http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2007_05.html 【私の好きな芭蕉の手紙】より
安 居 正 浩
一、 芭蕉の手紙
現代に残る芭蕉の手紙と言われるものは、六百数十通もあるのだそうである。といっても多くが偽物で、本人のものに間違いがないと思われるものは二百三十通弱だといわれている。
それでも同時代の文豪であった井原西鶴や近松門左衛門の現存する手紙が十通前後であるのに比較すると格段に多い。芭蕉が早くから有名人で、手紙が大事に保存されていたからであろう。
芭蕉の手紙のほとんどは男性の弟子に宛てたものである。女性宛は八通しかない。宛先は川井乙州の母である智月宛が五通、野沢凡兆の妻である羽紅宛のものが三通である。
男性への手紙は漢字が中心で読みにくいのに比べて、女性への手紙は、現代の私達にも読みやすい。女房様と言い、仮名が中心の女房言葉を使っているからである。女性には特にわかりやすい文章をと心がけていたようである。
病気のこととか貰い物のお礼とか、実生活のこまごましたことが中心であり、
芭蕉の日常の生活の様子や女性にたいする接し方が浮かんでくる。ほとんどの手紙は短い文章であるがその中にも、男弟子には見せなかったやさしさ、人間味が見える。世話になった女性に頭が上がらないという風も見え、女性への素直な表現が胸を打つ。
女性への手紙の一つを取り上げ、芭蕉の違った魅力に触れてみたい。
二、羽紅宛の手紙
女性に宛てた芭蕉の手紙の中で私が一番気に入っているのが、元禄六年正月二十七日付の羽紅への手紙である。羽紅は『猿蓑』の撰者として名高い凡兆の妻で、本人も芭蕉の弟子であった。
この手紙を、超訳をするとこんな感じになるだろうか。
宛先は、羽紅が京都小川椹木町に住んでいて尼になったことから小川の尼君と書いている。
この手紙は羽紅が出した手紙への返事であるが、二人の親しさがよくわかる。羽紅は親身に芭蕉の面倒を見、芭蕉もすっかりそれに甘えている。
特に後半の「びじよにもあらず、ていじよにもあらず、たゞ心のあはれ成あまにて候とこたへ申候」に注目した。
江戸の俳諧仲間への答えであるが、これはもう他人の言う言葉ではない。「私なんか美女でも貞女でもありませんよ」と自分が謙遜する時の言葉に近い。これほどまで芭蕉の気持が羽紅に近づいているのである。師弟というより、本当に仲の良い、言いたいことを言える友達という感じである。
またもう一つ追伸に注目すべき箇所がある
「なごやのやつばら共、いよいよ不通に成候と相見え候。のこり多候。」
当時芭蕉の新風についてゆけず、離反の態度をみせていた名古屋門人の荷兮や野水や越人に対する不快感をストレートに吐露している。母親に告げ口をしているような書きぶりもほほえましい。
ではその時芭蕉と、羽紅の夫である凡兆との関係はどうであったか。
元禄三年から四年にかけては、凡兆宅を芭蕉が訪ねたり、芭蕉のいる落柿舎を凡兆夫妻が泊りがけで訪れたり、非常に親しい師弟関係にあった。凡兆が『猿蓑』の選者に抜擢されたのもこの時期である。
これほど親しい関係にも罅の入るのは早かった。元禄四年の後半にはもう芭蕉から遠ざかりはじめる。余りに急速な接近は、別れが早いのは現代でも同じである。
こりもせで今年も萌る芭蕉かな 凡兆
などと、芭蕉への当て付けとも見える句を詠んでいる。
もともと一途な性格であった凡兆は師の芭蕉に対しても、何かにつけ自分の意見を通そうとする。
「下京や雪積む夜の雨の音」の句では、芭蕉のつけた上五の「下京や」に露骨にいやな顔をするし、野水や越人と一緒に路通のことを悪くいい芭蕉の機嫌を損ねることなどもしている。一度気持ちが離れはじめると持ち前の頑固さからもう元へ戻ることは難しい。
この手紙の元禄六年の正月は夫の凡兆からみれば、既に芭蕉からすっかり心の離れた時期であった。それにしては芭蕉から、妻への余りに甘い返事であり、加えて自分が親しく付き合っている名古屋の仲間への悪口であり、凡兆が読んだら不愉快な手紙であったろう。妻に八つ当たりしたかもしれない。芭蕉への憎しみが増幅した可能性もある。
