価値観

http://www.basho.jp/ronbun/gijiroku_5th/5th_2.html 【「芭蕉のことば-俳人のあるべき姿-」を聞いて 伊 藤 無 迅】より

去る平成22年6月20日に谷地快一教授の掲題講演を、第5回「芭蕉会議の集い」で拝聴しましたので以下にその概要と所感を述べさせて頂きます。

1. 講演の概要

■はじめに

・ 最近ある本で「俳人は俳句だけを詠んでいていいのか、もっと積極的に環境問題に参加し・・・」という提起文に痛く感動したという一文を読み、ちょっと違和感をもった。

・ この違和感はどこから来るものか?を、考えている。・・・・

多分、縁あって芭蕉の本を読んでいるところから来るものではないかと漠然と思っている。そこのところを本日の講演で話したいが、上手く結びつくか多少の不安がある。

・ 「歌人」「俳人」という呼び名について。・・・・

「歌人」はともかく、「俳人」という呼び名には、あまり共感していない。

「風雅三等の文」について。

・ 芭蕉から菅沼曲翠に宛てた手紙の中に、この一文が出ている。

・ 最近まで「風雅(俳諧)三等の文」の一文のみが、クローズアップされ俳諧研究者の間に流布していたが、その出所が分からなかった。昭和に入り角川書店から『校本芭蕉全集』が出ることで、芭蕉から曲翠に宛てた手紙の一文であったことが分かった。

・ 芭蕉の「風雅三等」は、世の中の俳人は以下の三種に分けることが出来る、というもので、概ね以下のように書かれている。

・ ①「点取りに昼夜を尽くし、勝負を争ひ、道を見ずして走り廻る者あり。かれら風雅のうろたへ者に似申し候へども、点者の妻子腹をふくらかし、店主の金箱を賑わし候へば、ひが事せんにはまさりたるべし。」

→宗匠の点取り(金を払って自作に点数をつけてもらう)に夢中な者、彼らは俳諧者のうろたへ者には違いないが、点者(宗匠、その家族)を食べさせている、また店主(座を提供している店の)を儲けさせていると思えば少しは役に立っていると言える。賭博(賭け事俳諧)をやっている者達よりは未だましである。

・ ②「また、その身富貴にして、目に立つ慰みは世上をはばかり、人ごと言はんにはしかじと、日夜二巻・三巻点取り、勝ちたる者も誇らず、負けたるものもしひて怒らず、「いざ、ま一巻」など、また取り掛り、線香五分の間に工夫をめぐらし、こと終わって即点などを興ずる事ども、ひとへに少年の読みがるたに等し。されども、料理をととのへ、酒を飽くまでにして、貧なる者を助け、点者を肥えしむること、これまた道の建立の一筋なるべきか。」

→金持ちが世上をはばかり大袈裟な遊びをしない代わりに知的な遊びとして興に乗るまま俳諧を巻き続けたり、短時間で発句を作りその優劣を競いあうグループがある。彼らは勝ち負けにこだわらず、点者や飲料店など場を提供している貧者を助けており、これも一つの道ではないでしょうか。

・ ③「また、志を勤め情を慰め、あながち他の是非をとらず、これより実の道にも入るべき器なりなど、はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸を洗ひ、杜氏が方寸に入るやから、わづかに都鄙かぞへて十の指伏さず。」

→ 志をきちんともって精進し、自分の心を俳諧によって慰め(文学によって自分の心を穏やかに導き)、他人の批判にいちいち拘らずに、人としてのまことの道(仏道のように)に入る手立てとして俳諧に精進している者、それは定家や西行の生き方を探ったり、時には白楽天の詩をたずね、杜甫の精神の高さに近づくべく努力している人たちである。こういう人たちこそ私の求める俳諧人だが、我が国では十指に満たない。

