https://gokoo.main.jp/001/?cat=15 【芝居と詩歌】より
藤英樹
芝居と詩歌vol.10 小野小町
能の曲の中に、六歌仙の一人で、絶世の美女とうたわれた平安前期の歌人・小野小町をシテ(主役)にした大曲があります。「関寺小町」「卒塔婆小町」「鸚鵡小町」の三曲で、どれも絶世の美女であった小町が年老いて落ちぶれた晩年の様が描かれます。「老女物」と呼ばれ、「関寺小町」を筆頭にどれも秘曲とされています。老女で動きが少ないうえに感情表現する演技が難しく「習物」とされ、特別の伝授を受けなければ演じられません。
三曲の中でも、小町の歌人としての面目躍如といえるのが「鸚鵡小町」です。百歳となった小町は逢坂山の麓にある関寺近くに柴の庵を結んでいます。昔は芙蓉の花のように美しかった面影はもはやなく、あかざの草のように憔悴し、目も見えず、生活に困窮して物乞いをしながら生活しています。そこへ陽成天皇の使者の新大納言行家(ワキ)が訪れます。天皇が小町の境遇を憐れんで御製を行家に託し、小町に返歌を求めるためでした。
行家:いかに是なるは小町にあるか
小町:見奉れば雲の上人にてましますが、小町と承候かや何事にて候ぞ
行家:いかに小町、さて今も歌を詠み候べきか
小町:我いにしへ百家仙洞の交はりたりし時こそ、事によそへて歌をも詠みしが、今は花薄穂に出初めて、霜のかかれる有様にて、浮世にながらふ計にて候
行家から「今も詠んでいるか」と問われた小町は、昔は百官の貴族や、天皇をも相手に歌を自在に詠み、歌人として名声をとどろかせたが、いまは薄の穂に霜がかかったような白髪の老婆となり果ててしまったと自嘲気味に語ります。
行家:げにもっとも道理なり、帝より御憐れみ御歌を下されて候、是々見候へ
小町:何と御門より御憐れみの御歌を下されたると候や、あら有難や候、老眼と申し文字も定かに見え分かず候、それにて遊ばされ候へ
行家から天皇御製が下されたことを聞いた小町は素直に喜び、目が見えないので声に出して詠んでほしいと求めます。行家は御製を詠んで聞かせます。
雲の上は有りし昔に替らねど見し玉簾のうちや床しき
帝は御製で、小町が昔は頻繁に出入りした雲上(禁裏)は昔と変わらず、見慣れたその様子を懐かしく知りたいのではないかと尋ね、小町に返歌を求めました。小町は
あら面白の御歌や候
と言い、こう続けます。
歌詠むべし共思はれず、又申さぬ時は恐れなり、所詮此返歌を、唯一字にて申さふ
三十一文字の返歌を詠むまでもありません。たった一字で返歌しようというのです。これには行家も驚きます。
不思議の事を申す物かな、それ歌は三十一文字を連ねてだに、心の足らぬ歌もあるに、一字の返歌と申す事、是も狂気の故やらん
三十一文字の歌でさえ十分意を尽くせないものがあるというのに、小町は老いさらばえて狂ってしまったのではないかと、行家は疑います。しかし小町は
いやぞといふ文字こそ返歌なれ
と答え、行家に再度、帝の御製を吟唱させ、こう続けます。
さればこそうちや床しきを引き除けて、内ぞゆかしきと詠む時は、小町が詠みたる返歌なり
すなわち小町の返歌とは、帝の御製の下の句「うちや床しき」を「うちぞ床しき」と変えただけのものでした。御製を奪うように詠むとは、「そんな例が昔にもあるのか」と驚き問う行家に、小町は得々と語ります。
唐土に一つの鳥あり、其名を鸚鵡といへり、人の言葉を承けて、すなはち己が囀とす、鸚鵡の鳥のごとくに、歌の返歌もかくのごとくなれば、鸚鵡返しとは申すなり
身分は高くなくとも、その歌の徳によって百官仙洞と交わった小町の面目躍如です。「雲上が懐かしいであろう」と詠んだ帝に、小町は「ええ本当に、とても懐かしいです」と返しているのです。「や」を「ぞ」という強い調子の助詞に変えることで、小町の「雲上」への強い思いがにじみ、帝にも満足していただけるはず。行家も合点したのか
いかに小町、業平玉津島にての法楽の舞をまなび候へ
と、同じ六歌仙の一人、在原業平も舞ったという和歌山・和歌の浦の玉津島神社の歌の神(衣通姫)を言祝ぐ法楽の舞を求めます。小町もこれに応えて
和歌の浦に、潮満ちくれば潟ほ浪の、芦辺をさして、田鶴鳴き渡る鳴き渡る…
と舞うのでした。やがて日も暮れ、行家は都に帰っていきます。小町は別れを惜しんで涙を流し、杖にすがってよろよろと関寺近くの柴の庵に戻るのでした。
