玉祭

https://www3.nhk.or.jp/lnews/tsu/20231012/3070011477.html 【松尾芭蕉の命日 功績をたたえ遺徳しのぶ芭蕉祭 伊賀市】より

江戸時代の俳人、松尾芭蕉の命日にあたる12日、ふるさとの三重県伊賀市で、芭蕉の功績をたたえ、遺徳をしのぶ催しが開かれ、国内外から寄せられた俳句がささげられました。

「奥の細道」などの作品で知られる江戸時代の俳人、松尾芭蕉のふるさと伊賀市では、毎年命日にあわせて「芭蕉祭」が開かれています。

上野公園内の建物、「俳聖殿」に置かれた芭蕉像の前では、はじめに伊賀市の岡本栄市長があいさつし、「芭蕉翁が残した俳諧文化を次世代に伝えていくことを誓います」と述べました。

この芭蕉祭にあわせて、伊賀市などは俳句を募集していて、ことしは国内外から約3万3400句の応募がありました。

12日は「特選句」に選ばれた作品などが記された木製の額が除幕され、各部門の受賞者が表彰されました。

このうち「児童生徒の部」では、伊賀市の島ヶ原中学校2年生、井村天喜さんが詠んだ「見えますか戦禍の国で天の川」という句が特選句の1つに選ばれました。

井村さんは「七夕の日に戦争が終わってほしいという願いを込めて詠みました。世界中の人々がお互いのことを分かり合うのが大事だと思います」と話していました。

https://miho.opera-noel.net/archives/3225 【第六百四十一夜 松尾芭蕉の「玉祭」の句】より

 今日8月15日は、盂蘭盆会(お盆)の中日である。私の夫の家は熱心な浄土真宗の信者で、私よりも夫の方が仏事のことはきちんと手配してくれる。

 私は、小学校からプロテスタントの井草教会に通い、青山学院高等部では、毎日30分のチャペルの時間があった。大学になると毎日の礼拝の時間はあったけど出席の義務はなくなり、毎回出席したのはクリスマスの行事だけであった。

 結婚後は、クリスチャンであった私は、宗教心とは、どこかみな同じではないかと思うようになっている。 

 夫が1番大事にしているのは、お盆の行事。『瀬戸内寂聴全集』から「お盆」の一部を抜粋してみよう。

     お盆           瀬戸内寂聴

 「仏さんのいらっしゃる間は、いそがしいてかなわんなあ」

 そんなことをいいながら、年寄たちは嫁に教え、嫁は娘に教えて、精霊たちの接待の仕方や料理を覚えこませる。

 「十万億土からおこしになるんやから、喉がかわいてかなわんやろ」

 そんなことをいって年寄はほとんど仏前につきっきりで、日に幾度となくお供えの水をかえる。どこかままごとめいたそんなまつり方に、娘たちは案外素直に従っているようだ。物心ついた時から、お盆はそうするものと見馴れているせいなのだろう。

 今宵は、「盂蘭盆会」「魂祭(玉祭)」の作品を紹介しよう。

■1句目

  数ならぬ身とな思ひそ玉祭  松尾芭蕉 『有磯海』

 (かずならぬ みとなおもいそ たままつり) まつお・ばしょう

 掲句は元禄7年7月15日(旧暦)、伊賀上野の松尾家のお盆で作られ、「尼寿貞が身まかりけるときゝて」という前書がある。

 寿貞尼は、この年の6月2日、芭蕉不在の、深川芭蕉庵で死んだ。芭蕉が、寿貞尼の訃報を知ったのは6月8日で、京都嵯峨野の落柿舎に於いてであったという。

 句意は、かつて芭蕉の妾であった寿貞尼が亡くなったことを聞いて、芭蕉が「とるにたりない身であると思ってはいけないよ」と、寿貞尼に呼びかけたもので、この句を吟じて弔ったのですよ、となろうか。

 「数ならぬ身と」とは、とるにたりない身であると、の意。「な思ひそ」とは、「な~そ」は、禁止を表し、そんな風に思ってはいけない、の意。

 寿貞尼とは芭蕉の愛した女性であったが、芭蕉と結婚はせず、晩年に芭蕉を頼る。『蝸牛俳句文庫 松尾芭蕉』の編著者の赤羽学はこの句を、「寿貞の不幸を女性全体の運命と観じた句」であると述べている。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498749405.html 【数ならぬ身とな思ひそ玉祭 松尾芭蕉】より

(三重県伊賀市 松尾芭蕉生家)

数ならぬ身とな思ひそ玉祭    松尾芭蕉(かずならぬ みとなおもいそ たままつり)

