『俳コレ』

http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran92.html 【第92回 『俳コレ』】より

初雪やリボン逃げ出すかたちして

            野口る理

 今回は短歌ではなく俳句の世界に遊びたい。週間俳句編の『俳コレ』(邑書林)が滅法おもしろい。昨年(2011年)12月23日に初版が出て、8日後の大晦日にもう再版されているので、きっとよく売れたのだろう。中身の充実ぶりを見ればそれもうなずける。

 俳句甲子園組の活躍もあって、俳句の世界がやたら元気だ。2009年12月には21世紀にデビューしたU-40世代の俳句を集めた『新撰21』(邑書林)が、翌年の2010年12月にはU-50世代の『超新撰21』(邑書林)が上梓され話題を集めた。『新撰21』と『超新撰21』は自撰100句に小論を付すという同形式で、巻末に編者による座談会が配されている。一方、『俳コレ』はいささか趣向がちがう。ウェブマガジン『週間俳句』編集部が入集作家を選定し、依頼を受けた撰者が100句を選んでいる。つまり自撰ではなく他撰なのである。小論も撰者が書いている。

 短歌や俳句などの短詩型文学の大きな特徴は撰があることだと、私はかねてより考えている。「撰ぶ」ということは「捨てる」ということを意味する。

 同じ撰でも自撰と他撰とでは意味合いが異なる。自撰は当然、作り手である自分がよいと思ったものを撰ぶのだから、撰は創作行為の最終段階である。しかし他撰はちがう。他人が作者とは異なる眼と美意識に基づいて撰ぶのだから、作者がよいと思った作品が選ばれなかったり、その逆も当然起こりうる。これは創作行為の最終段階を他人に委ねるというとである。最後まで自分で作らず、「最後はアナタにお願いネ」ということだ。

 芸術を作者の個性の発露と見なす芸術観から見れば、これは許し難い行為である。最初から最後まで一貫して自分で製作するからこその個性だからだ。他人の手が介入すれば、もうそれは純粋な一人の個性ではない。

 しかし、芸術をしばしば特異な天才である作家の個性の発露と見なす芸術観は、19世紀中葉に欧州で台頭したロマン主義が考案したもので、たかだか150年足らずの歴史を持つにすぎない。その閉塞感が20世紀になって強く感じられるようになり、ジョン・ケージの偶然性の音楽や、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングが発明されたことは人の知るところである。

   日本の短詩型文学である和歌や俳句はもともと芸術を作者の個性の発露と見なす芸術観とは無縁だったが、短歌は明治の革新運動によってその毒を一身に浴びてしまった。その後遺症は今も続いている。ところが俳句はいささか事情がちがう。その形式のあまりの狭小さゆえ、ロマン主義的個性を入れ込む余地がなかったためだろう。

 それと比例するように撰の持つ比重も異なっており、短歌より俳句のほうが撰を重視する。おそらく俳句は多く作って多く捨てるからだろう。『俳コレ』が他撰による100句を集めていることには、上に述べたような意味合いから見てとりわけおもしろいのである。

 前置きはこれくらいにして収録された句を見よう。

 野口る理は1986年生まれで、所属なし。プラトンについての修士論文を書いている(あるいはもう書いた)哲学専攻の大学院生らしい。撰は関悦史。

襟巻きとなりて獣のまた集ふ

出航のやうに雪折匂ひけり

アネモネや動物病院あれば街

茶筒の絵合はせてをりぬ夏休み

秋立つやジンジャーエールに透ける肘

 全体として若々しく世界に対する好奇心に溢れた句が並ぶ。特に最後の句などユーミンの歌詞の一節のようだ。四句目のように、することがなくても無聊をかこつことなく、何かに楽しみを見つけているような感じがよい。掲出句の「初雪やリボン逃げ出すかたちして」も詩情溢れる句だが、二句目は座談会で高柳克弘が特に好きだと述べた句。「雪折」は雪の重みに絶えかねて折れた枝のことで冬の季語。清新という語がこれほどふさわしい句もない。

