スメラミコト

https://www.historyjp.com/article/207/ 【国生みの神々から誕生したスメラミコト】

天皇の呼称から垣間見るイスラエルのルーツ

はじめに

神武天皇東征之図

神武天皇東征之図日本書紀や古事記に登場する国生みの神々は、ごく一般的に古代神話の創作として理解され、実在しなかったというのが通説です。しかしながら歴史には始まりがあり、日本の古代史においても元をただせば、誰かが国造りに貢献しています。国家の創建者らは確実に存在しただけでなく、優れた知性と経験を携えていたからこそ、日本という小さな島国において、古くから比類なき日本固有の文化が培われてきたのです。

その日本の地では、国生みと言われる国土開発が始まってから間もなく、国を司る長として、天皇家の歴史が始まりました。初代天皇は、神武天皇として知られています。日本書紀によると正式な名称は、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)です。その御名の最後には「スメラミコト」という言葉が含まれています。日本語では意味のなさないこの名前には、神武天皇のルーツを明かす鍵が秘められています。その謎を解明するために、まず、神武天皇がどのような状況下で初代天皇として即位するに至ったか、その歴史的背景を振り返ります。

東の島々へ船で旅立つイザヤの一行

ラファエロ作「預言者イザヤ」

ラファエロ作「預言者イザヤ」ことの発端は前8世紀、西アジアの一国、イスラエルという国が南北共に崩壊する局面に遭遇したことから始まります。紀元前722年、北イスラエル王国が滅亡し、その直後、南ユダ王国も崩壊の危機に陥った時代、南ユダ王国においてヒゼキヤ王に仕えていた預言者イザヤに神からメッセージが届けられました。それは、国家の滅亡が間近に迫っているだけでなく、日の昇る方角、すなわち東方にある海の島々にて、神を褒めたたえよ、という不思議な言葉でした(イザヤ書24章15節)。この言葉が与えられてから、歴史が急展開します。

その導きを信じたイザヤは、大陸の東方にあるはずの島々を目指すことを決意し、祭司らと共に神宝を携えて新天地に向かうことを決意するのです。そして新しい国造りを島々で行うという責務を担うことになります。イスラエルを脱出し、イザヤと共に船で東方へと向かった一行の中には、祭司や神殿に仕える役を担っていたレビ族だけでなく、王系一族の血統を継ぐ王子や親族も含まれていたことでしょう。ダビデ王朝を絶やさずに継承するということは、神の約束として信じられていたことから、その王系の流れが途絶えないように取り計らうことの重要性をイザヤは理解していました。

エルサレム神殿に収蔵されていた契約の箱

エルサレム神殿に収蔵されていた契約の箱さらにはエルサレム神殿から持ち出した神宝を守護することも重要視され、それら神宝が安置されるための聖なる場所も、見出す必要がありました。ダビデ王朝が正統である証として、神の臨在を象徴する神宝の存在は、王権の確立に不可欠だったからです。しかしながら新天地は未開の地であり、そこに神殿は存在しないことから、新たに聖地を開拓しなければならなかったはずです。それ故、イザヤ一行は新しい王国の拠点と、神宝を安置する聖地を探し求めて、祈りの境地で東の島々へと旅を続けたことでしょう。

先行して船で海を渡り、アジア大陸の東側まで到達したイザヤ一行は、台湾周辺から南西諸島を経由し、黒潮の流れにのって北上したと考えられます。台湾の東側から北東方面に並ぶ琉球の島々は、沖縄に渡る手前、行く手に浮かぶ島の姿がまったく見えなくなるため、航海のリスクが高く感じられたはずです。しかし、アジア周辺の海路については古来より伝承されてきた渡航情報が存在した可能性もあり、一行は一致団結して航海し続けることができたのです。その結果、南ユダ王国を脱出してから30余年をもって、東の島々、日本列島において天皇家の歴史が産声をあげます。