凡兆は元禄六・七年に、入獄してしまう。これで蕉門からの離脱は決定的となる。
出獄後の凡兆は句作りは継続したようだが、もう二度と脚光を浴びることはなかった。羽紅はその後も凡兆につき従い、晩年を看取ったと伝わっているので、「心のあはれ成あま」として生涯をおくったことは間違いない。
この手紙一つの中にも、芭蕉の羽紅への思い、凡兆への思い、名古屋派への思い、そして俳諧への思いなど、さまざまの思いを読み取ることができる。俳聖とまで言われた芭蕉であるが、その心は、一人の人間として大きく揺らいでいたのである。芭蕉の本心が素直に表れていて面白いと私は思っている。
参考資料
「芭蕉の門人」堀切 実著 岩波新書 平成三年十月発行
「芭蕉書簡大成」今 栄蔵著 角川学芸出版 平成十七年十月発行
「芭蕉にひらかれた俳諧の女性史―六十六人の小町たちー」別所真紀子著
オリジン出版センター平成一年十一月発行
(俳句雑誌『出航』第26号より転載)
http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2011_12_01.html 【私の好きな芭蕉の手紙Ⅱ】より
安居 正浩
一.はじめに
芭蕉の手紙で現存するものは二百三十通弱と言われる。そのうち女性宛のものは八通ある。宛先は河合乙州の母である智月(ちげつ)宛が五通、野沢凡兆の妻である羽紅(うこう)宛のものが三通である。男性への手紙と比べ女性への手紙には、芭蕉の生の声が出ていて興味深い。今回は智月宛の一通を取り上げてみたい。
二.智月宛の手紙
元禄五年五月七日付智月宛(芭蕉四九歳)
一とせゆめうつゝのごとくに候。たがひに老のせめ来り、けふあすと云日も遠かるまじくと存候。儀仲庵のあつさも今おもひ出しの一くさにて御座候。此方万大まかなる処に而、何事も不自由に御座候へば、御おんの程も一しほわすれがたく、御なつかしき計に御座候。大かたことしは江戸に足をつながれ候まゝ、又いつ御目にかゝるべきも難レ定候。
定光坊、御息災に御座候哉。竹の子の折々申出し計に御座候。
一、白小袖御句、感心申候。追善御所望之事、いかにも殊勝に存候。乍レ去、拙者肝煎がたき所〲御座候間、冬に成候而乙州下り候節、可レ然と存候。其内の無常はそんに可レ被レ成候。めでたくかしく。
五月七日
智月さま ばせを
この手紙を私なりに現代訳をしてみた。 一年は夢うつつのように過ぎてしまいますね。お互い老いが押し寄せてきて、今日明日死ぬと言うことも遠くないと感じるようになりました。義仲庵の暑さも今思えば懐かしいことの一つです。私も今はすべてにおおざっぱな所にいて、何事にも不自由を感じていますが、それにつけても御世話になった御恩も一層忘れ難く、懐かしいばかりです。
多分今年は江戸にいなければならないようで、いつお目にかかれるかははっきりしません。
定光坊様はお元気でしょうか。竹の子の出てくる時々に思い出します。
あなたの「白小袖」の句感心しました。ご主人の追善句のご依頼を受けましたことそのお気持ちは大変感心なことだと思います。しかしながら私もいろいろあってお世話をすることが難しいので、冬になって乙州が江戸にこられる時、しかるべくなさればいいと思います。
その間に万一(私が)死んでしまうようなことがあれば損したと思って下さい。
五月七日
智月さま ばせを
手紙に出てくる「儀仲庵」は義仲寺の無名庵のこと、「定光坊」は三井寺の別院のことだが、ここでは住職の実永のことを言っている。また「白小袖御句」は智月の句のことだが全体は伝わっていない。
三.智月とは
智月は膳所藩の伝馬役河合佐右衛門の妻で、芭蕉の弟子河合乙州(おとくに)の養母である。早く夫に死に別れ、尼となってから芭蕉に入門したと思われる。年齢は芭蕉より十歳くらい年上だった。湖南滞在中の芭蕉を縫物や洗濯などあれこれと面倒をみていた。芭蕉が一番世話になった女性と言ってよい。智月は荷問屋のおかみさんであるからそれなりに気位もあったであろうが、芭蕉にとっては面倒見の良い下宿のおばさんという感じの付き合いではなかったかと私は想像している。
