Facebook近藤裕子さん投稿記事 ☘️明治天皇御製🍀
「萬代の国のしづめと大空にあふぐは富士のたかねなりけり」
千代に八千代に日本の国の鎮護として、いつも大空に仰ぐのは富士山のあの気高い姿です。
新幹線の車窓から 天に聳える富士山を見るたびに、日本の国の姿をまのあたりに見る心地がいたします。神々しく、清々しく、なつかしく感じます。
日本の国に生まれ、先祖から受け継ぎ 後世に伝え残す事の責任を感じます。
そして、私の書に対する思いを受け継いでくださる方とのお出合いを 心から願います。
Facebook細川 卓哉さん投稿記事
富士山がなぜ日本一高いのかわかりますか?以前、お世話になった方に質問された事がありました。『わかりません。』ぼくは答えました。
『裾野(すその)が一番広いからですよ。それは人間でも同じことなのです。どんな人も受け入れる度量が大きい人ほど人間力が大きくなり人格が高くなるのです。』
その事を教えてくれた方は元暴走族のリーダーで一度も喧嘩したこと無く天下を取った伝説の人だという事をあとになって別の方から聞きました。
その方は今、上場企業の会長になられています。裾野を広く持つ人生も裾野を狭く持つ人生も同じ人生。出来れば広くなりたいものですね。
ひろびろと富士の裾野の西日かな 高浜虚子
https://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jkyoshi.shtml 【高浜虚子(1874~1959)
たかはま きょし】より
正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌、「ホトトギス」の発行は、子規の弟子の高浜虚子に引き継がれた。虚子ははじめ小説の執筆に熱中していたが、1913年から俳句の創作と弟子の育成に注力するようになった。虚子の俳句作品と俳句観は多くの俳人の支持を受け、ホトトギスは膨大な数の投稿者を抱える大雑誌へと成長した。
虚子の俳句は固定した文体を持たない。彼の作品には、雄大で剛直なものもあれば繊細で柔弱な句もあり、空想をほしいままにした作もあれば事実のシンプルな描写に徹した句もある。虚子の世界は星雲のように混沌としており、さまざまな種類の草が生い茂った野原のように多様である。
虚子の思想をひとことで特徴づけるとすれば、人工的に知恵を働かせて作った小世界というものを嫌い、一句の中に知性では割りきれないあいまいな響きを残すのを好んだということが言えるように思われる。
虚子は芭蕉の偉大な功績を認める一方で、芭蕉の俳句の中にあるわざとらしい演劇的身振りは好まず、むしろ芭蕉の弟子で簡潔な描写を得意とした野沢凡兆(?~1714)を高く評価したりした。
虚子は俳句において季語が発揮する強力な象徴機能を重視し、無季の俳句を徹底して排除した。
蛇逃げて我を見し眼の草に残る 白牡丹といふといへども紅ほのか
早苗とる水うらうらと笠のうち 夕影は流るる藻にも濃かりけり
春の浜大いなる輪が画いてある 顔抱いて犬が寝てをり菊の宿
川を見るバナナの皮は手より落ち もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
岩の上の大夏木の根八方に 手にうけて開け見て落花なかりけり
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_12_jp.html 【高浜虚子:季節のうつろいと自然を素直に詠んだ俳人】より
高浜虚子(たかはま きょし。1874〜1959年)は、四季のうつろいや自然の事象を素直に見つめ、客観的な描写による俳句を数多く詠むとともに、俳人の育成にも力を入れた。
高浜虚子(以下「虚子」)は、1874年、現在の愛媛県松山市に生まれた。中学生の時に同郷の俳人・正岡子規*(1868〜1902年。以下「子規」)に師事して俳句を学ぶようになる。これは、同級生で、後に子規門下で虚子と双璧をなす河東碧梧桐(かわひがし へきごとう。1873〜1937年。以下、碧梧桐)の紹介であった。「虚子」という俳号は子規が名付けたもの。20歳の時、碧梧桐と共に東京に住む子規を頼って上京。その当時、重い病により自らが人生の最期を迎えようとしていることを悟っていた子規は、俳句の才能を認めた虚子に自分の後継者になってほしいと頼んだが、まだ若かった虚子はこれを受け入れなかった。しかし、子規と虚子との師弟関係は子規が亡くなるまで続いた。
1898年、虚子は、子規の協力で前年に創刊した俳句雑誌『ホトトギス』の編集発行を全面的に引き受けることになる。結果、虚子が手掛けるようになった『ホトトギス』は、俳句だけではなく、小説なども掲載する総合文芸誌になった。
