俳句の自然・子規への遡行

https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/04/blog-post_1407.html 【俳句の自然 子規への遡行01 橋本 直  子規の自然】より

子規のことを書いた虚子の文に子規の言葉として以下のような一節がある。

余は人間は嫌いだ、余の好きなのは天然だ。余は小説家にはならぬ。余は詩人になる。(高濱虚子「子規居士と余」四)

人は嫌いだが自然は好き。だから俳句を詠むのだ。という気分ならば、今でも結構普遍性のあるものではないだろうか。ここで正岡子規の言ったという「天然」は、いまなら「自然」と使われるのが普通であろう。では子規は、なぜ人間が嫌いで自然が好きだ、などと思わず漏らしてしまったのだろうか。

単純に自然を志向するという一点において見るなら、遡って芭蕉の「造化随順」、後年の虚子の「花鳥諷詠」、さらには昨今の金子兜太のいう「アニミズム」等まで、同じ枠に括れそうである。

俳句から離れ一般化してみると、昨今の地球温暖化に伴うエコロジーブームでの諸現象や、失われた魂の故郷を求める人々(例えば離郷した団塊の世代)に田園で暮らすことをメディアが煽る風潮にいたるまで、一つの心性の網目が日本の文化を貫いてきていると言えるかもしれない。もちろん詳細に見れば、実際は複雑多様なものだろうが、このゆるやかな網目こそが「発句」と「俳句」を下支えしてきたものであるようにも思われる。

さらにその根源を考えるとき、一つには、江戸以前からの漢籍、詩歌からの文学的回路との接続があるだろう。いわゆる老荘思想の実践者や、陶淵明のように官職を棄てて浮世を厭い田園自然に親しんだ漢詩人は枚挙にいとまがない。隠遁生活または、仙人願望とでもいうべきもの。あるいは、西行や芭蕉のような、世捨て人のように自然に分け入り、漂泊の中に暮らす生き様もあった。

しかし、果たしてこれらは先の子規の叫びと、同じなのだろうか。

虚子の文の引用部分は、正確には「人間よりは花鳥風月がすき也」(明治25年5月28日 碧梧桐宛子規書簡)や「僕ハ小説家トナルヲ欲セズ詩人トナランコトヲ欲ス」(同年5月4日 高浜虚子宛子規書簡)などをもとに、虚子なりに解釈・要約した文言であり、だから勘違いはできないが、そのころ正岡子規の抱えていた問題は、以下のようである。

当時の帝国大学で選ばれし者の責務として学問を全うすることは命がけの過酷な道でもあり、肺病と学問のストレスで疲れ果てていた子規は、一種の鬱病とおぼしき状況(子規自身は「脳病」と呼んでいた)になっていた。そこで気分転換して試験勉強するために出向いたはずの田園風景の中では、ついつい句作することにこの上ない喜びを見出してしまう。

何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道などをぶらり\/と歩行いて居ると其愉快さはまたとはない(中略)試験だから俳句をやめて準備にとりかゝらうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山出来る(『墨汁一滴』)

結局帝国大学を退学することになる子規は、当初小説家として世に出ることを志し、満を持して執筆した作品「月の都」を、同い歳にして既に小説家として世評の高かった幸田露伴に読んでもらったものの、芳しくない評価を受けて出版を断念してしまう。そのとき、思わず先のように手紙に書いてよこしたと虚子は書いた。

これより後の子規が「写生」による叙景の詩として俳句を近代化せしめたことは周知の通りであり、引用部分はその一節だけをみるとまるで人生に挫折して人間嫌いとなったのが原因で自然詩人になったようであるが、子規が「写生」を提唱するのはもちろん人間嫌いのためではない。

実際の子規は寂しがり屋で人間が大好きだったし、多少のまねごとはしたものの、実際に本気で隠遁することも漂泊することもなかった。

なにより、子規個人は開化後の新しい文明世界の中で、古典的趣味世界を愛しつつ、それとは一旦断裂をすることで俳諧の発句に新しい美を構成しうる技法として見出したのが俳句の「写生」だったのであり、子規の内面中「写生」提唱の前後に惹かれる自然の内実がころっと変容したとは思われない。

