雪月花

https://ja.kyoto.travel/glossary/single.php?glossary_id=1185 【松永貞徳と「雪月花の庭」

まつながていとくと「せつげつかのにわ」】より

松永貞徳(ていとく、1571-1654)は俳諧の先駆者として有名ですが、もともとは歌人です。俳句を吟ずることが、歌の修錬になると考え、やがて俳諧の方で名を高めていきます。京で生まれ、連歌を里村紹巴(さとむらじょうは)に学び、歌を細川幽斎(忠興の父)に学んだとされます。「俳諧」はもともと「連歌」の一つのパーツだったのですが、これを独立させたのが松永貞徳でした。連歌一筋の人たちには面白くなかったでしょうが、これが時代の風潮にあったのでしょう。松尾芭蕉も最初は、この松永貞徳が興した「貞門流」の俳諧を学んでいます。しかし、芭蕉は後にライバル勢力となる西山総因が興した「談林風」に入っていき、独自の境地に達して「蕉風」という新しい一派を成し、俳聖と呼ばれるようになります。

さて、松永貞徳に話を戻します。言い伝えによりますと彼が作庭したといわれる「雪月花の庭」が京にありました。貞徳は寺町二条、清水、北野(一説には祇園)、に同時に庭園を造ったとされ、寺町二条の妙満寺を「雪の庭」、清水を「月の庭」・北野を「花の庭」と称し、それぞれが「成就院(じょうじゅいん)」という塔頭にあったことから成就院「雪・月・花の三名庭」、あるいは「雪月花の庭」と並び称されています。

現在、「雪の庭」は妙満寺が岩倉に遷った際、妙満寺塔頭の「成就院」から本坊に移されました。また「花の庭」は、2022年に北野天満宮に再興されています。


https://bonjin-ultra.com/setugetuka.html 【殷協律(いんきょうりつ)に寄す】より

白居易

五歳優游同過日

一朝消散似浮雲

琴詩酒友皆抛我

雪月花時最憶君

幾度聴鶏歌白日

亦曾騎馬詠紅裙

呉娘暮雨蕭蕭曲

自別江南更不聞

五歳(ごさい)の優游(ゆうゆう)同(とも)に日を過ごし

一朝(いっちょう)消散(しょうさん)して浮雲(ふうん)に似(に)たり

琴詩酒(きんししゅ)の友(とも)皆(み)な我(わ)れを抛(なげう)ち

雪月花(せつげつか)の時(とき)最(もっと)も君を憶(おも)う

幾度(いくたび)か鶏(けい)を聴き白日(はくじつ)を歌い

亦(ま)た曾(かつ)て馬に騎(の)りて紅裙(こうくん)を詠(えい)ず

呉娘(ごじょう) 暮雨(ぼう) 蕭蕭(しょうしょう)の曲(きょく)

江南(こうなん)に別れてより更(さら)に聞かず

【訳】

 五年間も一緒にのんびりと穏やかな日を過ごしたのに、ある日、それはまるで浮雲のように消え散ってしまった。共に琴を奏で、詩を吟じ、酒を飲んだ友は、皆私を離れてしまったが、雪や月や花が美しい時は、いちばんに君のことを思う。

 幾度「黄鶏」の歌を聴き、「白日」の曲を歌ったことだろうか。馬に乗って、赤い裾の衣を着た美人を詩に詠じたこともあった。呉二娘の「暮雨蕭蕭」の曲は、君と江南で別れてから、一度も聞いていない。

【解説】

 白居易が56歳のころの作。題名の「殷協律」は、江南地方の杭州・蘇州での部下であり遊び友だちでもあった人のことで、一緒に過ごし楽しかった日々を懐かしんで長安で作った詩です。また、晩年の白居易は、詩中にある「琴・詩・酒」を三友として過ごしたといいます。なお、すでに日本語となって、四季の代表的風物をあらわす「雪月花」の語は、この詩が典拠とされます。余談ですが、かの宝塚歌劇団の花組・月組・雪組の名付けはここから来ているといいます。

 七言律詩。「雲・君・裙・聞」で韻を踏んでいます。〈殷協律〉は、音楽を司る官である協律郎の殷堯藩(いんぎょうはん)。〈五歳の優游〉の五歳は年齢ではなく歳月のことで、五年間楽しく遊んだ意味。〈聴鶏歌白日〉の「鶏(黄鶏)」と「白日」は作者が杭州にいた頃に聴いた歌の名前。〈紅裙〉は紅い裾の衣服。〈呉娘〉は、呉二娘とも呼ばれた江南の歌姫のことで、〈暮雨蕭蕭〉(夕暮に雨が蕭々と降り、夫は帰ってこない)という歌を歌ったといいます。