大陸を横断して東方へ向かうイスラエルの民

イスラエルの荒野から死海を望む

イスラエルの荒野から死海を望むイザヤの後を追うように、その後、アジア大陸を東方へと向かった民の中には、最終的に大陸を徒歩で横断し、東方の太平洋沿岸まで到達した人々もいました。中には朝鮮半島方面へと移動し続け、さらにそこから船で対馬、壱岐を経由して列島に渡来してくるグループも存在しました。結果として、イスラエルの民は祖国を離れた後、先行して南西諸島を経由し、船に乗って日本列島に到達したイザヤの一行と、大陸を徒歩で移動した後、朝鮮半島を経由して、そこから船で日本に渡来した人々の二手に分かれて、列島を訪れることになります。

しかしながら実際にアジア大陸を横断する旅の道のりは長く、年月をかけて大陸を徒歩で東方へと移動する旅路は、時に過酷なものでした。よって、その旅の過程においてイスラエルの民の中には、徐々にアジア大陸の原住民と交わりながら遊牧騎馬民族に同化していく者や、南方のインドや東南アジア方面に向かった民もいたことでしょう。また、後のシルクロードとなる東方への陸路をひたすら東に向かい、今日の中国まで辿り着いた後に各地に離散して居住する者や、さらに東方へと旅を続け、中国の東北地方や朝鮮半島の北方において東夷として知られるようになった人々も存在したようです。

古代船の模型

古代船の模型そして最終的に、イスラエルから移住してきた人々の群れの中には、朝鮮半島を経由して海を渡り、東の島々に渡来してきた民も存在しました。それ故、日本列島では古代から大陸由来の文明が栄えることになります。これらイスラエルからの渡来者は、長い年月をかけて陸地を横断してきたことから、先行して船で渡来した祭司や王族を中心とするイザヤ一行や、その子孫ともいつしか列島各地で合流し、国造りに貢献していくことになります。

「国生み神話」の神々はどこから来た?

国造りの貢献者が神々と呼ばれた理由

イザヤに導かれて同行した渡来者のグループは、祭司活動を任されたレビ人や、国家の統治に携わるリーダー、王系一族によって構成されていました。それら初代の渡来者は、日本列島に到来してすぐに、島々の地勢を見極めながら上陸する拠点を見出し、集落を造成するという任務を背負っていました。そして短期間で島々を統治するにふさわしい中心となる場所を特定し、将来的には適所に都を造営することまで視野に入っていたことでしょう。

古代、西アジアから日本を訪れた初代の渡来者は、神の導きのままにアジア大陸の西の端にあるイスラエルから日本列島まで渡航したことからしても、とても信心深い民の集まりであったことがわかります。これらイスラエルからの渡来者は、当初、船に乗ってアジア大陸の南岸を横断してきたこともあり、国家のリーダー的立場に置かれている統治者などの上層階級の人々であったと考えられます。それ故、国生みの物語のなかでは「神々」として登場することになっても不思議ではありません。

特に神の声を聴き分けることのできる預言者イザヤも同行したと推定され、イザヤ自身が神からの言葉を民衆に告げて執行する役目も授かっていた聖職者であったことから、イザヤを含む国家のリーダーらは正に、人々から「神々」と呼ばれるに相応しい存在であったと考えられます。また、日本では国家の統治者が「神」と呼ばれることは、ごく自然の成り行きであり、歴史が証していることでもあります。

これら西アジアからの渡来者が国造りに関わったという歴史的背景を踏まえ、イザヤに主導された日本列島の地勢リサーチと開拓の経緯は、国生みの神話として後世の弟子らによって記録され、まとめられたと考えられます。そして日本書紀や古事記では、天皇をはじめとする皇族や国家のリーダーらは、「神々」と呼ばれただけでなく、それら渡来者の努力の歴史は、国生み神話の物語として古事記や日本書紀には象徴的に描かれることになったと想定されます。