■曲翠に対して芭蕉は、さらにこのあと、

・ 曲翠は上記③の俳諧人に相当する数少ない一人であり、いよいよ修行に励むようにと述べている。

■冒頭、「俳人は俳句を作っているだけで良いのか・・・」云々の文に違和感を覚えたことを、この手紙(曲翠への手紙・・風雅三等の文)に何とか結びつけられないかと考えている。そして、それをどうやって皆さんにお伝えしようかと考えている。そのことは、今でも分からないのですが、同じ芭蕉の手紙の次のくだりを読むことで皆さんに想像していただけるのではないか・・・と思っている。

■その手紙を読む前に、次のような話で皆さまに分かってもらえるか・・・

・ 「俳人として何かをするというエネルギーは自分の中にはゼロである」と思い続けている。そのような心持は、たぶん芭蕉の文を読み続けてきたことにあるのではないかと思っている。

・ そういうことから、冒頭に話した文にカチンと来たのではないかと思う。

・ 武家は武家の仕事を一生懸命全うすることで、また大学の先生はちゃんと勉強しまじめに授業をしていれば、俳人になれる。じいちゃん・ばあちゃんは孫とちゃんと付き合って毎日を過ごせば俳人になれる。

→ これが芭蕉の言っている俳人であろうと思う。

・ 退職して何もすることがないから俳句でもやって見ようか、という人は死んでも俳人には成れない。芭蕉は、そういうふうに見ていた人で、あったと思う。

・ つまり手が空いたから、その空いた時間で何かをやろうということでは、俳人にはなれない。そう芭蕉は考えていたと思う。

・ 退職しようがしまいが、目の前にあるものをちゃんと見て、一生懸命やっていなければ、良い俳句なんか出来るはずがないだろう。ということを芭蕉さんは言いたいのではないだろうか。研究者仲間には怖くて言えないようなことを、この場を借りてお話しました。

・ 曲翠という人は武士としても志の高い人で、芭蕉は人間的にも好きであったようである。曲翠は膳所藩の重臣であったが奸臣を諫め自分も自害したという人である。

■最後に、自分が好きな芭蕉の手紙(曲翠宛て)の一番好きな一文を読んで終わりにしたい。その前に今まで話してきたことの一応のまとめとして以下のことを申し述べたい。

・ 「俳人として何かやる必要があるか」ということは何もない。人間をやっていればいつでも俳人になれる。」と考えたい。

・ 「俳人として何かをやるという必要はなく、今自分の前にある人生をしっかり務め上げることが、良い俳人になる条件なのだ。」という考え方は、今は通用しないでしょうか?・・・・

・ 手紙の最後の部分を読むに当って、若干の予備知識をお話しすると、

・ 芭蕉は曲翠のような人も好きであったが、反面自分のように「身をやつして」いる人にも、ものすごい共感を示していた。その一人に皆に嫌われていた乞食の路通がいた。芭蕉は路通を表面上は「とんでもない奴だ」と怒っているが、本心は路通を愛していたことが、この手紙から読み取れる。

・ また、膳所藩重臣の曲翠と乞食の路通は(世間ではあまり考えられない奇妙な組み合わせだが)実に仲が良かった。このこともあり芭蕉は手紙の最後に路通のことに触れている。

手紙の最後の文を読みます。

・ 「路通ことは、大阪にて還俗致したるものと推量致し候。その志三年以前見え来たることに候へば、驚くにたらず候。とても西行・能因がまねは成り申すまじく候へば、平成のひとにて御座候。常の人常の事をなすに、何の不審が御座有るべきや。拙者においては、不通仕るまじく候。俗に成りとてなりとも、風雅の助けになり候はんは、昔の乞食よりまさり申すべく候。」

→還俗した路通を悪く言ったけれど、還俗のことは三年前あたりから察していたので驚くには当らない。路通は普通人なので西行・能因のようなことは出来ないのが当たり前、普通の人が普通のことをするのに何が不審であることか、私は路通とは絶交はせずに従来どおり遠くから見ています。俗に還りそれにより風雅の道を究める助けになるのであれば昔の乞食をしているよりはいいと思っています。

