https://www.margherita.jp/blog/juuzitu/ 【本に囲まれた生活は充実している。】より
本に囲まれた生活は、読書好きにはたまらない生活です。ほとんどの家では書斎など持つことは難しいですがもしもてるとしたらとても充実した生活でしょうね。好きな本に囲まれ、またハードカバーが詰まった本棚は、偉い学者や大学教授などに合いそうです。また本の管理がある程度必要ですね、書斎は湿度があると本がカビてしまいますし、虫などにかじられる恐れも出てきます、しっかりとした湿度管理していないと大事な本がダメになってしまいます。
でも人生のほとんどを読書して過ごすことは羨ましいです。仕事などをしていると本を読む時間が減ってきます。本を読んいる時間は自分の世界に浸れ、そして物語の主人公になれたりもします。また、知らない知識などを身に付けれますし誰かの考えに共感もできます。知らない世界を知ることで自分の物になるということはうれしいものです。このようにさまざまな本が読めるのは素晴らしい人生ですね。家に図書館みたいな書斎があるお金持ちの人がうらやましいですね。でもほとんどの人は書斎と言っても大きなものでなく、あまり置けませんがどの本も愛着があり処分には困ってしまうものなのです。このようにたくさんの本を置けて、いつも好きな時に読める書斎があればいいと思うのはみんな同じ思いです。
素晴らしい本と出会うのは運も絡んできますが、ためになる本にだった時は忘れもしません。読み終えた本は一つの出会いが終わり新しい出会いの予感もします。本屋や図書館で選んだ本が読んでためになった時は、自分に新しい知識が身に付いて自分の血肉になってきます。このようなためになる本が自分の家でいつでも好きな時に読めるように、買って本棚にしまって持ちたいと思うのは私だけではありません。本棚だけでは足りないしもっと本専用の大きな書斎が欲しく家を増築や改築したいという人も多いでしょう。本の臭いと言うかインクのにおいがいいですね、周り全面が本の世界で手を伸ばせば届くこのような老後の書斎が欲しいです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/19026772f5c4dccff6426f3579b88c4805b8ee63 【自然の中で身体を使った学びは強い! AI時代に生きる知性の育み方【養老孟司×春山慶彦(YAMAP創業者)】】より
2月26日に新刊『こどもを野に放て! AI時代に活きる知性の育て方』が刊行された。本書は、No.1登山地図アプリ(※)「YAMAP」の創業者で、読書家としても知られる春山慶彦さんが、養老孟司さん、中村桂子さん、池澤夏樹さんと、自然の中で身体性を高めることによってAI時代に求められる知性の育み方を語り合った対談集だ。刊行を記念して、養老孟司さんと春山慶彦さんの対談を公開する。(※)2021年8月登山アプリ利用者数調査[App Ape]調べ(構成/よみタイ編集部)
【書籍】『こどもを野に放て! AI時代に活きる知性の育て方』
現代社会は、感覚から入るものを軽視しがち
春山 まずは先生がよくおっしゃっている、日本人が身体を使っていないことの問題についてお聞きしたいと思います。私は、これは日本にとっての大きな課題だと考えています。
1950年代までは、日常的に身体を使う仕事、たとえば農業・漁業・林業などの第1次産業に携わる人の数は1500万人ほどいて、日本の就労人口の約半数を占めていました。それが今は200万人ぐらいまで激減しています。多くの人が第1次産業ではなくサービス業など第3次産業の仕事に就き、かつ都市化が急激に進んだこともあって、自然の中で身体を動かす機会が失われてしまっていると思います。
とはいえ、人間も生きものです。私たちの身体の構造は、パソコンやスマホを使うためではなく、自然の中で生き抜くためにつくられています。しかし、そうした身体性の原点に立ち返り、自然と人間の関係性を深める営みとして、第一次産業に新規に参入するのは、今の時代、なかなかハードルが高い。そこで、登山やアウトドアであれば、無理なく都市と自然をつなげられるのではないかと考え、2013年にYAMAPを立ち上げました。