渡来人の影響を多大に受けた古代の日本文化

古代より日本の文化は渡来人の影響を多分に受けていることを、これまで解説してきました。よって、日本の古代史を理解するためには、アジア史全体の流れを諸外国の歴史や言語、文化的背景も含め、さまざまな角度から検証することが重要です。

エルサレム城壁にあるヘロデ門の紋章

菊花紋に似たエルサレム城壁にあるヘロデ門の紋章例えば天皇家の家紋である十六弁八重表菊紋は、バビロンのイシュタル門に複数描かれており、今日でもその遺跡をイラク国内で見ることができます。これだけをとってみても、長い年月を経て多くの渡来者が大陸から日本列島に流入し続ける中で、シュメール文化の発祥の地である西アジアの文化が日本に持ち込まれた可能性を垣間見ることができる一例です。いずれにしても、多種多様のアジア大陸の文化が日本の島々に徐々に紹介され、根付くようになったことに違いはなく、それらの形跡は特に、日本語を用いた名称や言葉の読み方に顕著に見出すことができます。

国生みの神々が「国津神」「天津神」と呼ばれた所以

皇室の紋章と定められた十六弁八重表菊紋

皇室の紋章と定められた十六弁八重表菊紋古代、日本国土の国造りを担った人々は誰か?どのような人々が「国生みの神々」として船を用いて日本列島の各地を航海したか、ということを想定すると、不思議と古代イスラエルの存在が浮かびあがってきます。何故なら、国家の崩壊とともに日本列島まで旅してきたイスラエルの民が、天皇家の歴史や国家の設立に深く関わったと考えられる歴史の接点があるだけでなく、その後の日本における宗教文化や言語などの発展からも、古代イスラエルと日本との関わりを難なく想定することができるからです。

例えば、イスラエルの民が日本に渡来したという前提で、以下のようなシナリオを想定すると、何故、神々と呼ばれた古代のリーダーが、日本書紀や古事記においては国津神系と天津神系と呼ばれる血統を持つ家系に分かれていたかということも理解することができます。

「東の海の島々」を目指したイスラエルの先行部隊一行は、遂にある日、アジア大陸の東の果てに日本列島を発見します。渡航者の中には聖職者や神宝を守るレビ族と共に、南ユダ王国の王系一族も含まれていたことでしょう。古代、イスラエル政治宗教活動は、神の言葉を取り次ぐ預言者や祭司のアドバイスを受けながら、実際の政権は国王が握っていました。祭司はイスラエルのレビ族であることが定められ、国王は神から定められたユダ族の出であることが不可欠でした。あったからです。つまり初代渡来者の群れは、祭司活動を担う宗教的リーダーと、実際に国を治める王系の統治者という、およそ2つのグループに分かれていたのです。それが後述するとおり、後世において国津神と天津神という2系統の神々に分けて考えられるようになった根本的な要因とも考えられるのです。そして天から定められた王系一族の流れが天津神であり、その血統から生まれたのが「すめらみこと」とも呼ばれた神武天皇でした。

「スメラミコト」の語源を探る!

神武天皇の即位により始まる天皇家の歴史

三種の神器

三種の神器「イスラエル北王国がアッシリアにより占領されてからおよそ60年後、南ユダ王国も崩壊の危機に直面していた前660年、日本列島では神武天皇の即位により天皇家の歴史が幕を開けました。天照大神より三種の神器を授けられ、高天原より葦原中国へ降って国を治めるようにとの詔を受けた天孫ニニギのミコトの子孫が神武天皇です。そして天皇は日向の高千穂に天下った後、天下統一を目指し、瀬戸内海を東に向かって大和へ攻め入り、「ハツクニシラス・スメラミコト」として即位したのです。

新天地におけるスメラミコト、天皇による統治とは単なる神話に終わるものではなく、実在した人々の物語を巧みに編纂して、史書としてまとめられたものと考えられます。そして実際にはイスラエルの王系ユダ族の継承者である王子が、南西諸島の琉球、高天原より海を渡り、最初に日向を訪れたという出来事を神話化した可能性が高いと考えられます。

