今週の一句~名月(めいげつ)

https://haikuatlas.com/?ikku=1141 【今週の一句~名月(めいげつ) 松尾芭蕉】より

名月や北国日和定めなき     松尾芭蕉

(めいげつや ほくこくびより さだめなき)

ふりかえってみると先週は、

9月17日(月) 村上鬼城忌

9月18日(火) 石井露月忌

9月19日(水) 正岡子規忌

9月20日(木) 中村汀女忌

9月21日(金) 宮沢賢治忌

そして、

9月23日(日)は秋彼岸

9月24日(月)は十五夜

である。

どの季語も重要であるが、とりわけ「十五夜」は感懐深い。

俳句に限らず、日本の古今の詩歌人にとって最も重要な日の一つ、と言っていい。

西行が、

花(桜)に狂った詩人

であれば、芭蕉は、

月(名月)に執した詩人

ではなかったか。

わかる限り、芭蕉の名月を詠った句を挙げてみる。

けふの今宵寝る時もなき月見かな

月はやしこずゑハあめを持ながら

寺に寝て誠がほなる月見かな

賎のこやいね摺かけて月を見る

いものはや月待さとの焼ばたけ

名月や池をめぐりて夜もすがら

名月の夜やおもおもと茶臼山

夏かけて名月あつきすずみかな

明月の出るや五十一ヶ条

名月の見所問ん旅寝せむ

月見せよ玉江の蘆を刈ぬ先

あさむつや月見の旅の明ばなれ

月に名を包みかねてやいもの神

義仲の寝覚の山か月悲し

中山や越路も月ハまた命

国々に八景更に気比の月

月清し遊行のもてる砂の上

月のみか雨に相撲もなかりけり

月いづく鐘は沈る海のそこ

ふるき名の角鹿や恋し秋の月

明月や座にうつくしき皃もなし

名月や門に指くる潮頭

名月に麓の霧や田のくもり

名月の花かと見えて綿畠

今宵誰よしよし野の月も十六里

名月はふたつ過ても瀬田の月

もっとたくさんあるのだが、疲れたのでこのへんにしておく。

名月や池をめぐりて夜もすがら

という句を見た時、私は正直、

おおげさな…。

という気持もあった。

名月を見るために徹夜した!

と言っているのだ。

そんな馬鹿な…と正直思った。

しかし、調べてみると、

けふの今宵寝る時もなき月見かな

という句もある。

これは、

寝ないで名月を眺めるぞ~。

と言っている。

芭蕉の五大紀行文と言われているうちに、

鹿島紀行

更科紀行

は、その地で「名月」を見るための「旅」である。

また、「おくのほそ道」の冒頭、みちのくの旅への思いを綴った箇所に、

松島の月まづこころにかかりて

というのがある。

名月ではないが、芭蕉がみちのくを旅する前、まず心に描いた風景が「松島の月」だったのである。

さて、掲句。

私はこの句が年々好きになっている。

北国(福井県敦賀)の日よりは不安定だな~。

昨夜はあんなに晴れて、きれいな月が見れたのに、今宵の満月は見られそうにない…。

とつぶやいているのだ。

大げさな言い方ではなく、芭蕉は、

名月を見ることに命を懸けていた

のである。

そう思えば芭蕉の無念さがひしひしと伝わってくる。

ただ、芭蕉の凄いところは無念さを詠みながら、それだけで終わらないところだ。

この句にも北国の生々流転の、雄大で、力強い雲の動きが見えてくるようではないか。


https://note.com/honno_hitotoki/n/n9310b97c4d52 【川上とこの川しもや月の友|芭蕉の風景】より

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書『芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

川上とこの川しもや月の友とも 芭蕉

小名木川は運河

 掲出句は芭蕉没後刊行された俳諧撰集『続猿蓑』に収録されている。『続猿蓑』掲載の句は、門弟支考の助力を得ながら、芭蕉自身が生前選句したと考えられている。「月」という季語は「雪月花」の内の一つ。季語の世界を代表する重い季語である「月」を用いた芭蕉の自信作であった。

 前書には、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」とある。元禄六年陰暦八月十五日、名月の夜、芭蕉は、芭蕉庵から小名木おなぎ川がわに船を出す。深川の外れ、五本松というところで、船を止めて、川の上で、月を楽しんだ。