・ 私はこの文の中の「常の人常の事をなすに、何の不審が御座有るべきや。」の一文がとっても好きです。

・ この三人の関係には非常に興味があり、もし残されている資料で、それ(三人の関係)が彷彿できないのであれば、優れた小説家の腕で再現されたものを是非読みたいものと、時々思っている。

・ 冒頭に述べた違和感が、芭蕉の手紙で上手く重なったか・・・、多少の不安はあるが時間が参りましたので私の話は終わります。

2. 講演後の質問・感想(聴衆者からの)

■A氏 先生のお話を聞き、見込み違いの感想を一言。

・ 先生のお話は「俳人として何かをするのではなく、人間としてその場その場をしっかり生きれば、良き俳人になれる」ということだったと思います。

・ 自分は、ビジネスの最前線で「切った張った/勝った負けた」を、ずーっとやってきた。あるとき俳句が好きになり、どんどんのめり込んでいった。しかし俳句を続けると「切った張った/勝った負けた」の世界からどんどん離れて行くと思い、これではいけないと思い俳句を辞めたことがある。

・ しかし、結局俳句の魅力に引かれ、今はビジネスから離れてしまった。ビジネスに必要な闘争心と俳句の関係が今日の話と、どう関わるかが分からないが考えて見たい。感想みたいなものですみません。

谷地先生の応答

・ 講演の中でもお話しましたが、何も芭蕉になる必要はないと考えます。芭蕉はレアケースと考えてよい。しかし芭蕉は、ある時に支えられるという価値があると思います。癒しと考えても良い。

・ レアケースだからこそ、ある時は凄く支えられるときがある。

・ 詩の効用とも言えるかも知れない。「あの詩はたしかこの詩集だったよなー」と思い出し探し出して癒しにする。

・ 芭蕉も同様で「芭蕉にあったよなー」と思い出し、引っ張り出して癒しにする。そういうような人で良いと思います。

3. 若干の所感

「風雅三等の文」は知っていた。が、「そんなものか」と読み飛ばしていたに過ぎない。今回のお話で古典と言うか芭蕉研究の奥行きの深さを改めて感じた。宗匠という職業的な俳諧師がいない現代では、流石に一等に相当する人は少ないと思うが、結社の主宰選にあくせくする俳人は掃いて捨てるほどいる。かく言う私もそうであったと思う。結社などで言われている「同人になってからが問題」というその問題とは、二等の内で甘んじるか、三等への脱皮を図れるか否かの問題なのかもしれない。三等の道を悟れず(気付かず)疲れきって俳句を離れてゆく人も多いように思う。

さて私は、A氏の感想が非常に気になっている。A氏は的外れな感想と言っていたが、実は現代の詩歌がもつ本質的な問題を孕んではいないであろうか。A氏は今流行のツイッターした(?)のではなかったのか。つまり、あまり触れたくないものを、ふと呟いて(漏らして)しまった・・・。

私はこの問題に、とても言及できない。しかしA氏と同様に呟くことは出来る。

以下、囂々たる非難を承知の上でA氏の呟きに、管見と独断に満ちた私の呟きを、かぶせてみたい。

・ A氏の呟きは心情として、同様の世界にいた者として大変良く分かる。

・ 特に激烈な競争社会である、製造業・金融業・流通関係の会社では、社内で「俳句をやっています」なんて大っぴらには言えない雰囲気があると思う。私の場合はなぜか隠した。知られると、その時から異次元の人(価値観の違う人)という目で見られることを恐れたのだ。

・ さらに誤解を承知で言えば、全く価値観の違う世界なのである。極端に言えば価値観が180度転倒した、対極の世界かもしれない。

・ だから仕事を持った現役の男性(女性)は、一日一回対極の世界を往復していることになる。よく言われる「家庭に仕事を持ち込まない」という男の信念は、換言すると仕事の世界と対極にある家庭での価値観を乱さないという謂いでもある、と解釈していいのではないか。

