https://sectpoclit.com/kiyohiko-1/ 【ハイクノミカタ】より
海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉【季語=鴨(冬)】
海くれて鴨のこゑほのかに白し
芭蕉
共感覚俳句ってなに
読んで一瞬ぎくっとして、いつまでも忘れられない俳句がある。人によって違うだろうが、私の場合、〈共感覚俳句〉がその一つであることはたしかだ。そういう句は自分で作ろうとしてもなかなか作れそうもないというハードルの高さゆえの感銘の深さがあるかもしれない。しかし、さすがにそういう句は芭蕉にはかなりある。人口に膾炙する掲句もその一つで、このカテゴリーの代表句といえるだろう。
〈共感覚(synesthesia)について〉『広辞苑』は、「一つの刺激によって、それに対応する感覚(例えば聴覚)とそれ以外の他種の感覚(例えば視覚)とが同時に生ずる現象。例えばある音を聴いて一定の色が見える場合を色聴という。子供に生じやすいとされる」としるす。掲句はまさにこの例のように「鴨のこゑ」(聴覚)と「ほのかに白く」(視覚)の同時発生を詩に捉えていて、〈共感覚俳句〉というに相応しい。ちなみに〈共感覚俳句〉は私の造語である。
共感覚の一種ともいえる〈色聴(audition colorée)(仏)〉の例としては、「黄色い声」「暗い音」「赤い音」などが知られ、単純な音の刺激で起こることはきわめて稀な現象だが、音楽のような音の刺激では多数の人が体験するともいわれている。また「子供に生じやすいとされる」とあるあたりも、「俳諧は三尺の童子にさせよ」(『三冊子』)の芭蕉に似付かわしくはないか。
この芭蕉句について、「目で聞く、耳で見る」という〈感覚合流〉の美意識、美的効果の特徴を最も明瞭に現していると評論する著作がある。故ドナルド・キーン(当時、コロンビア大学名誉教授、日本文学研究者、文芸評論家)とツベタナ・クリステワ(ソフィア生まれ、国際基督教大学日本文学教授)による福岡ユネスコ・アジア文化講演会(2013年)での講演記録(一部補正)がそれで、二人の共著『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』として2014年に刊行されている(弦書房)。
かなりセンセーショナルなタイトルに惹かれて読んだ同書では、まずキーンにより「日本の短詩型文学の魅力」(世界で最も短い詩型に惹かれた外国人、奇数好きの長い伝統、一番大事なのは「暗示」、「音」に注目しない日本人、二千年も使われ続ける詩型を持つ幸福、など)が語られる。
次いでキーンを師として仰ぐクリステワが「キーン先生による俳句解読の魅力」(キーン先生という「奇跡」、日本文化の美意識、和歌から俳句への展開の特徴、芭蕉の宇宙〈天才の誕生と歴史/二つの「秋の暮」/不易流行/感覚の合流――「目で聞く、耳で見る」〉、芭蕉のあと、「感覚合流」の美意識の流れ、など)について語る。こんな内容だから面白くて、一気に読み切った記憶がある。
「感覚の合流――「目で聞く、耳で見る」」には次のようなくだりがあり、かねがね〈共感覚俳句〉に興味を抱いてきた私を驚かせた。
……「目で聞く、耳で見る」という芭蕉の俳句の働きを最も明瞭に現しているのは、次の句なのではないかと思います。
海くれて鴨の声ママほのかに白し
この句にはとても面白い特徴があります。丁寧に読んでみれば、五ー七ー五ではなく、五ー五ー七となっていることが分かります。規準を守ろうとすれば、不可能ではないでしょうが、しかし、「海くれてほのかに白し鴨の声」のように並べ替えたら、インパクトが薄れて、ごく普通の句になります。なぜでしょう。「感覚の合流」というその特徴が失われてしまうからではないでしょうか。
こう前置きしたあとで、感覚合流を「視線と声が一致する瞬間」と、たいへん魅力的な言葉で結論付ける。
まず、「海くれて」(視覚)と「鴨の声」(聴覚)は、異なる感覚に働きかけることで、対比させられます。一方、「ほのかに白し」は、二つの異なる感覚の合流、視線と声が一致する瞬間を表現しています。
もとより共感覚という話はどこにも見当たらないが、ここでは感覚の合流がそれと同義に用いられていることはたしかである。しかもこれが、芭蕉および蕉門の俳諧のきわめて重要な指標となっている「不易流行」と、ほぼ同列の位置付けで論じられていることは前記のとおりで、感慨深い。
このように見てくると、いささか深読みに過ぎるのではないかと思われるこの節の結びの次のような文言も、不思議に説得力を持ちはじめる。“世界文学”としての「俳句の見方」の多様性に拍手である。「俳句の味方」であることもまちがいなさそうだ。
最初の二つの表現が五文字であるのに対して、三つ目が七文字となっていることにも、大きな効果があると思われます。読者には、飛び去っていく鴨を想像させてくれるという効果です。そして、句が響き終わると同時に、鴨の姿も声も消えてしまいます。
というようなわけで、芭蕉を中心にした共感覚俳句のあらましと見方、その考察過程で出合わざるを得ない詩の比喩についての見方などを、このサイトをお借りして5回にわたり描いてみたいというのが筆者の見当である。
(望月清彦)
【執筆者プロフィール】
望月清彦(もちづき・きよひこ)
1935年東京都三鷹市生まれ。東京都在住。俳誌「百鳥」同人。総合誌「中央線」同人。1990年俳誌「裸子」年度賞・身延山賞、2008年角川書店賞、2011年毎日俳壇賞、2012年読売俳壇年間賞、2013年朝日俳壇賞、2020年読売俳壇年間賞受賞。同年NHK全国俳句大会龍太賞入選、2021年同龍太賞入選。句集『遠泳』(読売俳句叢書第Ⅰ期第2集)現在『読売年鑑』文学分野載録俳人、俳人協会会員。
