普遍意識を共有

Facebookはせくらみゆき FBさん投稿記事【未来はどうなる?】

9月のある日、講師として呼ばれた研修会に出席するため、九州の幣立神宮や高千穂、天岩戸神社へとお参りする機会を得ました。

その際、研修の最終日に、天の岩戸神社の奥にある、天安河と呼ばれる、洞窟の脇にある河原に行った際、心の内から「ふるさとの歌を言祝いで」という声なき声が響いたのです。

そこで川面に映る光の輝きを眺めながら、心を込めてふるさとの歌をそっと口ずさんでみました。

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川…まさしく歌詞通りの光景が広がる中、三番の歌詞までくると、胸がキュッと締め付けられて、目に涙がたまってきたのです。

志を果たして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと

歌い終わった途端、ある風景が浮かび上がってきました。

それは私が以前、天に問いかけた、ある質問の答えでもあったのです。

その質問とは「これからの未来はどうなりますか?」というもの。

問いかけた時は、いくつもの可能性が同時並行的に感じて、なかなかすっきりとした答えを得ることが出来なかったのですが、その時は違っていました。

とても明確で、クリアーに浮かび上がってきたのです。それはいずれ、こうなるのだから、安心して、朗々と進んでおくれ、という天からの応援のようにも感じました。

家に戻ってからも、その時観えたビジョンが、くっきりと焼きついています。それで、

いてもたってもいられなくなった私は、絵筆をとり、出来るだけ正確に再現することにしました。二週間後、それは完成しました。

この作品名は何といいますか? と心の奥に問うと、「黎明」である、と響きました。

黎明とは明け方、夜明けのこと。新しい新生を意味する言葉でもあります。

ふとその時、私の大好きな本―葦原瑞穂著の「黎明」のことを思い出しました。

その時に、ハタと気になって、葦原氏の命日を調べたら…、絵の完成した日と、同じであることに気が付いたのでした。

こうして先達のマスターたちも、天も、全力で、私たちの目覚め、霊性進化の旅を応援してくれているんだ…。

そう思うと、ただただ胸がいっぱいになり、首を垂れました。

さて、観えた絵は、葛飾北斎の神奈川沖波裏の構図と一緒でした。

ただ、波がすべて虹色に輝いていて、しかも一番手前の小舟の上には、伊邪那岐と伊邪那美がぬぼこを天にかかげて、凛と立っている姿でした。

この二神は、私たち一人ひとりが志を抱いて進む姿とも重なっているようで、こうした歩みそのものが、宝の船に乗っていることなのだ、

という想いが響いたのです。ですので、先の方にある船の上には、よくみると宝船が描かれています。また、赤富士の上には、お天道様―あまねく照らす慈しみの光が、山も海も船も人も、すべてを照らしていたのでした。

この絵を描いていた時、最後の三日間は、あまり記憶がありません…それほど集中してしまったようです。気が付いたら、出来上がっていました。

実はこのアート、来年を飾る迎春絵画として、版画化されることになりました。

もしよろしければ、本年の「笑福七福神」同様、ずっとお部屋を飾るアートとして、

魂の奥でお約束いただいた方との、ご縁が結ばれましたら嬉しく思います。

詳細は下記にありますので、ご覧くださいませ。

https://miyuki-store.com/info/event001

とにかく、今、心から分かち合いたいこと、それは…未来は明るい、ということ。

ここを信じ、意志と祈りともって朗々と進んでまいりましょうね。

ではまたね。今日もいい日を。


https://ameblo.jp/hasekura-miyuki/entry-12213882309.html 【【葦原瑞穂著「黎明」によせて】】より

今から四半世紀前、突然始まった宇宙授業。その間、授業といっても、直観を通した、

ダイレクトレッスン(笑)で、そうした部分に関する書籍…いわゆるスピリチュアルなもの、

というのは一切読んではいけなかったあの頃、ある本だけは、しっかり読んで学び、実践するように、と内なる叡智からのお達し! があった。

それが、「ヒマラヤ聖者の生活探究」(霞が関書房)と、「黎明」上・下(太陽出版)だった。

ヒマラヤ聖者の生活探究は、バイブルとでもいうべき、すごい本だったけれど、日本人の方が書かれた、「黎明」の本は、まるで透き通った光と風のように、内奥深くまで沁み込み、気づきをもたらした。