一般的な「スメラミコト」の解釈

神武天皇をはじめとする諸代天皇の尊称は「スメラミコト」と呼ばれました。そこでまず、「スメラミコト」の漢字表記である「天皇」という言葉に注目してみました。

遊牧騎馬民族の時代において、アジア大陸では既に「天王」と名乗る国王が五胡十六国時代を中心として存在し、「天王」の称号が中国の最高主権者である「皇帝」に対抗して使われていたことが知られています。大和の国の主権者が、漢字表記では「天王」、もしくは「天皇」と称されたことは、これらの中国語の表記に由来していると考えられます。また、「天王」という漢字表記が、古事記、日本書紀が編纂された8世紀ごろにおいては「天皇」と書き換えられている理由については、天皇家がアジア大陸からの移民であることを隠蔽し、独自の称号を成り立てるためという説もありますが、定かではありません。また、アジア大陸、および中国の主権者という主旨で、「天王」と「皇帝」を合わせて「天皇」としたとも考えられます。いずれにしても、ここで大切なことは、漢字表記が「スメラミコト」と読まれていることであり、その呼び名の意味を解明することです。

古代日本語である「スメラ」は天皇に敬意を表する接頭語として、「皇」の読みとして知れ渡りました。そして「統べ治める」という言葉から、統治者が「スブル」ことを意味する言葉が「スメラ」であるとも考えられています。また、柿本人麻呂は万葉集で天皇を「スメロギ」と呼び、同様に「スメラキ」という名称も古くからあったことから、統御(スメ)る君(キミ)の意ではないかという説もあります。梵語では蘇迷虜(スメル)が「至高」を意味している故、「神聖な」という意味と解釈され、アラム語においては「サマリア」を意味する「shamrai」がスメルに訛ったとする説もあります。

さらに古代バビロニアのセム語やラテン語では、シュメール(sumer)が「スメラ」と類似した発音であるため、天皇は古代メソポタミアの民族、「シュメール」の意ではないかという説もあります。シュメールはメソポタミアに世界最古の文明を築きながらも、突如として歴史から消え去った民族だけに、憶測は絶えません。このシュメールの文化圏から、信仰の父と崇められているイスラエルの先祖アブラハムの家族が生まれ出でて、そのシュメール文明の末裔としてアブラハムの子孫であるイスラエル、そして日本があることからしても、「スメラミコト」には、世界最古のシュメール文明と神の選民の血が皇族のルーツに息吹いていることの証にしようとする意図が見え隠れしているようにも思えます。

「スメラ」の意味をヘブライ語で解き明かす

イザナギ、イザナミによる国生み

イザナギ、イザナミによる国生み日本では古来より国家の王である統治者は、「天皇」「スメラミコト」と呼ばれてきました。多くの諸説はあるものの、もし、国生みの神々がイスラエルからの渡来者だったとするならば、「スメラミコト」という名称も、ヘブライ語で理解できるはずです。そこであえて「スメラ」をヘブライ語でそのまま読んでみました。すると、ユダヤ人が自国の王を讃え、神への厚い信仰をストレートに表現した結果の言葉として解釈できることがわかります。

ヘブライ語には「置く」、「任命する」、「定める」を意味するשם(sam、サム) という言葉があります。これはשם(shem、シェム) と発音することもでき、その場合は「名前」の意味になります。「神」の名称は複数あり、「エル」、אל(el) という呼び名も存在します。これら2つの言葉を合わせると、שם אל(samel、サメル) となり、「神を置く」、「神を任命する」の意味になります。また、名前の意である「シェム」と解釈した場合は「シェメル」となり、「神の名」を意味します。どちらも多少訛るだけで、「スメラ」とほぼ同等の発音になります。