https://sectpoclit.com/kiyohiko-2/ 【木枯やたけにかくれてしづまりぬ 芭蕉【季語=木枯(冬)】】より
木枯やたけにかくれてしづまりぬ
芭蕉
世界的名句も共感覚俳句
『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』(キーン、クリステワ共著)の「なぜ」(理由)の主要な要素が〈感覚合流〉にあるという指摘は、かねて〈共感覚俳句〉に刮目してきた筆者にはうれしい限りである。だから同書の内容にもう少しこだわるのだが、感覚合流には共感覚だけではなく、もう一つの大きな意味内容が含まれている。
キーンが重きをおいて述べるのはそれだ。俳句の一字一字(一音節ごと)の音のことで、同書の「音に注目しない日本人」について述べた章では、大体において日本の俳人は音のことをほとんど考えないという。氏の知合いの「よく知られている俳人」は、「俳人は音を全然考えない。短歌に音は大切だろうが、俳句にはイメージが大切だ」といったともいう。しかし、芭蕉の俳句には、音が中心である例がいくつもあると反論する。例えば、かの立石寺(山寺)での作。
閑さや岩にしみ入蟬の聲
ちなみに「入」は「入る」と読み、「聲」は旧漢字。俳句の視覚的効果を重く見たい筆者などには、新漢字「声」はいかにもたよりなく間が抜けていて、絶え間なくつづく蟬の声としては分量も足りない漢字だが、以下は本書の表記にしたがって、すべて「声」と書く。この句の読み方についてキーンは次のように述べる。
いまのは普通の読み方ですが、これをちょっと西洋風の読み方でやりましょう。すると、「しぃずかさや いぃわにぃ しぃみぃいぃる せみぃのこえ」。い、い、い、い、い……。そしてその「い、い、い、い……」は、蟬の鳴き声なのです。
そのほか、「春の海終日のたりのたり哉」については、「のたりのたり」の擬声語だけで、ほとんど意味のない音のみで、春の海を感じさせるのはすごいと指摘。また「夏草や兵どもが夢の跡」については、「お」という悲劇的な音の繰返し、を挙げる。
これを受けて、この「しづかさや」の句が自分の大好きな芭蕉の俳句だというクリステワは、たった十七の音節のうちに七つも「i」を含み、声をのばして読んでみると蟬の声が聞こえてくるといい、自分の知る限り、蟬の声の響きに初めて着目したのはキーン先生だと思うと述べる。
キーン先生がさらに芭蕉の他の句においても、音の働きを分析し、「目で聞く、耳で見る」という感覚合流が生み出す美的効果を解き明かしたのです。
クリステワはさらに、芭蕉の俳句における聴覚的効果は、同じ音の繰返しに限るわけではなく、例えば、キーンが指摘しているように、「ほととぎす消え行くかたや島ひとつ」という句では、音の静かな下り調子が、遠くへ飛び去るほととぎすを追っていった視線をみごとに再現している、と繊細だ。先週述べた「海くれて」句の表現効果の解説に通ずるものがある。
これらの点から、感覚合流が視覚空間での聴覚的効果を主とした視覚と聴覚の合流を含む語として使われていることは明らかだ。もとより共感覚を否むものではないことは前述のとおり。同書の「芭蕉のあと」の章では、氏がとても感動したという去来の、「ほととぎす鳴くや雲雀と十文字」を取り上げ、「耳で見る」句として次のように評しているのが駄目押しになる。
この俳句は、文字通り、「耳で見る」ものです。(中略)雲雀が「縦」に、ほととぎすが「横」に飛んでいるので、まるで十文字をなすかのようですが、それに気づかせてくれるのは、それらの鳴き声です。
私流にいうならば、これは明らかに聴覚と視覚の共感覚俳句である。そればかりか、ここで振り返ってみれば、芭蕉の「閑さや」句自体が、すでにお気付きのとおり歴とした共感覚俳句なのである。私自身もそうだが、多くの人に好まれ、いまや世界の名句にまで迫り上がっているこの句が、である。ちなみに山本健吉も『俳句鑑賞歳時記』(角川学芸出版、2000年)の中で、「おそらくこの句は、紀行中一、二の佳句であろう」としるす。
もはやいうまでもなく、当句は「岩」(視覚)と「蟬の声」(聴覚)が「しみ入」という芭蕉の感じ・感触あるいは心象・映像(イメージ)などの内感の、優れて的確かつ創造的な言語化によって完成した共感覚俳句なのである。山本によると、この句には先行する二案があった。初案は「山寺や石にしみつく蟬の声」、第二案は「さびしさや岩にしみ込蟬の声」である。最後の形に決着したのは、おそらく『奥の細道』の定稿が成った時だという。長い時間をかけた見事な推敲である。
評者はとかく、蟬や岩石の種類、時刻やロケーションなど作者を取り巻く情況に注目しがちだが、ここで着目したいのは、これだけの推敲を経ながらこの作者は、目に見えない蟬の声が堅い岩石に当たって沁みていくという視覚と聴覚の合流点の大まかな感じ・感触あるいはイメージには、まったく変更を加えようとしていないということだ。
芭蕉の方法論の嚆矢ともいえる「物の見えたる光、いまだに心に消えざる中にいひとむべし」(『三冊子』)が思い当たる。あるいはまた、対象把握の方法としての〈即興感偶〉性に重きをおく芭蕉ならではのわざであろうか。物を見聞きして直覚した内感を十分に踏まえたうえで、「しみつく」→「しみ込」→「しみ入」と、ひたすら捉えた対象に迫り、美的効果を突き詰めた最適な表現を与えるべく刃を研いでいく。
言葉はいよいよ研ぎ澄まされ、面から線へ、岩を刺すまでに細く鋭くその純度を高める。辿り着いた複合動詞は紛れもなくより鋭角的な隠喩(メタファー)である。もはや蟬の声と岩との接点に衝撃は起こるべくもない。その声は周辺の「閑さ」に波紋を及ぼすこともなく溶け込む。