藤英樹 says: 2014年1月10日 at 5:36 PM
2014年1月10日
芝居と詩歌vol.9 翁
能楽のプログラムを番組といいます。能作品は内容によって、初番目物(脇能)、二番目物(修羅物)、三番目物(鬘物)、四番目物(雑能)、五番目物(切能)と分けられます。修羅物とは「平家物語」などを題材に非業の死を遂げた武将が修羅道に落ちた苦しみを語る能、鬘物とは女性を主人公にした能のことです。
江戸時代の正式な能の会では、これらの順番で一番ずつ上演され、さらにその間に狂言も上演されました。武士階級の式楽といわれるだけあって一日中延々と演目が続きました。忙しい現代ではそんなわけにはとてもいかないので、せいぜい能二番に狂言一番という形が一般的です。
初番目物が脇能といわれるのは、その前に「翁」と呼ばれる特別な祝言曲が上演されることがあるためです。翁は「能にして能にあらず」と言われます。正月や特別な祝賀のときだけ演じられ、ストーリーはありません。老体の神様である翁が、天下泰平、五穀豊穣、国土安穏を祈る舞です。しかも通常の演目とは形式が大きく異なります。演者たちが登場前に待機する「鏡の間」に神棚が設けられ、御神酒や切り火で心身を清めて登場します。
最初に面を収めた面箱が舞台に運び込まれ、続いてシテ方の翁、ツレの千歳、狂言方の三番叟が登場します。囃子方(太鼓・大鼓・小鼓・笛)の演奏の仕方や地謡の座る位置も通常の能とは異なります。
千歳が舞い、この間に翁は面箱から「白式尉(白色の老人の面)」を取り出して着けます。通常の能ではシテ方は鏡の間で面を着けて登場しますから、舞台で面を着けるというのも異例です。
翁と千歳、地謡が舞台で語る詞章は呪術的で意味不明ですが、よく知られています(流儀によって若干異なりますが)。
翁 どうどうたらりたらりら たらりららりららりどう
地謡 ちりやたらりたらりら たらりららりららりどう
翁 所千代までおはしませ
地謡 我等も千秋さむらはう
翁 鶴と亀との齢にて
地謡 幸ひ心にまかせたり
翁 どうどうたらりたらりら
地謡 ちりやたらりたらりら たらりららりららりどう
千歳 鳴るは滝の水 鳴るは滝の水 日は照るとも
地謡 たえずとうたり ありうどうどう
千歳 たえずとうたり たえずとうたり
千歳 所千代までおはしませ 我等も千秋さむらはう 鳴るは滝の水 日は照るとも
地謡 たえずとうたり ありうどうどう
詞章はさらに続きます。意味は不明でも、
どうどうたらりたらりら
の繰り返しは聴いているとなんとも心地よく、不思議と心豊かな気分にさせられます。「千代」も「千秋」も長い年月のこと。そして千年万年生きるといわれる「鶴と亀との齢」を言祝ぎます。
鳴るは滝の水 日は照るとも
は森羅万象の変わらぬ営みを象徴しているように思えます。
翁の後の詞章に
千年の鶴は 万才楽と歌うたり また万代の池の亀は 甲に三極を備へたり 天下泰平 国土安穏の 今日のご祈祷なり ありはらや なじよの 翁ども
とあります。「三極」とは天と地と人、すなわち宇宙の万物を表します。「ご祈祷」ですから、昔からの祈りの言葉なのかもしれません。
その年の豊作を祈る形式の民俗芸能は「瑞穂の国」であるわが国には古くから全国各地にあります。そうした芸能が能の起源となった「猿楽」や「田楽」に取り入れられ、室町期に至って「翁」という舞になったのでしょうか。
さて、翁が舞い終えて退場すると、今度は三番叟が舞い始めます。翁の舞がゆったりとした動きだったのに対して、三番叟の舞は躍動的です。前半は直面(面なし)で「揉ノ段」と呼ばれ、足拍子を踏んで地固めの動きを表現します。後半は面箱から取り出した「黒式尉(黒色の老人の面)」を着けて、鈴を振りながら飄逸に「鈴ノ段」を舞います。こちらは畑の種蒔きを表現します。翁、千歳の呪術的な詞章を伴った舞に比べて、三番叟の舞はより農耕儀礼を思わせ、猿楽、田楽を起源としていることを想像させます。
三番叟は翁よりも動きがあるため、翁以上に各芸能に取り入れられました。歌舞伎や日本舞踊、文楽などでも盛んに演じられています。
藤英樹 says:2013年12月6日 at 12:49 PM
2013年12月6日
芝居と詩歌Vol.8 源融(みなもとのとおる)
