天海=明智光秀説

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7%3D%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E8%AA%AC 【天海=明智光秀説】より

南光坊天海=明智光秀説(なんこうぼうてんかい=あけちみつひでせつ)は、江戸時代初期、幕政に大きな影響力を持っていた僧・天海と、戦国武将の明智光秀は同一人物であるとする説。フィクション等でも採用され、広く知られているが、専門の歴史家の著した書籍で事実と扱われたものはなく、信憑性はかなり低いとされている。

概要

天海は高名な僧であるにもかかわらず前半生は詳細に知られておらず、第12代将軍足利義晴の子であるとか、古河公方足利高基の子であるなど、様々な説が唱えられてきた[1]。明智光秀が天海となったという説もその一つであるが、いつ頃唱えられだした説かは定かではない。

1916年(大正5年)、天海の伝記『大僧正天海』を著した須藤光暉は、天海は船木兵部少輔景光と妻の蘆名氏の子であると推定しているが[2]、一部の考証家に「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱えるものがいると記述しており[3]、この頃にはすでにこの説が唱えられていたとみられる。

同時代史料に明示したものは存在せず、中世史家の小和田哲男[4]などの歴史学者の間においても、この説は広く支持されているものではない。しかし会計学者の岩辺晃三など支持者も存在する[5]。

天海の遺品のなかには、天海の所用と伝えられる甲冑(滋賀県求法寺所蔵)と鉄砲(川越喜多院所蔵)が現存する。

本能寺の変後の生存説

明智光秀は天正10年(1582年)の山崎の戦いの後に討たれたとされているが、山崎の戦い以降に光秀が存命していたとする説や伝承がいくつかある。ただしこれらの説は、光秀が天海になったと明示されていない。

京都宇治の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に明智光秀を匿った伝承が残されている。

『和泉伝承誌』によると、山崎の戦いの後に明智光秀が京の妙心寺に姿を現し、その後光秀は和泉に向かったと書かれている。

本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている[6]。

比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある[7]。

光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。

岐阜県山県市中洞には、光秀が落ち延び、「荒深小五郎」と改名して関ヶ原の戦い頃まで生き延びたという伝承がある[8]。

天海と明智光秀の関係を窺がわせる根拠

同一人物説論者が根拠とするものには以下のようなものがある。

日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。

徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。

山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。

明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。

明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。

天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。

天海=明智光秀説の設定を使用している作品

『真田十勇士』:1989年、笹沢左保著(光文社、ISBN 978-4334708979)

『吉原御免状』:1989年、隆慶一郎著(新潮社、ISBN 978-4101174112)

『明智光秀』:1991年、早乙女貢著(文藝春秋、ISBN 4-16-723024-0)

『夢幻の如く』:1991年、本宮ひろ志著(集英社、ISBN 978-4088583211)

『天上天下』:2006年、大暮維人著(集英社、ISBN 978-4088771045)

『女信長』:2006年、佐藤賢一著(毎日新聞社、ISBN 978-4620107028)

『天眼 ─ 光秀風水綺譚』:2007年、戸矢学著(河出書房新社、ISBN 978-4309018348)

『覇王の番人』:2008年、真保裕一著 (講談社、ISBN 4-7926-0393-5)

『大逆本能寺』:2010年、円堂晃著(角川書店、ISBN 978-4890632640)

『玉精公記』:2010年、大石直紀著(小学館、ISBN 978-4094085297)

『戦国BASARA』シリーズ:2011年ほか、カプコン

『戦国ARMORS』:2011年、榊ショウタ著(集英社、ISBN 978-4088702780)

『ジュアニー―消えたキリシタン武将』:2012年、神本康彦著(文芸社、ISBN 978-4286119007)

『影風魔ハヤセ』:2013年、森田信吾著(小池書院、ISBN 978-4862259462)

『仁王』シリーズ:2017年ほか、コーエーテクモゲームス

『Fate/Grand Order』:2018年、TYPE-MOON

『縄文を創った男たち~信長、秀吉、そして家康』:2020年(破・常識屋出版、ISBN 978-4910000022)

脚注

^ 須藤光暉 1916, p. 年表 1.

^ 須藤光暉 1916, p. 10-11.

^ 須藤光暉 1916, p. 595-596.

^ 小和田哲男 2014, p. Kindle版、位置No.全2853中 2781 / 97%.

