Facebook近藤裕子さん投稿記事 ☘️私のお気に入り☘️
月夜見梅花 (つきよにばいかをみる)
月耀如晴雪(げつようせいせつのごとく)
梅花似照星(ばいかしょうせいににたり)
可憐金鏡転(あわれむべしきんきょうてんじて)
庭上玉房馨(ていじょうにぎょくぼうのかおれるを) ~菅原道真~
かがやく月は、晴れた日の雪のよう。
花咲く梅は照らされる星に似ている。
金の鏡のような月光が転じて、庭の玉のような花房を香らせているのは なんと愛おしいことか。
この詩は菅原道真が十一歳で詠んだものだそうです。
また道真は五歳のときに
「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」との歌も詠んでいます。
(なんと美しい梅の花の紅さだろう 私の顔にもつけたい)
幼い頃から道真は よほど梅の花が好きだったのでしょう。
それにしても、おどろくべき才能です。
https://bushidoart.jp/ohta/2015/03/03/%E3%81%AB%E3%81%BB%E3%81%B2%E3%82%92%E3%81%93%E3%81%9B%E3%82%88-%E6%A2%85%E3%81%AE%E8%8A%B1/
【にほひをこせよ 梅の花】より
梅の花 紅の色にも似たるかな 阿古がほほにも つけたくぞある
これは菅原道真公が5歳の時に詠んだ歌です。
道真公は845年、代々「文章道」を研究する家系「菅原氏」の長男として誕生しました。
幼い頃の名前は「阿古(あこ)」。
道真公は、
藤原時平との政争に敗れて大宰府へ左遷されることとなり、延喜元年(901年)、大宰府へ左遷されることとなり、延喜元年(901年)、屋敷内の庭木のうち日頃からとりわけ愛でてきた
梅の木との別れを惜しみました。
そのときに詠んだ歌が有名な
「東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」です。
意味は、春の風が吹いたら咲いて香りを届けておくれ。梅の花よ、主人が居なくなっても春を忘れるな・・・という詩。
切ないですね。でも約1,100年ほど前に詠まれたこの詩が時代を越えて現代にも受け継がれています。
そんな梅の花を見たくて一昨日は、久しぶりに太宰府天満宮に行ってまいりました。
あいにくの雨・・・ですが神社に雨は縁起がいい。雲の上に龍神がいるような神聖な空気を感じます。
雨の雫が梅の花を美しく輝かせ道真公を含めた古代の歌人が「梅」をテーマにたくさんの和歌を作ったことがこの素晴らしい景色で理解できます。
実は・・古代の日本で「春の花」と言えば「梅」でした。和歌の世界では8世紀中頃の万葉集では桜より梅の歌が多く、古今和歌集になって春の主役が桜に変わっていきます。
ちなみに大宰府天満宮から九州国立博物館への上り口左手に大伴旅人が詠んだ歌が石碑に刻まれています。
ここにも「我が園に 梅の花散るひさかたの 天あめより雪の 流れ来るかも」 大伴旅人
太宰府だから梅なのは 当然ですが、調べると他にも梅の歌が多いことが分かります。
武士と言えば「桜」。梅よりも桜が「日本」というイメージが強いですが、古代の日本が梅の花を特別に思っていたことが太宰府に来ると実感できます。
しかしその当時、中国から渡来した「梅」よりも、日本に自生する「桜」に社会の流れがシフトしていったのか・・よくよく時代を考えると894年に遣唐使の廃止があり、この時代の中心人物も菅原道真公でしたね。日本の歴史にとっても大きな変換期だったのでしょう。
幼い頃から天才と言われ漢文学に精通した道真公。そんな彼の幼少期の漢詩「月夜見梅花」では「 月の輝くこと晴れたる雪の如し 梅花は照れる星に似たり 憐れむべし 金鏡転じ
庭上に玉房の馨れることを」と詠み、彼が亡くなる直前に詠んだ漢詩にも
「城に満ち 郭にあふれて幾ばくの梅花ぞ なほこれ風光の早歳の華のごとし 雁の足に粘き将ては 帛を繋げたるかと疑ふ 鳥の頭に点じては 家に帰らんことを思ふ」という詩を詠み、よほど梅に想いがあったことがうかがえます。
2015年3月1日(日)一昨日の梅を少しご紹介します。
昨日の梅の開花状況は[満開]でした。境内には、約200種、約6,000本の白梅・紅梅があり、日本有数の梅の名所となっております。
今年の梅の開花は、2月中旬から3月上旬にかけてが見ごろと予想され、これから一重、八重をはじめ豊富な種類の梅が見事に咲き、境内は芳しい梅の香りに包まれます。
