https://note.com/honno_hitotoki/n/nc60491ae00e3 【霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き|芭蕉の風景】より
厚い雲の中の富士
貞享元(1684)年秋、芭蕉は江戸深川の庵を発ち、東海道を西に進み、故郷伊賀へと向かう。芭蕉四十一歳。『野ざらし紀行』の旅であった。
掲出句は『野ざらし紀行』所載。「関こゆる日は、雨降ふりて、山皆雲にかくれたり」(箱根の関を越える日は、雨が降って、富士山をはじめ山はみな雲の中に隠れてしまった)という一文に続いて掲載されている。「霧しぐれ」は霧と時雨の中間的な現象、時雨が降っているとまでに感じられる濃厚な霧である。句意は「濃い霧のために眼前に見えるはずの富士山を見ない日となった。それもまた、面白い」。
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東海道新幹線三島駅で降りる。残暑厳しい日の午後である。ホームから眺めると、駅の北に壮大な富士山がそびえているはずだが、今日は雲の中である。その風景もまた、掲出句にふさわしい。南口に出て、東海バスに乗車、箱根を目指す。出発前、バスの運転手さんに「富士山が見えないですね」と話しかけると、「暑い時期は、駿河湾から蒸気が上がって雲をつくるので、富士山は見えないことが多いです。よく見えるのは、やはり寒い時期です。そのころまたいらしてください」と明るく答えてくれた。
三十分ほど乗って、「山中城跡」という停留所で降りる。山中城は、北条氏の城である。小田原の役の際、豊臣の大軍のために半日で落城した悲劇の城だ。標高はかなり高い。下界の三島に比べると、暑さも和らいで過ごしやすい。
山中城跡
そこから一キロほど三島方向に徒歩で戻ると、富士見平に着く。ドライブインの店頭に掲出句の句碑が建っている。巨大な長方形縦型の句碑で、気をつけていれば、バスから降りなくても見つけられるかもしれない。昭和五十三(1978)年、当時の三島市長によって建てられた。この地が選ばれたのは、「富士見平」という地名からの縁だろう。
富士の姿を見たいと思いつつ一日、箱根を歩いてきた芭蕉が、三島側に降りてきたとき、富士見平という地名に反応して、掲出句を発想した可能性は考えられる。ただ、芭蕉のころから富士見平という地名が使われていたかどうかはわからない。三島市の観光パンフレットには、句碑のかなたに雄大な富士が映っている写真が掲載されていたが、富士山の方面は依然として雲が厚い。句碑の裏を東海道の古道が通っている。石が敷き詰められ、江戸時代の石畳が復元されていた。芭蕉はこの道を下ってきたのだ。
すべてのものに美を見いだす
掲出句を読むことは、「なぜ富士が見えないことが面白いのか」を考えることである。
『野ざらし紀行』には、掲出句の後に「富士」を詠んだ句が掲載されている。この旅に同行した門弟千里ちりの句、「深川や芭蕉を富士に預行あずけゆく」である。深川の芭蕉庵でつくられた句だ。句意は「深川の庵、庭に植えた芭蕉を、はるかに見える富士山に託して、旅に出ることである」。
この句によって、芭蕉の江戸での日常がはるかな富士とともにあったことがわかる。芭蕉は富士のかなたに、故郷の伊賀を、そして、上方を思い描いていた。旅に出てからも、富士の大きさが、東海道の旅の進み具合を示してくれた。
『野ざらし紀行』において、千里の句と芭蕉の句と二つの富士が対比されている。千里の富士は、秋天のかなたに小さいがくっきりと見えているもの。芭蕉の富士は、霧しぐれの中にあって巨大だが見えないもの。遠く江戸からはっきり見えていた富士が、箱根という至近から見ているのに見えないという点に、まず面白みがある。
「富士」は日本文化のなかで、もっとも重要な山である。奈良時代の『万葉集』以来、和歌に詠みつづけられてきた。「富士」は歌枕だったのだ。また、平安時代の『竹取物語』『伊勢物語』など物語の世界にも、重要な地名として登場してきた。絵画にも、さまざまに描かれてきた。現存最古のものは、平安時代の障子絵「聖徳太子絵伝」である。
芭蕉は、実際の富士が見えないことで逆に、詠われてきた、描かれてきた、さまざまな富士の姿を想像したはずだ。霧によって生まれた幽玄な空間に遊ぶ楽しみも、面白さの一つと言っていいだろう。
世間では、晴れると「よい天気」と言い、幸福感を覚える人が多い。逆に雨が降ると「わるい天気」と呼び、うっとうしさを覚える人が多いだろう。
ところが、掲出句の場合には、富士を隠してしまうため、常識では嫌うべき「霧しぐれ」を、「面白き」と詠んでいる。ここに世間の常識にはくみしない、俳諧・俳句独特の美意識、思想が示されている。
「すべてのもののすべての状態に美を見いだす」、それこそが、俳句の根本にある考え方なのではないだろうか。