白居易(はくきょい)

中唐の政治家・詩人(772年~846年)。字により「白楽天」とよばれることが多い。地方官吏の次男として生まれ、口もきけぬ幼時、すでに「之」と「無」との字を弁別し、5歳のころから作詩を学び、16歳で早くも人を驚かす詩才をひらめかしたという。29歳で「進士」という科挙の中でも最も難しい試験に合格。李白・杜甫・韓愈とともに「李杜韓白」と並称された。日本には白居易が生きていた時代から彼の作品が伝わり、貴族の間で人気を博した。


https://kyotofukoh.jp/report801.html 【成就院 〔清水寺〕 (京都市東山区)】より

「池きよみ宿れる月を見るなへに心の底も澄みまさるらむ」月照

(略)

 現代、2022年、春、松永貞徳が作庭したという「令和の雪月花の洛中三名園(三庭苑)」が公開になる。

◆願阿 室町時代中期-後期の時宗の僧・願阿(がんあ、? -1486)。男性。願阿弥。越中国(富山県)の生まれ。時宗の勧進聖になり、流出した五条大橋の架け替え、南禅寺仏殿の再興も行う。1459年、長谷寺の本尊開帳に際して、勅許の綸旨を興福寺へ持参した。1460年-1461年、8万人の餓死者が出た寛正の大飢饉では、8代将軍・足利義政は、願阿に飢民への施食を命じ、100貫文を与えた。願阿自らも勧進し、六角堂の南に小屋を建て、飢民に粟粥を施した。だが、飢民の数が多く、資金難から1カ月程で中止した。願阿は興福寺により清水寺の勧進僧の役を与えられる。応仁・文明の乱(1467-1477)後、諸国を勧進し、1478年、清水寺の鐘を鋳造する。1479年、清水寺本願職に補任された。1481年、奈良・元興寺極楽坊曼荼羅堂の千部経勧進を行い供養する。1482年、清水寺本堂を上棟している。その後、その功により「成就院願阿」と呼ばれた。五条橋中島の堂で亡くなったともいう。

◆東福門院  江戸時代前期の第108代・後水尾皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん、1607-1678) 。女性。和子(かずこ/まさこ)。江戸の生まれ。父・2代将軍・徳川秀忠、母・浅井長政の3女・お江与(崇源院)の5女。祖父・家康は、幕府の朝廷懐柔策として和子の入内を、第107代・後陽成天皇に再三伝えた。1614年、入内は決定される。その後、大坂の陣、家康、後陽成天皇の死などで延期される。1620年、14歳で後水尾天皇の女御になる。同時に、武士・女御様御付役人が禁中に常駐する。1623年、一宮興子(おきこ)を産み、1624年、中宮になる。1629年、後水尾天皇は、興子内親王(第109代・明正天皇)に突然譲位し、それに伴い和子は院号宣下を受けた。後、第110代・後光明天皇(生母は壬生院)、第111代・後西天皇(生母は逢春門院)、第112代・霊元天皇(生母は新広義門院)の養母になる。

 2皇子5皇女を産む。入内により禁裏の財政を支え、宮廷文化形成に貢献した。朝廷は幕府統制下に置かれる。京都で没した。72歳。

 陵墓は月輪陵域(東山区)になる。

◆松永 貞徳 室町時代後期-江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者・松永 貞徳(まつなが-ていとく、1571-1654)。男性。幼名は小熊、名は勝熊、別号は逍遊、長頭丸、明心、延陀丸、延陀王丸、逍遊軒、五条の翁、花咲の翁など多い。京都の生まれ。連歌師・松永永種の子、母は藤原惺窩の姉。幼くして里村紹巴(じょうは)より連歌、九条稙通(たねみち)・細川幽斎より和歌、歌学を学ぶ。20歳頃、豊臣秀吉の佑筆(ゆうひつ、代筆)になる。1597年、朝廷より花咲翁の称を賜る。俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を得た。 1603年、林羅山、遠藤宗務らと古典公開講座に参加し『徒然草』を講じた。慶長・元和年間(1615-1624)、俳諧で知られる。慶長年間(1596-1615)末、三条衣棚の自宅に私塾を開き、庶民の子弟に教えた。私塾からは木下順庵、伊藤仁斎、林春斎、林守勝、貞室、西武(さいむ)らが輩出した。寛永年間(1624-1644)中頃、俳諧史上初の貞門を形成した。晩年、花咲亭(花咲の宿、下京区間之町通松原上ル西側稲荷町)に隠居した。俳書『新増犬筑波集』 、歌集『逍遊愚抄』 、歌学書『九六古新注』 など多数。83歳。