「玉祭」とは「魂祀り」…、つまり「お盆」に、お供え物をして、亡くなった人の霊を慰めることである。

芭蕉にはたくさんの名句がある。

この句は、芭蕉ファンなら知っているが、世間には、さほど知られていないであろう。

ただ、私は「お盆」の頃になると、ふと、この句を思う。お盆の句で、他に思い出す句は(私には…、)ない。

寿貞尼(じゅていに)がみまかりけるとききてと前書きがある。

「寿貞尼が亡くなった、と聞いて」という意味だ。

この句は元禄7年7月15日(旧暦)、伊賀上野の松尾家のお盆で作られた。

寿貞尼は、この年の6月2日、芭蕉不在の、深川芭蕉庵で死んだ。

芭蕉が、その訃報を知ったのは6月8日、京都嵯峨野の落柿舎に於いてであった。

この芭蕉庵は「第三次芭蕉庵」である。

「第一次芭蕉庵」は天和2年(1682)の天和の大火(八百屋お七の火事)で焼失した。

「第二次芭蕉庵」は、元禄2年(1689)、「おくのほそ道」へ出発するため、売り払っている。

第三次芭蕉庵は「おくのほそ道」のあとに作られた庵だが、実際、芭蕉は短期間しか住んでいない。

第三次芭蕉庵が建てられたのは元禄6年。

「おくのほそ道」の旅は元禄2年だから、4年ほど、芭蕉は江戸に帰っていない。

実際、芭蕉はもう、江戸に帰る気はなかったのではないか、と私は思う。

芭蕉の名はいまや天下にとどろいている。

芭蕉にとって、江戸は立身出世の場で、いまや、そこに固執する必要はなかっただろう。

「おくのほそ道」のあとは、京都周辺や、故郷・伊賀上野あたりをずっとうろついていたのである。

ひょっとしたら、芭蕉は死期を感じていて、その近辺で亡くなることを願っていたのかもしれないが、確証はない。

さて、「寿貞尼」とは何者か?これも実はよくわかっていない。一番有力な説は、芭蕉の妾だった、ということだ。しかも「子持ち」の妾である。

嵐山光三郎さんが、延宝8年(1680)、芭蕉が日本橋から深川へ、突然、居を移したのは、この、寿貞尼と、芭蕉の甥の「桃印」が「駆け落ち」してしまい、それを知られないためだった、という説を著書の中で主張している。

当時の不義密通は大罪だったのである。

芭蕉と寿貞尼は夫婦ではなかったから、それで不義密通になるのだろうか、という疑問はあるが、きっと、そうなのだろう。

しかし、この説も確定ではない。

おそらく、深川へ移る頃から、芭蕉の手紙などから、寿貞尼や桃印の名がぱったりと消えてしまった、ということであろう。その寿貞尼がなぜ、第三次芭蕉庵にいたのか?

どうやら、また芭蕉庵にひょこりと戻ってきたようだ。

そのためかどうかはわからないが、芭蕉は四年ぶりに江戸深川に戻り、、第三次芭蕉庵に半年だけ滞在し、また伊賀や関西へ向かう。

その際になぜか、寿貞尼の子の次郎兵衛を伴っている。

なにかいろいろな複雑な事情があるように思えるし、ただ単に老年となった芭蕉の旅を手助けするための随行かもしれない。まあ、ようするによくわからないのである。

ただ、この寿貞尼が、さほど恵まれた人生を生きて来た女性ではないのはなんとなくわかるであろう。その彼女の訃報を聞いた芭蕉の心持はどうであっただろう。

芭蕉は、数ならぬ身とな思ひそ

つまり、とるにたらない身だと思ってはいけないよ。と呼びかけている。

きっと、寿貞尼は、時折、そんな言葉をもらしていたのではないか。

死ぬ時も、そんなことを思って死んでいったに違いない、と芭蕉は思ったのだろう。

そうではないんだよ。と芭蕉は、呼びかけている。

私たち(私だけか?…)は、自分は特別な存在だ、と思う気持と、自分は世の中にとって、取るに足らない存在だと思う気持と両方あるのではないか。

悲観的に考えれば、ほとんどの人が「取るに足らない身」つまり「数ならぬ身」なのではないか。

私がこの句に感動するのは、これは芭蕉と寿貞尼の間だけに成立する句ではなく、広く普遍性を持っているからである。

亡くなった私の父も、叔父も、祖父も祖母も、私にとってはかけがえのない人物だが、大きく見れば「数ならぬ身」であるに違いない。

人間の大半はおそらくみんなそうなのだ。

ただ、この句を呟く人にとっては、その思う人は「数ならぬ身」では決してない。

寿貞尼がおのが運命を悲しんだとしても、芭蕉にとってはかけがいの人なのだ。

私が、こうしてお前の死を悼んでいるじゃないか。

私が悼んでいる限り、お前は「数ならぬ身」ではないのだ!と言っている。

芭蕉はこの三ヶ月後の、10月に亡くなっている。


https://note.com/honno_hitotoki/n/n9141ef84dcda 【数ならぬ身となおもひそ玉祭り|芭蕉の風景】より

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書『芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

数ならぬ身となおもひそ玉祭り 芭蕉

亡くなった親しい女性への句

 元禄七(1694)年旧暦六月、京都嵯峨野の落柿舎に滞在していた芭蕉は、江戸深川の芭蕉庵に留守の間住まわせていた寿貞じゅていという女性の死を知り、大きな衝撃を受ける。江戸の知人である猪兵衛いへえから書簡をもらったのである。