「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルといわれているのが、平安時代前期の貴族・源融(八二二~八九五年)です。嵯峨天皇の第十二皇子に生まれ、皇族として史上初めて、臣籍降下し源の姓を名乗りました。京都・六条河原に広大な邸「河原院」を構えたことから「河原左大臣」の異名もあります。
平安の貴族たちは、実祭には訪れたことのないみちのくの歌枕に思いをはせ、和歌にさまざま詠みましたが、融のすごいところは、みちのくの塩竃(現在の宮城県)を実際に河原院の中に造ってしまったことです。現在の兵庫県尼崎市辺りの三つの浦から、一日三千人の人夫に海水を運ばせて、邸内で汐汲みができるようにしたそうです。
世阿弥は、その河原院を舞台に、傑作「融」という能を書きました。
融亡き後、主を失って荒れ果てた河原院を、諸国を巡る旅僧が訪ねます。月に照らされた廃墟を眺め、融の栄華に思いをはせていると、腰蓑に汐汲み桶を手にした老人(尉の面を着けた前シテ)が現れます。
老人が「月もはや、出汐になりて塩竃の、浦さび渡る、気色かな…汐馴れ衣袖寒き、浦曲の秋の夕べかな、浦曲の秋の夕べかな」と語ります。
僧が「不思議や、ここは海辺にてもなきに、汐汲みとは誤りたるか、尉殿」と尋ねると、老人は「河原の院こそ、塩竃の浦候ふよ、融の大臣、陸奥の千賀の塩竃を、都の内に移されたる海辺なれば、名に流れたる河原の院の、河水をも汲め、池水をも汲め、ここ塩竃の浦人なれば、汐汲みとなど思さぬぞや…」と答えます。
やがて僧も興が募り、「げにげに月の出でて候ふぞや、面白やあの籬が島の森の梢に、鳥の宿し囀りて、四門にうつる月影までも、孤舟に帰る身の上かと、思ひ出でられて候」と眼前に海を思い浮かべます。二人は中国唐代の詩人・賈島の有名な詩を唱和します。
鳥は宿す池中の樹
僧は敲く月下の門
推すも
敲くも
古人の心
今目前の秋暮にあり
僧から「なほなほ陸奥の千賀の塩竃を、都の内に移されたる謂はれ御物語候へ」と求められた老人は融の大臣の思いを語ります。しかし融亡き後は「相続してもてあそぶ人もなければ…」とその後の荒れ果てた様子を語り、
君まさで煙絶えにし塩竃のうら淋しくも見え渡るかな
と紀貫之が河原院の廃墟を哀傷した「古今和歌集」の歌を引くのでした。
この後、老人は僧に河原院から眺める名所の山々を教えます。
あれこそ音羽山候ふよ
語りも尽くさじ言の葉の
歌の中山清閑寺
今熊野とはあれぞかし
まだき時雨の秋なれば
紅葉も青き稲荷山
もちろん河原院からこうした山々が実際に見えようはずもありません。すべて老人の心に映る風景です。
やがて老人は消えてしまいます。
そして後場、旅寝している僧の前に、中将の面を着けた後シテ・融の霊が現れます。
融の大臣とは我がことなり、我、塩竃の浦に心を寄せ、あの籬が島の松陰に、明月に舟を浮かめ、月宮殿の白衣の袖も、三五夜中の新月の色…あら面白や、曲水の盃
融の霊は謡いながら早舞を舞います。そして夜明けが近づくと、名残を惜しみつつ、月の都に帰っていくのでした。能楽師にとって体力、気力をふりしぼる大曲です。
河原院は現在の京の町中、東本願寺付近にあったとされ(今ある同寺の庭園・渉成園とは別所ですが)、本塩竃町という地名も残っているそうです。
融は左大臣に累進しながらも、当時権勢を誇っていた藤原氏に抑え込まれ、その不満から嵯峨の別邸(現在の清涼寺)に引きこもりました。政治家としては不遇に終わったようです。現世での不遇、疎外感が、河原院という理想郷を造らせたのでしょうか。
藤英樹 says: 2013年11月8日 at 3:41 PM
2013年11月10日
芝居と詩歌Vol.7 連歌狂言
狂言には「連歌」と名の付く作品がいくつもあります。以前にも書きましたが、能・狂言が盛んだった南北朝から室町にかけての時代は、同時に連歌が庶民の間で広く行われていました。和歌の上の句・五七五と、下の句・七七を別の人が詠む「短連歌」というものが平安の王朝時代に行われ、やがて五七五、七七、五七五、七七…と長くつなげて詠む「長連歌(鎖連歌)」が盛んになったのです。五十韻、百韻の長連歌が生まれました。「講」という連歌会が組織され、室町時代には心敬、宗祇といった連歌師が登場し、付け合いのルール(式目)も作られていきました。