 福田若之わかゆきは1991年生まれで、現在大学生で所属なし。次の小野あらたもそうだが開成高校出身である。開成高校と言えば東京の御三家のひとつに数えられる進学校だが、俳句甲子園の優勝常連校でもある。最近『俳句のための文語文法入門』という本を出した国語教師の佐藤郁良の薫陶の賜物だろう。撰は佐藤文香。

鶴ひくに一縷の銀も残さゞる

朧夜やどれだけ磨いても遺品

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて

僕のほか腐るものなく西日の部屋

白鳥を三人称の距離に置く

 今回読んだ『俳コレ』前半の10人のうち私が最も注目した作者である。最初の二句を含む「あをにもそまず」は高校時代の作だという。俳句甲子園でこんな句を出されたら他の高校はたまらない。「鶴ひく」は暖かくなって鶴が北国へ帰ることで春の季語。しかし福田はこの完成度を捨てて、新たな方向に舵を切ったようだ。三句目以下は新傾向の句。従来の俳句的世界に安住せず、世界に対して知的な処理を加えている。座談会で池田澄子が「危うさが素晴らしい」と発言しているのは、そのあたりの変化を捉えたものと思われる。今後に期待される逸材と見た。

 小野あらたは1993年生まれで「銀化」所属。石田波郷俳句大会新人賞を受賞している。撰は山口優夢。

薄紙にキャラメル匂ふ花の昼

タンカーの積荷を昇る蝶白し

栗飯の隙間の影の深さかな

秋の暮カレーに膜の張りにけり

返り花新体操の濃き化粧

   小論で山口が「即物的トリビアリズム」と評しているのが的を射ている。栗飯のご飯と栗の隙間とか、カレーの表面に張った膜のように、日常のどうでもよいような細かい情景に虫眼鏡を当てるような作風である。そしてそこに投影されている主観的心情というものがない。ただ細部の描写があるだけである。

 小野の俳句を読んでいると、短歌と俳句とではおもしろがるポイントがちがうようだという感を深くする。もし短歌で「栗飯の隙間の影の深さかな」と情景描写が上句に来れば、下句では「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)のように、その描写によって喚起される主観的心情が述べられることが多い。たとえば「行春の銀座の雨に来て佇てり韃靼人セミヨーンのごときおもひぞ」という宮柊二の歌を見れば、〈情景描写〉- 〈心情〉という構図は明らかである。下句がないと短歌にならない。この構図の上に短歌的喩が成立するのであり、たとえ一首全部が情景描写であっても、背後にはその描写が送り返す作者の心情という余剰的意味が揺曳すると読むのが短歌の約束事である。  しかし小野の句を見てもわかるように、俳句においては情景描写は単に描写であるにすぎず、いかなる心情の喩でもない。俳句ではいかに鋭利な刃物で現実を鋭く切り取るかが問われるのであり、着眼点のよさ(「そういうことってあるある」)と切り取り角度の鋭さ(「うまいっ」と膝をポン)が評価のポイントとなる。小野の「薄紙にキャラメル匂ふ花の昼」の句などを見ると、この作者にはミクロン単位の薄さとミリグラム単位の重さを素手で感じ取る異能が備わっているようにすら見える。おもしろい。

 松本てふこは1981年生まれで、「童子」同人。ボーイズラブ系のコミックを出す出版社に勤務しているらしい。撰は筑紫磐井。おそらく集中で撰の効果が最も発揮されているのは松本だろう。撰者の筑紫は「童子」ならばおそらく採らない句ばかり選んだと明言しているからである。