 いつも盆に故郷の伊賀上野に帰るとは限らない芭蕉だが、兄半左衛門から今年は帰るように手紙で促されて帰郷することとした。兄を始めとする親戚とともに、松尾家の菩提寺の愛染院あいぜんいんで盆の行事を営んだ際、亡くなった寿貞のことを思い出したのだろう。掲出句が詠まれるのである。

 俳諧撰集『有磯海ありそうみ』所載。「尼である寿貞が死んだと聞いて」という意味の前書がある。すでにこの世のものではない女性に呼び掛けている句なのである。寿貞がどういう女性であるかは、後述する。句意は「とるにたらぬご自身と思ってはなりません。この盆の折にあたって、あなたのご冥福を祈ります」。芭蕉が門弟以外の女性、それも亡くなった女性に贈った句というものは、これ以外に知らない。

 関西本線伊賀上野駅で伊賀鉄道伊賀線に乗り換え、上野市駅下車。梅雨晴れで、ちょっと蒸す午後である。駅前の観光案内所の小さな建物がなくなってしまっている。駅員の方にうかがってみると、駅前に新しいビル「ハイトピア伊賀」ができて、その中に入ったとのことだ。新しい観光案内所の女性に、現在地から愛染院までの道筋を絵地図上に赤鉛筆でなぞってもらう。上野郵便局の前を通る大通りを東へと進むのだ。愛染院は芭蕉生家のごく近く、生家の一筋東を南に折れたところにある。

 愛染院は真言宗豊山派の寺で、本尊に愛染明王を祀っていることから、この名がついた。この寺には芭蕉の遺跡、故郷塚ふるさとづかがある。芭蕉の遺骸は自身の遺言により大津の義仲寺に葬られているが、芭蕉の死の知らせを聞いて義仲寺に駆けつけた伊賀の弟子土芳とほうと卓袋たくたいが形見として遺髪を持ち帰り、この寺の松尾家の墓所に納めた。これが故郷塚である。

 茅葺き屋根の小さな覆堂の下に、白々とした花崗岩の石碑が据えられてある。中央に「芭蕉桃青法師」、右に「元禄七甲戌こうじゅつ年」左に「十月十二日」と三行に刻まれている。芭蕉の名と、亡くなった年と忌日である。読みにくいが、たどれる。文字は芭蕉の高弟嵐雪らんせつの書。故郷伊賀の芭蕉の墓なのである。紅花が手向けてあった。芭蕉が『おくのほそ道』の旅の際、山形の尾花沢付近で見た花である。

まゆはきを俤おもかげにして紅粉の花

芭蕉の妻か、甥の妻か

 さて、寿貞とは誰か。風律ふうりつという俳人が残した『小ばなし』(宝暦〔1751〜1764年〕ごろ成立か)という書に、蕉門の野坡からの聞き書きとして、寿貞は芭蕉の若い時の妾、内縁の妻的存在であったという記述が見える。芭蕉が女性と暮らした時期があったということを思うと、芭蕉の人生に、にわかに彩りが加わるような気がする。ぼくが愛読する『芭蕉全発句』の著者、評論家の山本健吉も、寿貞が芭蕉の妻であったとして掲出句を鑑賞している。

 寿貞に関して、俳文学者の今こん栄藏えいぞう、田中善信の二人が論戦を繰り広げていた。今説は、寿貞は芭蕉の甥である桃印とういんの妻であったというのである。寿貞は桃印と暮らし、子どもも残しているようなのだ(『芭蕉伝記の諸問題』新典社・平成四年・1992年刊)。

 田中説は、驚異的である。寿貞はもともと芭蕉の妻だったが、桃印と駆け落ちをして、桃印の妻になったというのだ。それが、芭蕉の日本橋から深川への移住の原因になったとも書かれている(『芭蕉二つの顔』講談社・平成十年・1998年刊)。芭蕉の人生が、ドラマチックなものになってくる。

 ただ、『おくのほそ道』の旅の後、江戸に戻ってきた芭蕉は、労咳ろうがい(肺結核)をわずらった桃印を引き取り看病をして、結局その末期を看取ることになる。また、元禄七年、故郷に生涯最後の旅に出た後の芭蕉庵に芭蕉は寿貞を住まわせている。芭蕉を裏切って駆け落ちした二人だとしたら、芭蕉はこの二人をここまで愛することができただろうか。またひとたび芭蕉を裏切った二人だとしたら、ここまで芭蕉に甘えることができただろうか。

 寿貞とはどういう人なのか。現段階ではわからない、というしかないだろう。

 寿貞の死を知らせてくれた猪兵衛に返信する際、芭蕉は「寿貞は不幸な人でした。哀れさはことばでは言い尽くすことができません」と書いた。生前どういうかかわりがあったかはわからないが、感謝や敬愛や謝罪など深い思いが流れているのをこの句に感じないわけにはいかない。

 ぼくが滞在している間、愛染院には誰も詣でる人がいなかった。墓の上を渡って揚羽が飛んできた。

故郷塚紅花の束生けてあり 實

あふられて揚羽高しよ墓の上


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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