視覚的空間と聴覚的時間の完璧なまでの一致といってもよい。私たちがこの句を好み、一度知ったら忘れられず、何度も思い起こしては味わっているのは、五感に占めるウェートがかなり大きいこの両感覚の延長線上にある想像上の充足感が、その都度心地よく充たされるからではないだろうか。
さて、いよいよ暦の上の冬。芭蕉の視覚と聴覚(または聴覚と視覚)の共感覚俳句の中に、先週取り上げた「海くれて」句(季語「鴨」)のほかにも冬の句があるか探してみた。すぐに見つかったのが冒頭の掲句だ。その柔らかく緊まった表現が心に残る。
いままで竹叢に吹き付けて諸竹を大揺れに揺らしつづけてきた木枯が、つとおさまり、すっかり静まり返っている情景を、やはり作者の内感を踏まえて形象化する比喩で捉えた句だ。「たけにかくれて」と視覚の活喩(擬人法)を用いて、「しづまりぬ」と聴覚の世界へ導く。「木枯」の一語を除く十三文字までが仮名書きで、芭蕉の句には珍しい。しなやかな竹のおもむきを狙った表記であろう。
前書に「竹畫讃」とあるから実景ではなかろうが、描かれた竹叢に、目には見えない木枯の動静を探り当てた表現は見事だ。もちろん芭蕉が比喩を、活喩を、コンセプトとして知るはずもなく、対象を突き詰めた表現が自ずから擬人化を呼んだ、と見るべきであろう。
俳人にはむろん、詩の語句の咄嗟の「出来しゅったい」はあり得るし、「自ずから成る」を旨とする俳人も少なからずいることは承知だ。しかし、十七文字の詩作品を完成するためには、その多寡は別として推敲は欠かせず、推敲しないと判断することもまた推敲のうちである。先に見た「閑さや」句の推敲の過程を思い浮かべれば、この句が多かれ少なかれ似通った経路を辿ったと見ても差支えなかろう。
このように、俳句の共感覚表現が比喩に向かい、詩としての優れた比喩に到り着くことで、把握即表現の高みに達している例は少なくない。かなり特殊でエッジー(先端的)な存在といえる共感覚俳句を通じ、より一般的なテーマである俳句の比喩について、次週以後も折に触れて述べてみたい。
https://sectpoclit.com/kiyohiko-4/ 【やなみだの烹る音 芭蕉【季語=埋火(冬)】】より
2021.11.23 ハイクノミカタ, マンスリーゲスト
埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉【季語=埋火(冬)】
埋火もきゆやなみだの烹にゆる音
芭蕉
量より質の共感覚俳句――芭蕉句のリスト
芭蕉以前の俳諧に共感覚表現があったかどうかは目下のところ詳らかではなく、識者に問うてみたいところだが、私の知るかぎり和歌には確かにあった。 時はかなり遡り新古今の時代。名歌としても知られる藤原定家の次の歌だ。
風の上に星のひかりはさえながらわざともふらぬ霰をぞ聞く
知の巨人ともいわれた加藤周一はその好著『文学とは何か』(角川選書、1971年)の「詩について」の章の三節「中世の詩精神」の中で「時代を越えるもの」としてこの歌を取り上げている。 氏によれば、近代ヨーロッパの詩人がギリシアの甕を見つめながら、「聞こえぬ音楽」を感じたように、 中世日本の詩人は星空を眺めながら、「ふらぬ霰」の音を感じたにちがいないとして、次のように言う。
吹き過ぎる風は、われわれの頬にふれ、つめたい星の光は、われわれの頭上に輝く。この歌をくり返しよんでいると、われわれの耳には霰の音がきこえてきます。降らぬ霰を聞くというのは、比喩ではないようです。(中略)その感じは三十一文字の詩句の中に定着され、実体化され、移りゆく時を越えて、われわれの前におかれている。 それが詩というもの・・、大理石のようにかたく、動かしがたい作品です。
言うまでもなくここに詠われた詩の核心をなすものは、「星のひかり」(視覚)と「霰(の音)」(聴覚)が同時に感覚され合流した共感覚表現である。 加藤はさらに、このような定家の作品は「表現の完璧さにおいてほとんど純粋な・・・詩に達したと絶讃する。 これらの評言、とくに引用文の後半(中略以下)は、ほぼそのまま先々週取り上げた芭蕉の「閑さや」句にも当て嵌るであろう。 『去来抄』によれば、芭蕉が定家を高く評価していたことは明らかだが、もとよりこの歌の影響を受けたどうかは定かではない。
さて、加藤は「詩というもの・・」と述べた。この考え方を最初に出したのは、フランスの文学者・哲学者のジャン=ポール・サルトル(1905-1980年)である。 極度に要約していえば、私たちの日常会話の言葉や散文(文学上のものを含む)のような通信・伝達の用に供される言葉は、シーニュ(記号)であるのに対して、詩はそれ自体で充足した「もの」だという。 わが国でも戦後ほどなく出版された『シチュアシオンⅡ』(邦訳『文学とは何か』)は、ジャン・アルチュール・ランボーの詩のフレーズをもとに、その長大な文学論を展開しており、私は学生時代に何度となく苦汁を嘗めながら読破した記憶がある。
加藤が述べるとおり、定家の歌が「大理石のようにかたく、動かしがたい」「もの」であるとするならば、一個の隠喩を革新に、より以上に短く動かしがたく凝縮された芭蕉の句は、より以上に堅固で充実した「もの」である。 対話でもなく、ありのままの叙述でもなく、短い暗示で表現することを身上とする俳句の比喩について、かつて俳句の「物の如きたしかさ」を推奨した秋元不死男が、実作者の立場から述べた次の一文の、事に即したタイト感は忘れられない。好著『俳句入門』(角川選書、1983年)の「俳句の表現」の章にある。