田楽に我等一緒に棲まむかと

下の毛を剃られしづかや聖夜の子

読初の頁おほかた喘ぎ声

飽食の時代の鴨として浮ける

永き日の汝が脇息になりたしよ

 小野の句の次に松本の句を見ると、俳句というジャンルの振れ幅の大きさに驚く。集中で最も感情のこもる作風で、放恣に流れる一歩手前。「会社やめたしやめたしやめたし落花飛花」というハチャメチャな句まである。一句目や五句目のように男女のことを詠むことが多いのも特徴だ。二句目は盲腸か何かの手術の前の病院だろうが、このように風雅に遠いアイテムも多い。四句目など藤原龍一郎が作りそうだ。筑紫が91句を選び、松本に9句は自分で撰ぶようにと言ったら、松本は「春寒く陰部つるんとして裸像」のような句を撰んでいるので、作者と撰者の阿吽の呼吸による確信犯かと思われる。

 矢口晃こうは1980年生まれで、「鷹俳句会」を経て「銀化」所属。撰は相子智恵。

腥き人間として泳ぎたる

脱捨しセーターわれを嗤ひをり

自殺せずポインセチアに水欠かさず

あと二回転職をして蝌蚪になる

夢の無き時代の栗を拾ひけり

 矢口のテーマはワーキングプアの生き難い時代の現実である。これもまた今の俳句の多様性を表しているのだろう。「電話なりゐたりグッピー死にゐたり」のように電話がアイテムとしてよく登場するのも、他者との繋がりへの希求かと思うと切ない。一方、「台風や隣りて家の灯り合ふ」のように暖かみのある句もある。

 南十二国みなみ じゅうにこくは1980年生まれで「鷹」同人。撰は神野紗希。

青空のうへはまつ暗揚雲雀

鏡みな現在映す日の盛

人類を地球はゆるし鰯雲

ロボットも博士を愛し春の草

遺跡ふと未来に似たり南風

 特異な作風で、宇宙的視点とジュブナイルSFを思わせる俳句である。一句目の「青空のうへはまつ暗」というのは、地球の成層圏を突き抜けて宇宙空間に出たときのことを言うのだろうが、もちろん雲雀はそこまで上昇することはないので俳句的想像である。鏡が現在を映すとか、遺跡が未来に似ているというのも、はっとさせるユニークな視点と言えよう。大柄で伸びやかな句風である。

 林雅樹は1980年生まれで「澤」同人。撰は上田信治。

春の風フジタツグハル髪がヘン

万緑や僕はキリスト君はシャカ

我を打つ女教師若し喉に汗

枯野にて曾良が芭蕉を羽交締め

ぶらんこに背広の人や漕ぎはじむ

 これはまたユニークな俳句だ。一句目のフジタツグハルは画家の藤田嗣治で、おかっぱ頭がトレードマーク。二句目の元ネタは中村光のコミック「聖セイント☆おにいさん」、四句目は増田こうすけの「ギャグマンガ日和」だから、コミックやサブカルを躊躇なく俳句に取り入れている。小論の上田によれば、林の俳句は顰蹙俳句と呼ばれているそうで、あえて「皮を剥いたカエル」とか「内臓の出たゴキブリ」を持って来て「お芸術」になりがちな俳句に反・芸術をぶつける作風だそうである。短歌における森本平のようなポジションか。こういう道を取る人はしんどいだろうなと思うが、どの道を行くかは人の好きずきである。読む人は奇想と諧謔を楽しめばよい。五句目は名句だと思う。「漕ぎはじむ」が効果的。

 太田うさぎは1963年生まれで「雷魚」「豆の木」「蒐」同人。撰は菊田一平。

西日いまもつとも受けてホッチキス

水遊び足の間を葉の流れ

酢洗ひの鰺も谷中の薄暑かな

都鳥よろづのみづにふれてきし

ふたしかなものに毛布の裏表

 伸びやかで姿のよい句を作る人である。引いたうちで最も俳句的なのは三句目だろう。ちなみに「酢洗い」とは、酢でしめる前に食材を酢で洗って水っぽさを抜くこと。「鰺も」の助詞「も」がいかにも俳句的で上手い。ひんやりした厨の空気まで感じられるようだ。「歪ませて過去はうるはし雛あられ」のように、少し知的に捻った句もある。

