https://blog.goo.ne.jp/katachi21/e/a46a241bffe881213256d87caa2cb1e8 【上島鬼貫――俳句における‟見ることの訓練”】より
“ものが見えるようになるためには訓練が必要”ということは、訓練の度合いとその成果のあり方によって、“見えていること”の内容が異なっているということになります。
そこには個人差ということがあり、したがって、同じ場所で同じ時刻に同じものを見ていても、何を見ているかは人それぞれだということになるわけです。
つまり外見上は同じものを見ているはずが、見ているものは人によって違っているということです。
事実は一つということが当然のごとく言われますが、実はそうではなく、事実は人の数だけあるということです。
自分が見えていると思っているものが他者と共有していると思ったら大間違いです。
見るということはどこまでも孤独な作業なのですね。
では、コミュニケーションということはどうなるのでしょうか?
人と人の間に、厳密な意味でのコミュニケーションは成り立たないのだ、というのも一つの考え方かもしれません。
厳密にはコミュニケーションは成立しないと前提するところから、人と人の関係をどう考えていくか、というのは一つの方向であると思います。
しかし私自身は、「事実は人の数だけある」という命題は、むしろコミュニケーションということが成り立つための前提であると考えたいと思っています。
人はそれぞれみな違うものを見ているのだから、それを報告し合うことでコミュニケーションということが成立すると、それが文化というものだと考えているのです(詳しく書くのは、またの機会ということにします)。
話は変わりますが、今私の手元に、たまたまですが、上島鬼貫(うえじまおにつら)という俳人の句集があります。
鬼貫は江戸時代の人で、芭蕉より一世代ぐらい後、京都に在住して、東の芭蕉、西の鬼貫と言われた人です。
代表作に「おもしろさ急には見えぬ薄(すすき)かな」という句がありますが、これなども、“ものが見えるようになるためには訓練が必要”ということを詠っていると言ってよいかと思います。
鬼貫が書いた『独(り)ごと』という俳論書があって、その中で薄について次のように書いています。
「薄は、色々の花もてる草の中にひとり立ちて、かたちつくろはず、かしこがらず、心なき人には風情を隠し、心あらん人には風情を顕はす。只その人の程ほどに身ゆるなるべし」
また、こんなことも書いてます。
「花の句は花のみをいひ、月の句は月のみいひて、しかも意味深きをよしとす」
見ることは孤独な作業であるゆえに、何を見ているかは自分にしかわかりません。
自分には何が見えているのか、何を見ようとしているのか、すべて自分で探り当てていくほかありません。
鬼貫は、作句は生涯をかけての「まこと」を求めていく事業であると言ってますが、それは「何を見ているか」を自分で探り当てていく道であり、
その行き着くところは「花の句は花のみをいひ、月の句は月のみいひて、しかも意味深き」というところであるようです。
最後に、薄を詠んだ代表的な句をいくつか、歳時記などから拾って紹介しておきましょう。
同じ鬼貫の作から始めます。
茫々と取りみだしたるすすきかな 鬼貫
折りとりてはらりとおもき芒かな 飯田蛇笏
薄を詠った句として代表的と見なされています。
薄活けて一と間に風の湧くごとし 佐野美智
薄の日本的楽しみ方ですね。
まん中を刈りてさみしき芒かな 永田耕衣
耕衣は私の好きな俳人の一人。
この際なので拙作の最近作も。
「風立ちて天穹を掃くすすきかな」
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/03/post-1f59.html 【俳句の創作的解釈《虚子の俳句「一つ根に離れ浮く葉や春の水」》】より
先日ふと、この俳句は正岡子規と高浜虚子と河東碧梧桐の関係の比喩でないかという考えが浮かびました。「根」が正岡子規であり、「葉」は虚子と碧梧桐を差していると解釈したのです。
この解釈が正しいか否か確認するためにインターネット検索をすると同じような考えを述べている「俳句雑記帳」というタイトルの記事がありました。
高浜虚子は「俳句の作りよう」の「(三)じっと眺め入ること」において、次のように述べています。
「芭蕉の弟子のうちでも許六きょりくという人は配合に重きを置いた人で、題に執着しないで、何でも配合物を見出してきて、それをその題にくっつける、という説を主張していることは前章に述べた通りでありますが、それと全然反対なのは去来きょらいであります。去来は配合などには重きを置かず、ある題の趣に深く深く考え入って、執着に執着を重ねて、その題の意味の中核を捕えてこねばやまぬという句作法を取ったようであります。