知識を先行させるのではなく、自らの身体で体験することからはじめないと、人は本質に気づきにくいですし、生きていることのよろこびを実感しにくいのではないでしょうか。だから、自然の中で身体を動かすことや、その中で、自分たちのいのちが自然や地球とつながっているということをリアルに体感することが大事だと思います。その意味で、登山やアウトドアは現代社会において必要なアクティビティーだと考えています。
養老 おっしゃる通りですね。現代社会は、感覚から入るものを軽視しがちで、勉強すれば何でも頭に入ると思っています。でも実は、それ以前に自然の中で感覚を磨くことが非常に重要なのです。僕らがこどもだった時代には、野山で遊ぶうちにごく普通に感覚知を得ることができました。しかし自然体験が乏しい最近の子どもたちには、それが十分に養われていないのではないかと心配しています。外で身体を動かして遊ぶより、インターネットやゲームをやる時間の方が長いでしょうから。
春山 先生のご著書『子どもが心配 人として大事な三つの力』(PHP新書)を拝読しました。デジタル時代の子育てについて、『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)を書いた児童精神科医の宮口幸治先生など、4人の識者との対談からいろいろ学ばせていただきました。
養老 あの本の中で対談した脳研究者の小泉英明さんは、「人間が意識や精神を獲得していく過程で、体がその基本になっていることは間違いのないところです」とおっしゃっています。詳しくは対談を読んでいただくとして、脳に関して言えば、身体で感じる感覚、つまり目で見る、耳で聞く、手で触る、鼻で嗅ぐ、舌で味わうという五感が「入力」で、それに反応して身体を動かすのが「出力」です。
まず、外界からの情報が感覚を通して脳に入ってくる。それを受けて脳の中で計算して、考えた結果が肉体の運動として出てくる。たとえば、目の前にコーヒーがあるとして、「コーヒーがある」という情報が脳に入力される。脳の方では「喉も渇いたし、ちょっと飲んでみるか」と考えて、それが手を伸ばしてコーヒーカップを取るという出力になる。それでコーヒーを飲んだら「ぬるい」と感じて、その入力に対し脳は「だったら淹いれ直そう」と考える。そんなふうに感覚→脳→身体→感覚……という具合に情報をぐるぐる回していく。
こういう脳の「回転」の重要性が言われるようになったのは、脳研究の世界でも比較的最近のことです。脳には、入力と出力の両方が必要で、入力だけだと水を吸い込むだけのスポンジと同じですし、出力だけでは、ただ動き回っているだけの壊れたロボットになってしまいます。
まだ小さいときに、その入出力を繰り返していくことで、脳の中にひとりでに、あるルールができてくる。それが学習のはじまりです。小さいときから、このようなことを地道に繰り返し繰り返しやっていくことで、自然に脳がルールを発見するのです。
赤ちゃんは身体を通じて「比例」を学ぶ
春山 今の子どもたちは出力の部分がどれだけできているか、とても心配です。
養老 小泉さんも言っていましたが、人間の学習のプログラムは赤ちゃんがハイハイをはじめる頃から動きはじめていきます。なぜかというと、這って動き回るようになるというのは、自分の手足を使って世界の中を移動するという、とても知的な作業で、これが脳の発育にとても大事なのです。机の脚にぶつかったりして、そういうときは避けるものだということも覚えるし、何より動くことで景色に変化や広がりが出て、視覚入力が変わってくるでしょう。
ハイハイしていくと、見ている景色が近くに寄って、だーっと拡大してきますよね。何でもないようですけど、一歩近づくと少し大きくなって、もう一歩近づくとまた大きく見える。つまり、同じものでも距離によって違って見えてくるということを繰り返すことで、脳みそが情報をまとめて、「大きさは違っても、あれは同じものだ」というルールを自分で発見していくわけです。それがいわゆる「比例」というもので、遠くにあるものと近くにあるものは違って見えるから別のものだと思ったのでは困りますからね。
比例なんて、学校の算数で習うものだとどこかで思い込んでいるけれども、実はそうではなく、既に赤ちゃんの頃から感覚的に知っていることなんですよ。その感覚が優れている人を「カンがいい」と言うわけで、カンを磨くには、小さい頃から入出力をどんどん繰り返さないといけません。また、こういうことはバーチャルではなく、実際に乳幼児期に身体を使って学習することが大事なのであって、それがなければ誰かが動いているのを画面で見ても、すぐには理解できないと言いますね。