 山田露結ろけつは1967年生まれ。「銀化」同人。撰は山田耕司。

レジスター開きて遠き雪崩かな

閂に蝶の湿りのありにけり

用もなく人に生まれて春の風邪

対岸は花火の裏を見てゐたる

給油所をひとつ置きたる枯野かな

 一句目は俳句お得意の二物衝撃で、この言葉の飛躍が俳句の生理である。林雅樹の小論を書いた上田信治は、「俳句は、その出自より、挨拶性と芸術性、水平志向と垂直志向の二つの力の相克によって、思わぬ回転が加わり明後日を指して飛ぶという特質を持つ」と書いている。俳句のユニークなところは、明後日を指して飛んでしまっても、「いやぁ、えらいところまで飛びましたなあ」という態度で、そこに面白味を見ようとする点にある。そこが短歌と異なる。二句目は特に好きな句。五句目も枯野という俳句的素材に給油所を置くところがおもしろい。現代の新しい風雅か。

 雪我狂流ゆきがふるは1948年生まれ。俳号も変わっているが、作風もそれに劣らずユニークで集中随一と言ってよい。撰は鴇田智哉。

もつともだ薄荷の花が白いのは

あーと言ふあ~と答へる扇風機

昼寝にはじやまな天使の羽根であり

回りてはゆつくり沈む冬の螺子

穴と穴合へば一味や去年今年

 天然というか自在というか、あたりまえのことをそのまま詠んでおもしろいという作風である。二句目「あー」は扇風機の前での発声で、「あ~」は羽根の回転による音の変化を表す。子供がよくやる遊びで、それを大の大人がやっているところが俳句的と言えば言える。五句目は蕎麦屋の一味唐辛子入れの容器で、蓋と容器の穴が合って初めて中身が出るという様子。どの句を読んでも実に楽しく、俳句の世界は広いなあと痛感する。短歌ではこれほど楽しい歌ばかり並んでいることはめったにない。少し眉間に皺の寄る真面目な文芸になりすぎたためか。

 齋藤朝比古は1965年生まれで「炎環」同人。撰は小野裕三。

うすらひの水となるまで濡れてをり

缶切に使はぬ尖り夜の秋

ところてん敗れしごとく押しださる

羽根閉ぢて天道虫のひと粒に

裂ける音すこし混じりて西瓜切る

 座談会で編集部が「俳句の国に暮らしている人なんです」と言い、それを受けて上田が「メランコリックな味わいがあるのは、その俳句の国がすでに失われたものだという感じがあるからだ」と述べているのがおもしろい。たしかにどこかうっすらとした悲しみの漂う句風である。たとえば二句目、缶切りにはいろいろな形の刃が付いていることがあるが、たいていはいちばん大きな刃しか使わない。残りの刃は一度も使われないままになる。そこを突いた句で、冷静に観察する眼に確かにうっすら悲しみがある。そう思うと残りの句にも似たような印象が出てくる。日常の細かいことにいとおしさを見ていると思われる。

 とまあこのように現代俳句は実に多様な展開を見せていて楽しいのだが、もうすでに長くなったので後半は次回に回したい。


https://shiika.sakura.ne.jp/haiku/hai-colle/2012-03-09-6768.html 【『俳コレ』をゆるやかに鑑賞する(第1回)/堀田季何】より

企画そのものは異なるが、『俳コレ』は実質上『新撰21』と『超新撰21』に続く邑書林の俳句アンソロジー第3弾である。『新撰21』のU40に対し、『超新撰21』と『俳コレ』は幅広い世代を網羅しているが、俳壇ヒエラルキーの上位に位置する作家は最小限にし(大結社主宰の小川軽舟氏は例外)、普段あまりスポットライトが当たらない作家や21世紀の俳句を面白くしてくれそうな作家を紹介する事を特色としている。企画が異なるためか、『俳コレ』は、三冊の中では最も作家年齢層の幅が広く、しかも「他撰」を採用している点で特色が際立っている。