もう、どれだけ読み返したか覚えていない程、なにかある度にパラパラめくった本だったのだ。

そうして月日はめぐり、いつのまにか読まなくなっていた。

すると、今年の二月、不食の弁護士―秋山先生の会にお伺いした時に、隣に座られた物静かな紳士が、名を名乗られたのだ。「葦原瑞穂と申します」と。…ん? んん?えっ、…わ、わわっ。そうなの。彼が黎明の著者、葦原瑞穂氏だったのだ。

まさか、実際にお会いすることがあるなんて…。

出逢いの妙に心臓がバクバクしながらも、心より感謝し、家に戻り、久々に黎明を読み返してみた。

普遍意識と繋がること、日々の暮らしの大切さ、一言ひとことが、珠玉の金言のように深い。

ありがたいな。嬉しいな。魂が喜ぶとは、このことだよ。で、先日、再び、秋山先生の会へお伺いした。先生のお誕生日をお祝いするために。

もしかしたら、葦原先生もいらっしゃるかしら?なんてちょっとワクワクしながら。

そこで聞いた、思いがけないお話。それは、葦原瑞穂先生の御逝去の話だった。

交通事故だったらしい。私はしばらく、ボーッとしてしまった。氏はこんなふうにして、肉体を卒業されちゃったんだ…。

しばらく、ショックと悲しみと寂しさが押し寄せた。茫然自失のまま、黎明の本を再び開いたら、最後に、「今回の地球生命系始まって以来の大変革期にあたり、この地球にそれぞれの使命を以て化生してこられた読者の方々に、こうしてお約束通りのものをお渡し出来たことを嬉しく思います。最後に地球上の生命の全個的表現と、宇宙全体に対する最大の奉仕のために、

読者の方々ひとりひとりを通して、「私」すなわち普遍意識が自覚に至り、それぞれの方々の役割を成就されますことを、遍意識よりお祈り申し上げて、筆をおきたいと思います」と著してあったのです。

そうか…より精妙な次元へ普遍意識そのものの世界へ、いかれたのですね。…はい。

わかりました。静かに首を垂れる私。あらためて、私たち一人ひとりが、この三次元世界においても、普遍意識という深遠なる意識を共有し、その繋がりゆく遍満する時空から、一人ひとりの個性と才能を伸びやかに表現できる世界を顕せるよう、精進しなくっちゃ、と思いました。

葦原瑞穂先生、素晴らしい著書を私たちに届けてくださり、ありがとうございました。

役割を終えて戻られました氏に、心より感謝と敬意をお伝え出来たらと思います。


https://sengohaiku.blogspot.com/2015/05/jihyo1.html 【【俳句時評】  言葉の普遍性に絶望するかしないか / 堀下翔】より

例えば岸本尚毅のこの初期の一句が僕は好きである。

なきがらの四方刈田となつてゐし 『鶏頭』

刈り終えられた田はさっぱりとしているがまた一方で殺伐とした感じもする。そこになきがらが投げ出されている。尋常のことではない。主語は「なきがらの四方」で、それが「刈田となつてゐ」るというからには、なきがらの置かれたまさにその場所から田は刈られていったのだという気もする。一句はその出来事を「し」として述べる。いまはただなきがらがあるのみである。ただ過去であるばかりではない。「なりし」ではなく、それは、「となつてゐし」なのだ。刈田であることではなく、刈田となること。読者がついに見ることのなかったその始終を思うとき、田の刈られようは一瞬のことではなかったか、と思うのだ。

この句には自解がある。

「なきがらの四方刈田となつてゐし」が生まれたきっかけは、女優の夏目雅子の訃報であった。あの夏目雅子が亡くなったのか、と思いながら電車に乗っていた。小田急だったか。厚木の辺を過ぎると車窓から刈田が見える。目に映る刈田。脳裏に浮かぶ夏目雅子のなきがら。

(岸本尚毅「私のこだわり」/『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 岸本尚毅』2011年/ふらんす堂)