 貞門派の始祖であり、近世初期地下(じげ)歌人歌学者の第一人者になる。俳諧(滑稽、笑い)を重視し、それまで和歌では使われなかった俳言(はいごん、俗語、日常語、漢語)を使うことを主唱した。連歌、狂歌、古典注釈などでも活躍する。藤原惺窩、林羅山、木下長嘯子(ちょうしょうし)らと親交した。門人に、七俳仙の松江重頼、野々口立圃、安原貞室、山本西武(さいむ)、鶏冠井(かえでい)令徳、高瀬梅盛、北村季吟らがいる。

 「雪月花の洛中三名園(三庭苑)」を作庭したともいう。現在、北野天満宮(上京区)の「花の庭」、妙満寺(左京区)の「雪の庭」、清水寺・成就院(東山区)の「月の庭」がある。

◆白居易 中国中唐期の詩人・白居易(はく-きょい、Bai Ju-yi、772-846)。男性。字は楽天、号は香山居士、諡は文公。本籍は太原(たいげん、山西省) 、生地は新鄭(しんてい)(河南省)の生まれ。地方官吏の次男。家は貧しかった。800年、科挙及第した。803年、任官し、翰林(かんりん)学士、左拾遺(さしゅうい)などを歴任する。806年、厔(ちゆうちつ)県(陝西省)の尉になる。811年、母の死により退き下邽(かけい)で喪に服した。幼い娘も失う。814年、太子補導役として長安に復帰した。815年、宰相暗殺事件に関する上奏文により、江州(江西省)の司馬に左遷された。818年、忠州刺史、821年、長安に召還される。822年、権力闘争を避け杭州刺史に出た。825年、蘇州刺史に転じた。829年、洛陽への永住し、842年、刑部尚書を辞した。竜門の八節石灘(せきだん)の難所を開き、「七老会」を経る。75歳。

 香山寺畔に葬られた。没後、尚書右僕射を贈られる。現存詩は3000余首で唐代詩人中最も多い。詩は平易通俗な言葉に風刺を盛り込む。「李杜韓白(李白・杜甫・韓愈)」と称された。玄宗・楊貴妃の愛を歌う『長恨歌』、『琵琶行』。朝鮮、越南、平安時代以来、全集『白氏文集』75巻は日本でも愛読され、文学に影響も与えた。

◆月照 江戸時代後期の僧・月照(げっしょう、1813-1858)。男性。俗名は玉井宗久、忍向。法名は忍鎧、忍向、号は中将房、無隠庵など、俗名は玉井。大坂の生まれ。父・町医・玉井鼎斎の長男。1827年、叔父の清水寺・成就院の蔵海に学ぶ。得度し、1835年、15歳で成就院第24世になり、忍介(忍鎧)と名乗る。清水寺に真言密教子島流を再興した。寺の改革、復興のための資金回収が成功せず、北越へ出奔する。寺の改革が成功せず、1853年、北越へ出奔する。1854年、境外隠居の処分の身になる。和歌で師事した左大臣・近衛忠煕の影響により攘夷に近づく。寺務を弟・信海に譲り、尊攘運動に加わる。1858年、梅田雲浜、頼三樹三郎らと水戸藩に密勅を下すために尽力した。薩摩藩の西郷隆盛、海江田信義らの倒幕の挙兵に加わる。1858-1859年、安政の大獄で幕府に追われ、京都から鹿児島へ逃れた。薩摩藩は、幕府の責任追及を回避するため、2人を東目(日向)へ追放する。後ろ盾だった斉彬も失い、前途悲観した西郷と月照は入水し、月照のみが死亡した。著『落葉塵芬集』など。46歳。