比喩するものと比喩されるものが適切無碍むげで、しかも飛躍しながら高いところで吻合ふんごうしなければ、比喩は何らイメージをつくることなく、単に羅列の世界、説明以下の形容で終わってしまう。
文中の「比喩」はそのまま「隠喩」と読み替えてもよさそうだ。また、「飛躍しながら高いところで吻合」とはどういうことなのか。 このあたりをもう少し、私なりに噛み砕いてみたいのだ。まず、「吻合」は二つの事柄がぴったりと一致すること。それはよいとして、ちょっと厄介ではあるが隠喩そのものを適切に読み取るうえで、この際、是非とも触れておきたいのが以下の諸点だ。
そもそも引用について『ブリタニカ国際大百科事典』には、次のようにある。「比喩の一つで、「氷の刃」「彼女は天使だ」のように、「〜のような」にあたるを語を用いないたとえ。これに対して、「氷のような刃」「彼女は天使みたいだ」などの表現を直喩(シミリ)という。隠喩の目的は、上の例ならば、刃や女性の性質、状態を直喩よりもいっそう印象深く聞き手や読者に伝えることであり、そのためには、使い古されない新鮮なたとえが必要とされる」と。基礎的な解説から後半の隠喩の目的へ、不死男の「高いところ」が少し見えてくる。
一方、『コンサイズ・オックスフォード辞典』のメタファーの項には、「名称または叙述の語を、それが字義通りには適用されない対象に適用すること」とあり、その主要な型としてグレアリング・エラー(紛れもない誤り)を挙げる。これは日常、私たちが常識的に使っている言葉の意味からすれば明白に誤っていても成立してしまう表現を指している、といえよう。
これらを総括していえば、より印象深く新鮮な表現へと飛躍し、より高次で創造的な表現により対象(あるいはその内感)に肉迫し、しっかりと吻合をさせるのでなければ、詩としての隠喩は存在理由を失ってしまうということだ。 まさしく俳句の比喩についての不死男の見解と吻合するし、この稿で折に触れて述べてきた芭蕉の共感覚俳句の比喩(主として隠喩)についての見方とも矛盾しない。
さらに付け加えるならば、この型破りの新味ともいうべきものは、芭蕉の「黄奇蘇新」の提唱(『笈の小文』)とも照応するもの。芭蕉曰く。その日は雨が降って晴れたとか、どこに松の木があったとか、何という川が流れていたとか、誰でもいえそうなことはつまらなく、「黄奇蘇新のたぐひにあらずばいふ事なかれ」と手厳しい。中国の黄山谷の詩に見られるような珍しさや、蘇東坡の詩に見られるような新しさがなければ、書き表すべからず、というのである。
これは紀行文に対する芭蕉の意欲を示したもので、自ずから大景がイメージされるが、冬の句として冒頭に掲げた芭蕉の共感覚俳句はどうだろうか。 芭蕉の内面、いや内感に根ざした小さな景色とかいいようがない句にもかかわらず、以上で述べてきた隠喩の本質は通底している。
この句、「ある人の追善に」と前書があり、また中村俊定校註の『芭蕉俳句集』(岩波文庫、2015年)によると、『笈日記』には「少年を失へる人の心を思いやりて」との前書があると脚注が付されているので、男児を失った家族の追善供養に立ち会った芭蕉の心象の句であろう。 その夜が更けて、埋火もはや消えてしまったというのに、またもおとずれる愁嘆場が想像される。 とりわけ母親であろうか。泪にくれ、泪に沈み、泪の底にいるその姿がいたわしい。泪は目から流れ出るだけではなく、相貌を歪め、鼻腔に喉に溢れては噎ぶ。 その音を「烹(煮)ゆる」と捉えた。 この視覚と聴覚の共感覚を洩れなく掬い取ったともいえる印象深い一語が、常用語としては明白に誤りでありながら、対象と見事に吻合した隠喩なのだ。
以下は、多少の遺漏はあろうが、芭蕉の全句中から、これまでに述べてきた私の規準に従って抽き出した共感覚俳句のリストである。 この稿に既に掲出した句も、リストとしての完結を期して再掲した。 句の表記、作句年代順の配列は、底本とした『芭蕉俳句集』(前出)によった。 句に付されている前書は、句の内容に直接ひびくと思われるもののみを括弧内に付し、他はすべて割愛した。 各句に含まれ、句の核心をなしている比喩の種類を、句の左側の括弧内に付したが、その多くが隠喩であり、ごく一部が活喩、張喩、声喩、喩なし、であった。
リストのとおり、芭蕉の共感覚俳句の総数は38句。そのうち、(1)聴覚と視覚(または視覚と聴覚)句が15句で最も多く、 次いで(2)視覚と触覚(または触覚と視覚)句が11句、(3)視覚と嗅覚(または嗅覚と視覚)句が5句、以下、(4)嗅覚と聴覚句、(5)嗅覚と触覚句、(6)聴覚と味覚句、(7)聴覚と触覚句、 (8)触覚と味覚句、(9)視覚と触覚と聴覚句、(10)嗅覚と視覚と触覚句、の(4)〜(10)が各1句(計7句)となった。 共感覚俳句の幅の広さがうかがわれる。
(1)聴覚と視覚(または視覚と聴覚)句
霜を着て風を敷寝しきねの捨子哉 (隠喩)
海くれて鴨のこゑほのかに白し(海辺に日暮ひぐらして) (隠喩)
木枯やたけにかくれてしづまりぬ(竹畫讃) (隠喩)
手鼻かむを(お)とさへ梅の盛り哉 (隠喩)
ほろほろと山吹散るか瀧の音 (声喩)
須磨寺や吹かぬ笛聞く木下やみ (隠喩)
埋火もきゆやなみだの烹にゆる音 (隠喩)
閑しづかさや岩にしみ入いる蟬の聲 (隠喩)
声すみて北斗にひゞく砧きぬた哉 (隠喩)
手をうてば木魂こだまに明あくる夏の月 (隠喩)
牛部やに蚊の聲闇くらき残暑哉 (隠喩)
木枯に岩吹ふきとがる杉間かな (隠喩)
郭公ほととぎす声横たふや水の上 (活喩)
松風や軒をめぐって秋暮くれぬ (隠喩)
秋の夜を打崩うちくづしたる咄はなしかな (隠喩)
(2)視覚と触覚(または触覚と視覚)句
野ざらしを心に風のしむ身哉 (隠喩)
