日本の哲学・2

https://note.com/rokurou0313/n/n501b7eb4780d 【芭蕉と哲学1 】より

浅原録郎

俳諧の歴史は、室町時代末期に詠まれた連歌に端を発する。明智光秀が主、信長を討った動機を表したとされる京都愛宕山の蓮歌の会での発句が気になり登山も兼ねその現地を訪れたこともあったがそんなことが俳句の門外漢であった私も時に応じて一句二句とひねったりする動機となった。

このNoteでは過って正岡子規を論じたことがあるが今回は、松尾芭蕉の作句の哲学的内面を少し書いてみることにした

連歌から五・七・五の発句を独立させたのがいわゆる俳句である。その後、江戸時代に芭蕉によって本格的な詩文芸として俳諧が誕生し、後に正岡子規の手に渡り、一般向けの文芸として大成した歴史がある。

俳句に対して和歌の短縮バージョンとしての思いを多くの人が抱くだろうが、芭蕉が生み出した十七字の俳諧には哲学的エッセンスが詰まっているという論評を多くの識者が語っているのだ。

俳句は、十七音からなる世界を眼前に創りだしてみせるところに短形詩として世界にかんたる魅力があるのだろう。

俳句には独特の「季語」と「切れ」がある。

季語は季節を示す語であるが、この語は自然の世界を取り込む役割をもっている。

「切れ(切れ字)」は俳句が一つの「間」を含むことを示している。

間は詫び寂び、不完全である」という美意識にも通じますが、余白のように、何か足りない部分があってこそ、美しさが際立つという東洋殊に日本人の独特な見方でもあるのです。

ですから、この「間」が、別次元の、あるいは哲学の超越論的な意義をもっていると考えられるのです。

このことから、俳句表現では現実や日常を離れることは出来ないが、一方で、ある種の 精神性・理念性をもっているといえるのです。

これを通して俳句の芸術性あるいは創造性をみることができ る。この不思議さを秘めた宇宙や世界をわずか十七音で現前化させるのが俳句の 真実性なのです。  

超越論はカント哲学では、個々の対象に直接かかわるのではなく、それらをこえた見地から、認識を成立させる主観の側の先天的な諸条件を問題にするあり方をいいます。

認識が成立している条件をさかのぼって探索することがカントのいう「超越論的」の意味といわれている。カントにとって超越論的とは、いま現に働いている自分の意識を超越したところ、つまり一段の高みからその意識を考察する態度のことをいうのだろう。

カントのいうところの『純粋理性批判』はその名のとおり理性批判である。理性はとくに人間に特有な働きとして考えられ、たんに自然界を中心とした経験にもとづく思索ではなく、それを超えて、経験に縛られない ( つまり純粋な ) 理性独自の思索をもたらす。そこに大いなるイデー ( 理念 ) の世界が広がると考えるのだ。

哲学の役割を経験や表象を思想へと変えることだといえば、この意味において俳句は哲学的と言えるのだろう。


https://note.com/rokurou0313/n/na92a67c50d13 【芭蕉と哲学2】より

先回の芭蕉と哲学1において、経験に縛られない ( つまり純粋な ) 理性は、独自の思索をもたらす。そこに大いなるイデー ( 理念 ) の世界が広がると理念に少し触れた。

代表的な理念とは、「魂」「世界」「自由」「神」である。人間は理念なくしてはその存在価値を見出すことは出来ない。

理性的でありかつ、理念をもつがゆえに芸術や宗教の世界とも結びつくのでだ。

ただ理念は、そうした人間に希望をもたらすとともに、同時にそこにはある種の影がある。

それは、矛盾する二つの命題、純粋理性の 二律背反 である。

二律背反とは、同一の事柄について、ふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態をさす。

論理的には、ありえない事が人間の作り出した理念では、このありえないことが生じる。何故そうなのかということを論じたのがカント3番目に書いた自由(必然)、第三の二律背反は自然法則に基づいた必然的な因果関係のほかに、人間の自由に基づいた因果関係も存在する(定立命題)。

自由に基づいた因果関係は存在せず、自然法則に基づいた因果関係だけが存在する(反定立命題)という対立関係です。

寂びとは蕉風俳諧においては〈しをり〉〈ほそみ〉と並称される句の姿の目標である。

中世の〈幽玄〉〈ひえ〉〈侘〉(わび)の美意識を,芭蕉が自らの俳諧にそのまま生かそうとした,芭蕉俳諧の根本精神であり去来は〈さび〉を句の色であると説明する.