この文章を読んだとき僕の頭の中にはたちまちにゴダイゴの『Monkey Magic』(1978)が流れ出した。同年の大ヒットドラマ『西遊記』のオープニング曲だ。「昔々、この世に人間が現れるはるか前……」のナレーションののちにその曲は流れ出す。堺正章演ずる孫悟空のカットがたちまちに6つに分かれ、次の瞬間にはまた別のカットが大きく現れるあのオープニングは、いかにも当時のドラマの恰好よさを体現しているように思われる。堺の次に映し出されるのは美しく若い夏目雅子その人である。別段玄奘三蔵が女性と設定されているわけではなかったが、ドラマを見た誰もが三蔵は女だと思ったはずだ。

『西遊記』がこの時点でテレビドラマ化されたのは、それが日中平和友好条約調印の年であったからだったろう。そんなことを思いながら、僕にはそのようなことがらがすべてゆるやかに繋がっているような気がしてならない。あの美しかった夏目雅子がいた年であり、日中平和友好条約調印の年であり、ドラマのオープニングはあのように恰好よく、特撮やメイクはちょっとダサい、1978年だ。岸本が夏目雅子の名前をだしぬけに書いたとき、僕はたしかにその刈田が1978年にある気がした。〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉もまたゆるやかにつながることがらの一つであると。一句の殺伐とした感じは、いまや回想することでしか繋がりえないその年にあってこそ分かる。安い言い方をすればそれは「空気感」とでも呼ぶべき代物なのだ。

もっとも岸本にとっての夏目雅子は決して三蔵法師としての彼女ではなかったようだ。

夏目雅子はNHK大河ドラマの『黄金の日々』に豪商の娘の役で出演した。夏目雅子演じるモニカという娘は、根津甚八演じる石川五右衛門にかどわかされ、悲惨な運命をたどった。

(同書「自句自解」)

『黄金の日日』――踊り字じゃありません――は1978年放送の大河ドラマで主演は市川染五郎。夏目雅子は運命に翻弄されるキリシタンの娘を演じた。

〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉の句が生まれるに至った電車の中で岸本が思い出した夏目雅子――「あの夏目雅子が亡くなったのか」――が『黄金の日日』の夏目雅子だったことは非常に重要なことのように思われる。なぜならば夏目雅子が亡くなったのは1985年であり、決して1978年ではなかったからである。僕がはじめに思い浮べた『西遊記』が『黄金の日日』と同じ年の作品であったことは単なる偶然で、そこにはいくばくかの言い難い驚きもあるのであるが、とかく、自解以後の〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉の句を支えているのは、作り手と読み手ともに「あの夏目雅子」でしかありえない。きっと岸本にとっても、〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉はとてもリアルな句であっただろうと僕は思う。あの『西遊記』の夏目雅子の死と接続する「刈田」が僕にとってこの上なくリアルであったのと同様に、岸本にとってもその「刈田」は『黄金の日日』をとりまくあらゆる状況と無関係ではなく、それゆえにたしかな存在であったのだ。

正直に言って岸本の自解を読んだときには言葉というものの普遍性を思って少し絶望的な気分になったものだが、いまやその感はいよいよ増している。岸本がことさらに「なきがら」の正体を明かさねばならなかったほどには密接にその句の誕生にかかわっていたはずの夏目雅子をめぐる気分を〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉は断じて伝えていない。一句はそれを切り捨てたうえで立ち上がっていた。そして僕がはじめ持った共感はよく考えてみればおそろしく無防備であったわけだ。岸本にとっての夏目雅子は僕にとっての夏目雅子ではない。あるいはそのどちらかが1982年の『鬼龍院花子の生涯』における夏目雅子だったかもしれないし、そうであれば余計にその齟齬は開いていただろう。ここにおいて言葉の普遍性を嘆かわしいもののように思うのである。

『俳句』(2015.5)の特集は「どの年代でも俳句は輝く!」。その中に年代別名句180選として各年代の20句アンソロジーが掲載されている。50代を担当したのは岸本尚毅であるが、彼がその20句選に付した解説が興味深い。〈時代と年代〉というタイトルである。

五十代の作品として拾った二十句二十人の作者における時代と年代(堀下註――太字部、原文では傍点)の関係をざっと眺める。/真珠湾奇襲の昭和十六年十二月八日の年齢は、高浜虚子六十七、荻原泉井水五十七、水原秋桜子四十九、高浜年尾四十、加藤楸邨三十六、石田波郷二十八、森田峠十七、川崎展宏十四歳だった。