この度、邑書林と詩歌梁山泊の共同企画で『俳コレ』を鑑賞する事になった。句友の御中虫女史は「このあたしをさしおいた100句」という挑発的な鑑賞文を10回連載で発表するらしいが、筆者は「『俳コレ』をゆるやかに鑑賞する」という頗る弛緩した鑑賞文を5回連載する事にした。女史も筆者もアンソロジー三冊のいずれにも含まれていないので、この際遠慮せずに、二人して『俳コレ』掲載諸氏の俳句について好き放題書くことになろう。女史は脚光を浴びるのを当然の権利と思っている(と筆者は思っている)し、劇化された虫ismが売りの人であるから、素敵な毒舌も歯切れの良い罵倒も飛び出すであろうが、隠者体質の筆者は脚光など疾うに諦めているし、自己アピールする元気が女史の半分(10:5)しかないので、「ゆるやか」に書かせていただく。

さて、鑑賞文は5回に分け、『俳コレ』掲載の22人の作品から10句を選び、コメントを付けるという形を採る事にする。各自の本体掲載作品100句を対象とし、栞掲載の作品は鑑賞対象外とした。作家によっては佳句が多くて10句以上選びたかった人もいたし、逆に佳句など1句もないと思われる作家もいたが、筆者の嗜好に基づいた消去法で90句削り、作家ごとに必ず10句を選ぶようにした。

自撰数百句が他撰されて『俳コレ』に百句収められ、それを筆者が十句他撰する、という塩梅である。結社等所属の作家の場合、自撰の前に結社誌や句会での主宰・選者による他撰も入っているであろうし、結社所属の身で句集を出している作家の場合は、主宰・選者による再他撰も入っているであろう。つまり、各氏の10句は最低3つの撰、最高5つくらいの撰を経ている事になり、筆者の目に届く前に2回以上篩にかけられている。その為、筆者が高く評価するような句が『俳コレ』に掲載されていなかった可能性も高いので、筆者が『俳コレ』掲載句を基に作者評をしたり、そこから選んだ各10句を基にコメントしたりしても、各作者の実際の水準や性質を見誤っている可能性も無きにしも非ず。これも「撰」の醍醐味であろうから、前もってご寛恕を願う。

【野口る理】

串を離れて焼き鳥の静かなり

襟巻となりて獣のまた集ふ

チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪

出航のやうに雪折匂ひけり

初夢の途中で眠くなりにけり

梅園を歩けば女中欲しきかな

バルコンにて虫の中身は黄色かな

洗髪や目閉ぢてよりの声が変

脱ぎ捨てしスカート秋の火口かな

虫の音や私も入れて私たち

100句を一読、る理俳句の特色は、対象物と作者自身とを主観ないし私性で結び付ける事にあると感じた。写生句でも主観性が強く、写生以外の句でも作者が能動的に対象物と接点を創りだした事で句になっているものが多い。100句を撰んだ関悦史が吟行でのエピソードを述べているが、作者は眼前のものを只捉えたり、眼前のものから思索を只深めたりするのではなく、積極的に対象物と関わり合おうとする。そして「私」が含まれた形で対象物が詠まれる。私性といっても、短歌と違って、作家である野口る理に関するパラテキスト情報は作品鑑賞に不要だし、作中主体との距離などどうでも良いが、る理俳句の至る所に「私」が紛う方なく刻印されている。「私」が存在している事で句の存在が現出した場合が多い。作者がギリシャ哲学を研究していることと無縁ではあるまい。る理俳句は難解からほど遠く、平明な詠み口や隠し味的な女性性が特徴だが、たまに哲学的な捻りがあるのも嬉しい。