 青蓮院宮、近衛忠煕らと交流した。忠煕には和歌を学ぶ。清水寺は近衛家祈願寺であり、近衛家と島津家とは姻戚関係のため薩摩藩士と交流した。さらに尊攘派の朝彦親王(法名・尊融法親王)との関係が深まった。和歌を嗜んだ。辞世の句「大君の為には 何か惜 しからむ  薩摩の迫門に 身は沈むとも」。

 境内に、句碑、墓がある。命日の11月16日に「落葉忌」法要が営まれている。

◆信海 江戸時代後期の僧・信海(1820-1859)。男性。月照の弟。蔵海に師事する。高野山万勝寺、兄に続き、1853年、第25世・成就院住職・清水寺正官になる。近衛忠煕に歌道入門し勤王僧になる。尊皇攘夷の祈祷をしたとして、1858年-1859年、安政大獄により投獄され、江戸で獄中死した。39歳。

◆尊融 法親王 江戸時代後期-近代の尊融 法親王(そんゆう-ほうしんのう、1824-1891)。男性。幼名は富宮、名は成憲、法諱は尊応。朝彦親王と称した。伏見の宮邦家親王第4皇子、8歳で本能寺に入り、興福寺一乗院門跡、興福寺別当になる。1582年、青蓮院門跡になり、尊融と称した。攘夷派の親王として「今大塔宮」といわれた。1858年-1859年、安政の大獄で相国寺で謹慎になる。天台座主剥奪、青蓮院退隠、還俗し、粟田宮・中川宮などと称した。西郷隆盛、月照と親交があった。公武合体派として、1863年、八・一八政変の中心になり、近代以降は久邇宮と改称し、晩年は伊勢神宮祭主になった。67歳。

◆近衛 忠煕 江戸時代後期-近代の公家・近衛 忠煕(このえ-ただひろ、1808-1898)。男性。号は翠山。 近衛基前の子。妻・興子は薩摩藩主島津斉興の養女。公家(摂家)、孝明天皇の信を得た。1857年、左大臣、1858年、条約勅許問題を巡り関白九条尚忠と対立する。江戸幕藩体制を批判する「戊午(ぼご)の密勅」降下を推進した。安政の大獄(1858-1859)により辞官、落飾、謹慎になり、1862年、赦免され、関白・内覧、国事御用掛も兼任した。1863年、尊攘派に忌避され関白・内覧を辞した。91歳。

◆大西 良慶 近現代の僧・大西 良慶(おおにし-りょうけい、1875-1983)。男性。俗名は大西広次。奈良県生まれ。父・広海の次男。父は旧多武峯(とうのみね)寺智光院住持だった。母は咲枝。郡山中学に学ぶ。1889年、15歳で奈良の法相宗大本山・興福寺に入る。法隆寺勧学院で佐伯定胤(さえき-じょういん)から法相宗「唯識学」を学ぶ。大僧正。1899年/1900年、興福寺231世になり、1904年/1905年、法相宗の管長に就任する。1904年-1905年、日露戦争に従軍僧として参加し、203高地の戦闘を体験した。1914年、清水寺住職(興福寺兼務)になる。1921年、京都初の養老院同和園を設立した。1942年、清水寺住職に専念する。1952年/1954年、京都仏教徒会議を結成し理事長を務める。1957年、日本宗教者平和協議会会長に就任した。1965年、清水寺を本山にした北法相宗を設立し、清水寺初代管長に就く。成就院に住した。1975年、朝日社会福祉賞を受賞した。社会事業、日中友好、平和に関わる。著『観音経講話』など。107歳。

 墓は清水寺(東山区)にある。

◆近藤 正慎  江戸時代後期の尊攘運動家・近藤 正慎(こんどう-しょうしん、1816-1858)。男性。名は義重、通称は仲。丹波に生まれる。成就院で出家した。住持月照と活動をともにする。安政の大獄に連座し投獄され、師を守り獄中で自害した。43歳。

 青龍寺に墓がある。 

◆大槻 重助 江戸時代後期-近代の下僕・大槻 重助(おおつき-じゅうすけ、1838-1893)。丹波国(京都府)何鹿郡綾部村字高津の農家の生まれ。5、6歳で、旅僧より観音像の入った御守をもらう。村に養生に訪れていた成就院門番がこれを聞きつけ、観音像を見せてもらうと平癒したため、成就院に連れ、以後、月照の下僕として仕えた。1858年-1859年、安政の大獄の際、1858年、都落ちした月照、西郷隆盛らを3カ月かけて薩摩へ送る。月照らの入水事件では、平野国家臣と二人を助けたが、月照は亡くなる。重助は、京都へ戻ろうとして幕府追手に捕えられ、六角獄舎に投獄された。月照の安否について拷問を受けたが口を割らなかった。1859年、釈放され、故郷に戻る。妻・いさの姉の縁切れ金をもとに、清水寺境内で妻とともに茶店を開く、だが、「謀反人」として商いは困難を重ねた。後に屋号は「忠僕茶屋」と改められる。1877年、京都府より感謝状を贈られている。55歳。