狂言は当時の庶民の日常を笑いを込めて描く話ですので、当然、連歌狂言も連歌に絡ませてさまざまな笑いが展開します。「連歌盗人」という作品があります。
ある男が連歌講の当番に当たりますが、生活が貧しくて準備ができません。仲間の当番の男も貧しいので、二人して金持ちの屋敷に盗みに入ります。忍び込んだ部屋にあった懐紙(連歌を書き込む紙)に
水に見て月の上なる木の葉かな
という句が書かれていました。連歌好きの二人は興が高まり、つい添え発句を詠み、脇を付けてと盛り上がってしまいました。
木ずゑ散り顕れやせん下紅葉
時雨の音を盗む松風
そこに物音を聞きつけた屋敷の亭主が現れます。何を騒いでいたのかと質す亭主に、二人が連歌を詠んでいたと答えると、やはり連歌好きの亭主が
闇のころ月をあはれと忍び出で
と第三句を詠み、これに見事四句目を付けたら見逃してやると言います。二人が
覚むべき夢ぞ許せ鐘の音
と付けると、その手際に亭主は二人が顔見知りと分かり、事情を聞いたうえで二人の行為を許し、太刀を与えるのでした。
この作品から、当時の庶民が貧富の差を問わず連歌に夢中になっていたことが想像できます。また連歌が人間関係を良好にする潤滑油の役割も果たしていたのではないかとも思われます。もう一つ「八句連歌」という作品があります。
借金をなかなか返さない男の家に、貸し主が返済の催促にやって来ます。話をはぐらかす男に、貸し主は男が連歌好きだったことを思い出し、自分も好きなので八句連歌を詠み合います。
男 花盛り御免なれかし松の風
(御免なれかしに、借金を見逃してくれの意)
貸し主 桜になせや雨の浮雲
(松に桜を対比させ、桜になせやで、借金を返せの意)
男 いくたびも霞にわびぬ月の暮
(霞に貸す身を掛けて、詫びるの意)
貸し主 恋せめかくる入相の鐘
(恋せめかくるに、請い責めかくるの意、鐘に金を掛けている)
男 鶏もせめて別れはのべて鳴け
(のべて鳴けに、借金返済を延ばしてくれの意)
貸し主 人目もらすな恋の関守
(人目もらすなに、返済を延ばすわけにはいかないの意、恋の関守は、請いの関守)
男 名の立つに使いなつけそ忍び妻
(使いなつけそに、返済催促の使いをつけないでくれの意)
貸し主 あまり慕へば文をこそやれ
(あまり慕へばは、そんなに頼むのならの意、文をこそやれに、借金の証文を返してやろうの意)
花の句や恋の句を詠み合いながら、同時に、借金をめぐる駆け引きが巧みに詠み込まれています。二人とも相当な連歌の手練れと見えます。最後は男の句にほだされたのか、ついに貸し主は証文を返してやることに。「連歌盗人」同様、この作品にも貧富の差による金銭トラブルが、連歌を通じて円満に解決する妙が描かれています。
藤英樹 says: 2013年10月4日 at 8:22 PM
2013年10月5日
芝居と詩歌 vol.6 在原業平
平安時代の六歌仙の一人、在原業平(八二五~八八〇年)といえば、「古今和歌集」の
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
名にし負はばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと
などの和歌でよく知られていますが、同時に高貴な女性との禁忌の恋愛でも名をはせています。業平がモデルといわれ「昔男…」で始まる「伊勢物語」には、二条后(清和天皇の女御)や伊勢斎宮(内親王)との男女関係が描かれています。さぞかし色男だったのでしょうし、当時の女性にもてる必須条件である和歌の才能もものをいったのだと思います。
そんな業平が年老いて登場する能が「雲林院」です。諸説ありますが世阿弥(一三六三~一四四三年?)の作品といわれており(昭和十六年に奈良で世阿弥自筆本が発見されました)、今年がちょうど世阿弥生誕六百五十年に当たることから、この夏も国立能楽堂で上演され、業平を梅若玄祥が演じました。あらすじは