1句目、焼鳥の肉を串から外した頃には焼かれた後のジュワッとした音も止んでいた、という句意であろうが、生命のない肉塊となってしまった鶏が物言わない、という句意にもとれ、焼鳥の味わいよりも食肉の倫理問題を考えさせられ、良い意味で不気味。2句目も人間用に加工された動物が詠まれる。死んでいる以上、能動的に集まれず、人間の手により受動的に集まっているところがポイント。3句目、漫画『ピーナッツ』ないしアニメ『スヌーピーとチャーリー・ ブラウン』の中だからこそ雪も幸せな形で擬人化されるのであろう。4句目、「出航のやうに匂ひけり」という比喩表現の半ばに「雪折」という季語を挿入して一句に屈折を生み出し、雪折の雰囲気を出している。ちなみに「出航のやう」な匂いも謎だが、雪折を構成する要素の具体的に何が匂っているかも謎。でも、何となく雰囲気的に謎を解かなくてもよい気になってしまう。5句目、覚醒夢が終わって只の夢に移る瞬間の事か、レム睡眠からのんレム睡眠に移行する事か不明だが、めでたい新年の季語にめでたくないものを採り合わせるという新年の句の王道を踏まえている点が好い。6句目は、メイド(メード)や家政婦とも違う女中がほぼ滅亡した21世紀だからこそ成立する句。7句目、「バルコンにて」の「にて」が面白い。バルコンでなければ虫の中身は別の色をしていそう。この意味で非常に独創性のある句。「バルコンの虫の中身の黄色かな」では別の味わいになってしまう。8句目、声質の変化に着目したところがユニーク。風呂場で独唱しているのか、温泉や銭湯で複数名で入っていて雑談しているのか。9句目、冠雪する前の火口を想起しているのだろうか。字面の割にはエロスよりも真面目なジェンダー論を感じさせる。10句目、る理俳句の私性を代弁しているようで面白い。

【福田若之】

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて

卒業の絵筆に沖が染みている

僕のほかに腐るものなく西日の部屋

とんぼとんぼ溶接されたように飛ぶ

春はすぐそこだけどパスワードが違う

暗いものが朝顔を抑えつけている

初詣に行こうよぶっ飛んで、いこう

ヒヤシンス幸せがどうしても要る

水着絞れば巻貝のやうになる

草田男忌夜空の沖のふかみどり

若之俳句を読むと、青春だねぇ、抒情だねぇ、いいなぁ、って言ってしまいそうになる(あっ、言ってしまった)。現代口語の多用、名前通りの偽りない「若」さ、(世代を問わず)若い詩人に付きもの一定の明るさと一定の暗さ、という特色は世代的典型であるが、強い視覚性、句読点や空白の使用の二点は作者独特のものと言える。強い視覚性というのは、絵の構図になりやすい句が多いという事である。但し、純粋な写生句ではなく、野見山朱鳥のような幻視に近い。作者は絵画の実技や研究も行っており、その資質が俳句に生かされているのであろう。句読点や空白の使用は、前衛俳句ではすでに用いられているものであるが、若之俳句におけるその使用は現代口語短歌のそれに近い。高柳克弘は「無理をしすぎている……成功作があまりないようです」と評していて、確かに若書で未熟なところもあるが、筆者には詩心に満ちた魅力的な句が多く感じられ、正直10句以上採りたかった。作者の性格からして、「無理」をしているのではなく、純粋に天真爛漫なのだろう。作為がありそうで余りない、手垢の付いていない感じが好きである。無論、加齢とともに句風は多少変質するであろうが、将来が楽しみな作家である。