「スメル」の意味はヘブライ語で「神を任命」、「神を座する」、もしくは「神の名前」のいずれかと考えられます。どれをとってみても、神武天皇の御名にふさわしい意味を有することから、名前全体の主旨を検証しながら「スメラ」の意味を適切に理解する必要があります。

多くの諸説がある「ミコト」の解釈

次に、スメラミコトの「ミコト」を考えてみましょう。ごく一般的に「ミコト」は「尊い人」という意味で使われ、神話でも「ミコト」の表記には「尊」や「命」が当てられています。しかし、その語源に関しては、学者の間でも通説はないまま今日に至っています。

一案としては、言葉には始まりと想像力があり、神の想いが「みことば」「記命」「詔」「尊」、すなわち「ミコト」と相成ったという考え方を踏まえ、その想いを御言葉や祈りとして唱える天皇には「ミコト」という名称が相応しいという考えがあります。そして「イノリ」 (祈り) 、または「ナノリ」 (名乗り) の語尾を付けて「ミコトノリ」とし、「ミコト」に神の言葉に関連する意を持たせるのです。また、セム語系の言語であるシリア語で、皇帝の意味を持つ「malkiot」 (マルキオット) という言葉が訛って、ミコトになったという学説もあります。

もうひとつ興味深い説は「ミコト」が遠い昔より「ミカド」、または「ミガド」と読まれていた事実に注目し、「ガド族の」を意味するヘブライ語で解釈する案です。ヘブライ語では接頭語の「ミ」は「~に属する」という意味を持つことから、天皇は国家を失ったイスラエルの12部族の1つであるガド族に属すると想定するわけです。しかしながら、イスラエルに与えられた神からの約束はダビデ王朝の祝福であり、ダビデ王はユダ族に属します。よって、「ガド族のスメラ」という解釈には慎重にならざるをえません。

更に、「ミコト」の語源を古代バビロニアのセム語で「天降る者」、「開拓者」、「神のような存在」を意味する「migad」(ミガッド)とする考え方もあります。その「ミガド」がさらに転化して、「ミカド」や「ミコト」の発音になった可能性が指摘されています。その発音の訛りには違和感がなく、わかりやすい解釈です。この説では「スメラ」を「シュメール」と解し、「スメラミコト」を、「人類の歴史において最も古く由緒あるシュメール文化に由来する開拓者」という意味で捉えています。しかしながら、なぜ、イスラエルからの渡来者から成る天皇の名称を語るのに、歴史を大きく遡って「シュメール王朝」の名前を出さなければならないのか、疑問が残ります。

天皇は神から王権を委ねられた栄光ある王!

「スメラ」をヘブライ語でそのまま読み、「神を任命」、または「神の名前」と理解できたように、「ミコト」もその発音に類似したヘブライ語で読むことができます。3つの言葉が浮かびあがってきます。まず、ヘブライ語には「ミカド」の発音に似たמגד(meged、メゲッド) という言葉があります。これは、「大切なもの」「良いこと」「祝福」、または「幸運」を意味します。次に、「神聖」、「聖なる」、「神殿」を意味するמקדש(mikdash、ミカダッシュ) という言葉もあります。「ミカダッシュ」も早く発音すれば「ミカド」と聞こえることから有力候補です。さらに古代セム語で「天降る者」、「開拓者」、「神のような存在」を意味するmigad(ミガッド)という言葉もあります。「メゲッド」と同一の子音、mgdを共有する言葉であることから、どちらも相互のニュアンスも含んだ意味で用いられる可能性があります。

これらの解釈を背景に「ミカド」の意味を振り返ると、「良い統治者」、「祝福された開拓者」、または「聖なる天降る者」、すなわち「神のような存在」を意味するような言葉として理解できることがわかります。