・ この往復が上手に出来ないと、鬱病とか家庭破壊(家庭内暴力等による)とかの症状が出てくる。かつての同僚・部下を見るとそう思う。例えが適切でないかも知れないが、我が子が学校でいじめに会わないよう、或いは不審者にかどわかされないように、親から人間不信を教えられる子供の心境に似ている。

・ ビジネス社会が過酷だから、その反動で癒しとして対極世界を求める。例えば俳句のような世界を求める人は潜在的に多いと思う。しかし、その場合二つの世界の価値観を手際よく切り替えないといけない。

・ しかし、一般の人はその様な器用な生き方は出来ないし、時間もない。つまり疲れきっているのだ。

・ 現に定年以降も、自分が長く身を置いたビジネス社会の価値観を引きずり、家庭内や近隣との軋轢を繰り返している男性は世に多い。

・ 死ぬ前に人間らしい生き方をしたいと、定年以後に俳句に入ってくる人(ボケ防止ではなく)がいるのは、しごく当然ではないかと思っている。そしてそういう人を、私は温かく迎えてあげたい。

・ このあたりを、実に上手く表現していたのが、前回講演して戴いた穂村ひろしさんではないかと思っている。

   → 良い短歌を作るには世の中の常識の逆を歌いなさい。・・と

・ この言葉は、換言するとビジネス社会の価値観が、通常の生活(の価値観)を日に日に侵食し続けているという現実を、必死で訴えているのではないか。

・ 穂村さんの話は、私の中で日を追うごとに重みを増してきている。あれから、彼の言葉を、ずーと考えている。彼も会社勤務の経験があり現実社会が、どういう価値観で動いているかを、詩人の目できちんと見ている人なのだ。逆に言えば詩人の限界を良く知っている人ではないかと思う。

・ 現代に、あれだけのアンチテーゼを持ち、かつ堂々と公言し活動している詩人は少ない。

・ 少なくとも俳壇にはいないと思う。

(だから、前回・今回と二人の歌人の話を聞いて正直驚いた。俳壇より、はるかに若手が、活き活きしている。・・・・それまで人に聞いたりして何となく持っていた歌壇退潮観は、私の中で一気に吹き飛んでしまった。)

「俳人のあるべき姿」という副題のお話には、とてもそぐわない所感になってしまった。これもA氏の「的外れな感想」に衝撃を受けたからだ。

本講演を機会に、自分にとって俳句とは日常生活の中で何なのか?をもう一度問い直そうと思っている。

以上


http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2009_10.html 【定家と芭蕉に関するメモワール。】より

江 田 浩 司

 一般的には藤原定家の松尾芭蕉に対する影響はあまり知られてはいない。また研究者の間でも西行が芭蕉に与えた影響ほどには注目されることなく、一部の研究者の間でのみ論じられているに過ぎない。しかし、芭蕉の句が蕉風の確立に到る過程で、定家の和歌からいかなる刺激を受けたのかを検証することはけっして無駄ではないと思われる。それは近世における和歌の享受を俳句の側面から検証することでもあり、和歌の伝統が近世の俳句に与えた影響の本質を探ることにもなる。

 もちろん、それについては芭蕉に特化することは出来ないだろう。また、芭蕉が最も影響を受けた歌人が西行であることも動かし難く、あくまでも芭蕉の定家享受は、芭蕉の俳句への直接的な契機をどこに見るのかにかかっている。

なお、この文章は私が所属する芭蕉会議の俳句の勉強会、「論文を読む会」での発表を基にした定家と芭蕉に関するメモワールである。

松尾芭蕉は弟子に向けて次のような内容を含む書簡を送っている。

 「唯(ただ)李・杜・定家・西行等の御作等、御手本と御意得(こころえ)可被成(ならるべく)候」 (貞享二年半残宛書簡)