1句目、好奇心旺盛な猫が本能の赴くままに興味対象に歩きだすのであるが、哲学的な雰囲気をまとわせた結句が効いている。2句目、青春俳句の典型。高校時代に描いた絵画を思い起こしている。卒業記念に海の絵を描いたのかどうかは定かでないが、厭味のない感じで心の海原を感じさせてくれる。3句目、西日で傷むのは食料品でなく作中主体という逆転の発想がツボを抑えている。4句目、「溶接」という言葉はなかなか出てこない。あくまでも推測だが、作者はハンディクラフトを日頃から愛している人間だと思う。5句目、20世紀には詠まれなかったであろう内容。パスワードが判ればすぐにでも春に到達できる、というプレ青春的な気分。6句目、朝顔というネアカで意外に詠み難い季語を、「暗い」・「抑えつけ」の二つの影で挟み込む事でうまく料理している。7句目、読点が楽しい。最近の初詣は、家族と行く厳かな行事では必ずしもなく、仲間たちと行くイベントとしての本意も付加されてきている。8句目、花名の語源であるギリシャ神話の美青年ヒュアキントスを連想させる。9句目、佐藤文香の句「少女みな紺の水着を絞りけり」と違って、少女用のスクール水着に限定されないし、中年男性の妄想を掻き立てるような内容ではないが、作者なりの挨拶句かもしれない。10句目、出色の出来。草田男の万緑の句が背景にあるかもしれないが、黒い夜空の彼方が深緑という視覚的把握が鋭い。

【小野あらた】

サイダーの氷の穴に残りをり

栗飯の隙間の影の深さかな

春愁や鯉のぬめりの絡みあふ

黒飴の傷舐めてをる夜長かな

人文字の隣と話す残暑かな

茸飯の茸ぺろりとはがれけり

コロッケの中の冷たきクリスマス

順番に初日の当たる団地かな

雑煮餅具の食込んでをりにけり

白魚の目の裏側の暗さかな

今のところ、あらた俳句は、都会的な日常における写生詠が多く、主観は少なめ。虚子や素十に通じる「余白」の使い方があり(つまり、大らかな把握、及び一句に詰め込みすぎない姿勢)、句風は所属先の「銀化」よりも「ホトトギス」に近い。大らかな把握といっても対象はミクロが中心で、トリビアリズムの鬼とも云いたくなるような実直さ。しかも、老成しているというか、コンクールや句会等で勝つ術を心得ているのか、如何に些細な内容や報告でも真っ当な句に昇華させてしまうポイントを押さえている。現在の年齢でここまで詠めるのは驚異的であり、褒めるべき事である。しかし、老婆心で言わせてもらえば、この先の成長が心配になってくる。神童が進化も深化もせずに、このままの調子で作品を作り続ければ、一定水準の句はできても代表句のない凡百の俳人になってしまう。トリビアリズムは極めれば武器になるが、作者には予定調和や当然性を憎む姿勢、安易な技法で「よくできた句」を作ろうとしない姿勢、もっと対象物を凝視する姿勢(瑣末な事と神が宿る細部は別物)、そして、必要に応じて敢えて「余白」を潰してまで写実を極める姿勢を養ってほしい。作者の潜在能力がどこかで開花すれば素十を超えるかもしれない。

1句目、サイダーを飲み終わったら、氷のくぼみにまだサイダーが残っていた、という巧い客観写生句。量産できそうで、案外できない句。2句目、素十の「蟻地獄松風を聞くばかりなり」に通じる怖さがある。栗飯という日常的な料理に奈落を見出したのは手柄。3句目、鯉でなくその「ぬめり」が絡み合うのがポイント。4句目も同じ発想で、黒飴でなくその「傷」を舐めているのがポイント。5句目、省略を生かしているし、人文字の設定と残暑が合っている。6句目、簡単な文明論になりそうで好い。7句目、「冷たし」にせず、「冷たき」にしたところが巧い。前者ならクリスマスの寒い時期にコロッケが中まで冷たくなってしまった、という季重なりの失敗句になるが、後者ならクリスマスが冷たくて、それがコロッケに入っている、という孤独な境涯詠のようにも読める。8句目、岸本尚毅が指摘したように「順番」を「順々」にした方がより良いが、めでたくないもの(この場合は社会的秩序が初日にも及んでいるような寂しさ)を新年のめでたさと取り合わせる王道を踏まえている点で合格。9句目、句の前半に漢字を持ってきて内容を視覚的に支援しているのが良い。10句目、非常に細かいものを詠んでいる点では作者らしいが、珍しく幻想を詠んでいる。白魚の目の裏側ってどうなんだろう、と読者に考えさせる時点で勝ち。

