浜の真砂を連想します。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43737_19215.html 【銀河鉄道の夜
宮沢賢治】
http://www.harnamukiya.com/ginga/railroad.html 【「銀河鉄道」のモデル】より
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っているちいさな列車が走り続けていたのでした。
ほんたうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、ちいさな黄色の電燈のならんだ車室に、
窓から外を見ながら座っていたのです。
『銀河鉄道の夜』より
銀河鉄道は、銀河の左岸を南に走る鉄道ですが、車室は、夜の軽便鉄道というように岩手軽便鉄道がモデルといわれています。岩手軽便鉄道は、当時花巻駅から鳥谷崎駅そして似内駅を経て遠野まで運航しており、花巻でのコースは違いますが現在のJR釜石線の全身となった路線です。
遠野市の宮守地区に、現在の釜石線の立教と並行して、軽便鉄道の橋脚の跡が残っています
http://www.harnamukiya.com/ginga/pliocene.html 【北十字とプリオシン海岸、「プリオシン海岸」のモデル】より
イギリス海岸=プリオシン海岸の風景 「プリシオン海岸」とは、少年小説「銀河鉄道の夜」のなかでジョバン二とカムパネルラが訪ねた場所の名で、イギリス海岸を天上に移したものです。
プリオシンとは新第三紀のうち鮮新世と呼ばれる時代のことで、賢治の時代にはこの地層はそう考えられていましたが、現在では、第四紀のうちの洪積世に属するといわれています。
「銀河鉄道の夜」の中のプリオシン海岸の挿話は東北帝大の早坂助教授が賢治らの案内で、この小舟渡河岸で1925(大正14)年11月23日にバタクルミ化石の発掘を行ったことをモデルに描かれています。
「銀河鉄道の夜」も含めて、賢治の数多い童話や少年小説の中でモデルとした事柄の場所、時、人物がこれほど明らかな例は、他には皆無と言ってよいでしょう。ほかに詩「尭露青」 (かいろせい)には、プリオシンコーストとして登場します。
「銀河鉄道の夜」の「プリオシン海岸」の挿話は例外づくめで、ただ一カ所の下車地点(白鳥の停車場)。ここだけが幻想的でなく現実的な描写、少年たちの大人びた言動、この章だけが二つの挿話が詰め込まれている・・・などから「プリオシン海岸」挿話は後から挿入されたもの、と私は考えています。
賢治はクルミと足跡のほかに、なぜボス(牛の祖先)の化石を登場させたのでしょう。昭和始めに花泉で牛の骨が出土したことを賢治は聞いていたのだと私は思っています。
なぜ白鳥の停車場を降りると銀杏(イチョウ)があったのでしょうか。イチョウは欧米には無い(檀物園などごく一部に日本から送られたものの子孫があるのみ)のに? それはおそらく小舟渡公民館向かいの八幡神社のイチョウからの連想ではないでしょうか!
https://konosuke-matsushita.com/column/cat71/post-87.php 【自然の姿でいく――松下幸之助のことば〈67〉】より
よく、信長は「鳴かずんば殺してしまえホトトギス」、秀吉は「鳴かずんば鳴かしてみせようホトトギス」、家康は「鳴かずんば鳴くまでまとうホトトギス」だといわれますね。これらは、三人が詠んだものか、あるいは後世の人が、三人の特徴を端的に表現するために作ったものなのかは知りませんが、それぞれ、鳴くということを期待しているから出てくることばです。つまり、鳴くということに皆こだわっていると思うのですよ。ぼくはね、何ごとでも、何かにこだわっていたら、うまくいかないと思っています。だから、ぼくならこういう態度でありたいですね。「鳴かずんばそれもまたよしホトトギス」。つまり、自然の姿でいこうというわけですよ。なかなかむずかしいことですがね。
『人生談義』(1990)
解説
信長と秀吉と家康。3人の武将がほんとうにこれらの句を詠んだのかは定かでありませんが、それにしても現代人がそれぞれに抱くイメージを巧みに表現したものだといえるでしょう。そして「鳴かずんばそれもまたよしホトトギス」も、松下幸之助の行き方を的確にあらわす句です。幸之助いわく「なかなかむずかしい」とは、「こういう態度でありたい」と、日頃から強く意識し実行していたから言えることでしょう。
ホトトギスが鳴くことにこだわるのでなく、鳴くも鳴かないもよしとする。あるがままに認める。そうした境地に到達するための心が“素直な心”であるという結論に達した幸之助は、その涵養の必要性を広く世の人にも説いたのです。
さらに付言すれば、こうした思考・哲学とその実践は、PHP研究によって礎が築かれ、漸次養い高められていきました。鳴くも鳴かぬも「自然の姿」。では自然の姿とは何かといえば、幸之助にとって宇宙の真理であり、その真理に順応して生きることで人間はより幸せになれると信じていました。
この幸之助をかつてこんな風に評した人がいます。“彼はすぐれた産業人であったが、産業に埋没することはなかった。彼は大衆の味方であったが、大衆に雷同はしなかった。彼は時流に身を投じて泳いだが、常に流れから顔を上げるようにつとめていた”。幸之助がなにか常識的な認識を超えた原理・原則に則って、みずからの人生を歩んでいることをはっきりと認めていたその人物は、生前の幸之助と親交があった天谷直弘氏(故人・元電通総研所長)でした。
学び
ホトトギスはホトトギス。
鳴いても鳴かなくてもホトトギス。
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