春山 逆に、感覚や感性が十分に養われていれば、知識はあとからでもキャッチアップできるということでしょうか。
養老 そうです。生まれつきハンディキャップがあって、自力で移動できない赤ちゃんは、言葉をはじめ、いろいろな発達が遅れてしまうことがわかっています。だから、出力ができるようにサポートする必要があります。たとえば、脳性小児麻痺でハイハイができないこどもには、ベルトを締め、そのベルトを持ち上げて体重を軽くしてあげる。その状態で這って歩けるように促すのです。そうやって少しずつ自力で動いて移動できるようにするのです。
春山 児童精神科医の宮口先生との対談の中では、図形の模写ができなかったり、丸いケーキを3等分した絵を描けなかったりするこどもたちの話が出てきます。空間に対する認知機能が著しく低い子たちの中から非行に走るケースが少なくないということでしたけれども、宮口先生が取り組んでいらっしゃる、図をきれいにトレースして描くような経験を積ませることも大事だと思いつつ、自然の中に入れば、一気にそういう認知能力が高まる訓練になるのではないかという気がします。
養老 そう思いますね。今の子はあまり外で遊ばなくなったようですが、外で遊ぶことは、こどもにとって本当に大事です。やっぱり自然のものを相手にするのは、おもしろいですよ。だから、こどもをまともに育てようと思うなら、自然の中で思う存分遊ばせるのが一番いいんです。
脳を育てるには、脳の入出力が大事だと言いましたが、それには知覚と運動の量を多くしないといけない。その話で言うと、外遊びの中でも、特に虫捕りがいいですね。これは僕が虫屋だからということだけではなくて、虫捕りをしているときは、さっき言った脳の入出力がほぼ理想的に回転しているのです。虫捕りでは、虫を見て、「いた!」と思ったら、身体を動かして捕まえる。その後も、自分で調べて、標本をつくって、考えて、また虫を見て……という具合に、ずっとインプットとアウトプットを繰り返すことができます。虫捕りは背景に自然がありますから、自と感覚が広がっていくというところもいいですね。
https://www.isad.or.jp/pdf/information_provision/information_provision/no96/66p.pdf 【黄門様と俳聖の水道工事・徳川光圀と松尾芭蕉 作家 堂 門 冬 二】より
東京都文京区関口という地域に「関口芭蕉庵」という遺跡がある。元禄の俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が住んでいた家の跡だ。この近くに「神田上水取水口大洗堰跡」というのがあり説明板が立っている。これによると、江戸時代の上水はここに築かれた堰で水量を上げて、水道通りの水路に流される。そして小石川の後楽園で有名な水戸藩の江戸藩邸を抜けて、暗渠に入り水道橋を渡って神田方面に送水された、とある。そして、「この工事には、松尾芭蕉も参加したらしい」と伝えられる。事実だとすれば非常に興味深い。というのは、この説明板にある上水の通り道として、「小石川の江戸藩邸を抜けて」というのは、実をいえば黄門の別称で有名な徳川光囲が工事を施したものだからである。徳川光囲は水戸の第二代目藩主だ。黄門と呼ばれたのは、古代中国の唐という国で中納言のポストが別称黄門と呼ばれていた。御三家のひとつである水戸徳川家は、代々中納言のポストを得た。そのために"黄門様"と呼ばれた。したがって、黄門様は光囲だけではない。中納言という位を持つ公家や大名はすべて黄門様になる。しかし光囲だけが特別に有名になったのは、やはり明治年間から流行り出した『水戸黄門漫遊記』のせいだろう。ああいう事実はまったくない。というのはこの光囲が"天下の副将軍"と呼ばれたように、常に江戸城にいて五代将軍徳川綱吉の補佐をしなければならなかったからである。かれが水戸藩主になったのちも、在任中水戸に帰られたのはわずか一回か二回だったといわれる。したがって、公務を放り出して日本中歩きまわるなどということは絶対にあり得ない。あくまでもフィクションである。
その光囲が三十歳のときに、有名な"明暦の大火"に出会った。水戸藩邸も被害を受けた。