「伊勢物語」を日ごろ愛読している芦屋(兵庫県)の里の公光(きんみつ)という男が、京・紫野の雲林院の業平と二条后の夢をみたので、雲林院を訪ねます。折しも桜の花が満開で、公光が花を手折ると、老人が現れて手折ったことを咎めます。老人は自分が業平であることをほのめかして消えます。公光が花の下で仮寝すると、夢の中に業平と二条后が現れます。二人は武蔵野に逃げて塚に身を隠しますが、后の兄の藤原基経が鬼神の姿で追ってきて、塚に隠れている二人を見つけ出し、后を連れ帰りました。やがて公光が夢から覚めると、そこは武蔵野ではなく、雲林院の花の下でした。
この能の前場の見どころは、花を手折った公光とそれを咎めた老人(業平)との問答でしょう。それぞれ和歌を入れて、自説を主張し合います。公光が
何とて素性法師は、見てのみや人に語らん桜花手毎に折りて家苞にせん、とは詠みけるぞ
と花を手折って土産に持ち帰ることも風流と言えば、業平は
さやうに詠むもあり、またある歌には、春風は花のあたりを避ぎて吹け心づからやうつろふと見ん、春の夜のひと時をば千金にも替へじとは、花に清香月に影、然れば千顆万顆の玉よりも、宝と思ふこの花を、折らせ申すこと候まじ
と千顆万顆の玉より大切な花を手折ることは許せないと反論します。花に執心する六歌仙の面目躍如といったところでしょうか。ところが、後場になり鬼神姿の基経が登場してからは、今度は「昔男」の業平の姿が色濃く描かれます。
基経が塚に隠れていた業平と后を見つけると、地謡がうたいます。
松明振り立てて、塚の奥に入りて見れば、さればこそ案のごとく、后はここにましましけるぞや、げにまこと名に立ちし、まめ男とはまことなりけり、あさましや世の聞こえ、あら見苦しの后の宮や
「まめ男」とは好色な男のことで、もちろん業平。「あさましや」と軽蔑された業平は「伊勢物語」百二十三段の(古今和歌集では業平の歌とされている)、女に飽きた男が詠んだ歌を入れて、語ります。
年を経て住み来し里を出でて往なばいとど深草野とやなりなん、と亡き世語りも恥づかしや(この女と住んだ里を私が出て行けば、なお草深い野になってしまうだろう、と後の語り草になるのも恥ずかしいことだ)
これに基経が、百二十三段の女の返歌を入れて、続けます。
野とならば鶉となりて鳴き居らん狩だにやは君が来ざらん、と慕ひ給ひしもあさましや (草深い野となっても私は鶉となって鳴き続けましょう、と業平をお慕いになられたのもあさましいことだ)
さらに業平と基経は「伊勢物語」九段の歌(唐衣着つつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)を上の句、下の句に分けて、語り合います。
業平 げに心から、唐衣着つつ馴れにし妻しあれば
基経 はるばる来ぬる、恋路の坂行くは、苦しや宇津の山
業平 現か夢か行き行きて、隅田川原の都鳥
大歌人と好色男、両面をしっかり描き込んだ能といえるでしょう
藤英樹 says:2013年8月19日 at 7:08 PM
2013年8月22日
#古志鎌倉句会(8月17日)
☆特選
きのふけふ花屋の軒も草の市 ゆき
はつ秋や瓜となすびのはなしごゑ 幸三
隣り合ふ方へ挨拶墓洗ふ 智恵子
星飛んで新島守をなぐさめよ 梅子
☆入選
横浜の波止場の影も秋に入る ひろし
言ひ分を聞いてやるから浮いてこい 幸三
甚平着て愈々軽ろき男たり 幸三
蜩や爺は早々晩の酌 せいし
大山の白き早瀬や新豆腐 遊歩
蜩や道よりひくき賽の神 暁美
藤英樹 says:2013年8月16日 at 7:27 PM
2013年8月16日
芝居と詩歌 vol.5
源平の争乱時代を生きた大歌人・西行(一一一八~一一九〇年)といえば
ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃
という歌がよく知られています。平将門の乱を平定した俵藤太(藤原秀郷)の嫡流に生まれ、俗名佐藤義清(のりきよ)として鳥羽上皇に仕えて北面の武士となりますが、二十三歳のときに突然出家してしまいます。そして東は奥州から西は九州まで旅し、数々の歌を詠みました。四十五歳年下の藤原定家らが編纂した「新古今和歌集」には最多の九十四首が採られています。七十二歳で冒頭の歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日(新暦の三月半ば)の花が咲きだす頃に河内国(大阪東部)の葛城山の麓で亡くなりました。