此このあたり目に見ゆるものは皆涼し (張喩)
結ぶより早はや歯にひゞく泉かな (隠喩)
涼しさやほの三か月の羽黒山 (喩なし)
暑き日を海にいれたり最上川 (活喩)
石山の石より白し秋の風 (隠喩)
葱ねぶか白く洗ひたてたる寒さ哉 (隠喩)
塩鯛の歯ぐきも寒し魚うをの店たな (隠喩)
すゞしさを繪にうつしけり嵯峨の竹 (隠喩)
朝露によごれて涼し瓜の泥 (隠喩)
湖やあつさをお(を)しむ雲のみね (活喩)
(3)視覚と嗅覚(または嗅覚と視覚)句
蒼海の浪酒臭しけふの月 (隠喩)
清く聞きかん耳に香燒かうタイいて郭公ほととぎす (張喩)
其その匂ひ桃より白し水仙花 (隠喩)
むめがゝにのつと日の出る山路かな (声喩)
さざ波や風の薫かをりの相拍子あひびゃうし (隠喩)
(4)嗅覚と聴覚句
松杉をほめてや風のかほ(を)る音 (隠喩)
(5)嗅覚と触覚句
むめが香に追おひもどさるゝ寒さかな (活喩)
(6)聴覚と味覚句
降音ふるおとや耳もすふ(う)成なる梅の雨 (隠喩)
(7)聴覚と触覚句
鳩の声身に入しみわたる岩戸哉 (隠喩)
(8)触覚と味覚句
身にしみて大根からし秋の風 (隠喩)
(9)視覚と触覚と聴覚句
たのしさや 青田に涼む水の音 (活喩)
(10)嗅覚と視覚と触覚句
石の香や夏草赤く露暑し(殺生石) (喩なし)
この稿の初めに「かなりある」といった芭蕉の共感覚俳句は、このリストのとおりであり、その総数38句は、「芭蕉千句」(982句)とされる中では3.9パーセントにすぎぬのかもしれない。 しかし、私たちの日常ではそうそう体験できず、 したがって俳句という詩作品に仕上げるべきモチーフもなかなか見付けにくい共感覚の特殊性からすれば、「かなり(多い)」といえるのではないか。 現に、次回で見ることにする現代俳句の秀句中の共感覚俳句の数も、これほど多くはないのである。
比喩の種類別に句の数を見ると、まず隠喩が27句と7割以上を占めている。 共感覚俳句と隠喩との深い関係性については先述のとおりだ。 そのほか、活喩(擬人法)が5句、張喩(誇張法)が2句、声喩(オノマトペ)が2句、喩なしが2句となり ほぼ全句が何らかの比喩表現によって詩の核心(中心的成分)を得ている点も、注目すべきであろう。、ちなみに活喩や張喩も、先に述べたグレアリング・エラーを含むこの転義(語の本来の意味が 他の意味に転じること。また、転じて生じた意味)への転用があるかぎり、隠喩の仲間だとする説があることも、ここで付記しておきたい。
さらに刮目したいのは、これらの共感覚俳句の中には芭蕉の名句として人口に膾炙してきた句が、少なくとも10句余りはあることだ。 これらはいかにも芭蕉らしく、芭蕉句の真髄ともいえる句群である。山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(前出)もこの句群の中から、「海くれて」「閑さや」「郭公ほととぎす」「暑き日を」「葱ねぶか白く」「むめがゝに」の6句を取り上げている。ほかに「霜を着て」「ほろほろと」「秋の夜を」「野ざらしを」「石山の」の5句などもよく知られた名句であろう。 共感覚俳句の価値は、量ではなく質の価値である。
いま、これらの名句を含むリスト中の各句の、隠喩の核心部分を噛み砕き、短い口語の平叙文のフレーズに書き替えてみるとどうだろう。 ちょっとランダムな例示になるが、「(捨子が)霜を着る」「(捨子が)風を敷寝する」「(木枯が)たけにかくれる」「(木下やみに)ふかぬ笛をきく」「(なみだの音が)烹(煮)える」「(蟬の聲が)岩にしみ入る」「(咄が)秋の夜を打ち崩した」「(木枯で)岩が吹きとがる」「(郭公の声が水に)横たう」「(泉が)歯にひびく」「(最上川が)暑い日を海に入れた」「(葱を白く)洗いたてたさむさ」「(嵯峨の竹の)すゞしさを繪にうつした」「(梅の香に)追いもどされる寒さ」「(梅雨の降る音で)耳もすくなる」「(水の音が)青田に涼む」……。
このように見てくると、俳句の骨法は名詞の的確な選定にあるとする在来の諸説は、にわかに疑わしくなるほどだ。 芭蕉が苦心に苦心を重ね、内感から伸びる繊細な触手で搦め捕ってくるものは主として動詞(あるいは複合動詞)であることが歴然とする。 これは共感覚俳句にかぎってのことではないが、共感覚俳句の大きな特徴であることはまちがいない。その捕縛の仕方の狙いの中には、詩的真実を表す美的効果と同時に、俳諧に伝統的な俳味を匂わせるところもあるようだが、芭蕉一流の<高悟帰俗>の詩精神は手放していない。
常用語としては明らかに間違っているとしかいいようのない動詞を探り出すことによって芭蕉が突き詰めたものは、「物の見えたる光」であり、それを十七文字しか許されない短詩の中へ最適な短さと鮮度で織り込むことにより、即自性のより強い充実した言語への「もの化」ではなかったか。
それは、稀有な散文家でもあった芭蕉にとって、紀行のような散文ではとても成し遂げることはできず、かつまた、連句から独立した発句の完結性を担保する方法でもあったであろう。 表現の一挙性を旨とする短詩表現への隠喩の活用を求め、それを可能にしたものは、まるで果実の種のような存在として動詞を活かしきった真の「動詞の活用」であった。
さて、ここにあるのは大方が主観句といってよかろう。少なくとも眼前の景や事物をありのままに写すことを目指す近代の客観写生とは相容れない、その対極にあるといっても過言ではない作法を探った詩だ。「心の味をいひ取らんと、数日腸はらわたをしぼる」 (『三冊子』)のような芭蕉ならば、その心裡を比喩によって表そうという意識を是としたとしても不思議はあるまい。 「心の味」を写そうとして成るものは、客観写生ならぬ主観写生というほかはない。 単なるスケッチやデッサンではなく、風韻や写意を含む本来の写生に根を下ろした俳句作法の要諦を、芭蕉は熟知していたと思えてならない。