この年かれは駒込の中屋敷に『大日本史』を編さんする史局を設けた。大日本史の編さんには、正確な資料や古文書を使用するので光囲が何よりも心配したのは、「また江戸に大火が起って、これらの貴重な資料が焼けるようなことがあったら非常に困る」ということであった。そこでかれは明暦の大火の苦い経験に基づき、「江戸の水戸藩邸に、消火用水をたっぷりと保有したい」という願いを持った。このことを幕府に願い出た。御三家のいうことなので幕府も許可をした。
そこで、江戸市民の飲み水であった神田上水の一部を水戸藩邸を通るような分流を許可した。光囲はこの分流工事に熱意を示し、自分もたびたび工事に立ち会った。そして、「ただ消火用水として水を保有するのはもったいない。庭の池にも流さそう」と考えた。分流はいったん藩邸に流れこみ池を通じて再び流れ出るという流路をつくった。
そして、この工事に参加していたのがのちの俳聖松尾芭蕉だという。若いころの芭蕉はまだ俳
句の俳名がそれほど有名ではないので、やはり働いて生計費を得ていた。芭蕉にどれだけの工事技術があったのかはわからない。ただかれの生国は伊賀国(三重県)上野なので、ここは例の伊賀忍者のふるさとだ。忍者というのは単に忍術を使うだけではなく、情報収集と同時に生活に密着したいろいろな技術を持っていた。したがって伊賀国の国主であった藤堂家に仕えていた芭蕉には、そんな技術や知識があったのかもしれない。あるいは単なる"口雇い労務者"として参加していたのだろうか。歴史に"もしも"はない。しかしもしもこのとき、光囲と芭蕉が互いを知り合って、話をするようなことがあった歴史的事実があればこんな面白いことはない。黄門漫遊記よりもよほど興味深い。芭蕉が関口に住んでいたのは延宝五(1677)年から約四年間だったという。かれが住んでいたのは当時"水番屋"と呼ばれる粗末な小屋風の家屋だったという。しかし水番屋という以上、おそらくここにある堰から配水の計画を立てたり、水を流したりする役割を負っていただろうから、芭蕉が若いころはかなり江戸の上水道にかかわりを持っていたことは確かだ。
徳川光囲の父頼房は寛文一(1661)年七月に死んだ。光囲は二代目の藩主になった。しかしすぐ
には水戸にいかなかった。かれの時代にもまだ、水戸城を中心とする領国(常陸国・茨城県)には、旧領主佐竹家の名残が非常に色濃く残っていたからである。佐竹家は関ヶ原の合戦のときに曖昧な態度を取ったため、徳川家康に憎まれて遠く秋田に転勤させられた。
石高も半分以下に減らされた。そのために秋田にいける家臣や商人は少なく、半分以上が常陸
国に残留した。残留した旧佐竹家の武士や民は徳川家を恨んだ。したがってその一門である水戸徳川家が入国したことに決してよい感情を持っていない。いつも、「帰れ徳川、出ていけ徳川」というシュプレヒコールを心の中であげていた。この反徳川感情は、初代の頼房だけでは処理できなかった。二代目光囲のときにもまだまだ残存していた。光囹は考えた。
(わたしが水戸城へ入る前に、常陸領民のきもちを和らげる必要がある。それには何をすれば
よいか?)ということだ。情報を集めてみると水戸の城下町にはよい上水がないという。粗末な水道があるが雨になれば濁って飲めない。地下水も質が悪い。光囲は過去の経験から、「よい飲み水を提供することが、反徳川感情を和らげることになるだろう」と思い立った。そこでこの方面に明るい部下に命じ、「わたしが入国する前に、水戸の城下町に良質の上水を提供する水道をつくっておけ」と命じた。命じられた部下は水戸へとび、近くでよい水を湧かせる水源を探し歩いた。やがて笠原の森というところで良質の湧水を発見した。工事が開始された。水路の全長は約十キロメートルである。斜面を利用して水が流れるようにした。工期はわずか一年足らずであった。上水道敷設を命ぜられた部下も、「殿がご入国前に、なんとかしてこの水道を完成させたい」と意欲に燃えていた。工事開始は寛文二(1662)年で、翌三年の七月下旬に完成した。この報告を受けた光囲はよろこび、翌三年七月二日にはじめて入国した。いままで反徳川感情で凝り固まっていた水戸の城下町市民たちが、水道をつくってくれた新しい殿様に歓迎の声をあげたのはいうまでもない。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-1371461 【曾良の正体:『奥の細道』の真実
著者名:乾佐知子】より
内容説明
なぜ芭蕉は、この男を随行させたのか?