ではなぜ子規は私信の中で先のような書き方を選んだのであろう。単なる気分の問題では、ない気もするのだ。語った子規と読んだ虚子の差異のようなもの。

近代以降の俳句は、自然を如何に観、扱ってきたのだろう。

逆に言うなら、日本人が惹かれる「自然」の正体とは、なんなのだろう。

そもそもなぜこのような素朴な問いをいま立てているのかというと、昨今の環境問題を視野に、俳句に自然を詠む人=自然を愛する人=自然破壊をしない思想をもちうる人、というような図式を文章化したものを散見することがあって、この百年の文明文化の所行を省みない気分のお気楽さ加減にショックを受けたからである。

何かが決定的に間違っている。子規と私はちょうど百歳違う。子規以来の百数十年、俳句の詠んできた自然はどのようなものであったのかあらためて溯り、いま我々の詠もうとしている自然とは何であるのか考えてみたい。そのスタートとして、これよりしばし子規へと遡行して行きたいと思う。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/05/blog-post_20.html 【俳句の自然 子規への遡行03 橋本 直 】 より      

明治二十二年七月一日、東海道線の鉄道(新橋・神戸間)が全通した。この頃まで、東京から松山への移動には、まず新橋から横浜までを汽車で移動し、横浜から神戸まで客船に乗り、さらに神戸から松山行きの客船に乗り継いで、船中だけでも二泊三日は要すという、今から見ればずいぶん長旅であった。年譜に拠れば、子規は明治十六年の上京以来、この二十二年の夏までに二度程帰省し、この船便で東京と松山を行き来している。

以下余談である。今から見ればかなり違和感のある話だが、明治二十七年十月発行の『汽車汽船旅行案内』(庚寅新誌社発行)には、旅の護身用に、という宣伝文句でピストルの広告が出ている。今で言えば旅行ガイドや時刻表の広告欄にピストルの広告が載っているようなものだろう。当時は銃の携帯は許可制で認められていたということは分かっていたのだが、多少調べた範囲では、当局の政策方針やら管理取締については資料があったものの、一般庶民の短銃携帯の実態はつかめなかった(違法を含めれば今でもそうだが)。分かった範囲で簡単には所持できそうもない印象をもっていたのだが、このような広告に出くわし意外で驚いた。

なぜこういうことを書いているのかというと、いずれ触れることになろうが、子規の従弟の藤野古白が明治二十八年にピストル自殺しているからである。以前から精神に持病を抱えていた彼がなぜピストルを入手できるのだろうか、という疑問があり、読んだ限りで当局の資料から詰めていった調査研究資料からの印象と、この古本に出ていた広告のお気楽さとの落差はどうにも妙だ。どこかに間隙があるのだろう。

さて本題にもどる。正確に言えば、先の時点でまだ子規は子規ではない。この二十二年の五月に喀血していた正岡常規は、ホトトギスが鳴いて血を吐くという故事に因ってそれ以後〈子規〉の号を用いることになるからである。喀血後の子規は療養に努め、小康を得て学年試験をすませた後、同郷で二歳下の友人勝田主計(しょうだ・かずえ)(後に大蔵官僚・内閣参議)に付き添われ、東海道線に乗って帰省している。全通してわずか二日後の七月三日のことである。

小康を得ていたとはいえ、病身の長旅である。汽車であれば船とは違って陸路を行く分、途中で体調が悪くなったとき最寄り駅で下車が可能であるし、途次休み休み帰ることもできるから安心だという判断があっただろう。が、子規の性格から思うに、好奇心から乗りたい気持ちも強かったのではないだろうか。静岡と岐阜で一泊して、三日かけて神戸に着き、そこから船で松山に帰っている。

子規はこの年の冬も汽車で帰省しており、子規の句帳『寒山落木』明治二十二年作の句のうち、詞書からこの汽車の旅の作と思われる句が三つ確認できる。

  氣車にて   夕立の下かけぬけし美濃路哉(『寒山落木』明治二二年・抹消句)

  袋井     冬枯れの中に家居や村一つ (同 明治二二年)