さればこそ、共感覚は芭蕉のモチーフになり得た。さればこそ、芭蕉は共感覚に最適な手法を探り得た。 己と対象との間に思いもよらない比喩の橋を掛け渡し、主人ー客の自由な交感の通路を拓いた。 芭蕉が呼び掛ければ、対象は光を放って応えた。芭蕉はその味わいを享受した。そこには物と心の融合、主ー客感合の世界が成り立ち、 芭蕉の創造の沃野の拡大と充実に測り知れないエッセンスを注ぎ込だ。
ここに至って、メルロ=ポンティによる『知覚の現象学』の要約解説(前出)でまとめられた結論的な記述を、改めて思い浮かべてみたくなる。 そこでは、共感覚を生む身体が場となる「共通感覚」を知りつくした画家の例が引かれた。まさしくそういう画家が、「主ー客の対立を超えて、能動ー受動の対立を超え」て、「対象の真の経験を取り戻す」のだという。 そしてそれは、この世界が「汲みつくし得ない豊穣さを有している」あかしであると。
https://sectpoclit.com/kiyohiko-5/ 【蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【季語=結氷期(冬)】】より
蝶堕おちて大音響の結氷期
富沢赤黄男とみざわかきお
芭蕉以後から現代の共感覚俳句へ
芭蕉の共感覚俳句のリスト(先週)を作成しながら芭蕉の隠喩を含んだ統語力の強さとでもいうべきものを改めて実感したのである。 それははたして芭蕉以後に受け継がれたのか。 その点をしっかり見極めるためには、まず芭蕉の門人たちの共感覚俳句を覗いてみる必要があろう。 一つの方法として、日本近世文学の第一人者である堀切実の著書『芭蕉の門人』(岩波新書、1991年)により、氏が各門人の秀句と見て文中に取り上げている各句から、共感覚俳句を抽き出してみた。
同書の冒頭(「はじめに」)で氏は、「芭蕉という秀峰は、芭蕉を敬愛した多くの門人たちから成る連山の上に、どっしりそびえ立っている。 この世界的にも誇るべき名山を支えるのは、多士多彩な門下の俳人群像であり、人はこれをさして“芭蕉山脈”と詠んだりする」としるす。 その門人の数は「三百人とも二千人ともいわれる」中から同書では、芭蕉との人間的な結びつきの深さ、作品の評価、師翁敬慕の態度などから総合的に判断して、去来、杉風、許六、丈草、其角、嵐雪、支考、野坡、北枝、凡兆、惟然の十人を「新・蕉門十哲」として推挙している。
十人の秀句を通覧してみると、支考を除く九人に共感覚俳句があり、列記すると次のリストのようになる。 このうち去来の「郭公」句は、この稿の2回目の週で取り上げているが、リストのバランス上から再掲した。俳号の右側に付したのは共感覚の組合せと比喩の種類である。
一畦はしばし鳴きやむ蛙哉 去来 視覚・聴覚(喩なし)
郭公ほととぎすなくや雲雀と十文字 同 聴覚・視覚(隠喩)
声かれて猿の歯白し峰の月 其角 聴覚・視覚(喩なし)
雀子やあかり障子の笹の影 同 聴覚・視覚(喩なし)
ゆく水や何にとどまる海苔の味 同 視覚・味覚(喩なし)
我が雪と思へば軽し笠の上 同 視覚・触覚(喩なし)
雪の松折れ口みれば尚寒し 杉風 視覚・触覚(喩なし)
大名の寝間にもゐたる寒さ哉 許六 視覚・触覚(活喩)
藍壺にきれを失ふ寒さかな 丈草 視覚・触覚(隠喩)
梅一輪一輪ほどの暖かさ 嵐雪 視覚・触覚(直喩)
小夜しぐれとなりの臼は挽ひきやみぬ 野坡 視覚・触覚(喩なし)
百舌鳥もずなくや入日さし込む女め松原 凡兆 視覚・聴覚(喩なし)
肌さむし竹切山のうす紅葉 同 視覚・触覚(喩なし)
蝋燭のうすき匂ひや窓の雪 惟然 視覚・嗅覚(喩なし)
一門とはいえ十人十色の俳風が感じられるのはさすがである。 とはいえ、芭蕉句との比較によれば、この十哲句に異なった傾向があることは見逃せない。 もとより芭蕉句について当たったのと同じように、各人の全句を通覧したわけではなく、単純な比較はできないが、まず似通っているのは諸感覚の組合せで、視覚と聴覚の共感覚が最も多く、次いで視覚と触覚となり、その他(視覚と嗅覚など)句が最も少ない点。
大きく異なっているのは、芭蕉句では比喩を含まない喩なし句が全38句中わずかに2句と、ほとんどが比喩を核心に抱いているのに対して、十哲句は、全14句中 10句までが喩なしであること。残る4句のうち、隠喩は2句である。 このことは、芭蕉句の多くが隠喩の求心的な力によって統語し、対象A、対象Bを結びつけて、AがBを限定するとともにBがAを限定する関係の堅固さを有するのに対して、十哲句の多くは、A、Bの並置にとどまっていることを示す。 比較によって初めて明瞭となる一個の物のような確かさの形成は、芭蕉名句の一半に見られる取合せの求心力についてもいえることだが、ここでは論及しない。
だからといって十哲句が、俳句として見劣りするというのではない。 ここでは、共感覚俳句の表現の特質や型を探っているのであり、A、Bの並置形であっても、比喩の原型と言われるアナロジー(類比)の優れた句に、秀句は数多くある。 比喩のある去来の「郭公ほととぎす」句、許六の「大名の」句、丈草の「藍壺に」句、嵐雪の「梅一輪」句はさすがだが、惟然の「蝋燭の」句にような喩なしで並置型の句にも、アナロジーのたしかさと面白さがある。