西行の歌集「山家集」(岩波文庫)を読むと、現代の我々にもすっと理解しやすい歌が多く並んでいます。新古今の時代はどちらかといえば技巧的な歌が多いのですが、こと西行に関しては直截に心情を吐露しているように思います。「山家集」の緒言は「非凡なる感受性と非凡なる歌才とを以てし」「直情流露して、人の胸にしみとほるものある」とする一方で、「往々辞句の正確を欠き、構想の不用意に過ぐるものが無いではない」とも指摘しています。
そんな西行の歌をモチーフにした能作品も、うっかり詠んだ不用意な歌が誤解を招いてしまうという大歌人らしからぬ展開になっています。よく上演されるのが世阿弥作の「西行桜」です。
京都西山の庵で独り静かに桜を楽しもうと、西行は他人が来ないように花見禁制の触れを出しますが、盛りの桜の噂を聞いて下京から人びとがやって来てしまいます。迷惑に思った西行は
花見にとむれつつ人のくるのみぞあたら桜のとがにはありける
と、俗人たちがやって来るのは桜の咎だと非難めかして詠みました。すると夜更けて寝ている西行の枕辺に老桜の精が現れて、西行の歌に「桜に浮き世の咎はない」と反論します。同時に大歌人西行に会えたことを喜びもし、舞うのでした。
「西行桜」に似た作品に観世信光作の「遊行柳」がありますが、こちらは栃木県の歌枕・遊行柳の下で西行が詠んだ
道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ
という歌を柳の精が自慢げに物語る話です。大歌人の歌をありがたがる「遊行柳」に比べると「西行桜」のほうが大歌人の不用意な歌に反論するという点で、一段工夫が凝らされていて面白みがあると思います。
西行のうかつな歌をモチーフにしたもう一つの作品が観阿弥作の「江口」でしょう。
諸国を巡る僧が大阪・天王寺近くの江口の里に着き、ここで昔西行が遊女に一夜の宿を求めたものの、遊女に断られ恨み言めかして
世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
と詠んだ歌を口ずさみます。すると遊女の霊が現れて「宿を貸すことを惜しんで断ったのではない。(西行の)出家の身を案じて遠慮したのです」と反論します。「山家集」には遊女の返歌として
家を出づる人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
が並んでいます。観阿弥はこの歌にモチーフを得たのでしょうか、遊女の霊が後シテでは普賢菩薩となり、浮き世への執着を捨てれは心に迷いは生じないという仏教の教えを説く奥深い話に展開させています。出家した西行といえども時には俗世(遊女)に思いを留めることがあり、それを見逃さず、苦界に身を沈める遊女を普賢菩薩の化身であるとする観阿弥の構想力の大きさに驚かされます。
藤英樹 says:2013年6月22日 at 1:58 PM
2013年6月22日
芝居と詩歌 vol3
じめじめと降り続く梅雨時でなかったら明智光秀も主君・織田信長を討とうなどとは考えなかったかもしれません。「本能寺の変」として知られる光秀の謀反は、1582(天正10)年6月2日の明け方に起こりました。6月2日は旧暦で、新暦では6月21日。その日雨が降っていたかは分かりませんが、梅雨時の気候が人間の心理に影響を与えることは十分あり得ます。
時は今雨が下しる五月哉
これは光秀が謀反を決断したときに詠んだ句です。本能寺にほど近い京・愛宕山の宿所で連歌師・紹巴らと巻いた歌仙の発句だったそうです。「時は今」と上五で鋭く切れ、中七下五で梅雨の重苦しさを一気に詠み下しています。句には、裏の意味があります。すなわち「時」は明智家の本家である美濃源氏の姓「土岐」に、「雨」は「天」に、「しる(領る=占領する)」は「知る」に掛けています。
名族土岐一門の明智が織田を滅ぼすのは今このときだ。梅雨に降り込められている天下の人々もやがて知ることになる五月であることよ
この句を物語の展開の軸にしたのが、鶴屋南北作の歌舞伎「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」です。江戸幕府をはばかって、織田信長は小田春永、明智光秀は武智光秀と少し変えてありますが、謀反前夜の重苦しいやりとりが描かれています。時代物を得意とする初代、二代の中村吉右衛門が当たり役にしています。
