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「1つのものを10分は見つめなさい」の巻
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かれこれ20年以上前になるが、出羽三山で山伏修行体験を企画して海外の方と参加した。1週間のミニ体験だったが、想像を絶する過酷さだった。
朝、四時に起きて、白装束のまま雪解け水の川に首までつかる、1日30㎞以上歩く、1日椀1杯のご飯、密閉した部屋で煙で燻される、滝に打たれる…、中でも私が辛かったのは、着替えられないことと、部屋のコンクリートの上でそのまま寝ること、そしておしゃべりしてしてはいけなことだった。
声を出していいのは、山伏さんの指示にOKを言うときだけ。「うけたもう」というのだが、海外の方はこれを「うらしまたろう」と真面目に言うので、その都度吹き出しそうになってしまった。
そんなことで打ち上げの宴席の楽しかったこと! すべてから開放されて、五感が喜ぶのなんのって。こうして、日常の有難さを実感したのだった。
修行中は、感覚が研ぎ澄まされていくのが良く分かった。日に日に、山の緑も風も蛍の輝きも心にジワーっと染みていた。
ある日の修行中、五重塔があった。それは「こんなところに!?」と思うほど立派な建造物だった。山伏さんが、しばらく眺めてくださいと言ったので、銘々いろんな場所に陣取って眺めだした。
私は、上から下まで見つめて、へえ~すごい!と思って、山伏さんを見ると、ジーッとしている。仕方ない、また向きなおり1分ほど見つめたら飽きてきた。まだ、「次に行きますよー!」の法螺貝が吹かれないのかしら? と、また山伏さんに目をやるも態勢に変わりなし。3分、5分…、あーもぉ、見るとこないし、辛い……。それからの時間は長い長い……、そうして10分ほどたった頃、山伏さんから「いかがでしたか?」の声がかかった。私は頭の中で、返事のための感想を慌ててまとめ出した。
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1つのものを10分は見なさい。ジーっと見つめなさい。そうすると感じ方が変わってきます。本質が見えてきます。そこまで見つめるのです。
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これを聴いたとき、私は頬が高潮してしまうほど恥ずかしい気持ちになった。否が応でも、自分の「○○したつもり」の日常が頭の中で展開された。思えばなんによらず「ハイハイ、分かりましたよぉ」のチラ見人生である。これでは、本当の味わいを知らずに通り過ぎているのだ。
出羽三山での修行は、羽黒山、月山、湯殿山の三山を巡る旅である。このプロセスを、死と再生の旅のプロセスに見立てているのだが、過酷ではあったが何か夢の中にいたような感覚であった。
修行に入る前、終わったら何を食べようかと皆で話した。私は「コーヒー」と言った。不思議だが、帰りの電車で誰も食べ物の話は口にしなかった。私も恋焦がれるはずのコーヒーへの想いはまったくなくなっていた。充分な味わいを得ると、きっとこんなふうになるのだろう。そして、不思議に思わなくてはならないもう1つは、この本来の感覚が非日常となってしまっていることかも…を知る素晴らしい体験だった。
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中ちゃんおばさんのセルフコンタクト日記
https://www.thr.mlit.go.jp/sakata/road/60history/020.html 【出羽三山と松尾芭蕉】より
俳聖松尾芭蕉(1644-1694)が門人曽良を伴って奥の細道へ旅立ったのは、元禄二年(1689年)三月。”みちのく”を巡る約六百里(2400km)5ケ月におよぶ行脚は、幾多の困難をともなったが、それぞれの土地の物珍しい風物や人情、風俗に触れ、貴重な文化遺産となった紀行文「奥の細道」を生む実り多い旅となり、県内でも多くの名句を残した。出羽三山には、六月三日(新暦七月十九日)から十日まで滞在。この間、五日の羽黒山をはじめ、八日、月山、同日帰途湯殿山と三霊山をくまなく踏破しこの霊気漂う神域に、深く感動した。道すがら、六十里越街道を行き帰するお行様の列とも一緒の旅となり、三山参りの思い出に花を咲かせたことだろう。この機会に、「奥の細道」を見直すためにも、出羽三山関連の「奥の細道」の一部を掲載した。
芭蕉と曽良が出羽三山の門前町羽黒手向に致着したのは、六月三日(新暦七月十九日)の夕暮れ。祓川を渡るころには、日もすっかり暮れ、南谷の別院に着くころには、木々の間から星がこぼれていた。「六月三日、羽黒山に登る。図司右吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に宿して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊において俳諧興行。」