  垂井     雪のある山も見えけり上り坂(同 明治二二年)

「冬枯れ」句の袋井は静岡、「雪のある」句の垂井は岐阜で、両県は先ほど書いたとおり、夏の帰省の折に子規が宿泊したところである。静岡と岐阜の何処で泊まったのかは未詳であるし、冬はどうしたか不明なのだが、宿泊した場所の近辺ゆえ詞書を付けて句にしたのかもしれない。

その袋井は東海道五十三次のちょうど真ん中にあたる宿場である。子規の、というより、明治初期の文化の感覚の中では、東海道といえばまだまだ江戸以来の十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の東海道であり、北斎や広重の描いた五十三次の風景のイメージであったろう。一方の垂井は、東海道ではなく中山道である。開通当時は現在の東海道線が走っていない区間に線路が引かれていて、垂井は難所の一つで非常に急勾配の地点があったという。子規はその急勾配が印象に残って一句にしたと思われる。

ところで、一番初めの地名ではなく「氣車にて」と詞書のある「夕立の」の句は、子規によって抹消句とされている。夕立自体はありふれたものだろうが、詞書が汽車そのものであることや、「かけぬけし」という躍動感ある表現を選んでいるところなど考えると、当時の最新最速の移動手段である汽車があっという間に夕立の下を駆け抜けるスピード感をテーマに詠もうとしたと思われる。そして、おそらくは東海道線が中山道を走るという新しさ、あるいはそれまでの歴史的連想からすれば意外な事態、つまり「東海道」の意味内容の変容が、子規に夕立の降る場として「美濃路」という下五の措辞を選ばせたのではないだろうか。

この東海道線の全通以後、東海道は名古屋から鉄道は美濃路へ、街道は伊勢路へと南北に別れた。これは言わば江戸と明治の文明の分かれ道である。そして、鉄道の通らない東海道の先には江戸の歴史的連想が待っている。例えば広重の「東海道五十三次之内 庄野」はその中にある。「夕立の下かけぬけし」という表現は、詞書がなければ、雨にうたれ駆けている人物の姿を連想する方がずっと〈自然〉な読みであるだろう。それはまさに広重の「庄野」の情景にぴったりなのである。

子規が新しさに感動して詠んだはずの句は、詞書がなければまるで新味のない風景になってしまう。おそらく最初の読者たる子規自身がそれに気がついて抹消句としたのだろう。この時、子規がありのままを詠んだはずの新しさへの、彼自身(かつその時代)の読みの倫理は、新時代の言葉の意味内容の変容には遅れていたといえはしまいか。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/06/04.html 【俳句の自然 子規への遡行04

橋本 直 】より

前回、子規の習作期の俳句において、近代における新しい事象をそのまま描写したからといって、必ずしも読者が新しみを実感できる表現となっていないことについて述べた。それは、時代時代の読者が自然に受容しうる読み方、いわば読みの枠(倫理)に左右されることになるのだろう。

今回も引き続き、子規の汽車の句を例に考えてみたいと思う。「汽車」の語を詠み込んだ子規の句は、明治二四年から残っていて約九〇あるが、本稿は初期に論点を絞り、二六年までの一九句から抄出し検討したい。

  汽車路や百里余りを稲の花(『寒山落木』明治二四年)

  汽車道にそふて咲けりけしの花 (同二五年)

  汽車道に掘り残されて花野哉  (同前)

「汽車道(路)」は線路のこと。一句目の「百里」は、リアルな描写というより漢籍的、あるいは主観的把握としての長さとみるべきだろう。前回書いた明治二二年の抹消句と違って、いずれもスタティックで汽車のスピードがもたらす新しさは読めない。子規は、はるかに続く線路という新しさに目をとめ、沿線の風景と取り合わせている。線路は景として比較的新しかっただろうし、風景絵画的で浪漫性をもたらす句であるが、「道」のもつイメージと重複する点では新しみは弱い。子規は「汽車道」で二〇句近く詠んでいるが、総じて地味な印象の句となっている。他方、汽車のだす音との取り合わせの句がある。