 「又志をつとめ情をなぐさめ、あながちに他の是非をとらず、これより実(まこと)之道ニも入(いる)るべき器なりなど、はるかに定家の骨(こつ)をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸(はらわた)をあらひ、杜子が方寸ニ入(いる)るやから、わづかに都鄙かぞへて十ヲの指ふさず」 (元禄五年曲水宛書簡)

これらの書簡から芭蕉が定家を、李白や杜甫、白楽天、西行と並べて、その重要性を弟子に説いていることが理解されるだろう。芭蕉は風雅の誠 (「蕉風俳論において、俳諧詠作の根底にあるべき純粋な詩情」『俳文学大辞典』) を念頭に置いて、弟子に宛てた書簡の中で自己の考えを披瀝している。

なお、曲水に宛てた書簡の「はるかに定家の骨(こつ)をさぐり」は、定家に心酔していた正徹の歌論書 『正徹物語』 の次の言葉を受けて書かれたものであると思われる。

 「叶(かな)はぬまでも定家の風骨(ふうこつ)をうらやみまなぶべしと存じ侍る也。(中略)但(ただ)、其の風躰(ふうてい)をまなぶとて、てには言葉を似せ侍るは、かたはらいたき事なり。いかにも其の風骨心づかひをまなぶべきなり」

 「風骨」とは歌風とその骨法。風体・精神を指す。(新編古典全集 中世歌論集 頭注参照 2000年小学館刊)

俳諧研究者の伊藤博之は芭蕉の定家継承について次のように記している。「(前略)上句と下句とを相互規定的にかかわらせる疏句体の構成に新しい表現可能性を学びとったことが、芭蕉の定家継承の本質であったと考える」。(『総合芭蕉事典』)

ここで言う疏句体の構成とは「初句から結句までの関連において、それぞれどの句も音韻上からも語法上からも切れているが、気分的・情趣的に深くつながっている」歌の構成のことである (『和歌文学辞典』参照)。これは具体的には定家の達磨歌(だるまうた)を指している。そして、伊藤は定家の達磨歌と芭蕉の句の関係について次のように説明する。

 「同時代人から達磨歌と評された定家の歌は、句切れによって意味の流れが中断された歌、もしくは本歌取りの技法によって意味の流れが二重化された歌が多い。通念や常識に受け入れられやすいことばの慣習的文脈を意図的に断ち切ることによって、ことば相互の新しい意味関係を創り出そうと試みた (中略) 芭蕉が句の途中に切字をおくことで、相互規定的な取り合わせによる表現の可能性を追求したのは、定家の疏句体の方法に示唆されたところが多いと思われる」

藤原定家は、生涯歌数3735首の内、本歌取りであることが明らかに推定できる歌が757首、実に全体の約21パーセントにのぼる。本歌の出典は、『古今和歌集』 が408首、『後撰和歌集』 が53首、『拾遺和歌集』が79首、『万葉集』 が74首と、三代集と 『万葉集』 でその殆どを占めている。

また、物語に典拠するものは 『源氏物語』 が34首、『伊勢物語』 が21首と大半を占め、その他には 「後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今」 を合わせて58首が確認されている。

 また、多くの歌を出典としている歌人は、在原業平、小野小町、紀貫之、和泉式部であり、その中でも特徴的なのは、読人不知の歌が最も多いことである。

定家にとっては新しい心を詠うための方法が本歌取りであり、自己の詩性に基づく意識的な方法により、本歌の世界のイメージの拡張がなされている。本歌を出典とした意識的な方法による、イメージの重層性が内在された定家の歌は、現在の視点から見ると短歌による象徴詩が創造されていると考えてもいいだろう。本歌取りを駆使した定家のテクストは、明確な主題を保持しながら、「読み」において多義性を内在し、本歌の理解を入り口にした独自の美の世界に導く緻密な工夫が施されている。

定家は本歌の引用は一句または二句として、本歌の句を二つに分けて上句と下句に分散すると効果があると考えているが、そのような本歌取りの方法の確立により、伝統の尊重を果たしながら新風を深め定着させることを可能にした。つまり、本歌をベースとした異化作用による象徴詩の確立が定家によってなされ、和歌の伝統を尊重しつつ短歌による象徴詩を完成させた定家の歌風の影響のもと、芭蕉は蕉風を確立させる。