この「メゲッド」または「ミガッド」を語源とする「ミコト」の前に、「神を定める」「神を任命する」、または「神の名」を意味する「スメル」を合わせて多少訛った言葉が「スメラミコト」です。その意味は、「聖なる神を置く」、「大切な神を座する」、もしくは「天降る神の名」、「聖なる神の名」、となります。日本書紀や古事記に記載されている天皇の御名全体を振り返るならば、「スメラミコトの一番わかりやすい解釈は、「聖なる神の名」になります。

天皇は神から王権を委ねられた国家の主であり、ダビデ王朝の血統を継ぐ栄光ある家系であるからこそ、「スメラミコト」と呼ばれたのでしょう。それは、神が任命した「大切な統治者」であり、「天降る神の名」が定められたことを意味しています。天皇への篤い思いが、ヘブライ語に語源を持つ「スメラミコト」にしっかりと込められていたのです。


https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12803672995.html 【「すめら」の語源】より

「すめら」は、「すめるは(為見る時間)」。

「す」は動態を表現する「す(為)」です。息をする、音がする、などのそれ。時間進行している今の動態、全動態、人の誕生から死、生命の誕生から死、自然の変化、宇宙の誕生と死、全運動といったあらゆる動態を表現する。「める(見る)」は動詞「み(見)」に完了の助動詞「り(る)」がついたものの連体形。なぜ「み(見)」がE音の「め」になるのかに関しては「り(助動)」の項。受け身・自発・可能・尊敬の助動詞「る(れ)」が尊敬を表現するのと同じ理由で敬(うやま)いを表現している。「すめる(為見る)」は「今しているを見る」のような意味になる。

語尾の「は」は時間を表現する。それに関しては「はは(母)」の項。

つまり、「すめるは→すめら」とは、動き、あらゆる動態、を見る時間、宇宙の全運動、あらゆる生々流転を見る時間、というような意味でありその素朴な敬い表現である。時間が人格を得たようにすべてを見ている。発生起源的には、時間、時の流れ、自然界の変動は意思を感じさせ、その時間、時の流れを象徴的に表現する「葉(は)」、それにより象徴的に表現される自然、すなわち、過去永劫から未来永劫への時の流れ、動態たる自然、が「す(為)」を、人の動態一般を、見ている、ということであろうけれど、これは「かみ(神)」ではない。「かみ(神)」という言葉は別にある。このような概念があるのは世界中でただ日本だけです。他に例はない。

「すめら」は「かみ(神)」ではなく、神話に登場するというわけではない。これは対象ではないのです。これは、対象を、ものやことを、世界を、見たり、聞いたり、記憶したり、思ったり、考えたりするその作用の域なのです。そしてその域の保存保障として、それが置かれた生身の、生きた人が置かれる。存在化される。それが「すめらおき→すめろき(天皇)」です。なぜ置かれたのかと言えば、「すめら」は認識の域であり、日本の神話は、神々の世界は、知的生命体たる人に、神(かみ)の世界へ、「祈(こ)はむ「い」」(→「かみ(神」の語源・2021年6月13日)の世界へ、たどりつく途(みち)を教えるから。「すめらおき→すめろき(天皇)」は「すめら」(域)が置かれ「すめら」(域)に置かれ、その人は「すめら」にあり、その人は単に「すめら」とも言われる。逆に言えば、『皇室典範』その他、議会が議決する法律により皇位継承順が定められ、それにもとづきある人が天皇ということになり高御座(たかみくら)に立ち三種の神器などがそばに置かれたとしても、その人が「すめら」にいない場合、その時空域にいない場合、その人は「すめろき」ではない。その人は天皇ではない。生物学的に遺伝子の継承が認められたとしても、それは「すめろき」であることは保障しない。