諏訪の商家の長男として生まれたにもかかわらず、
次々と養子に出され、久松松平家の家臣となる。
その後、幕府の諜報員として全国を飛び回る。
『奥の細道』の旅も諜報活動の一環だった。
この男はいったい何者なのか――。
曾良の生涯を「家康の六男・松平忠輝の落し子」説に沿って辿ることで、
旅の出立をはじめ、仙台藩での湯ざまし事件、村上に滞在した三日間など、
これまで謎とされてきた旅の真相が解き明かされる。
史実を辿ることによって日本最高の古典の理解が深まる。
【目次】
第一章 曾良の実像
曾良の生い立ち/曾良の名前/家康の六男、松平忠輝/松平忠輝の落し子としての曾良/伊勢長島、大智院での曾良/伊勢長島藩主、松平良尚/曾良と俳句との出合い/江戸へ出た曾良/曾良と吉川惟足
第二章 曾良と芭蕉の出会い
芭蕉と藤堂藩/芭蕉と曾良はいつ出会ったか/藤堂家の血筋を引く芭蕉/甲州谷村での出会い/曾良が谷村を訪れた理由/谷村以降の曾良/松平忠輝の死
第三章 『奥の細道』旅の目的
江戸に戻った芭蕉/『野ざらし紀行』、蛙合、『鹿島紀行』/路通から曾良へ/『奥の細道』旅の準備/旅の経費はいくら掛かったか/旅の資金はどこから出たのか/水戸光圀と松平良尚/綱吉と光圀との微妙な関係/松平定重と芭蕉/情報収集としての旅/『奥の細道』旅の真の目的/関係諸藩と伊奈家との関わり
第四章 『奥の細道』旅の真実
『奥の細道』出立の謎/小菅の伊奈郡代屋敷/清水寺から預かった書状/杉風の訪問/日光大楽院の客/白河の関、須賀川、福島、仙台/松島、瑞巌寺/湯ざまし事件/伊達騒動とは/『奥の細道』における奥州平泉/出羽越え、尿前の関/尾花沢、立石寺、出羽三山/象潟と「みのの国の商人 低耳」/越後路、村上滞在の真相/村上での歓待の理由/絶海の孤島、佐渡/佐渡と大久保長安/金沢から山中温泉へ/山中温泉から敦賀、色の浜へ/水戸藩と大垣藩に守られた旅/芭蕉、大智院を訪ねる/別行動をとった曾良
第五章 『奥の細道』以降の曾良と芭蕉
江戸に戻った曾良/近畿地方を巡った曾良/晩年の芭蕉/『奥の細道』の成立/芭蕉の臨終/芭蕉没後の曾良/曾良が墓参できなかった理由
第六章 曾良の晩年
諏訪帰郷と芭蕉墓参/長島松平家断絶/六代将軍徳川家宣/幕府巡見使の御用人として九州へ/曾良が御用人になれた理由/壱岐へ/対馬藩とは/曾良の終焉/密命を帯びた曾良/対馬を巡った曾良/本土生存説/河西浄西に学んだ生き方/榛名山に消えた仙人/故郷に集う「あぢさゐ忌」
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