そしてこの日は偶然にもあの行事が開催されるとのこと。
雨の中、もうすでに会場には大勢のお客様が並んでいらっしゃいました。
それはきょくすいのえん「曲水の宴」。平安時代、朝廷で、三月三日の上巳(じようし)の節句に行われた遊宴。
曲水のほとりの所々に参会者が座り、上流から流される杯が自分の前を通過しないうちに詩歌を作り、杯を取って酒を飲み、次へ杯を流す。
そして終わって宴を設け、それぞれの詩歌を披露するという優雅な行事。
もとは中国で行われていたもので中国では、禊(みそぎ)をし、汚れをはらい水に流す習俗があり、のちには流れに臨んで宴を開いたことがルーツとされます。
すると・・・十二単(じゅうにひとえ)をまとった美しい姫をはじめ平安装束に身をつつんだ凛々しい参宴者が登場します。
とても良い時期に太宰府に来ることができて嬉しく思いました。
太宰府天満宮は、道真公の御墓所の上にご社殿を造営し、その御神霊おみたまを永久にお祀りしている神社です。
「学問・至誠しせい・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約700万人の参拝者が訪れています。
再び京都に戻ることなく悲しい59年の生涯に幕を閉じた道真公でしたが、今でも多くの人達に愛されています。
梅の花から時空を越えた美しさを教えてもらいました。
そして天満宮にお参りをして神社を出ると太宰府商店街の端に一人の修行僧が立っていらっしゃいました。
一言もしゃべらず黙って下を向いているその姿は、まるで道真公の冥福を祈っているように見え自分が昔の太宰府にタイムスリップしたような感覚になりました。
「春の風が吹いたら咲いて香りを届けておくれ。梅の花よ主人が居なくなっても春を忘れるな・・・」どこかで道真公がそう囁いてるみたいであらためて太宰府に来て良かったなと
思いました。
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/c-kansihaiku.html 【漢詩と俳句の文学差異】より
漢詩は俳句に対して其の内容・思想に於いて・また表現方法に於いて非常に深く・且つ強い影響を与える。俳諧史四百年中・最も光彩を放った時代・又最も意義のある運動を起こした作者は、皆な漢文・漢詩詩趣興味を取り入れ、それを和文和歌趣味と融合させた時代だったと言い得る。
古今集の俳諧歌の欠点のみを真似て、洒落の低級な趣味に満足していた俳句が、高尚な純文学趣味に引き上げられたのは何よりも宗因よりも芭蕉の力であったと言える。俳句は芭蕉時代に於いて芭蕉及び其の周囲の人々により初めて文学として台頭し、高い趣味のもおとして完成された。芭蕉やその周囲の人々が俳句向上の運動を起こしたことに就いては、種々の原因が有るが、漢文漢詩の趣味を取り入れたことも有力な一つの原因である。
芭蕉以前の俳句を看ると、其の内容に於いて漢詩趣味を取り入れたものは極めて少ない。表現方法に於いて漢詩の緊密を学んだものは更に少ない。偶々、取り入れた漢詩も和漢朗詠集の範囲を出ていない。
王朝時代を風靡した白氏長慶集、即ち・白楽天の文集すら取り入れているのは稀である、。王朝時代の人々が、白氏文集に心酔したのは、白楽天の詩が平淡明易であることも一つのであるが、それよりも白楽天は禅僧と交遊し禅道になずんででいた(関わる)けれど未だ深く悟入(さとりひらく)せず、其の思想は人生に対する哀愁逃避の小乗禅(仏教の流派の一つ、この派はただ自利のみ願い、教理がせまく消極的。これに反対して起こった一派が、自らを大乗と言う)に支配されていたので、其の思想が仏教が沈酔した王朝時代の人心に、ぴったり適合したからである。
『源語』を一読しても、如何に其の時代に白氏文集の愛好されたかは、領会される。それが俳諧の勃興した、足利氏時代に至っては、戦乱相次ぎ人心は動揺、宗教家すら続々として処刑されるような、浅ましさき現実を看て、仏教にのみ心髄依頼すること、王朝時代のように深く無かった原因もあるであろう。俳諧者流には白氏文集も余り耽読されなかったらしい。故にこの時代漢詩の趣味、漢詩の表現法を取り入れた俳句は寥寥として探求に苦しむ。殊に其の表現は主として『こそ、けれ』の古今集以後の和歌趣味による弛緩するものであって、漢語をそのまま駆使しているのは、極めて稀である。僅かに捜しえ得たものは、左の数句に過ぎない。
松 根 に 腰 を さ す っ て ね の 日 か な 重 頼
松 に よ っ て 子 供 眼 を す る 今 朝 の 門 重 貞
