Facebook加藤 由佳さん投稿記事 山茶花(さざんか)
おはようございます。
今朝は、霧と暖かな感じで始まりました。
川沿いに源平咲きの山茶花がか細い枝に可愛い花を咲かせています。
源平咲きとは、赤と白の二色咲きのことです。源氏の旗が白、平氏の旗が赤だったからこういうそうです。
山茶花の枝木の下にはらはらと花びらが散り、桃色の花びらの絨緞が広がります。
花はとてもよい香りで、花びらが1枚ずつ散りゆきます。
花名の山茶花(さざんか)は、中国語椿類を指す「山茶(さんさ)」に由来し、山茶花の本来の読みである
「さんさか」がなまったものといわれます。山茶花は、江戸時代に長崎の出島からヨーロッパに伝わり、和名がそのまま学名になったそうです。
花言葉
「困難に打ち克つ」「ひたむきさ」
山茶花という表記で山茶花が日本の文献に最初に現れるのは、室町時代の『尺素往来』(せきそうおうらい)です。江戸中期頃になると栽培が盛んになったかと。
『大和本草』には「茶梅は山茶の類にて葉も花も小なり、白あり、香よし」と記されているそうです。
山茶花は、香りのよい大きな花を10~2月に咲かせ、11~1月に見頃をえます。花が少なくなる時期に開花期を迎えるため、寂しくなった庭に彩りを添えてくれますよ。花が基部に合着していないので、はらはらと散りゆく様は、儚さを感じます。
お出かけの皆さん、お気をつけて
いってらっしゃい
Facebook釜滝薬師金剛寺投稿記事
本年も早くも2月になりました。
今年は暖冬ということもあり、昨年のような大雪に見舞われず、路面の凍結もほとんど見られません。ですが、お参りの際は交通状況に十分ご注意の上お越し下さい。
さて、今月の御朱印は「山茶花(さざんか)」です。
椿とよく似ていますが、同じツバキ科ツツジ属で冬に大きな花を咲かせます。
花言葉は「困難に打ち勝つ」で、厳しい寒さの中でもひたむきに花を咲かせる姿に心打たれます。本堂右横の護摩堂の右上に山茶花の木があります。
お参りの際にご覧になってみて下さい
今月も皆さまの幸運と健康をお祈り致します。
ふと咲けば山茶花の散りはじめかな
平井照敏
まことに句の言う通りであって、山茶花ほどにせわしない花はない。「ふと」咲いたかと思うと、すぐに散りはじめる。散ったかと思う暇もなく、すぐに次々と咲きはじめる。したがって、いつも咲いているが、いつも散っている。桜花のように、散るのを惜しまれる花ではなくて、散るのをむしろアキレられる花だと言ってもよいだろう。古来、この花についてだけは、異常なほどに散る様子を詠んだ句が多いのもうなずける。作者の編纂した『新歳時記』(河出文庫・1989)にも、たとえば寒川鼠骨の「無始無終山茶花たゞに開落す」というせわしなさの極地のような句があげられており、他にも「山茶花の散るにまかせて晴れ渡り」(永井龍男)が載っている。我が家の庭にもコイツが一本あって、この時間にもしきりに咲き、しきりに散っているはずだ。散り敷かれた淡紅色のはなびらのおかげで、庭はにぎやかなこと限りなし。どこにでもあるさりげない存在の植物ながら、この時季の賑やかな山茶花には、毎年大いに楽しませてもらっている。「俳句文芸」(1998年11月号)所載。(清水哲男)
さざんくわはいかだをくめぬゆゑさびし
中原道夫
山茶花(さざんくわ)は冬の庭をふわっと明るくする。山で出会っても、里で出会っても、その可憐な美しさは際立っている。しかし掲句は「筏を組めぬ」という理由で寂しいという。確かに山茶花の幹や枝は、椿よりずっとほっそりしていて、おおよそ筏には向かないものだ。とはいえ、掲句の楽しみ方は内容そのものより、その伝わり方だろう。集中は他にも〈いくたびもあぎとあげさげらむねのむ〉〈とみこうみあふみのくにのみゆきばれ〉などがあり、そこにはひらがなを目で追っていくうちに、ばらばらの文字がみるみる風景に形づくられていく面白さが生まれる。生活のなかで、漢字の形態からくる背景は無意識のうちに刷り込まれている。目の前にあるガラス製の容器を「ビン」「瓶」「壜」と、それぞれが持つ異なるイメージのなかから、ぴったりくるものを選んで表記している。ひと目で誤解なく伝達されるように使用する漢字はまた、想像の振幅を狭めていることにも気づかされる。一方〈戀の字もまた古りにけり竃猫〉では、逆に漢字の形態を大いに利用してやろうという姿勢、また〈決めかねつ鼬の仕業はたまたは〉では、漢字とひらがなのほどよい調合が感じられ、飽きずに楽しめるテーマパークのような一冊だった。『巴芹』(2007)所収。(土肥あき子)
