷静な気持ちを取り戻すことができるものです。

絶対に許さないと思っていた人を許す気持ちになったり、物事に対する執着心が消えたり、あの人には負けたくないと思っていた人の幸せを祈ったりするようになる。

実は、それがあなたの本来の姿なのです。

いずれにしても命の視点で見れば、現代人の抱える悩みの大半は些末(さまつ)なこと。

ひとりで生きることに対しても、あれこれと不安を募らせているうちに人生はすぐに終わってしまいます。独身であるなら独身であることの喜びを数えて生きる。

ひとりで生きると決めたなら、ひとりで生きることを楽しまなければ損だと思いませんか?

本当の意味で不幸なのは、悩む暇のある中途半端に幸せな人なのです。

たとえばテレビの占いをチェックして「今日はツイていない!」とドンヨリしてしまう。

不愉快な思いをしたくないのなら見なければいいのに「星占いがダメなら血液型占いだ」と深追いをした挙句、「血液型占いも最悪だった!」とモチベーションを落とし、貴重な今日という一日を台無しにしてしまうといった人が珍しくありません。

けれど果たして仕事で多忙を極めている人が占いに翻弄されるでしょうか?

小さな子どもを抱え、なんとか食べさせなくてはと必死で生きている人に落ち込んでいる暇があるでしょうか?ひとりで生きることに不安を抱く人も、まだまだ不安を抱くだけの余裕がある証拠。そういう人に限って「苦しいときの神頼み」に走ってしまいがちですが、余裕のある人に神様は手を差し伸べてはくれません。

自らの行動を省みて、自分さえ幸せであればいいという小我の気持ちを手放し、一日一日、一瞬一瞬を全力で生きることで、負の想念が消え、正しい道を見つけられる。

これがスピリチュアリズムの真理なのです。 幸せに生きるひとりの法則』幻冬舎

「小人閑居(かんきょ)して不善をなす」という『大学』の中の言葉がある。

ダメな人間は、暇をもてあますと、つい悪いことを考えたり、悪事に走りやすい。

誤解を恐れずに言えば、SNSなどでつっかかってくる人や、ネチネチと何日も苦情を言い立てるようなクレイマーは、暇な人間だ。時間がたっぷりあるので、攻撃できる。

これは、心配事を抱えたり、不安になったりするのと同じで、暇だからそれを考える時間がある。仕事や趣味に、没頭(ぼっとう)しているときには、不安など頭から消えている。

不安は人間だけが感じる感情だ。明日がどうなるのか、明後日がどうなるのかを心配する。

しかし、動物は不安を感じない。頭で考えないからだ。不安は頭ではなく、行動することによってしか解消されない。頭で悩めば悩むほど、不安は深まる。

「悩みは暇な人に降りてくる」悩むのではなく、行動し続ける人でありたい。

※【人の心に灯をともす】のブログより https://www.facebook.com/hitonokokoro

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000