虚子は、『ホトトギス』の編集において、読者から投稿された俳句を選句するようになる。虚子は後に「選は創作なり」と述べている。数多くの句の中から何を選び、どこに着目し、どのように評価するのかは、選ぶ側の審美眼にかかるのであり、立派な創作行為なのだと虚子は言う。彼にとって、俳句を選ぶことは、俳句を詠むこととと同様に創造的な行為だったのである。
虚子が詠んだ俳句の特徴とはどのようなものだったのか。虚子記念文学館の学芸員・小林祐代(さちよ)さんは、こう説明する。
「虚子は、自身の句の主眼は『花鳥諷詠』(かちょうふうえい)と『客観写生』にあると記しています。花鳥諷詠は虚子の造語ですが、春夏秋冬の季節のうつろいや自然界のさまざまな事象を素直に見つめ、敬い、季語を大切にするという俳句創作についての理念です。客観写生とは、自分の主観で物事を表現するよりも、客観的な描写を積み重ねることを通して、作者の心情を浮き彫りにすることとされます」
虚子は、俳句の創作だけでなく、俳句指導者としても能力を発揮するほか、俳句の入門書を著し、多くの弟子の育成にも努めた。また、まだ俳句を詠む女性が少なかった1910年代から、女性のための句会の開催やホトドキスに女性を対象とした投稿欄を設ける等、女性俳人の育成にも力を入れた。
虚子は、1954年、日本政府から、俳人として初めて文化勲章を受章した。その5年後の1959年に85歳で亡くなった。虚子は生涯で3万を超える句を詠んだという。俳人として長く活躍して、19世紀末から現代へとつながる俳句の世界をけん引し続けた生涯を全うした。
* Highlighting Japan 2022年9月号「正岡子規:俳句を革新した俳人」参照 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202209/202209_12_jp.htmlOpen a new window
白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅(こう)ほのか
1925年、51歳の作。季語は「白牡丹」で初夏。虚子の代表的な句の一つである。「白牡丹という名の花だけれど、よく見ればほのかに紅い色が差している」という意味。白い花を観察している時、少しだけ紅くなっている部分があることに気づく虚子の眼差し(まなざし)に、自然に対する客観的な観察とともに賛美の心も感じられる。
遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな
1900年、26歳の作。季語は「枯野」で冬。「遠い山には冬の日が当たっていて明るいが、目の前には寒々とした枯野が広がっている」という光景を詠んでいる。虚子は、「激しく日が照るような人生も悪くないが煩わしくもある。遠い山の端に日が当たるような静かな景色。それが私の望む人生である」という意味の言葉を記し、「この句によって私の俳句を詠む心境が定まった」と語っている。若い時の句であるが、最晩年に至るまで虚子が繰り返し揮毫(きごう)した句である。
時ものを解決するや春を待つ
第一次世界大戦が勃発した1914年、虚子40歳の作。季語は「春待つ」で冬。この句について虚子は、「なまじ紛糾を解こうと急ぐとますますもつれる。ただ自然にまかせていると月日が経つうちにほぐれてくる。寒い冬の日はじっと耐えて暖かい春の日が来るのを待つことにしよう」と注釈を付けている。虚子の人生観が読み取れる句である。
http://bungaku.fuji3776.net/2007/02/post_161.html 【富士山-言葉で描かれた「富士山」
富士山の俳句、小説など、言葉でえがかれた富士を。 ○富士山頂で研究を!(NPO「富士山測候所を活用する会」) ○富士山高所科学研究会】より
松尾芭蕉
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 富士の山蚤が茶臼の覆かな
雲を根に富士は杉形の茂りかな 一尾根はしぐるる雲か富士の雪
富士の風や扇にのせて江戸土産 富士の雪慮生が夢を築かせたり
目にかかる時やことさら五月富士
「奥の細道」
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。
行春や鳥啼魚の目は泪
室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也」。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。
「野ざらし紀行」