 こう言い切ることにはさすがに躊躇いがあるが、芭蕉が蕉風を確立する過程で定家の歌風が思いの外深く影響を与えていた可能性に留意する必要性があるのではないだろうか。またそれは定家の直接的な影響だけではなく、正徹や心敬の歌論を通した形でもたらされたものもあっただろう。

例えば、心敬の連歌論集『ささめごと』には、定家の歌についての興味深い記述がある。心敬は和歌や連歌の道は余情幽玄の詩情風体を主として詠むべきであり、言い残したり、非論理的表現の内に幽玄な感情が生じてくるものであるとする。そして、面影だけを表現して詠む不明体の歌を和歌でも最上最高のものとする。

 『ささめごと』 の中で心敬が例示した定家の不明体の歌は次のようなものである。

 秋の日のうすき衣に風立ちて 行く人待たぬすゑのしら雲

これらの秀逸、まことに法身(ほつしん)の姿、無師自悟の歌なるべく哉。詞には、理説き難く哉。

 (これらの秀逸は、真実法身の姿であって、模倣ではなく、師なくして自覚し感得し得た歌ではなかろうか。言葉では説明できない)

     (本文と訳は『日本古典文学全集 能楽論集、連歌論集』1976年小学館刊による)

 心敬が例示したのは定家の典型的な疏句体の歌である。しかし、このような歌が実際、芭蕉の俳句にどのような影響を与えているのか、その実体を定家の歌と芭蕉の俳句を比較しながら論じることは容易ではない。

 定家によって高度に磨かれた象徴詩としての疏句体の歌が、詩型の異なる俳句にどのような技法として受け継がれ、いかなる俳句として創造されたのか、その点をテクストに即して分析していくことが私の今後の課題の一つである。

 次に例示する定家の歌と芭蕉の句は、歌と句がそれぞれ内在する奥行きの深さ(不明な部分)、あるいは象徴性がどこかで通底してゆくように思えるテクストである。言うまでもないが言葉の類似の次元で考えられたものではない。

 をちこちにながめやかはすうかひ舟やみを光のかがり火のかげ

 冬の日や馬上に氷る影法師

 星崎の闇を見よとや啼(なく)千鳥


https://ogurasansou.jp.net/columns/saijiki/2021/05/16/15729/ 【をぐら歳時記 常識を超えた創造と変革 定家による和歌の進化をひもとく◆その二】より

常識を超えた創造と変革

藤原定家は、従来の和歌の表現を次々と新たなものにしていった和歌世界における改革者でした。ここでは、定家が実際に行った革新的な手法にスポットを当てて和歌の進化について紹介していきます。

古典和歌を専門に研究されている小山順子先生に、定家が和歌世界に起こした四つの「新たなる風」の中から、夏号では「既成概念の枠から外に出ることにより創造した和歌」を題材に語っていただきます。

新しき和歌表現へのチャレンジ

 藤原定家は、和歌の大成者として後世、崇敬を集めた歌人です。定家の歌人としての偉大さは、それまでに培われた和歌の伝統に安住するのではなく、常に新しい表現を模索し、追求し続けたところにあります。

 特に定家が二十代から三十代の頃、元号でいうと文治から建久(一一八五~一一九九年)が、斬新な和歌を詠むことにチャレンジした時期です。定家が仕えた九条良経、そして良経の叔父にあたる慈円が、新たな和歌の表現を切り拓いてゆく仲間でした。この時期の和歌と自身について定家は、後年「文治・建久より以来、新儀非拠の達磨歌と称し、天下貴賤の為に悪まる」と記しています。文治・建久の頃から、「新儀非拠の達磨歌」と呼ばれ、身分の高い低いを問わず、誰からも憎まれたということです。「新儀非拠の達磨歌」とは、前からあるものを無視して道理に合わないことばかり読んでいる禅宗(※1)のような和歌という意味です。定家や良経・慈円の新しい和歌は、当時、新しい仏教として日本に入って来て間もない禅宗に引っかけて、伝統を無視した難解な歌だと非難されたのでした。