此の二句は和漢朗詠集の「倚松根而摩腰千年之翠満手、折梅花而挿頭二月之雪満衣」を踏まえて作られている。一は正月子の日の小松引の句。一は正月の門松の句である。
春 雨 に 洗 い て け ず れ 柳 髪 重 頼
これも和漢朗詠集の「気霽風梳新柳髪、氷消波洗旧苔髪」をそのまま翻訳したに過ぎない。
紅 葉 た く 林 間 な べ の 酒 も か な 春 可
これも朗詠集中にある白楽天の『林間暖酒燒紅葉、石上題詩払青苔』である。
常 磐 木 か 絶 え ず 紅 葉 屏 風 の 絵 正 信
これも朗詠集中の白楽天の詩『不堪紅葉青苔地、又是涼風暮雨天』の詩に過ぎない。
尤も此の時代の末期に出た、椎木才磨(この人は芭蕉以前に出たが、八十二歳の長寿で芭蕉より遥かに遅れて没している人で、第一世団十郎俳号才牛の師)は漢文漢詩も可なり上々。彼の手記『椎の葉』と題する中国の紀行中にも『杜甫慈恩寺の雁塔に上りし一詩の思い出』
飛 雁 や 上 み へ 並 び て 塔 や ら ん
など詠じている。杜甫の詩に『高標跨蒼穹、烈風無時休』の句がある。これより此の句が出来ている。このようにこの時代は未だ広く漢詩趣味を取り得なかった。それも無理のないころで、この時代には漢学が尚を一般的に盛行されなかったからである。
芭蕉時代に入ると、著しく漢詩の影響を受けていることが見受けられる。それは此の時代に知識人たちに漢文学が盛行されはじめた為である。足利時代の末に「藤原惺窩」(ふじわらせいか)が出て、朱子学を提唱した。「漢学紀原」によると僧から還俗した惺窩は文禄年間、中国へ渡航しようとした、然し風波の為に流され遂に薩摩に着陸、薩摩・正龍寺の僧文之玄昌の著「文之点四書」及び桂庵玄樹の著「家法倭点」を写し取り、京都に帰り、自己の独創の訓点として世に広めた。と紀されている。その後、林道春が惺窩点を編纂し『道春点四書』を出すなどして、当時の僧侶、それまでは主として五山の禅僧により研究されていた漢学が儒家の手により大衆的に広められるようになった。
徳川幕府が官学として林家の朱子学派を採用したのに対し、芭蕉の寛文延宝時代に於いては、私学派が勃興し、山鹿素行、伊藤仁斉、荻生徂徠などが古義派の学を提唱するに至り漢文学は益々、盛行し、元禄年間には湯島に聖堂が建ち、昌平校が創設され、此処に学ぶ学生は漢詩が一科目として課せられるようになった。
時代の風潮は、忽ち俳句界にも刺激せずには置かなかった。芭蕉圏内の俳人達も漢詩趣味を取り入れのを当然とし、新趣味とするようになった。
憂方知酒星。貧始覚銭神。
花 に 浮 世 我 が 酒 く ろ く 飯 白 し
の如く「艸合門無径、煙消瓶有塵、憂方知・・・・・・」 と言う白楽天の詩を前置きして作句している。
又、広瀬淡窓の「君汲泉流我拾薪」の詩句から
君 火 を た け よ き も の 見 せ ん 雪 ま ろ け 。 などと詠じている。又、「懐老杜」と題して
髭 風 を 吹 き 暮 秋 歎 ず る は 誰 か 子 ぞ。 と詠じている。
有名な芭蕉の嵯峨日記には、机の上に白氏文集を置いていることを記している。吉野の旅日記には、白雲を看て廬山を思い出し、清水に臨んでは伯夷許由を思う、など、吉野紀行のみならず、芭蕉の俳文には漢文漢詩を取り入れ、又はその趣味に影響されているものが頗る多い。元来・俳文なるもの特に芭蕉の俳文は、殆ど芭蕉独自の独創である、と言っても過言ではないだろう。
『奧の細道』を以て国文の妙味 云々の評があるが国文の妙味よりも寧ろ漢詩趣味が多分を占めている。唐詩・文選の趣味が六分以上占めている。芭蕉は『奧の細道』道中に限らず旅に出かける際には「背負い駕篭」の中に常時『杜甫詩集』を持っていたのも有名な逸話の一つである。
漢詩と俳句との関係は深く強いものであることが解る。芭蕉は漢詩を取り入れて俳句に新生命を与えた、そのご没落した俳壇を救った。蕪村も又、漢詩趣味によった。更に明治の俳壇を文学的に向上させた子規居士が、写生趣味の他に一面に於いて漢詩趣味を取り入れ、格調の上に漢詩を取り入れている。
即ち俳句四百年の歴史を顧みて、其の最も意義有る運動は、漢詩の取り入れにより起こり、最も伝来すべき作家は漢詩趣味の世界から生まれ、絢爛を極めた時代は漢詩趣味の作家が肩を並べて輩出した時代であった。俳句は漢詩趣味により生い立ち、漢詩趣味を離れて俳句は成り立たなかった。
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