石神豊氏は芭蕉の句の哲学的分析において、何事の文章でも表象的に ( 事象として、あるいはイメージ的に ) 表されるが、その奥に広い 意味で思想があるという。

その思想を把握するために哲学的分析、あるいは哲学的 吟味が必要であり、俳句もまたその意味において例外でないという。

そこで俳句の詩文に具 体的に哲学的吟味を加えて、俳 句のもつ論理構造や意味を見出すことができれば、俳句がもっている不 思議な魅力を、広く理解するのに役立つのだ。

石神氏のいうところ、芭蕉を哲学的に理解するうえで役立つと思われるものとしてカント哲 学の見解、なかでも主著の『純粋理性批判』の中で、超越論的弁証論として 論じられている箇所の見解であるという。

そこには、自然にしたがった 因果関係、自由による因果関係という二つの見方が語られていて、命題分析に有益 だと思うと書かれている。

所謂「風雅」とは俳句(俳諧)の別名で私心を捨て大自然と一体となった永遠不変の境 地のことを「誠」という。

また物心一如「物 ぶつ 我 が 一 いち 如 によ 」も同様な意味である。

芭蕉の句として誰もが知る「古池や蛙飛び込む水の音」の句は「個の本質から普遍の本質への微妙な一瞬の転換」を示している という。

つまり、そこに芭蕉という人物のポエジー ( 詩心 ) があるというのだ。要は普遍的なものを個物の中にとらえることなのだ。 

芭蕉が作り上げた俳句が、現実の一瞬を描きながら、永遠の生を捉えているからである。

貞亭3(1686)年3月末の昼下がり、芭蕉とその弟子たちは、隅田川の畔にある庵の中に集まり、句会をしていた。その庵は過って私が住んでいたことがある門前仲町であったのだろう。それ故に私にとっては違った意味での時空を呼び戻す。

その句会の最中に、蛙が水に飛び込む音が聞こえた。

室中には、その光景は見えず、音だけが耳に入った。

芭蕉は「蛙飛び込む 水の音」と詠んだ。

それは現実の風景を描いた句であり、音も現実に聞こえたのだろう。

しばらく、芭蕉は上5を考えていた。芭蕉の心の中に古い池のイメージが浮かび上がってくる。

その池は、現実ではない。心である。

そのことを示すため「や」という切れ字を用い、「古い池や」とした。つまり、「や」は、7/5の部分蛙飛び込む水の音との断絶を示している。

芭蕉は、現実の世界を描きながら心の世界を浮かび上がらせるという、新たな俳句の世界を創造することに成功したのだ。


https://note.com/rokurou0313/n/n60ac796df7d6 【芭蕉と哲学3】より

全てに先立ちあることが存在していたとすれば物の始まる以前はどうであったのか、仮に無であれば何もないのに生まれることは有りません。無から有を生じることはないのです。

この世界は有なのか無なのかどちらとも言えない、カントには「認識(主観)が対象に従うのではなく対象(客観)が認識に従う」-知識の先見性ー「理性は自らの力を過信して誤謬に陥る」といった、従来の哲学の常識を覆す革命的な視点が盛り込まれています。このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾をアンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じてカントは理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせたのです。

それが、カントの理性批判で、二律背反の問題です。

では芭蕉が、当時の知識人が根拠を置く禅の哲学ではこの有無の問題をどのように考えているのだろうか。

この問題は絶対(無)と相対(有)と置き換えられます。禅では有即無として相対の否定であり絶対への転換の問題です。

ですから、この句は時間空間、生と死の断絶と繋がりという問題を提起し、理性が自ら陥ってしまう誤謬に陥ることなく、感性との整合をはかるものなのです。

古池といった過去や死を象徴するものが切れの「や」で断絶するとともに現実の生そのもの、水の音が突然的に、瞬間的に生々しい感覚を伴っって同時に現実に生起することを表わしている。ここに個々の二律背反を免れた同時性ということが表現されているのだろう。

「蛙飛び込む水の音」は生の営みであり、動きである。

蛙を出しておきながら、声を出していない。音は優雅の世界ではない。ここでは優雅でなく、わび、さびの世界である。

古池という死の世界になりかねないものに、蛙を飛びこませることによって生命を吹き込んだのである。それでこそ、わび、さびが生じたというのだろう。

(私の住む静岡県)沼津市原に江戸時代初期の臨済宗中興の祖と言われる白隠がいる。

彼の提唱した「隻手音声」は声なき声を聴く、音なき音を聞くという公案である。これも理性を封じる公案であり古池の句に一脈通じるものでありカントの理性批判につながるものがある。

物事を分けて見るのは、カント以前の西洋論理学である。人は、言葉は、世界を二分する。分析的論理的ともいえる。人は本来、理性の生き物なのだ。

宇宙は有限か無限か「分けて見る」というこの行為はあくまでも人間の営為にすぎず、宇宙自体の与り知らぬことである。

西洋論理学は言葉の結合の仕方を考えるだけで、言葉そのものを考えることがないという。

禅でははそれを考え言葉に潜む理性の誤ビョウに気づいている。

したがって、その言葉づかいは異色のものとなる(非論理的であり感性的ということ)。

それは言葉の否定(俳句では切れ)を含むが、これも論理のうちである。西洋と東洋の両論理の違いを示すために鈴木大拙は後者を「即非の論理」と呼んだ。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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