扱われなかった風物を題材に和歌を

 では、当時の定家が詠んだ歌から、新しさを見てみましょう。

あぢさえの

 下葉にすだく 蛍をば

よひらの数の

   添ふかとぞ見る

[拾遺愚草(※2)・二二二:夏]

 

【歌意】

紫陽花の下葉に集まっている蛍の光は、宵に咲く四枚の花弁の数を増やしているように見える。

 文治三年(一一八七年)春、定家が二十六歳の時の歌です。

 紫陽花は梅雨時に美しい花を咲かせます。『万葉集』にも紫陽花を詠んだ歌は二首ありますが、王朝和歌ではほとんど詠まれない題材です。たとえ詠まれたとしても、紫陽花の花が四枚の花弁をつけることから「四片-宵ら」の掛詞(※3)で、「宵」を導く序詞(※4)として用いられるのが常で、花の美しさに焦点が当てられることは滅多にありませんでした。

 定家のこの歌にも、「四片-宵ら」の掛詞は使われています。しかしそれよりも、四枚の花弁に蛍がさらに花びらを付け加えているように見える、という「四片」に眼目が置かれているのが特徴です。宵闇に紫陽花の花がぼんやりと浮かぶ中に、蛍の光が点っている、蛍の小さい光に吸い寄せられるように見ると、まるでその光が、紫陽花の装飾花(四片で構成される花の部分)の一つであるかのように錯覚する、という幻想的な光景です。おそらくは、この紫陽花は今でいう大手毬の品種ではなく、日本に自生する山アジサイではないかと想像されます。花が密集する大手毬より、一つひとつの装飾花が目立つからです。

 王朝和歌には珍しい紫陽花を題材としながら、蛍と組み合わせて、夏の宵の情景を幻想的に切り取った見事な一首です。

 次は、建久七年(一一九六年)九月に詠んだ歌です。定家は当時三十五歳でした。

 京都の夏は湿気が高く、体にまとわりつくような暑さです。和歌では夏を詠む時、暑さの中にも感じられる清涼感であるとか、ホトトギス・蛍・撫子などの風物を取り上げますが、暑さを正面から詠んだ歌はほとんどありません。

行きなやむ

 牛の歩みに 立つ塵の

   風さへ暑き

     夏の小車

[拾遺愚草・一六二五:夏]

【歌意】

あまりの暑さになかなか進まない牛の歩みに、砂塵を舞い上げ風が立つ。埃っぽい風までもが暑い、夏の日の牛車であるよ。

 当時は現在のように道が舗装されてはいませんから、牛が歩いて牛車が進むと、砂塵が立ちます。風が吹けば涼しさを感じさせてくれるはずが、砂塵を含んだ埃っぽい風だと、それまでもが暑く感じられる。京都で夏、屋外にいると、風が熱気と湿気を運んでくるようで、逆にいっそう暑く感じられます。その風が埃っぽいとなると、不快感の度数はますます上がります。「行きなや(悩)む」という、遅々としてなかなか進まない牛の様子も、暑さと埃っぽさの不快感をさらに上げています。牛の鳴き声や、牛車が立てる車輪の音も想像できるような歌です。

 和歌とは「美しく雅やかなものを詠むべき」、という前提からは外れてしまう歌ですが、京都の夏を切り取ったようなこの歌は、現代の目から見てもとても面白いと思います。

《用語解説》

※1禅宗(ぜんしゅう)

禅を根本とする曹洞(そうとう)宗や臨済(りんざい)宗、黄檗(おうばく)宗などの宗派をまとめた「総称」。

※2拾遺愚草(しゅういぐそう)