  清水寺境内に忠僕重助碑、大槻重助の顕彰碑が立つ。没後の1899年に建立された。揮毫は西郷従道による。

◆仏像・木像 ◈ 庭園の西、音羽山の持仏堂には、本尊の「十一面千手観音観世音菩薩」、「不動明王」を安置する。

 ◈ 歴代住職を祀る。

 ◈書院仏間には、近代作の「月照上人坐像」、その弟・「信海上人坐像」が祀られている。

◆建築 ◈現在の建物は、江戸時代前期、1639年の再建による。

 ◈境内南にある「北総門」は、かつて成就院の正門だったという。

 ◈「持仏堂(護摩堂)」は、江戸時代の東福門院(徳川和子、1607-1678)の寄進による。

◆文化財 月照筆「大日如来図」。

◆庭園 書院北の借景式池泉鑑賞式庭園(国の名勝)は、1500㎡の広さがある。「雪月花の洛中三名園」という三つの成就院の一つ、「月の庭」として知られていた。ただ、庭は北向きであるため、月を見ることはできない。池に映る月を愛でていた。ほかに、北野か祇園にあったという成就院(廃寺)の「花の庭」、妙満寺(移転)の成就院「雪の庭」があった。

 作庭は室町時代の相阿弥(?-1525)、さらに江戸時代の作庭家・茶人の小堀遠州(1579-1647)が手を加えたという。(江戸時代、『都林泉名勝図会』)。江戸時代の国学者・歌人・松永貞徳(1571-1654)作ともいう。

 雪月花は、中国中唐期の詩人・白居易(はく-きょい、772-846)の漢詩「奇殷恊律(殷恊律[いんきょうりつ])に寄す)」の「雪月花時最記憶君(雪月花時に最も君を憶[おも]う)」に起因するという。白居易が、江南時代のかつての部下・殷恊律を追憶する。雪が降り、月が照り、花が咲く時、誰よりも君のことを憶うの意味になる。

 庭の北に借景になる清水山(高台寺山、興正寺山)が見える。この山も自然の築山として、間の谷筋、湯屋谷(ゆやだに)との庭境に作られた生垣は、低く直線的に刈り込まれている。また、庭の東の音羽山の急斜面も借景として活かされ、四角や円形の低く抑えられた刈込が見られる。開口部の刈り込みは高く、斜面の下は低く抑えて刈り込まれている。 

 池泉は奥(北西方向)にいくほど三角形状に狭められ、遠近法により池面をより広く見せている。池には、山からの湧き水が引き入れられている。二つの中島があり、板橋、石橋が架けられている。右の中島には右端に「陽」となる烏帽子石(合掌岩、男根とも)、左端に鎌倉時代作の火袋が小さな蜻蛉灯籠が据えられている。その左手の小島には、「陰」となる籬島石(まがきいし、鸚鵡石、言葉石、女陰とも)が島全体に立てられている。石は四角く、須磨の浦産という。二つの石は陰陽石とされる。左端に鶴出島がある。

 中島の蜻蛉灯籠に、夜間に火が灯されると、火袋から漏れた明りは、かげろうの様に池面に映るという。灯籠の北西、湯屋谷を越えて山の中腹に、さらにもう一基の灯籠(高台寺山の灯籠)が据えられている。書院縁の東から見ると、この二つの灯籠が線上に結ばれる。これは、二基の灯籠による遠近法を用いて、庭が借景を取り込むための工夫という。双方を一体的に見せることで、庭に無限の広がりを持たせる趣向という。

 庭石、縁先左に、着物の振袖に似た豊臣秀吉寄進という誰ヶ袖(たがそで)型(振袖型)の手水鉢が置かれている。『古今和歌集』には次の歌がある。「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも(この花は色よりも香りのほうがいっそうすばらしいと思われる。いったいだれが袖を触れ、その移り香を残した庭の梅であろう。)」。また、匂い袋に似ているともいう。石は瀬戸内海犬島産という。地に置かれた長形の石畳は、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったものという。また、湯屋渓は豊臣秀吉の遺構とされる。東端の扇の要の位置には、火袋が丸い小形の手鞠灯籠が据えられている。