【松本てふこ】

おつぱいを三百並べ卒業式

不健全図書を世に出しあたたかし

爽やかや表紙に18禁の文字

下の毛を剃られしづかや聖夜の子

読初の頁おほかた喘ぎ声

寒鴉兵器の黒さとぞ思ふ

足裏の血管太く昼寝かな

洋梨の尻より腐りはじめけり

蟷螂の眼はなれてかはゆかり

霾るや触れれば鬼となる遊び

松本てふこは、伝統俳句の牙城とも云える結社に所属しながらも、非常に現代的な素材を独特な視点から詠める作者である。普段の穏当な句とエロスを詠んだ句(筑紫磐井曰く「らしからぬ句」と「いかがわしさのある句」)とは内容も出来も落差が激しく、筆者は後者に軍配を上げたくなるのだが、出版社でBLコミック等の編輯に携わっている作者としては前者も後者も日常詠の一部であり、地続きの一つの世界を詠んでいるつもりなのかもしれない。しかし、客観的に見れば、彼女のエロス詠ないし職業詠は他の日常詠とは内容や素材だけでなく、出来も違っている気がする。これは資質なのであろう。もしてふこが別の仕事に従事していたら、彼女の職業詠は同じくらいに輝くのであろうか、もしてふこが外国に住んでいたら、彼女はその地の現代的素材を同じくらいに詠めるだろうか、と訊かれれば私は返答に窮する。なぜならてふこの「いかがわしさのある句」は仕事や現代風俗を詠んでいるから優れているのではなく、仕事や現代風俗を通じてすぐ得れた官能の詩となっているからである。現代日本では、エロスといえば、バレ句や下ネタと同一視され、露悪的な二流の作品に見られる傾向があるが、本来はタナトスと並んで一流の詩人がライフワークとして取り組むべき二大テーマの一つである。それに資質があるという事は、てふこが一流の詩人としての資質を持っている証左である。てふこの句はいかがわしいが、決して下品でも際物的でも露悪的でもない。ある種の品格を感じる。無理な願いかもしれないが、誰でも詠める優等生的な句は練習程度にとどめて、このまま独自の句境を歩んでほしい。

1句目、有沢螢の歌「講堂に八百人の母がいて出産したる八百の顔」に通じる豪快さがある。学校という禁欲的な場は、性や肉体の部位を集合体として即物的に詠むのに適している。ただ、女子生徒の「おつぱいを」幻想するよりも男子生徒の「のどぼとけ」にした方が視覚的効果は更に増すと思うが如何。2句目、句の出来以前に、筆者は作中主体に感謝したくなる。似非人権、誤誘導プロパガンダ、衆愚主義、各種利権、及びファシズムの哀しい組合せが愚かな条例や法律を日本中、世界中で生み出している。善意を建前に、思想、表現、芸術が狩られていくのを見るのは忍びない。束の間の「あたたか」さ。3句目、束の間の「爽やか」さ。4句目、意外な季語を使っているが、動かない。エロスは根源的な聖性を呼び起こす。5句目、めでたくないものを詠むべきという新年句の王道に沿っている。6句目、作者にしては珍しくタナトスに挑んだ、優れた社会詠だが、フロイト的解釈をしてエロスの句として味わっても良い気がする。7句目、自分の足裏はまず見ないから、目の前で寝ている他者の足裏であろう。結果の太さからいって男性だろうか。自分に足裏の血管を見られる位置で昼寝する関係にある。8句目、一句のポイントは単純に「尻」。そこから腐りはじめているのは、もちろん何かの暗喩である。桃の尻はよく詠まれるが、洋梨の尻、しかも腐りはじめている状態は類想がなさそう。9句目、「かはゆかり」という現代で多用されている語彙に歴史的仮名遣いを施して古風に見せたところが新鮮。10句目、子供の鬼ごっこではなく、大人の鬼畜な遊びが連想される。季語の斡旋も「触れれば鬼となる」という表現も非凡。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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