五日、いよいよ三山参りのスタート。断食してシメを掛け、まず精進潔斎。羽黒権現に詣でる。「五日、権現に詣づ。当山開闢能除大師は、いづれの代の人といふことを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり、書写、「黒」の宇を「里山」となせるにや、羽州里山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢に献」と、風土記にはべるとやらん。月山・湯殿を合はせて三山とす。当時、歩江東叡に属して、天約止観の月明らかに、円頓融通の法の灯がかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊他の験効、人貴びかつ恐る。繁栄長にして、めでたき御山と謂つつべし。」
好天の八日、強力の案内で月山に登る。月山は標高,1980m。芭蕉にとっては、生涯で一番高い山への登山となった。 「八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るのかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕はる。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、雲水を撰びて、ここに潔斎して剣を打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの龍泉に剣を淬ぐとかや、干将・莫耶の昔を暮ふ。道に堪能の執浅からぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ば開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花 の心わりなし。炎天の梅花ここにかをるがごとし。行尊僧正の歌のあは れもここに思ひ出でて、なほまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるざす。坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。
涼風やほの三か月の羽黒山 桃青 雲の峯いくつ崩れて月の山 桃青
かたられぬゆとのにぬらす袂かな 桃青
六月十日、羽黒に別れを告げ、庄内藩の城下町鶴岡に、十三日朝まで滞在して出羽三山の疲れをいやし、舟で赤川を下り、(当時、赤川は最上川へ合流)酒田へと向かった。
https://www.dewatabi.com/basyou/haguro.html 【出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)】
奥の細道・山形県編
元禄2年(1689)6月3日(新暦7月19日)、松尾芭蕉と河合曾良は新庄の本合海から舟で最上川を下り、清川で上陸、その後は徒歩にて狩川宿を経由し、夕方に出羽三山の宿坊街である手向宿の近藤(図司)左吉(俳名:呂丸・庄内羽黒俳壇の中心的な存在)宅へ到着。左吉が羽黒山の本坊から戻ると事情を話し、大石田の高野一栄(平右衛門)からの添え状を左吉の子供である露丸子に託します。露丸子は添え状を持参して本坊に向かい許可を得て再び戻り、すっかり暗くなってから露丸子の道案内で羽黒山に登り、羽黒山本坊若王寺の別当代(羽黒山の最高指導者)である会覚阿闍梨と合い篤いもてなしを受けて中腹にある南谷別院(高陽院紫苑寺)で宿泊しました。ここで一句・・・
・ 有難や 雪をかほらす 南谷
句の意味は。雪に閉ざされた山頂に祭られている神々の息吹を、南風が私の所まで運んでくれるのは、本当に有難い事だ。といった意味と思われます。現在、南谷別院である高陽院紫苑寺は廃寺となり、礎石と庭園のみが残され、覚諄別当により「有難や 雪をかほらす 南谷」の芭蕉句碑が建立されています。又、環境省により「かおり風景100選」に選定されています。
出羽三山:手向・宿坊街 出羽三山:随神門 出羽三山:羽黒山五重塔 出羽三山:参道
6月4日(新暦7月20日)、昼時になると本坊から招かれ蕎麦をいただき会覚阿闍梨と謁見し、その際に江州円入(盛岡藩の僧侶、浄教院)とも合っています。その後、芭蕉・露丸・釣雪・珠妙・梨水・円入・会覚・曾良の8人による俳諧を興行。
・ 有難や 雪をかほらす 風の音-翁
・ 住程人の むすぶ 夏草-露丸
・ 川船の つなに蛍を 引立て-曾良
・ 鵜の飛跡に見ゆる三ケ月-釣雪
・ 澄水に 天の浮べる 秋の風-珠妙
・ 盃の さかなに流す 花の浪-会覚
・ 北も南も碪打けり-梨水
・ 足引のこしかた迄も捻蓑-円入
6月5日(新暦7月21日)、2人は出羽三山の羽黒権現に参拝。明治時代の神仏分離令以後は仏教色が廃されて出羽神社となり、社殿は出羽神社の他、同じく神社となった月山神社、湯殿山神社の祭神を一緒に祀る出羽三山三神合祭殿となっています(ただし、仁王門は随神門、羽黒山五重塔は千憑社として神仏習合の名残が随所に残っています)。「奥の細道」によると「 五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いづれの代の人と云事を知らず。延喜式に羽州里山の神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して、羽黒山と云にや。出羽といへるは、鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄、長にしてめで度御山と謂つべし。」とあります。ここで一句・・・