 植栽は、樹齢400年の秀吉手植えという侘助椿、五葉松は、亀の島と対比し鶴を意味しているという。桜、サツキ、紅葉でも知られている。

 書院西の西庭は、景色を楽しむ庭という。南に樫の巨木が植えられている。かつては二本あり、その後一本は失われた。ここからは、西の方角に、愛宕山、五山送り火・鳥居形の曼荼羅山、嵐山とともに、京都の市街地を望むことができる。書院南には、基礎、竿、中台、火袋、笠、宝珠などすべてが三角形の珍しい三角灯籠が据えられている。

 庭は、春(5月上旬)と秋(11月中下旬)に一般公開される。2022年に、北野天満宮の梅園内に「花の庭」が再興され、「令和の雪月花の三庭園(妙満寺「雪の庭」、清水寺・成就院「月の庭」・北野天満宮「花の庭」)」として公開れている。

◆詩碑  成就院の南近くに、西郷隆盛、月照、信海の詩碑・歌碑、その東に隣接して近藤正慎の碑が立てられている。

◆茶屋 境内南の参道脇に、月照ゆかりの二つの茶屋「舌切茶屋」、「忠僕茶屋」がある。

 江戸時代後期、1858年、西郷隆盛らの倒幕の挙兵計画後、月照も薩摩へ逃れた。その際に、後のことを仕えていた近藤正慎(1816-1858)に託したという。その後、正慎は安政の大獄により捕えられ、江戸送りになる。1858年、正慎は獄中で月照らの居所を尋問され、拷問を受けた。だが、正慎は口を割らず、獄舎の壁に頭を打ちつけ、舌を噛みきって自害したという。43歳。

 残された妻子のために、境内での茶屋営業が許可され、「舌切茶屋」としていまも店は開いている。

 その西にある「忠僕茶屋」は、月照の下僕・大槻重助(?-1893)にまつわる。重助は、幼少の頃より月照に仕えた。月照が京都を離れた際には、ともに薩摩へ同行した。月照入水後、代わりに捕らえられ京都の獄に半年つながれた。その後釈放され、境内で店を開くことを許された。かつての店は、境内三重の塔近くの藤棚付近にあり、その後、現在地に移転した。重助は妻・いさとともに、生涯に渡り月照らの墓守をしたという。

◆月照・信海遺蹟 成就院の南に「勤皇聖僧 月照、信海両上人遺蹟」、月照歌碑(中央)、西郷隆盛詩碑(右)、信海の歌碑(左)がある。

 月照辞世「大君の為には何か惜しからん 薩摩の迫門(せと)に身は沈むとも」、信海辞世「西の海あずまのそらとかわれども こころはおなじ君が代のため」(右)、西郷隆盛碑「相約して淵に投ず 後先なし あに図らんや 波上再生の縁 頭を回らせば 十有余年は夢 空しく幽明を隔てて墓前に哭す」(左)月照17回忌。

 また、脇に月照を薩摩へ案内した平野国臣の詩碑「西海波間記」が立つ。

◆墓 境内南の「子安の塔」の西の墓地に、清水寺貫主で、中興の祖・大西良慶(1875-1983)と並んで、月照、信海の墓がある。そのすぐ東に、大月重助の墓(忠僕重助碑)と妻・いさの墓もある。

◆年間行事 春の庭園一般公開(5月上旬)、落葉忌(月照、信海両上人の法要が催される)(11月16日)。秋の庭園一般公開(11月中下旬)。

*普段は非公開、建物、建物内、庭園は撮影禁止。

*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『古寺巡礼 京都 26 清水寺』、『京都・山城寺院神社大事典』、『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』、『西本願寺』、『拝観の手引き』、『京都秘蔵の庭』、『京都隠れた史跡100選』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『ガイドブック清水寺』、『京都・世界遺産手帳 清水寺』、『新選組と幕末の京都』、『週刊 仏教新発見 10 清水寺』、『週刊 古寺を巡る 6 清水寺』、『週刊 京都を歩く 2 清水寺周辺』、『週刊 古寺名刹巡礼の旅 東山ふもと道京都』 、ウェブサイト「コトバンク」

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000