^ 西川登「江戸時代の三井家における会計組織の研究」(1993)40p

^ 徳永真一郎『明智光秀』 P.363 PHP研究所、1988年

^ 『横河堂舎並各坊世譜』坂本本町叡山文庫所蔵

^ 小和田哲男 2014, p. Kindle版、位置No.全2853中 2784 / 98%.

参考文献

須藤光暉『大僧正天海』冨山房、1916年。

徳永真一郎『明智光秀』PHP研究所、1988年。

小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』PHP研究所〈PHP文庫〉、2014年。ISBN 978-4569762715


https://sengokubanashi.net/person/akechi-mitsuhide-tenkai/#html 【明智光秀は生きていた?天海との同一人物説は濃厚か?】より

明智光秀(あけちみつひで)は本能寺の変を起こして世の中を錯乱させた人物であり、多くの方がご存じの人物でしょう。

光秀は山崎の戦いの後命を落とし、人生の終止符を打ったとされています。

しかし実はこのときに亡くなっておらず、「別人として生きていたのではないか」といった説が浮上しているのです。

では本当に光秀は別人になりすまして後半生を過ごしていたのでしょうか。

今回は光秀のその後を前半生の記録と共に解説していきます。

南光坊天海(なんこうぼうてんかい)との関わりも解説しているため、光秀のその後の真相が気になる方はぜひチェックしてみてください。

明智光秀は生きていた?天海との関係

本能寺

山崎の戦いの後、重傷を負い命を絶った明智光秀。このとき本当に命を絶っていたのでしょうか。ここからは光秀・天海の説明と共に、2人のつながりを解説していきます。

明智光秀と天海の同一人物説は薄い

戦国三英傑とされる織田信長(おだのぶなが)を追い込んだ明智光秀と、突如現れ徳川家康(とくがわいえやす)の側近となった天海。

一見接点がないように感じる2人ですが、実は同一人物説が浮上しています。

それはお互いに交わる点が多く、歴史的な視点から見てもつながる部分が多いからです。

しかし2人が交わる決定的な資料は残っていないため、同一人物説の可否は未だに謎に包まれています。

ただ光秀の実績と、突如現れた天海の活躍を比較すると、同一人物とはいかずとも、何らかの関係があった可能性も考えられるでしょう。

明智光秀とは

明智光秀は信長の家臣であり、後に本能寺の変を起こした人物です。

出身地は美濃国であるといわれていますが、資料が残されていないため真実かどうかは定かではありません。

生まれた年も1516年(永正13年)説や1528年(享禄元年)説と諸説あり、謎が多い人物です。

また身分についても土岐氏の出身説や足利将軍家の足軽説など正確な身分も明かされていません。

名門・土岐氏の出身であれば高い身分ですが、足利将軍家の足軽であった場合は低い身分であるため、全くの正反対であることが分かります。

このように光秀は歴史的に名高い武将ではありますが、前半生ははっきりと明かされていないミステリアスな武将だったのです。

明智光秀の最期

明智光秀の最期は山崎の戦いで敗れ、坂本城に向かっている途中でした。

なんとかこの場を抜けようと動いていた光秀。山崎の戦いの後仲間と坂本城に向かっている途中で、落ち武者狩りにあったのです。

このときに光秀は重症を負ったことで終わりを悟り、自害したといわれています。

ただ中には、自害と見せかけて実は生きていたといった説もあり、誕生から死去まで謎が多い人物でした。

天海とは

天海は天台宗の僧で、日光東照宮の設立や江戸の町づくりに関わりのある人物です。

天海の主な活躍は後半生であり、前半生の記録はあまり残されていません。

亡くなった年についても108歳まで生き延びた説や132歳まで生き延びた説などあり、詳しい情報は定かになっていないのです。

ただ天海自身、実力のある人物であり、朝廷からは「慈眼大師」の名を贈られるほどの人物でした。

また関ヶ原の戦いや大坂の陣に関わっていた記録が残されているため、多方で才能を発揮していたのではないかと考えられます。

明智光秀と天海が同一人物だといわれる理由

日光東照宮

明智光秀は武将、天海は僧と関係性が低いように感じられますが、一体どの点が同一人物だといわれているのでしょうか。

理由は以下の4つが挙げられます。

・日光東照宮に結梗紋があるから

・日光に明智平があるから

・光秀の部下が江戸幕府に関りを持っているから

・明智光秀と徳川家光は同じ漢字を使っているから

中には光秀と天海のつながりを強く感じる理由も存在します。

ここからは説が生まれた理由を確認していきましょう。

日光東照宮に結梗紋があるから