富士ありぬ秋雲厚く動く奥 實
旧道はいしだたみみち法師蟬ぜみ
https://www.igaportal.co.jp/ninja/1582 【第3回 忍者の起源伝承】より
三重大学人文学部 教授 山田 雄司
歴史的事実とはまた別に、江戸時代にまとめられた忍術書では、忍者の起源を遡らせて、神武天皇、聖徳太子、天武天皇などに関連づけたりするほか、忍術は中国古代にまで遡るとして、中国の伝説上の皇帝や『孫子』と関連づけるものもある。こうした手法は、忍術を権威づけるために、その存在を古く、さらにはよく知られた皇帝や天皇などと結びつけようとするものであって、それ自体を事実として認めることは難しい。
江戸時代に成立した忍術書『伊賀問答忍術賀士誠』(いがもんどうにんじゅつかざむらいのまこと)では、神武天皇の御代に「奉承密策」した道臣命(みちのおみのみこと)を忍術の元根とし、『忍術應義伝』では、聖徳太子が甲賀馬杉の人大伴細入(細人とも)を使って物部守屋を倒したことから、太子から「志能便(忍)」と名づけられたと起源伝承を語る。しかし、こうした記述は他の史書から裏付けることはできず、江戸時代になって忍びの起源を遡らせて初代天皇とされる神武天皇や聖徳太子と結びつけた結果と言えよう。
また、忍術書を集大成した『万川集海』には、日本において忍びがいつから始まったのかという問いに対して、天武天皇の御代、逆心を企てた「清光親王」が山城国愛宕郡に城郭を構えて籠城した際、天武天皇が「多胡弥」という者を忍び入れて城内に放火して攻め落とし、これが忍術のはじめだとして『日本紀』に見えるとする。しかし、「清光親王」は存在しない上、『日本書紀』にこの記事は見られない。内容からして壬申の乱と結びつけて忍術の起源を遡らせようとしたようである。
古代においても「忍者的」存在はあったのかもしれないが、それを史料的に裏付けることはできない。起源伝承については歴史を遡ってさまざまに記されるが、そうしたところに確実な根拠を見出すことは難しい。しかしこうしたことは忍者に限らず、系図や寺院開基に関する縁起などにおいて、より古く権威ある人物と結びつけようとする点では共通している。
他方伊賀では忍者に関する興味深い起源伝承がある。『太平記』巻第十六「日本朝敵事」では、天智天皇の御代、伊賀・伊勢において藤原千方という者が金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四鬼を使役して王化に従わなかったため、天智天皇は右大将紀朝雄を派遣し、
草モ木モ我大君ノ国ナレバイヅクカ鬼ノ棲ナルベキ
という歌を詠んで鬼に送ったところ、鬼は懺悔して四散し、千方も討たれたとの話が記されている。木津川支流の前深瀬川を10kmほど遡った山奥に千方窟と呼ばれる場所があり、四鬼とそれを駆使した千方は忍者の発祥かとされている。武器を弾き返す鋼のような堅固な体をしていたり、風を吹かせて敵城を吹き破ったり、水を操って洪水を起こしたり、形を隠して敵を拉致したりする姿は、さまざまな術を駆使する忍びに似つかわしいと言えよう。
千方窟(伊賀上野観光協会写真提供)
この説話が事実をどれだけ反映しているのか確定することは難しいが、伊賀と伊勢の境である山中において、悪党化した山賊らが修験道と結び着いて不思議な力を身につけ、朝廷に抵抗していたことを表しているのだろうか。こうした伝承が都にも伝わって『太平記』に記され、伊賀・伊勢の境界付近の山中には得体の知れない集団が存在しているという言説が語られていたことは、大変興味深い。
また、東海道の難所だった鈴鹿峠にも山賊がしばしば出没し、通行人を悩ませていたが、こちらは桓武天皇の時に征夷大将軍に命じられた坂上田村麻呂の伝承と関わり、やはり甲賀忍者と関わってくるようである。
伊賀忍者と甲賀忍者、忍者の聖地である両地において、どちらも修験道や山中に暮らした朝廷にまつろわぬ集団と関連していそうなことは興味深く、奥深い山には何かが潜んでいたようである。
https://www.rekishijin.com/11475 【忍者はもともと「鬼」だった!? 坂上田村麻呂に討伐された「藤原千方の四鬼」とは?】より
■安和の変で没落、鬼の軍勢を駆使し朝廷に反旗
実在するのか⁉ 藤原千方『書画五十三次』/国立国会図書館蔵
藤原千方(ふじわらのちかた)とは聞き慣れない名前であるが、平将門討伐で功を成した藤原秀郷(ひでさと)の孫、つまり、実在の人物である。秀郷は近江三上山に潜む巨大な百足を退治する側の武将としても知られているが、その孫であるはずの千方はといえば、逆に退治される側の鬼に与した武将としてその名が知られるところである。