「現御神(あきつみかみ)と大八島國(おほやしまくに)しろしめす天皇大命(すめらがおほみこと)らまと詔(の)りたまふ大命(おほみこと:大御言)を…………聞(きこ)しめさへと詔(の)る。高天原(たかまのはら)に事(こと)始(はじめ)て遠(とほ)天皇祖(すめろぎ)の御世中(みよみよなか)今(いま)に至(いた)るまでに天皇御子(すめらがみこ)の………………となも随神(かむながら)思(おもほ)しめさくと詔(の)りたまふ天皇大命(すめらがおほみこと)を諸(もろもろ)聞(きこ)しめさへと詔(の)る。…………天皇朝廷(すめらがみかど)の敷(し)きたまひ行(おこな)ひ賜(たま)へる國法(くにののり)を………明(あか)き浄(きよ)き直(なほ)き誠(まこと)の心(こころ)をもちて…」(『続日本紀』宣命・文武天皇元年八月甲子朔(一日):「天皇大命(すめらがおほみこと)らま」の「らま」は感嘆を表現する挿入句のような語)。


https://note.com/kaiji_tochigi/n/nce361061edfa 【プロフィール①~自分のこと】より

 自分は5年前、病院で鬱病、ADHDと診断された。小学校3年生からチック症も発症している。

 両親は幼少時、父親がいとこの印刷会社に勤務、母親は自宅にて美容院を営業していた。両親からの愛情は非常に薄く、肉体的虐待などはなかったが、いつも孤独感を抱えた子どもだった。当時は祖母が自分の世話をしてくれていた。両親に遊んでもらった記憶はなく、いつも隣の人の良いおじさんに遊んでもらっていた。とにかく子どもへの愛情の薄い両親だった。

 幼少期より母方の祖父が修験者だったこともあってか、その血を受け継いだのか、物心がつく頃には、朝夕、神棚と仏壇に毎日手を合わせていた。誰に言われるでもなく、自発的に手を合わせて祈っていた。

「今日も、幸せな一日になりますように」

「今日も無事に過ごせました、ありがとうございます」

そう毎日祈っていた。

 幼稚園、小学校とわりと楽しい毎日だったと思う。

だが、小学校3年生の時、チック症を発症してから、状況が一変してしまった。今思えば、その時点でADHDの兆候も現れたのかもしれない。

今で言うコミュ障になり、陰キャラになり、友達も作れなくなった。

それからはずっと、強い孤独感を持って生きてきた。そう、現在でも。

自分のチック症は、肩や腕をピクッと動かしたり、顔も目や鼻や口を異様に動かしたり、酷いありさまだった。

今でも心に強く残っているのは、顔を異様な状態で動かしているとき、父親に、「どうしてそんなことをするんだ!」と強く怒鳴られたこと。

その目は、まるで化け物でも見るような目つきだったのを今でも覚えている。

 そして10代半ばになって、修験者の祖父は既に亡くなっていたが、自分は仏教にのめり込んでいった。オカルト雑誌ムーを愛読しはじめたのもその頃だったろうか。

書籍を色々読んだり、また真言密教に関しては各明王の真言や九字切りなどを覚え、修行に励んだ。

何故か?

自分は幼少時から、死の恐怖と永遠の恐怖に取りつかれていた。

その恐怖心から解放されたくて、宗教にすがったのだ。

死の恐怖は誰でも理解できるだろうが、では、永遠の恐怖についてはどうだろうか?

永遠への恐怖。

例えば、死後無意識の状態が永遠に続くとしよう。そうなると、人は死んだらもう何も残らない。意識さえも。永遠に。それが非常に怖かった。

では、死後の世界が存在して、天国で永遠に暮らすのでも良い、輪廻転生を繰り返して、永遠に生き死にを続けるのでもよい。どちらにしても、

永遠に意識を持つ

ということになる。それもまた恐ろしい。

そしてそこから毎回宇宙に考えが至り、宇宙はいつから存在している?宇宙の広さは?ではその先は?・・・

こうなると、頭がおかしくなりそうで、仕方がなかった。

永遠への恐怖。

これは無限恐怖症という病気なのだと、ある時知った。

とにかく、あらゆる恐怖心や孤独を解消したくて、色々な宗教を独学で学んでいたのだ。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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