春永から勅使饗応役を命じられた光秀ですが、饗応の場に武智家の家紋である桔梗の幔幕を使ったため、猜疑心の強い春永の激しい怒りを買います。光秀は春永の寵臣・森蘭丸に鉄扇で額を割られ、馬に水を飲ませる馬盥で酒を飲まされ、揚げ句は光秀の貧しかった浪人時代、妻が生活の糧に売った黒髪を見せられ、侮辱されます。これでもかという春永の激しいいじめに、光秀はマゾヒストのように忍従します。内心の怒りはとうに沸点を超えているはずですが、それをおくびにも出さず宿所に戻る光秀。春永からの領地替え(左遷)を知らせる上使を水裃で迎え、三方に乗せた刀で切腹の覚悟を見せます。ここで光秀が辞世に詠むのが「時は今」の句。ところが上使が油断したところで光秀の形相は一変、上使を斬り捨て、三方を踏み砕いて、兵を挙げます。
粗暴で猜疑心の強い春永、有識故実に通じた教養人の光秀。天下統一をめざす春永にとって自分にない才能を備えた人材として光秀をスカウトしたのでしょうし、ある時期まではプラスとマイナスの磁石のように互いに引き合い、良好な関係を続けていたのかもしれません。しかし天下統一が目前に迫り、さらに羽柴(豊臣)秀吉のような人たらしが春永の覚えめでたく出世するようになると、光秀の心には「敬意を払うに価しない主君…」、それを鋭く感じ取った春永には「鼻持ちならない部下…」という鬱憤が徐々に募っていたのでしょう。一つの出来事をきっかけに、性の不一致による日ごろの鬱憤が爆発し、謀反決断にまで至る様子が、梅雨時の薄暗い舞台に展開します。
句が物語展開の軸になっているもう一つの歌舞伎芝居が「松浦の太鼓」でしょう。やはり初代、二代の中村吉右衛門の当たり役。こちらは時代が下って、赤穂浪士の吉良邸討ち入り前夜、年の瀬の江戸が舞台です。
雪の降り積もる両国橋で俳人の宝井其角が、赤穂浪士の大高源吾と偶然出会います。源吾は其角の俳諧の弟子でしたが、浅野内匠頭の刃傷事件で赤穂藩が取り潰しになってからは音信不通でした。源吾の貧しげな煤竹売りの姿を見て其角は、句仲間の平戸藩主・松浦侯から拝領した羽織を源吾に与え、別れ際
年の瀬や水の流れと人の身は
と詠みました。すると源吾は
明日待たるるその宝船
と下の句を付けたのです。翌日の夜、吉良邸に隣接する松浦侯の屋敷で句会をしていた其角は、松浦侯に源吾の句の話をします。松浦侯は山鹿流の兵法を学んでいたときに赤穂藩家老だった大石内蔵助と同門でした。内心、赤穂浪士が吉良を討つことを期待していますが、いつまでも討ち入りをしない大石に業を煮やし不機嫌でした。しかし源吾の句から「今夜討ち入りがある」ことを悟ります。とそのとき、隣の吉良邸から聞こえてきたのは、聞き覚えのある山鹿流の陣太鼓の音。松浦侯は遂に討ち入りだと雀躍し、助太刀に向かおうとしますが、家来たちに必死に押し止められるのでした。
最初の「時今也桔梗旗揚」に比べると、やや能天気な殿様の話ですが、元禄の頃の俳諧が身分の高い武士階級にも浸透していたことを物語る芝居でしょう。
能と狂言に見る和歌の素養 藤英樹 vol.2
2013年5月24日
現代において短歌や俳句を詠む人は少数派といえるでしょうが、王朝時代の貴族たちにとって和歌は必須の素養でした。上手に詠めるか詠めないかは大げさにいえば人生を左右する大問題だったと思います。
紫式部が描いた「源氏物語」の主人公・光源氏は輝く美貌の持ち主であるだけではなく、和歌の才能もあったればこそあれだけ女性にもてたのです。当時、桃の節句に朝廷で「曲水の宴」という行事が催されました。庭園を流れる水に盃を浮かべ、貴族たちは自分の前を盃が流れ過ぎないうちに和歌を詠み、盃の酒を飲んで次へ流すというものです。和歌が上手に詠めない貴族には苦痛以外のなにものでもなかったでしょう。
時代は少し下り、「平家物語」を素材にした「熊野(ゆや)」という能があります。作者は不詳ですが「熊野松風は米の飯」(能の「熊野」「松風」は米の飯ほど誰にでも好まれる)という諺があるくらい有名な曲です。
平家全盛のころ、平宗盛(清盛の子)の寵愛を受けていた熊野という女性がいました。遠江(いまの静岡県西部)の出身ですが、宗盛に仕え長く京の都に留まっています。やがて故郷の母が病気との知らせを受けた熊野は母のもとに帰らせてほしいと宗盛に願い出ますが、許されません。花が満開のころ、熊野は宗盛に従い清水寺に出かけます。花の下で舞ううち、にわか雨が降り出し花を散らせます。熊野は母のことが思いやられ
いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん
と涙ながらに詠みました。これにはさすがの宗盛も哀れを覚え、ついに熊野が遠江に帰ることを許すのでした。
和歌の素養が身を助けた、王朝の残り香のする話です。ところが時代がさらに下り、室町以降の狂言の世界になると、様相はだいぶ変わってきます。「萩大名」という曲があります。
長く京の都に滞在していた田舎大名が退屈しのぎに物見遊山に出かけようと、太郎冠者に適当な場所がないかと相談します。太郎がある庭園の萩が盛りと伝えると、大名は出かけようと言います。大名は太郎から「風流者の庭園主は訪れた者に必ず和歌を所望する」と聞きますが、無骨で和歌の素養がありません。そこで太郎から
七重八重九重とこそ思ひしに十重咲きいづる萩の花かな
という和歌を教えられ、「七重八重」は扇の骨の数に、「萩」は足の「脛」に見立てて覚えようとします。でも結局うまく覚えられず失言を重ね面目を失ってしまいます。「熊野」とは逆に和歌の素養のなさが身を滅ぼす話。
ここに登場する大名というのは江戸時代の大名ではなく、地方の小さな荘園を領有していた豪族で、訴訟などのために都に上っていました。和歌の素養がないのも無理はありません。能が古典を素材にしたのに対して、狂言は当時の現実を笑いにしたのです。
藤英樹 says:2013年4月18日 at 2:36 PM
2013年4月18日
《芝居と詩歌》001
今月から毎月一回くらい、能や狂言、あるいは歌舞伎といった古典芸能の世界に出てくる和歌や俳諧(俳句)について紹介していきたいと思います。
私は仕事(新聞社)で古典芸能にかかわっており、ふだんから和歌や俳諧と古典芸能との関係性、親和性の深さを感じています。歌舞伎役者には「俳名」というものがあります。俳諧を詠むときの俳号です。たとえば市川團十郎なら「三升」、尾上菊五郎なら「梅幸」、中村歌右衛門なら「芝翫」。これらは今でこそ役者名になっていますが、昔はみんな俳名でした。江戸時代の歌舞伎役者は素養としてごく自然に俳諧を詠んでいたようです。
さらに時代をさかのぼって、能や狂言にも和歌や連歌を題材にした曲が数多くあります。たとえば能「西行桜」は西行の和歌がモチーフになっています。
話は少し飛びますが、俳諧はもともと室町時代に隆盛した「連歌」が源流になっています。室町期の心敬、宗祇、荒木田守武といった連歌師の名前はご存じかと思いますが、ではその連歌はといえば、遠く平安時代に五七五の長句と七七の短句を何人かで唱和する形式として行われた「短連歌」から発展したといいます。つまり王朝の和歌の流れをくんでいるのが連歌です。しかしこうした連歌は庶民にとってはやや高尚な世界でした。もう少し卑近な連歌があればという庶民の欲求から生まれたのが、後の俳諧につながっていく中間過程としての「俳諧の連歌」という滑稽を旨とする連歌でした。
俳諧の連歌は庶民の文芸であったため、正統な連歌と違って記録に残されることもなく余興・座興で読み捨てられていたらしい。そんな俳諧の連歌がいかなるものであったかが分かる手掛かりがあります。狂言です。室町期に能とともに隆盛した狂言ですが、もともとは田楽や猿楽と呼ばれる、ごく卑近な庶民の戯れ事が源流です。狂言として一つの完成を見たのは、ちょうど俳諧の連歌と同時代であり、滑稽を旨とする点で共通していました。
「箕被(みかずき)」という狂言があります。連歌に熱中して家庭をかえりみない夫に愛想を尽かした妻が「離縁してくれ」と迫ります。夫は「分かった」と承知して、妻が使い慣れた箕(農具)を暇の印に持たせ出て行かせようとします。夫は妻の後ろ姿を見て、少し心残りなのか「いまだ見ぬ二十日の宵の三日月(箕被)は」と発句を詠みました。すると妻は「今宵ぞ出づる身(箕)こそ辛けれ」と脇を付けました。夫は妻の手並みに驚き、これから一緒に連歌を楽しもうと仲直りしました。
これなどはまさに俳諧の連歌に親しむ庶民の日常がうかがえる狂言でしょう。
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