伝えられるところによれば、金鬼(きんき)、風鬼(ふうき)、水鬼(すいき)、隠形鬼(おんぎょうき)という名の四鬼(よんき)を率いて、伊賀、伊勢において謀反を起こしたとか。その父・千常(ちつね)は鎮守府の将軍で、千常の兄・千晴は、藤原氏による他氏排斥事件ともいうべき安和の変(969年)に加担していたとして隠岐に流させられた人物。一門の中でも、討伐する側とされる側に明暗が別れたようである。
ともあれ、千方は朝廷に反旗を翻した人物として名を刻まれることになった…と、ここまで記したところで、何やらおかしいことに気がついた。秀郷といえば、下野国および武蔵国の国司として関東に勢力を張っていた武将。それから数代にわたって鎮守府将軍に任じられ、同地域に勢力を張り続けていた一族のはずである。その孫にあたる千方だけが、よりによって何の繋がりもなさそうな伊賀や伊勢の勢力を率いて反旗を翻すことなどあり得るのだろうか? もしかしたら鬼を率いて反旗を翻した千方なる人物は、実在する秀郷の孫である千方とは別の、つまり創作上の人物と考えた方が良いのではないか?と、思うのである。
■一首の和歌を詠んだだけで撃退
ともあれ、ここで紹介するのは、鬼を率いた伝承としての千方である。その詳細を記すのが、軍記物語として知られる『太平記』(第十六巻 日本朝敵事)であった。後醍醐天皇の即位から南北朝時代に至るまでの約50年間の事象を記した史書ではあるが、信じがたいような奇怪な物語が記されることもある。その一つが、ここで紹介する千方と四鬼の物語なのである。
その主人公である千方の人物像は詳しく語られることはなかったが、鬼に関しては、以下のように記されている。まず、金鬼は矢を射ても射抜くことが出来ないほどの硬い体を持ち、風鬼はどんなに堅牢な城でも吹き飛ばすことができるほどの強い風を吹かせ、水鬼は水を自在に操って洪水を起こして敵を殲滅(せんめつ)させることができた。最後の隠形鬼に至っては、隠遁(いんとん)の術を駆使して敵を不意打ちするという、まるで『鬼滅の刃』に登場する愈史郎(ゆしろう/目隠しの術が得意技)のような存在であった。この四鬼を千方が自在に操って、朝廷に反旗を翻したというのである。その対峙する側の将軍として派遣されてきたのが紀朝雄(きのともお)であるが、これまた伝説に登場する千方同様、創作上の人物であった。
ともあれ、鬼との対決とあらば、空前絶後の奇抜な戦いぶりが期待できそうだが、実のところ、拍子抜けするような結末を迎えている。なんと、紀朝雄が鬼たちに対して、たった一首の和歌を詠んだだけで、鬼たちを退散させたというのだ。その歌というのが、「草も木も 我が大君の国なれば いづくか鬼の 棲なるべし」というものであった。直訳すれば、「草も木も、全てこの世のものは天皇が治めているのだ。鬼の居場所など、どこにあるというのだ」ということか。
この歌自体の言霊が霊力を発揮して鬼を仕留めたのか、はたまた単に鬼が反省して退散したのかは定かではないものの、あっけない幕切れであったことは間違いない。鬼が逃げたことで戦力を失った千方も、討ち取られてしまったという。まるで『鬼滅の刃』に登場する魘夢(えんむ/手に目と口がある)が催眠術を駆使するかのような様相であるが、紀朝雄もまた言霊の霊力によって、鬼たちを催眠術にかけて惑わしたのかもしれない。
■激戦の舞台とされた千方窟
この戦いの舞台となったのが、三重県伊賀市にある千方窟(ちかたくつ)と呼ばれる巨石群である。これが千方の立て籠ったという岩城であるというが、もちろん、真偽のほどは定かではない。それでも、鬼たちが逃げたとされる4つの穴が、まるで奈落の底にでも繋がっているかと思えるような不気味さを漂わせているのが気になるところ。一説によれば、総勢5百の千方軍と討伐軍5千が、半年にもわたって戦い続けたとも。その伝承に沿って、千方窟周辺には、千方が敵兵の首を放り込んだという血首井戸や、井戸に放り込んだ首の化身とされる雨乞石の他、千方軍の城郭の正門跡地といわれる大門跡などが史跡然として存在している。いずれの景観も神秘的であるゆえか、散策を続けるうち、いつしか、さも史実であったかのごとき気分にさせられてしまうのである。
ちなみに、四鬼の伝承は、これで終わったわけではなかった。それから幾年か後のこと、四鬼は奥州南部岩手郡に再び現れたと伝えられている。千方の仇を晴らそうと、鬼たちが決起したのである。ただし、この時は、田村丸こと坂上田村麻呂が5万8千もの大軍を率いて攻撃。あえなく討ち取られている。
なお、この伝説上の人物・千方を伊賀忍者の祖とみなすとまことしやかに語られることもあるが、それは果たしてどうか?むしろ、四鬼が特殊な能力の持ち主であったとの言い伝えを、忍者のイメージアップに利用したという気がするのだが……。
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