藤原定家自身が五十五歳の時に選んだ個人歌集(国宝)。

※3掛詞(かけことば)

同じ音を利用して、二つ以上の意味を持たせた言葉。

※4序詞(じょことば)

特定の語を引き出すために置く言葉ですが、字数制限がなく創作が可能。


https://jiyugakugeisha.tabinova.org/ancestorology/32/ 【松尾芭蕉の旅に成長のヒントを学ぶ】より

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり

– おくのほそ道|松尾芭蕉 –

これは「おくのほそ道」の序文です。時は永遠の旅人であり、月も日も過ぎゆく年もまた旅人である。人生を俳句と旅に捧げた松尾芭蕉ならではの素敵な表現ではないでしょうか。

表現を追い求めた旅

江戸時代中期以降は街道や宿場の整備が進み、「東海道中膝栗毛」に代表される徒歩で東海道を中心に全国を旅する物語が人気を博し、当時の旅の様子が伝わっていますが、芭蕉が活動していた江戸時代初期は、全国を旅してまわることはまだまだ盛んではなかったと言われています。そのような中、芭蕉は門下生と共に全国を旅して周り、いくつかの紀行文を執筆しています。

彼は自らが拓いた「俳句」の表現として季語の開発や自然描写の表現手法を追求するために全国各地を旅したと言われています。当時流行していた「俳諧」の始まりの部分である「発句」に着目し、発句を切り出して新たな表現として「俳句(俳諧の発句の略)」を作り出し、その制約、限られた文字数の中で表現する世界。庶民の楽しみとして広がっていた俳諧から「俳句」として芸術性を高め、表現の奥深さを追求した芭蕉。

旅を通してたどり着く境地

松尾芭蕉はおくのほそ道の旅を通して「不易流行」という独自の哲学を切り拓きました。これは、不易(不変)を求めることは流行(常に変わり続ける)を追い求め続ける必要がある。という一見矛盾するような真理を導き出しています。俳句という新しい表現を編み出した芭蕉は、俳句がいつまでも変わらず人々に愛され続けるために、常に新しい表現、季語の開発を続けていたということですね。変わらないために変わり続ける。

成長を促す旅とは

芭蕉のように境地に至る旅をする人は最近では少なくなったように感じますが、昔から「可愛い子には旅をさせよ」という言葉があるように、旅は成長を促してくれるものとして認識されてきました。

旅には固定観念や先入観を否定してくれる出来事が待ち構えているのではないでしょうか。思っていた、想像していたよりも高い山。遠い距離。自然の雄大さ。天候や交通機関の乱れ。旅には時に色んな過酷な側面を孕んでいます。芭蕉が旅をしていた江戸時代初期は現代の旅よりももっと過酷であったと思います。

旅は以前は草枕と謂って、誠に「ういものつらいもの」であつた。それにも拘らず旅をする人は満足して居た。一生をそれに使ひ果して、後悔を知らぬ人も多かつた。どこにさういふ大きな魅力が潜むかを考へて見ることは、うちあけたところ一般観光業者の飯の種である。

豆の葉と太陽 -旅人の為に-|柳田国男

これは民俗学者の柳田国男が講演で述べた一節です。確かに、旅には言語化するのが難しい不思議な魅力があり、ツラさや寂しさを越えた先に、なんとも言えない居心地の良さやまた旅に出たくなる魅力が潜んでいるような気がします。

車窓をぼんやり眺めながら。乗り継ぎの電車を待つホームで。ちょっとした移動の中に、旅を通して体験した様々な出来事をリフレクション(内省化)していく。旅には新しい体験とリフレクションする体験の両方を兼ね備えているからこそ成長を促してくれるのかもしれません。これまでの価値観では推量れない出来事、感動に出会った時、それを受け止め、常に自身をアップデートしていく。旅にはそういったものを獲得する出会いや体験があり、それを受け止める時間がある。これが旅の魅力ではないでしょうか。芭蕉の紀行文を読みながらそんなことを考えさせられました。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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