★「いかだ」は、花筏(桜の花びらが水面に散り、吹き寄せられて流れていく様子)の略だろう、とのご指摘をたくさんいただきました。「筏」と聞いて、ひたすら山茶花の細く混み合った枝ばかり思い描いてしまったわたくしでした。失礼しました。
いつ見ても駆けてるこども冬休み
前田倫子
いよいよ12月も半ば。大人の年末への気の焦りや荷の重さなどとは一切関係なしに、クリスマスやお年玉などお楽しみ満載の冬休みを前に胸をおどらせている子どもたちを心からうらやましく思うこの頃である。ひたすら走ったり、ジャンプしたり、ぐるぐる回ったりして費やされる子どもの無尽蔵のパワーは一体どこから湧いてくるのだろう。2008年の流行語に「アラフォー(アラウンドフォーティー=40歳前後)」があった。従来女性の年齢に対しての微妙な言い回しは、24歳までの商品価値を「クリスマスケーキ」、31歳の未婚を「大晦日」など、すべて上限を使用することで、孤立した崖っぷち感を強調していたが、今回のアラウンドには上下もろともに含んでいるという曖昧さにより、俄然現代風の語感を与えた。30代後半から40代前半まで約10年という大きな幅は、過ぎていく日々が年々加速されていくのを直視することなく、当分同じ時間が繰り返されるように思わせる心地よさも備えている。子どものいつまでも駆けることのできるエネルギーを、擬似的に体験させているような言葉である。〈教室に三十匹の雪兎〉〈山茶花や無口の人とゐて無口〉『翡翠』(2008)所収。(土肥あき子)
さざんくわや明日には明日を悦べる
小池康生
山茶花のひたすらな咲きぶりはよく句になっているし、この花を見れば丸く散り敷いている地面に目が行く。とにかく咲き続け散り続ける花、椿に似ているが散り方が違う、そしてどこか椿より物寂しい花。ただ、山茶花とはこういうものだ、という概念を頭に置きながらいくらじっと見続けても、なかなか「観る」には至らないだろう。この句の作者は山茶花の前に立ち、その姿を見ながらこの花の存在を無心で感じとって、何が心に生まれるか、じっと待っていた気がする。咲く、そして散る。それは昨日も今日も明日も、冷たくなってゆく風の中で淡々と続き、今日には今日の、明日には明日の、山茶花の姿がある。悦べる、ににじむ幸せは、生きていることを慈しむ気持ちでもあり、やわらかい心に生まれた一句と思う。『旧の渚』(2012)所収。(今井肖子)
蹲踞をよぎる日月火焚鳥
原 朝子
蹲踞(つくばい)は茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。この手水を使う日月もいつしか永らえて人生の一部となってしまった。この季節に決まって渡ってくるジョウビタキが今日もヒィーッ、カチカチと鳴いている。日月に続くヒタキの表記に火の字の火焚鳥とは何とお洒落なことだろう。日常は今週も日月火と繋がってゆく。<夜長人火を足す如く言葉継ぐ><代代の器用貧乏蔦紅葉><山茶花や日輪忽と雲を割る>。「俳壇」(2015年1月号)所載。(藤嶋 務)
うしろより足音十二月が来る
岩岡中正
一日少ないというだけでなく、十月に比べ十一月は本当にすぐ過ぎ去ってしまう。毎年同じことを言っていると分かっていながら十二月一日には、ああもう十二月、とつぶやくのだ。そんな十一月の、何かに追われるような焦りにも似た心地が、うしろより足音、という率直な言葉と破調のリズムで表現されている。ひたひたとうしろから確実に迫ってくる十二月、冬晴れの空の青さにさえ急かされながら、十一月を上回る慌ただしさの中で過ぎてゆく十二月。そして正面からゆっくりと近づいて来る新しい年を清々しい気持ちで迎えられれば幸いだろう。同じように破調が効いている〈栄華とは山茶花の散り敷くやうに〉から〈行く年の水平らかに鳥のこゑ〉と調べの美しい句まで自在に並ぶ句集『相聞』(2015)所収。(今井肖子)
0コメント