この後者の句作法の方をさらに二つに分けてみることができます。その一は目で見る方で、じっと眺め入ることであります。その二は、心で考える方で、じっと案じ入ることであります。」
さらに、「『じっと眺め入る』ということもやがては『じっと案じ入る』ということに落ちて行くのであります。」と述べて、掲句「一つ根に離れ浮く葉や春の水」を詠んだ経緯を詳細に説明しながら約2600字を使って句作における「写生」とは何かを縷々説明しています。
掲句を上記のように比喩と考えるのは穿ち過ぎかもしれませんが、「人間も大自然の一部の存在である」ととらえ花鳥諷詠を唱導した虚子は無意識のうちにそういう比喩をしていたかも知れません。
さらにうがった創作的解釈をすると、「一つ根」は芭蕉を意味し、「葉」は去来や許六を差していると解釈することもできます。
https://blog.goo.ne.jp/katachi21/e/75b90e23c3262c6d903d9190c7f839da 【半眼で見るということ】より
仏教の経典を読んでいると、「見」とか「観」という漢字がよく出てきます。
よく知られているところでは、たとえば「見性」とか「観音」とかあります。
「見性」というのは、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること。
特に禅宗系の修行の目標を言うときに、「見性成仏」と言ったりします。
自己の本性を見極めたとき、心性が仏性そのものであると悟って成仏する、のだそうです。
「観音」は「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」を略している場合が多いですが、
意味としては「音を観る」ということで、人の話を聞いて煩悩から救い出してくれる菩薩のことを言ったりします。
人の話を聞くということを、「音を観る」というふうに表現するわけですね。
私は、仏教というのは「みるはたらき」ということを重視する宗教であると思っています。
「み(見・観)る」というのを「感覚する」に置き換えると、感覚のはたらきを仏教は重視しています。
「空」や「無」という言葉は、単純に感覚を否定しているのではなく、事象の本質は空性であること、
あるいは「見ること(感覚のはたらき)」を超えて「空・無」に至る、というニュアンスがあるようです。
大仏や如来の眼は、まぶたが半分ほど下がっていて半眼の形になっています。
座禅を組むときには、眼は半眼にして、と言われます。
なぜ半眼なのか、その正確な理由は分からないそうです。
昔、私が座禅道場でお試しをさせてもらったときには、お寺の人は「眼をつむると眠くなるから、少し開けて」と言ってました。
私が経験したところでは、半眼状態を維持することは結構難しいようです。
まぶたがブルブルと震えて、視野が安定しません。
眼を瞑ったほうが気持ちが落ち着きます。
眠くなることはありません。むしろ半眼にしたほうが眠くなりやすいです、私の場合。
私は座禅を自己流で試みているにすぎませんが、最近分かってきたことは、
少し座禅に馴れてきて持続力がついてくると、半眼状態もある程度持続できるようになるということです。
半眼で視線の先(単なる板壁ですが)を固定した状態を維持することは、ある意味で視線の先の壁をしっかりと見るということにつながります。
しっかりと見る(眼球はできるだけ動かさない)ことで、意識の中に生じる雑念や妄念を消し去ったり、起こさせなかったりすることができるようです。
初心段階では、眼を瞑って自分の呼吸(身体への空気の出入り)に意識を向けていけばいいでしょう。
目前の壁を見続けようとしても退屈感に苛まれるのがオチでしょう。
ある程度馴れてきて、半眼状態が維持できるようになると、外(視線の先)の壁の一点と内側の呼吸の両方に意識を向けます。
当ブログの前回に書いた「部分と全体を同時に見る」のと似たようなニュアンスで、外の世界と内側の世界(呼吸作用)の両方を同時に見るわけです。
これを続けていくと、予測としてはおそらく外の世界と内側の世界との区別が無くなります。
つまり「内外・自他の区別が無くなる」「心の世界と物質の世界は一如である」に通じていく修行法ということです。
これが半眼の意味ではないかと、今のところ私的にはそう憶測しています。
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