・ 涼しさや ほの三か月の 羽黒山
この句の発句は6月3日、暗い夜道を月明かりだけで参道を登り、宿所となる南谷別院(高陽院紫苑寺)に向う最中とされます。句の意味は。出羽三山の羽黒山にかかる三日月の月明かりは、神聖で霊気が漂い身が引き締まる思いだ。といった意味と思われます。二の坂を登り終えた場所が発句の地と推定され明和6年(1769)には「三日月塚」が建立され、周囲には複数の石碑と石燈篭が同じく建立されています。
出羽三山:三神合際殿 出羽三山:三神合際殿・鏡池 出羽三山:鐘楼 出羽三山:境内社
6月6日(新暦7月22日)、2人は出羽三山の月山に登山。月山は標高1984m、出羽三山の中では最高峰で、松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の旅でも最も高い所です。「奥の細道」によると「 八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こヾえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。 」とあります。「奥の細道」では8日となっていますが、実際は6日の事で、頂上にある御室を参拝し、直下にある角兵衛小屋で宿泊しています。ここで一句・・・
・ 雲の峯 幾つ崩て 月の山
私は幾つも峰を越えたのに、山全体が雲に覆われている為、未だに頂がどこにあるのかも解らない。月の光(神)よ、どうか私を導いてほしい。これは句の意味というより、私が月山に登拝した時の感想に近いです。これでも、8合目まで車で上り、整備された登拝道を2時間弱、登拝しただけですが、厚い雲の中では視界が無く、山頂が見えないと自分がいった何処にいるのか解らず、後どの位の距離や時間で着くのか不安だった事が思い出されます。芭蕉の場合は麓近くから徒歩で上り、さらに足元が積雪で、気温も低く、視界も悪かった事から、現在では考えられない位大変だったと思われます。山頂に着いて日が暮れてようやく月が現れたのだから、月の光が山の姿を浮かび上がらせ本当に神秘的に感じられたのではないでしょうか。その瞬間、芭蕉の心の中では月山の神が、これからの自分を導いていてくれるように感じられたのかも知れません。この句の意味は専門家でも色んな説があるようなので、そちらの方を参考にしてください。
出羽三山:弥陀ヶ原 出羽三山:御田原神社 出羽三山:月山参道 出羽三山:月山御室
6月7日(新暦7月23日)、2人は出羽三山の湯殿山に登山。「奥の細道」によると「 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剣を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の、つぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花、爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々、短冊に書。」りあります。ここで一句・・・
・ 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
湯殿山は出羽三山の中では奥之院として位置付けられ、羽黒山、月山で修行又は、参拝した後、最後に行き着く霊地とされます。その為、その霊地は絶対に神聖な場所である必要性から「語る無かれ、聞く無かれ」との戒律が守られ、霊地を見た人は絶対にその姿を他人に言ってはいけない。見てない人は絶対に他人から聞いてはいけない。と決められていました。現代的な考えでは、そこまで言われれば1度は行って見たくなる為のコピーライターの広告宣伝のようにも聞こえますが、信仰心の篤かった当時の人々にとっては大変有難いものでした。「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」の句の意味は、松尾芭蕉も、他人に語る事が出来ない程の、有難い聖地を見る事が出来て、涙が出る位の感動を覚えたと率直な感想を表現していると思われます。穿った見方をすれば。本当は言っていけない事ですが、実は湯殿(湯殿山の御神体)は濡れているんです。あっ、言ってしまった。これで湯殿山との縁が切れてしまったかな?という風に解釈するのは邪推かも知れません。
出羽三山:湯殿山鳥居 出羽三山:湯殿山参道 出羽三山:湯殿山 出羽三山:石碑
6月8日(新暦7月24日)、2人は和交院に入り、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)登拝の報告をしています。
6月9日(新暦7月25日)、朝食は抜きで昼は素麺を食す。2人は和交院に入り、地元の銘酒や料理などを御馳走され、出羽三山で詠んだ句と曾良の1句(湯殿山銭ふむ道の泪かな)を完成させ、「涼しさや ほの三か月の 羽黒山 」、「雲の峯 幾つ崩て 月の山」、「 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」の3句を短冊にして収めています。
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