画像

「月の友」とは、月を楽しむ風雅の友の意。句意は「川上と川下に月の友がいる。二人は直接会ってはいないが、一筋の川に沿って、ともに名月を眺め、思い合うことで、会う以上に思いが通じ合っている」。

 梅雨明け近い一日、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄新宿線住吉駅下車。地下鉄出口を出ると、梅雨の晴れ間で暑い。芭蕉の句を訪ねる旅を長く続けているが、このような繁華な場所を歩くのは珍しいことである。人通りも交通量もかなり多い。四ツ目通りを十分程、南下する。大きなスーパーマーケットがあって、ホームセンターがあって、小名木川に出る。

 橋の名は小名木川橋。橋の側面には、「五本松」と打ち出した金属板と、広重筆の浮世絵「名所江戸百景」の「小奈木川五本まつ」の図をレリーフとしたものが、はめ込んである。広重が描いた「五本松」は川面へと張り出す立派な松である。芭蕉はこの松越しに、名月を楽しんだわけだ。

「名所江戸百景 小奈木川五本まつ」広重

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」

(https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/)

 今日は深川在住の友人、S君に案内を頼んだ。彼によれば、小名木川は自然の川ではないそうだ。徳川家康が千葉県行徳産の塩を江戸に運ぶために、隅田川と旧中川とを結んで作った運河だと教えてもらう。運河なので、流れが激しくない。それで、芭蕉は月下の船遊びをゆっくり楽しむことができたのだ。橋の近くに木材を積んだ船が停泊していた。今でもこの川の運輸機能は生きている。現在は水位を調整する閘門こうもんが設けられているため、水が動いているようには見えない。

 芭蕉は旧中川の方向を川上、自分の庵があった隅田川の方向を川下と考えているのだろう。あるいは、川上も川下もない運河において、「川上とこの川下や」と詠むことに、俳意、おもしろみがあったのかもしれない。

友二人を結ぶ光の線

 掲出句の「この川下」の「月の友」とは芭蕉自身のことである。それでは、川上の友とは誰か。評論家山本健吉によれば、門弟の桐奚とうけいか利合りごう、あるいは葛飾に住んでいた友人、山口素堂そどうかもしれないという。月の夜、船で友を訪ねるのは風雅なことだ。が、友だちをいたずらに騒がすことはせず、それぞれ静かに月を見て、酒を酌んで、友を思うというのはもっと風雅なことである。芭蕉はあえて友を訪ねないことを選んだ。友情のきわみが描かれていると言っていい。唐代の詩人、白楽天の詩句、「雪月花の時最も君を憶ふ」をまさに踏まえた一句なのだ。掲出句の景を天から見下ろすと、月の光を反射している一筋の川が見える。その光の線が二人の友人をつないでいることになる。

 五本松は小名木川北岸、かつて丹波綾部(現在の京都府綾部市)藩の九鬼家の下屋敷の庭から生えていたという。明治になって、屋敷跡地にセメント工場ができ、工場の煤煙のために、名木は弱り、ついには枯れてしまった。橋のたもとに、失われた五本松を懐しんで、黒松が植えられている。まだ小さいが、これから名木に育っていくのだろう。木の肌に触れてみると、夏の日に照らされて、熱くなっていた。

 河岸のコンクリートの上に、燃え残りの線香をたくさん見つけた。S君によれば、この川は関東大震災、東京大空襲の惨事の場所でもあったとのことだ。大火に追われてこの川に飛び込み、命を失った多くの方がいたのだ。線香は遺族の方が新暦の盆に手向けたものであった。

 川の岸には蔦が茂っている。葦も青々と育っている。緑が豊かである。河辺を白鷺がゆっくりと歩いている。川を見ているかぎりでは、都会にいることを忘れてしまうほどだ。S君はこの川で釣りをすることもあるという。運がいいと、ハゼやスズキが釣れるとのことだ。

 深川は芭蕉が庵を結んだ地ということで、小学生の俳句大会が開かれているそうだ。S君はPТAの副会長として、小学生を連れて芭蕉生誕地の伊賀上野を訪ねて交流会を行ったこともあるという。芭蕉は現在もひととひととを結びつけている。

黒松の木肌灼けたり小名木川 實

風に消え線香のこる夏の川

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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