時代は下って江戸中期。芭蕉を崇敬し、蕉風の復興に努め、天明俳諧を確立した蕪村はどうであったか。まず、この稿の1週と2週の前半でやや詳述した『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』の共著者ツベタナ・クリステワが、その「芭蕉のあと」の章で、ここに感覚合流の優雅な美を発見できる、として取り上げた次の一句を挙げる。併せて、氏による優れた鑑賞文を掲げよう。
涼しさや鐘を離るる鐘の声
よく知られていると思いますが、これが蕪村の最も有名な俳句の一つです。俳画の絵師としても優れていた蕪村は、言葉でも絵を描いています。肌で感じる「涼しさ」と耳に聞こえる「鐘の声」は、「鐘を離るる」という、聴覚的描写でありながら視覚映像でもある表現によって、みごとに関連づけられるので、読者には見えないはずの「鐘の声」も見えてきますし、「涼しさ」も伝わってきます。
氏にしたがえば、「聴覚的描写でありながら視覚映像でもある表現」なので、「鐘を離るる」は明らかに隠喩であり、この句を名句たらしめている要石なのだ。 作者の内感を真の「動詞の活用」によって掌握する芭蕉流の共感覚俳句であって、見えないものを見せる高雅にして巧妙な形象力に驚かされる。 蕪村の共感覚俳句の代表的な一句である。
次に掲げるのは、尾形仂校註による『蕪村俳句集』(岩波文庫、2015年)から抽いた共感覚俳句22句であり、蕉門十哲句のリストと同様に、右側に諸感覚の組合せと比喩の種類を付した。
古井戸や蚊にとぶ魚の音暗し 聴覚・視覚 (隠喩)
落合ふて音なくなれる清水哉 視覚・聴覚 (喩なし)
涼しさや鐘を離るる鐘の声 視覚・聴覚 (隠喩)
廿日路の背中にたつや雲の峰 触覚・視覚 (張喩)
秋立たつや素湯香さゆかうばしき施薬院せやくいん 嗅覚・視覚 (隠喩)
稻妻にこぼるる音や竹の露 視覚・聴覚 (隠喩)
笛の音に波もよりくる須磨の秋 聴覚・視覚 (隠喩)
こがらしや岩に裂行さけゆく水の聲 視覚・聴覚 (隠喩)
牙きば寒き梁うつばりの月の鼠かな 触覚・視覚 (張喩)
易水にねぶか流るゝ寒さかな 視覚・触覚 (隠喩)
皿を踏ふむ鼠の音のさむさ哉 聴覚・触覚 (隠喩)
斧入て香におどろくや冬こだち 聴覚・触覚 (喩なし)
山守のひやめし寒きさくらかな 視覚・触覚 (喩なし)
むめのかの立たちのぼりてや月の暈かさ 嗅覚・視覚 (隠喩)
我捨わがすてしふくべが啼なくか閑居鳥 視覚・聴覚 (隠喩)
看病の耳に更ふけゆくおどりかな 聴覚・視覚 (隠喩)
篠掛や露に声あるかけはづし 視覚・聴覚 (隠喩)
わたし呼ぶ女の声や小夜ちどり 聴覚・視覚 (隠喩)
落葉して遠く成けり臼の音 視覚・聴覚 (隠喩)
眞がねはむ鼠の牙の音寒し 聴覚・触覚 (隠喩)
我骨のふとんにさはる霜夜かな 視覚・触覚 (隠喩)
「芭蕉千句」といわれ「蕪村二千句」といわれる中で、 目下のところ蕪村句の数の精査は行っていないが、共感覚俳句の割合では芭蕉を下回っている感じがあるなど、概ねの傾向は掴めると思っている。 リストによれば、諸感覚の組合せでは視覚と聴覚句が最も多く、次いで視覚と触覚句の順となり、その他(視覚と嗅覚など)句が最も少ない点などは、芭蕉句、十哲句と似通っている。 芭蕉句とは同様だが十哲句とは大いに異なっているのは、喩なし句が極めて少なく、ほとんどが比喩(主として隠喩)を核心に形象化されていること。 むしろ隠喩の割合は芭蕉を超えるほどだ。 芭蕉尊崇の蕪村の面目躍如といったところか。
では一茶はどうであろう。 蕪村生誕後約50年遅れて生まれたが、15歳から俳句を詠みはじめ、蕪村晩年の約20年間は同じ時代を生きた。 生涯逆境にあったといわれ、そこからにじみ出た独特の主観的・個性的な句をつくったとされる。 そんな一茶には共感覚俳句が結構多い。 「一茶二万句」といわれるほどだから、その全句に当たれば相当な数になる可能性がある。
しかしここでは、 荻原井泉水編の『一茶俳句集』(岩波文庫、1984年)から抽いた共感覚俳句のうち、はなはだ僭越ながら筆者がなるほど一茶らしいと直覚した秀句を、蕪村の場合に合わせて22句に限りリストに掲げ、大方の参考に供することとした。 その中には比較的よく知られる「涼風の吹く木へ縛る我子哉」「しづかさや湖水の底の雲の峰」「故郷は蠅まで人をさしにけり」などが含まれるが、 最も一茶らしい共感覚俳句として、あえて次の飄逸な秀句をクローズアップしたい。
散芒ちるすすき寒くなるのか目に見ゆる
共感覚の存在を熟知していたのではないかと思われるような一句である。 情動反応により近い生な感情(現代脳科学でいう一次感情)を捉えることに秀でた一茶の、肌の感覚を目で見た秀句だ。 一般的に一茶の句は、様々な生き物への情けを主とした感情面から評価されることが多いが、こうした視点から後掲のリストを鑑賞していただくことにも意味があろう。
思えば、これまでに見てきた非常に名高い俳人たちの秀句も、決してあからさまな喜怒哀楽の感情表現には向かわず、より直截な一次感情というべき内感を探り当てることで、単なる対象指示の表現域にとどまらない自己表出を成し遂げていたことに立ち返るのだ。 そこに暗示されるものの奥行き、深さ、広がりの豊かさに、人の心が揺す振られる。
三日月はそるぞ寒さは冴えかへる 視覚・触覚 (隠喩)
鶯や松にとまれば松の聲 触覚・視覚 (隠喩)
大井川見えてそれから雲雀哉 視覚・聴覚 (喩なし)
梅がかや生覺なまおぼえなるうばが家 嗅覚・視覚 (喩なし)
蕗の葉にぼんと穴明く暑あつさ哉 視覚・触覚 (隠喩)
しなの路の山が荷になる暑あつさ哉 視覚・触覚 (隠喩)
暑き日や胸につかへる臼井山 触覚・視覚 (隠喩)
涼風の吹く木へ縛る我子哉 触覚・視覚 (喩なし)
風の吹く木へ縛る我子哉 聴覚・視覚 (隠喩)
暁あかつきのむぎの先よりほととぎす 聴覚・視覚 (隠喩)