  鶯の遠のいてなく汽車の音

(初出明治二五年三月一日付五百木瓢亭宛書簡。『寒山落木』抹消句)

  その辺にうぐひす居らず汽車の音 (同前)

  時鳥上野をもとる(戻る)汽車の音 (同前)

  鶯やこの山もまた汽車の音

(「時事十章」『新聞日本』明治二六年二月一八日)

 菜の花や奥州通ふ汽車の笛

(「寒山落木」明治二六年 ※抹消句)

 あつき夜や汽車の響きの遠曇り (同前)

これらは、根岸の自宅や上野界隈で聞こえた汽車の音と折々耳目に触れた景の取り合わせである。そのうち、引っ越しの挨拶である瓢亭宛の書簡中の二句は作句の動機がはっきりしているので興味深い。引っ越し先である根岸界隈が鶯の名所とされていることをふまえ、越す前の想像句「鶯の隣にほそきいほりかな」とは違って鶯はおらず、「新宅へ越して見れば汽車は一時間に一度位の地震をゆり出して額を落し頭を鳴したるもあさまし」という状況をふまえて先の一句目を書き、さらに「最少し皮肉的に実際的にいへば」とあって二句目を書いている。

今風に言えば前者が場への挨拶句で、後者が事実の写生句というところだろうが、この頃の子規はまだ俳句革新の旗手などではなく、事実と趣向とを知で構成して句作していることが文面からよくわかる。だからこそ新居を隠者のわび住まい風に「ほそきいほり」と詠め、「皮肉的」(意味)と「実際的」(写実)が句に併存できるのであり、またこの趣向が、俳諧の詠み/読み方の枠を越えないのはいうまでもない。

後に啄木の歌の上野駅や蒸気機関車にはノスタルジックな風情が付与されるが、この時、子規にとってそのようなものはない。そしてこの一連の「鶯」句の作り方は、文明の利器である汽車の音を江戸以来の場のもつ風趣と調和しないものとしてとらえてはいるものの、その旧時代のもつ風趣への懐古的な愛情も感じらない。子規の態度はどちらに対しても微妙に乾いている。それは子規の若さからであろうか。

  御殿場に鹿の驚く夜汽車哉 (「寒山落木」明治二十五年)

この句は60を超える鹿の題詠中の一句で、嘱目ではなかろう。汽車の音は風景や自然物とあまりなじまないものとして浮かびあがるが、事実の説明程度にとどまり和歌以来の「鹿」に含まれる抒情を壊すことへの積極性は特に感じられない。

その他の「時鳥」「菜の花」「あつき夜」の風景や音源に距離感がある句にはそういう所がない。もしかすると、当時「脳病」を抱えていた子規にとって汽車の音が不愉快であったため、結果的に文明による自然や人間の疎外を感じ取れるような詠みぶりになったのかもしれない。それにしても、汽車の音によって疎外される江戸以来の趣向という記号を抱えた「鶯」に、この時の子規自身の詠みと読みの態度が垣間見えるという点は興味深い。

  汽車見る見る山を上るや青嵐

(「はてしらずの記」明治二五年)

  汽車の窓折々うつる紅葉哉

(「第六四回文科大学遠足会の記」同二六年)

  穂薄の顔かく汽車の小窓哉 (「寒山落木」抹消句。同年)

  凩に汽車かけり行く別れ哉 (同前)

これら動く汽車とそれに伴う出来事を描写した句は、走る汽車のもつスピードを無難に句にとりこみ得ているように感じられる。特に最後の「凩」句は、子規自身は抹消句にしているが、映画的に汽車と自然物とを融合し得てはいないだろうか。「寒山落木」によれば、抹消を含め明治二四年の作句数は四四一句だったものが、二五年から一気に飛躍し二五三三句、二六年は四六三四句に達する。子規はこのころから本気で句作をはじめており、それに比例して作句の質も上がるのである。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/07/05.html   【俳句の自然 子規への遡行05】

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https://defining21.rssing.com/chan-11428025/all_p45.html【俳句の自然 子規への遡行33】

https://defining21.rssing.com/chan-11428025/article3406.html【俳句の自然 子規への遡行62】



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