四.この手紙の注目点
この手紙のなかで興味深い点は大きく二つあると思う。
まず「一とせゆめうつゝのごとくに候。たがひに老のせめ来り、けふあすと云日も遠かるまじくと存候。(一年は夢うつつのように過ぎてしまいますね。お互い老いが押し寄せてきて、今日明日死ぬと言うことも遠くないと感じるようになりました)」と冒頭で書いているように、老境に入ったという感慨が、文章全体に流れている。まだまだ旅に出たい、俳諧を極めたいとの思いの強い芭蕉にとって、「死」を意識せざるをえなくなったことは恐怖であったかもしれない。母親のような気分で接している智月には素直に弱音を吐くことも出来たのであろう。
二つ目は智月の追善句への依頼に対して、その心根を評価しながらも、積極的な対応を拒んでいることである。手紙の前半では「御おんの程も一しほわすれがたく、御なつかしき計に御座候。(御世話になった御恩も一層忘れ難く懐かしいばかりです)」と感謝いっぱいの言葉を書いているのに断らざるを得なかった理由は何んだろうか。
芭蕉の気力減退がまず考えられる。元禄二年に「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、元禄三・四年は主に伊賀上野と膳所・大津を往復していた。ただ門人同士のいざこざや風邪や痔で体調がすぐれないなど、気力充実という状態ではなかった。加えて江戸の環境が悪く、追善句をあつめる自信がなかったこともあるかもしれない。其角・嵐雪など江戸に古くからの門弟はたくさんいたが、それぞれに力を持って、芭蕉といえど気軽に物事を頼める状況になかったことが考えられる。元禄四年江戸についてすぐの曲水宛の手紙で「何とぞ今来年江戸にあそび候はゞ、又又貴境と心指候間、偏に膳所之旧里のごとくに存なし候。(どうぞ今年と来年江戸で過ごしたあとは、またそちらへと思っています。膳所は自分の故郷のように思っています)」と江戸には長居したくないと言い、智月宛と同日付けの去来宛の手紙では「一、この方俳諧の体、(中略)点取はやり候。もつとも点者どものためには、よろこびにて御座有るべく候へども、さてさて浅ましく成り下がり候。(江戸の俳諧は〈中略〉点取俳諧がはやっています。もっとも点者達にとっては喜んでいることでしょうが、さてさて浅ましく落ちぶれたことです)」と江戸の点取俳諧の蔓延に苦言を呈している。
江戸では芭蕉の目指す俳諧とは違う方向に進んでいたようである。
どちらにしても智月の依頼を安請け合い出来る環境になかったことは確かである。
この二つの興味深い点をもつ手紙を、芭蕉は「其内の無常はそんに可レ被レ成候(その間に万一〈私が〉死んでしまうようなことがあれば損したと思って下さい)」で締めくくる。ここでも「死」を芭蕉が意識していることがわかる。
この手紙の前年である元禄四年に智月が江戸に帰る芭蕉に形見を乞うたところ、「幻住庵記」一巻を与えられたと言う。その時に芭蕉が「六そぢの霜にむかふ人に形見を乞はれていとちからなし。我先にしねとにや(六十歳にもなろうと言う人から形見を乞われては元気がなくなります。私を先に死ねというのですか」(芭蕉翁行状記)と興じたといわれている。
「その間に万一死んでしまうようなことがあれば損したと思って下さい」という最後の言葉には、形見の話と同様芭蕉の茶目っ気が見える。智月に対し追善句の依頼を断った後ろめたい気持ちが、この冗談めかした言葉を吐かせたのではないだろうか。
短いものではあるが、芭蕉の複雑な心境をいろいろ推し量ることの出来る面白い手紙である。
参考資料
『芭蕉書簡大成』 今榮藏著 角川学芸出版 平成十七年十月発行
『芭蕉と近江の人びとー近江蕉門随想』梅原與惣次 昭和六十三年三月発行
『俳句講座3 俳伝人評』「河合乙州・河合智月」尾形仂 明治書院 昭和三十四年四月発行
(俳句雑誌『出航』第44号より転載)
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