岸本はその後東京五輪開催の昭和三十九年十月十日に関して別の作家たちを同様に挙げ、また今度は作家が五十歳の年に起こった出来事を、阿波野青畝-ソ連の核実験成功――といったふうに並べた上で、こう書く。

ある人のある年代がどんな色調を帯びるかは、当然に時代の影響を受ける。俳人たるもの世に対し超然としていられればよいが、生身の人間として、また生活者として、戦争や天災、不況やインフレなどから無縁ではいられない。自分や家族の病気や老いといった事態も生じる。ただし、実社会・実生活がどのような形で作品に影を落とすか、直接的か間接的か、意識的か無意識的かは、作家・作風によって違う。

社会と個人はきっとどこかで繋がっているのだ。戦争は貧乏を生んだ。東京五輪だってそれぞれの実生活とどこかで繋がっていたはずなのだ。そういったものを思えばこそ見えてくるものはある。先述の通り、最終的にはほとんどの部分が普遍的な言葉で切り捨てられているから、想像するのは骨が折れるが。今となってはどれほど正確に想像しうるものか。いくばくか類型化されているのは当然のことであろう。その一句の誕生に際していったい何が関わっていたのか、それを見つめることは切実な行為に間違いはないが、一方でまた、読者は読者でその空気感を手さぐりで求めてよい筈だ。

同じく、さいきんの岸本の文章から。

はこべらや焦土のいろの雀ども 石田波郷

昭和二十一年(二十二年)作。空襲の焼け跡です。当時、波郷は東京の江東区砂町に住んでいました。「はこべら」は春の七草。食糧難の頃ですから、おかずの足しになったことでしょう。

(岸本尚毅『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 十七音の可能性~俳句にかける』2015/NHK出版)

この焦土が「昭和二十一年」の焦土であることはひどく重要なことに思われる。それが第二次世界大戦によって齎されたものでなくとも、焦土であればきっとそこでは食糧難が起こっているのだ。だけれどもこの句が昭和二十一年の句であること、この焦土が昭和二十一年の焦土であることによって岸本には何らかの景色が見えている。多くの読者もそうだろう。その景色は決して波郷に見えていた昭和二十一年の焦土ではないのであるが、しかし、僕たちの焦土もまたたしかに「焦土」なのである。言葉の普遍性を恨み、一方で積極的に享受することによって、新しい読みは生まれてくるだろう。


https://www.lomography.jp/magazine/321180-lomo-in-depth-communicating-in-images-with-photography-as-language_jp 【ロモ特集: イメージを介してコミュニケーションを図る〜言語としての写真〜】より

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写真は言葉や会話による説明を足さずともメッセージを伝えることができます。しかし日常的に写真がシェアされている現代においても、依然として画像またはイメージを見るという行為は特別です。なぜなら写真自体がある種の言語としての働きを持っているといるためです。

イメージにおける言語

テネシー大学のメアリー・ジェーン・モラン助教授とデボラ・W・テガノ准教授は、 論文 の中で写真は視覚的な言語であると書いています。

写真は言葉のように意味を伴って記号化され、そして解読されます。クリエイターはまず写真を撮るときに、意味や意図を伴って写真を記号化します。そして「それが所定の背景や文脈に置かれると、さらに記号化される」(『Sturken & Cartwright』2003年、56ページ)のであります。 例えば、写真を見る際、見る人は意味を解読するあるいは意味を「読み取る」のです。写真から「読み取る」ことは主観的かつ部分的であるため(『Skinningsrud as cited in Edwards』1992年、4ページ;Winston、1998年)、人々は自然と様々な解釈をするに至ります。そのように色々な解釈を持たれるというのは、写真にとって非常に肯定的な側面であると言えます。なぜなら新しい理解は、多様な意味を共有することを通して相互形成されるからです。

写真言語学: 視覚的な言語の要素

メリアム・ウェブスター の辞書では言語学を「言語の構成単位や性質、構造、変化を含む人間の会話の研究」であると定義しています。もし英語という言語が音声学、意味論、文法と意図から成っているとすると、写真も言語学の基盤をなす独自のセットを持っています。