崑崙は遠く聞き、蓬莱・方丈は仙の地なり。まのあたりに士峰地を抜きて蒼天を支へ、日月のために雲門を開くかと。向かふところ皆表にして、美景千変す。詩人も句を尽くさず、才子・文人も言を絶ち、画工も筆捨てて走る。若し藐姑射の山の神人有りて、其の詩を能くせんや、其の絵をよくせん歟。
雲霧の暫時百景を尽しけり
「幻住庵の記」
比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。
https://bishogai.com/msand/powder/isiusunosho.html 【:富士山に関わる若き日の松尾芭蕉の句(実験民具学)】より
石臼頌 (いしうすのしよう)
宝永3年(1706)に出た五老井許六編『風俗文選』に、芭蕉の『石臼の頌』が出ている。石臼をたたえた名文である。これが芭蕉のものであるかどうかは問題があり、藤井乙男編『校註-風俗文選通釈』の序『芭蕉文集』に論考がある。
「市中にあって、俗塵によごれぬものは、げにそのはじめをよくするよりも、その終りをとぐることはかたし。南山竹林の猛士も、猶出てつかへ、寛平華山の上皇(宇多法皇)も、終りたしかならず。たまたまこれを見るに、ただ石臼のひとつのみ。
聖一国師は、これをもて肉身をやしなひ、法身をしる。民家にはまた、麦刈そむるころよりも、籾こきおとす冬にいたるまで、片時も余所にする事なし。其高き事を論ずれば、役優婆塞(えんうばそく)の庵の中にかくれて、彼たぐひを道引きりの上に立べし。上と下とふたったるは、ちからたらざる者の為にもっぱらなればなり。不断土間にあって、莚より外を見ぬは、謙に居る事のととのへるにあらずや。かりにも黄姉の手にとられざることの、ありがたき事を、ふかくさぐりしるべし。
目なだらかなる時は、かますを擔ふ老翁(臼の目きりのこと)の出来て、こつこつとする音すみて後は、季札が劔を、塚にかくることをはづべし。名をぬすむ盗人はあれど、石臼をぬすむ盗人はなし。また人の心をみださざるのいたりならずや。
月さしのぼる夕顔の陰に、ひとりはをどろの髪をまくね、ひとりは仏のまねをするあたまなりにて、くるしき事をおぼえず、挽まはすちからに、其飢をたすくるは、文王の始につかへたまへるに事たがはず。
ややいま様の、むつかしき歌のふしにもかまはず、声も唱歌も古代のままにして、枝もさかゆる葉もしげると、しはぶきがちに、わななかれたるぞをかしきや。」
以上全文を引用したが、わかりにくい点は前記『通釈』に解説がある。」「石臼頌」とは石臼をたたえる文章である。石臼の驕(おご)らぬ姿をたたえ、賢者でさえも俗塵はのがれられぬのに、石臼だけが俗塵にしまず、古も今も同じ姿で、始あり末遂げ、人の飢をたすけ、身を養い、末葉もしげるさかえの功徳があり、愛すべきものだといっている。
https://bishogai.com/msand/powder/j_bashoo.html 【:芭蕉の石臼の頌(石臼を讚えた名文)】より
芭蕉の句(これは私の石臼技術論である)
茶臼山はかならず富士山の形をしている。頂上が平らで円錐形に裾野が広がっている。
茶臼山の親分は富士山だ。俳人松尾芭蕉は延宝四年夏、富士山を見て、芭蕉33歳の時の作
山のすがた
蚕が茶臼の
覆いかな
と詠んだ。
わたしはある年の5月、新幹線から富士山を眺めたら、麓を白い雲が覆って、その上に茶臼に覆いをかけた格好の富士山があった。蚕の足は松の木だった。芭蕉が見たのも5月である。
なを芭蕉には茶臼山の句がほかにもある。
ツモレツモレ とく起きて見ん 夜の雪
鴬や 老いをなぐさむ 茶臼山
名月の 夜やおもおもと 茶磨山
ちなみに岩波文庫『芭蕉俳句集』には蚕のところが蚤になっている。これは古い諺に、ありえないことが現実になったことのたとえに、「蚤が茶臼」蚤が茶臼を背負って富士山をチョイと越えたなんてありえないことだが、足軽からの成り上がり者が天下をとった秀吉の故事に由来する。しかし蚤が茶臼を背負ったのではとてもい「ふjい富士山のかっこうにはならない。
別の俳句の詳しい本(『芭蕉全集』(日本名著全集刊行会, 1929)の62頁)に,「原本の「蚕}の右傍に「蚤歟」と記せり。「 芭蕉翁全傳」には原本の如く「蚕」とあり。「錢龍賦」には「不二の山蚤が茶臼の覆いかな」ー他石)とあった。初夏の早朝に新幹線から富士山を眺めたら、麓を白い雲が覆って、その上に茶臼に覆いをかけた恰好の山が見えた。もともと蚕だったところを誰か別人が蚤と朱を入れた(訂正した)のであろ。
新幹線で富士山を見たら是非確認していただきたい。
あきれたもので、相変わらず蚤が茶臼と書いているHPがある。山梨大学のページらしい。富士山の裏側からでは見えないだろうが・・・
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