故郷は蠅まで人をさしにけり 視覚・触覚 (隠喩)
蟬啼なくや空にひつつく筑摩川 聴覚・視覚 (隠喩)
鵲かささぎの聲のみ青し夏木立 聴覚・視覚 (隠喩)
人聲に蛭の降る也夏木立 聴覚・視覚 (隠喩)
萩の葉にひらひら残る暑さかな 視覚・触覚 (声喩)
冷ひやつくや背筋あたりの斑山 触覚・視覚 (隠喩)
鶯もひよいと来て鳴く柚みそ哉 聴覚・視覚 (声喩)
日ぐらしや急に明るき湖うみの方 聴覚・視覚 (喩なし)
擂鉢の音に朝㒵咲あさがほさきにけり 聴覚・視覚 (張喩)
散芒ちるすすき寒くなるのか目に見ゆる 視覚・触覚 (隠喩)
初雪やとある木蔭の神楽笛 視覚・聴覚 (喩なし)
霜かれや米くれろ迚鳴とてなく雀 視覚・聴覚 (活喩)
結果として筆者の恣意が混じり、客観性を欠くといわれても仕方のない掲出句を、これまでと同じ規準によって比較するのは無意味かもしれないが、一応の参考に供すると、リストからは次の諸点が指摘できる。 まず諸感覚の組合せでは、視覚と聴覚句が最も多く、次いで視覚と触覚句の順となり、その他(視覚と嗅覚)句が最も少ない。 この点は芭蕉句、蕉門十哲句、蕪村句と似通っている。 比喩の種類では、やはり隠喩が大多数を占め、芭蕉句、蕪村句と大差はない。喩なし句も多目ではあるが、十哲句にくらべるとかなり少ない。ここでも共感覚俳句と比喩(主として隠喩)との関係の強さが目にとまる。
芭蕉、蕉門十哲、蕪村、一茶と、巨視的に見れば 大同小異の傾向で受け継がれてきたといえる共感覚俳句だが、それは現代俳句にどう反映しているのかが、ここからの主題だ。 まず現代俳句という一括りの広大な海から、どのようにして共感覚俳句を汲み上げれば有意なのか、これまで述べてきた過去の流れと連接して比較検討を可能にする意味あるサンプル取りができるのか、という前段の課題に突き当たって苦慮した。 だが、突き詰めれば通じるものである。
今私の机上にあるのはまことにハンディな一書『覚えておきたい極めつけの名句1000』(角川学芸出版、2008年)である。編者は出版社自身。目次を開くと、例えば自然の項であれば、「天象」「地象」「明暗」といったキーワード別に現代俳人の名句(以下「秀句」ということにする)が選び出されるかたちで、その数は合計千句余り(1090句)に及んでいる。
その中には、私自身が秀句として覚えている句も数多くあり、世に秀句と評価されて広く知られている句などが、各頁のいたるところに輝いている。「芭蕉千句」ならば、こちらは「現代千句」だ。 私自身の恣意が入らず、共感覚俳句を抽き出す底本としては打って付けである。 ちなみに、ここに掲出された約千句のじつに6割以上が何らかの比喩を含んだ句であり、取りも直ささず現代俳句の本質を語るには、比喩を抜きにすることはできないということでもあろう。
ところで、現在といえば何といってもやはり散文の時代ではある。 文学においては特に尨大な量の現代小説の表現上の多様な試みを抜きにして、共感覚表現を語るのは片落ちというものであろう。 そこには、現代俳句の共感覚表現を考える上でなにが そこには、現代俳句の共感覚表現を考える上でなにがしかのヒントがあるのではないかと思っていた。 そこで、日本語の表現研究の第一人者で修辞学にも造詣が深い中村明による『比喩表現の世界』(筑摩書房、2013年)を繙き、「感覚の表現」の章を読む。
するとそこには、現代の「作家が作り出したイメージの沃野を訪ね、鮮烈なものの見方に出会う」との帯文に違わず、長短の散文の比喩表現の文例があるわあるわ。 その中から、これは共感覚表現だと見られる文例の一部を抽き、それに当たる部分をごく短く列記すると次のようになる。 初めの括弧内は当該部分に係る主部または情況描写の要約、末尾のそれは諸感覚の組合せである。
○ 三島由紀夫の『花ざかりの森』に、「(秋霧の一団が)背戸をとおりぬけていくのがきこえた」(視覚と聴覚)
○同『花ざかりの森』に、「(老人の寝起きのときのかすれ声の) 柔和な、たとえばかすれ勝ちの隅の筆跡のような、郷愁的なまでの発音」(聴覚と視覚)
○梶井基次郎の『城のある町にて』に、「(数里離れた市の花火の) 綿で包んだようなかすかな音」(視覚と聴覚)
○幸田文の『流れる』に、「(芸者屋の主人が練習する唄声には)ざらつく刺激がある」(聴覚と触覚)
○同『流れる』に、「(隙間風が)梨花の背なかへ細長いつめたさを吹きつけてくる」(視覚と触覚)
○田宮虎彦の『琵琶湖疎水』に、「(生粋の大阪弁が)餅肌の様にねばねばと舌たるく、言葉同士がもつれあう様にきこえた」(聴覚と触覚と視覚)
○円地文子の『女坂』に、「(その女の)顔も手も足も皮膚一様にどこも桜の花びらのような薄花色に匂っていた」(視覚と嗅覚)
○村上春樹の『遠い太鼓』に、「重くぬめぬめとした匂いが、はっきりとした比重を持って断層のように浮遊している」(触覚と嗅覚と視覚)
○林芙美子の『清貧の書』に、「(部屋の中は)馬糞紙のようなボコボコした古い匂いがこもっていて」(視覚と触覚と嗅覚)
○有島武郎の『生まれ出づる悩み』に、「(米の飯の味は)無味な繊維のかたまりのような触覚だけが冷たく舌に伝わってくる」(味覚と触覚)
○大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』に、「(冬の夜霧の)冷たい空気が硬い粉のように瞼や頬に痛かった」(視覚と触覚)
○内田百閒の『掻痒記』に、「(頭の痒さは言語に絶して)自分の頭が三角になる様だった」(触覚と視覚)
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