Credits: liquorice、radutihon、mgf & boredbone

先日、Lomographyは 「写真における言語」(英文) というトピックで独自の見解について書き、光・時間・構成・主題・色の5つの要素が写真撮影における言語学を確立するということを引用しています。

話し言葉や書き言葉の文章では、考えやメッセージ、あるいはアイディアが形成されていなければならず、使われている言葉や言葉同士のつながりが文章を形成するにあたり非常に重要になってきます。写真においては、視覚的な構成要素によってメッセージやアイディアを生み出されるので、文章を構成するのと同じと言えるでしょう。

Credits: kekskonstrukt & lomomograph

『The Elements of Photography: Understanding and Creating Sophisticated Images(写真の要素:洗練されたイメージの理解と創造)』 の著者、アンジェラ・ファリス・ベルトは、視覚的な言語としての写真撮影を文法的な観点において考察しています。彼女は「写真文法」を構成するキーとなるものは4つあると考えます。

4つのキーとなる要素は写真言語の文法を成し、それを独特の視覚表現の形にします。その4つは次の通りです。写真フレームとその境界、絞りやレンズによって決定される焦点の性質、シャッター速度の時間や動作との関係、そして、総合的なイメージを生成するための物理的な媒体です。

写真の「普遍的な」面

興味深いことに、言葉を使用せずに言語として成り立つのは写真だけではありません。 数学のような他の非音声言語もひとつの言語と考えられます。しかし写真が他の非音声言語と区別されるいるのは、写真の持つ解釈の可能性の広さによってです。視覚言語としての写真が完全に普遍的であるかどうかは明確ではありません。それは受け取るメッセージが、写真の見た目とは違うものになることがあるからです。それでもなお、言語としての写真が普遍的であると信じている写真家達がいます。

Credits: opon21

フォトグラファーのオーガスト・サンダーは彼の講義『写真の性質と成長:講義5:共通言語としての写真』の中で、「写真には複数の意味を持つ(そして時として現実は偽造されうる)という弱点があるけれど、もし写真家に能力があるならば、写真は共通言語となる可能性があります。」と語っています。人間が言葉を発明する以前からイメージを言語的な意味を持って使っていたとサンダーは言います。さらに彼は 講義 にこう付け加えています

文芸作品がますます上流知識人の興味を対象とするものになっている間に、写真は教養のない一般大衆の能力にも問題なく適応していきました。私はどの国の公用語も、写真のように普遍的に機能することはできない、写真ほどに重要な意義は持っていないと断言できると信じています。写真は世界中の多くの人々に向けた普遍的に理解される初めてのイメージとしての言語だったのです。

マグナムのフォトグラファー、デイビッド・アラン・ハービーは、誰にとっても最も普遍的であるのは写真だけだと信じています。ハービーは、彼の TEDx lecture での講義でこのように言っています。

私は現在、世界で唯一の共通言語は写真である思っています。数学ももちろん国際的な言語と考えられることができますが、誰もが数学者というわけではありません。そういう意味では音楽ももちろん国際的ですが、誰でも演奏できるわけではなく、多くの人は音楽を聞くだけです。そのため写真こそ世界で誰もが話すことができる、我々がいつでも話せる唯一の言語であると考えています。

しかし『写真がすべてを変える』の著者、マーヴィン・ハイファーマンはそうは思いませんでした。 Wired のインタビューで彼はこう言っています。

人々は写真が共通言語であるかのように話しますが、本当はそうでありません。写真とは多言語なのです。あなたが写真のイメージについて神経科学者と対話することは、アーティストと対話するのと同じくらい面白くて、刺激的です。人々が写真を使う文脈は大きく異なりますか? 写真を撮る理由や、写真の良し悪しの評価基準は大きく異なりますか? あなたが写真という媒体がいかに柔軟で便利であるかに気づけば、写真と対話することは信じがたい可能性を生むのです。

このように写真は共通した意味を持たせることによって多種多様な人の考えを一致させることができますが、一方で写真は人々に様々な解釈を与え、そして異なる意見を生み出すこともできるのです。その魅力に取り憑かれているのが、ロモグラフィーであります。



コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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