日光東照宮にある結梗紋が明智光秀と天海の同一人物を匂わせる理由の1つです。

日光東照宮は天海が作った神社で、1617年(元和3年)に創建されました。

この頃にはもう光秀は亡くなっており、光秀自身が日光東照宮の創建に携わっていた可能性は低いでしょう。

ただ仮に光秀が天海として生きていたのであれば、天海として自身の家紋を残せます。

そのため日光東照宮の結梗紋が同一人物説の理由の1つとして考えられるのです。

しかし日光東照宮にある結梗紋が「ただ似ているだけなのではないか」といった声も上がっています。

似ているだけであれば、光秀と天海のつながりは薄くなるため、同一人物の線も薄くなるでしょう。

またたとえ結梗紋であっても、天海は結梗紋を使用していたわけではないため、2人を結びつけることは難しいといえます。

日光に明智平があるから

日光には展望スポットで有名な明智平があります。

この明智平は雄大な景色が広がり、天海を惚れ惚れさせるほどの絶景でした。

この明智平の名前の由来は天海が「日光で眺めの良い場所に明智の名を残したい」といった考えがあって名づけられたといわれています。

天海が光秀であれば、「自身の名を残したい」気持ちも見受けられます。

しかし説の中には明智平は江戸時代より後に名づけられた説もあり、真相は闇に包まれたままとなりました。

光秀の部下が江戸幕府に関りを持っているから

明智光秀の部下が直接関わりを持っているわけではありませんが、光秀の部下の子供や孫が江戸幕府と関わりを持っています。

まず1人目が春日局(かすがのつぼね)です。春日局は徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母で、家光にお乳をあげる担当者でした。

ただ春日局は前から徳川家に仕えていたわけではありません。

春日局は光秀に仕え、本能寺の変を起こした人物の1人である斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘だったのです。

そして2人目が三沢局(みさわのつぼね)で、徳川家綱(とくがわいえつな)の乳母でした。

三沢局も光秀の部下である溝尾茂朝(みぞおしげとも)の孫で光秀と関わりがあった人物だったのです。

明智光秀と徳川家光は同じ漢字を使っているから

明智光秀と徳川家将軍の漢字も注目したいポイントです。

徳川将軍の2代目である徳川秀忠(とくがわひでただ)には「秀」が、3代目である徳川家光(とくがわいえみつ)には「光」の文字が入っています。

両将軍の名前には明智光秀の漢字を1文字ずつ使ったとされ、何か関係性があるのではないかと疑われています。

しかし正確な証拠は残っておらず、信憑性が高い理由ではありません。

明智光秀の前半生は?

畳に置かれた巻物

明智光秀の後半生は多く語られていますが、前半生は一体どのようなものだったのでしょうか。

前半生を探ると光秀と天海の関連性を見出せる可能性もあるでしょう。

ここからは光秀の前半生について解説していきます。

歴史的資料にほとんど記されていない

明智光秀といえば本能寺の変の変で信長を追い詰めた話で有名ですが、実は光秀の前半生はほとんど記録に残っておらず、謎めいている人物です。

生まれた年や出身も正確な情報がなく、さまざまな諸説があります。

名が通るようになった後は、さまざまな戦いに参加したり、良い政治を行ったりと多くの活躍を見せました。

前半生はあまり明かされていないため、低い身分で記録に残らなかった可能性も考えられるでしょう。

天海も前半生が謎

明智光秀と共に、前半生が謎に包まれている人物が天海です。

天海も詳しい前半生は明らかになっておらず、光秀と同様に謎に包まれています。

また天海は江戸の町づくりやさまざま戦い、日光東照宮の創建に携わってはいますが、徐々に力をつけてきたわけではなく急に現れ実力を発揮しました。

そのため隠された前半生は光秀として力を蓄え、山崎の戦いの後に命を絶ったと思わせ、実は天海として第2の人生を歩んでいたのではないかといわれています。

明智光秀は生きていた?天海との同一人物説は濃厚か?|まとめ

実は明智光秀は生きていたと考えられるのも無理はありません。

光秀と天海の同一人物説は歴史的資料が残っていないため濃厚とはいえませんが、1つの可能性としては十分考えられるでしょう。

両者は似た歴史を持っているため、同じ人物でなくとも、何らかの関係がある線も考えられます。

ただお互いに名の残る出来事を歴史に刻んだことから、世の中を動かした人物には変わりありません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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