Facebook福田純子さん投稿記事 ービリージョエルコンサートの巻ー
東京ドーム44000人を埋め尽くして開催されたビリージョエルコンサート
日本人の魂にスイッチを入れに来たのかと思うほど….
ノンストップで25曲を息も切らす事なく2時間半歌い続け会場を魅了していくビリージョエル!
それはそれはエネルギッシュで豊かで愛に溢れた音霊にただただ魅了されました
今夜は最高〜〜
Facebook白木 哲也さん投稿記事
1/24ビリー・ジョエル、満杯東京ドーム圧巻。素晴らしかったですね。万感の想い。
セットリストも日本仕様にしてくれました。普段海外ではやらない「オネスティ」「ストレンジャー」がセットリストに入るのは2020年以来なんと4年振り(「オネスティ」に至ってはここ10年でたった6回しか演奏されていない)。「素顔のままで」は残念ながらやりませんでしたが、まあ別れた奥さんへの曲ですからね。これまでの日本公演でも毎回この3曲全部を必ずやるわけではなかったので、上々ではないでしょうか。
ちなみに14曲目は「All for Leyna」の予定だったんですが、本番は「さよならハリウッド」に変更。これも良かったですね(日本ではなんと初来日公演以来だそう)。
すべての曲になんらかの思い出があり、曲にまつわる全く個人的な風景が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。みんな知ってる、みんな名曲、楽しいコンサートでした!
セットリストはこちらで
●東京ドーム公演のセットリストがプレイリストで公開!
billyjoeljp.lnk.to/Setlist2024TW
合間合間に「さくらさくら」「Start Me Up」「The Lion Sleeps Tonight」「River Deep, Mountain High」「Nessun dorma(誰も寝てはならぬ)」なども挟んでましたね
Facebo0kSammaditthi Asakuraさん投稿記事
ビリー・ジョエルは高校を辞め酒場で弾き語りのピアニストとなりましがそれは辛く不安で孤独な毎日でした。やがて、彼はうつ病になりました。
彼はその苦痛に耐えきれずついに自殺を決意します。そして、彼は最後に神様から質問を受けました。
「おまえは何が欲しかったのかい?」
「ミュージシャンとして成功したい!」と彼は答えました。
19才、彼はバンドを組みロックグループとして念願のデビューを果たしますがアルバムは売れませんでした。.
20才、2枚目のアルバムを出すが全く売れず解散。
21才、デュオグループとして、デビュー。
アルバムを出すがまたもや全く売れず解散。
22才、ソロシンガーとしてデビュー。
アルバムを出しますがレコード会社の製作ミスで大失敗。全く売れませんでした。
うつ病が再発し、自宅にひきこもり彼は曲作りに専念します。
そして、酒場での弾き語りの活動を再開します。
24才、ソロシンガーとして再々デビュー。
アルバムを出す。タイトル曲『ピアノ・マン』それが、全米トップ30の大ヒットとなりました。
辛く不安で孤独な体験から生まれた詩とメロディは、多くの人々の心を揺さぶり
全世界で1億5000万枚のアルバム・セールスを記録したのでした。
「何事かに九回失敗したとしても、それでも、九回の結果を生んだではないか。」と
ダライ・ラマ14世の言葉があります。
どんなに得意で好きなことでも判断を誤らず間違えず成功することは難しいことです。
間違えることや失敗は成功の礎ですから失敗を恐れず、自らが強い決心でやり遂げれると
信じることが大切です。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」- 仏陀の言葉より-
https://www.hmv.co.jp/artist_Billy-Joel_000000000004486/biography/ 【Billy Joel (ビリー・ジョエル) プロフィール】より
Billy Joel 生年月日:1949年5月9日 出身地:ニューヨーク州 NYC ブロンクス地区
Billy Joelが批評家のお気に入りだったことはまず無いが、ピアニストとして出発した後、70年代後半には稀代のシンガー・ソングライターとして頭角を現している。Billy Joelの音楽はBeatlesへの思慕が常に感じられるようなノリとTin Pan Alleyやブロードウェイの影響が色濃いメロディが核になっている。Joel は70年代・80年代に黄金期を迎えており、この2つの時代に相当数のプラチナディスクやヒットシングルを獲得してスーパースターとしての地位を築いた。
ブロンクス地区出身のJoelはロングアイランド郊外のヒックスヴィルで幼少時代をすごす間にピアノをマスターした。思春期を迎えるにつれJoelは反抗期に入りティーンエイジのストリートギャングに加入、そしてウェルターウェイト級のボクシング選手として活躍し始める。10代の間にトータルで22試合を戦ったがそのうちのある一試合で鼻の骨を折っている。10代初期にJoelがしたことといえばケンカとピアノの練習だけだった。1964年TVのエド・サリバン・ショーでBeatlesを目にしたJoelはフルタイムで音楽をやろうと地元ロングアイランドのバンドに参加するようになり、最終的には当時のブリティッシュインベイジョン的バンドのカバーをやっていたThe Echoesに加入。The Echoesはニューヨークで人気を集めるようになったため、Joelは高校を辞めプロのミュージシャンになることを決意した。
Joelは1965年、まだ16歳でThe Echoesのメンバーだった頃にレコーディングセッションに参加するようになる。JoelはGeorge Shadow Mortonがプロデュースしたレコーディング何件かでピアノを弾いており、往年のヒット曲Shangri-LasのLeader Of The Packや、Kama Sutra Productionsから出ているレコードでも彼の演奏が聴ける。この頃The Echoesは既に数え切れないほどのレイトナイトショーで演奏するようになり、1965年後半には1度The Emeraldsに、そして2度目はthe Lost Soulsに名前を変更している。
その後2年間ほどJoelはLost Soulsのメンバーとしてピアノを弾き続けるが、その後脱退、Hassles、Attilaといったバンドを渡り歩き、Attilaでは特徴的なサイケデリック・ロックでEpicと契約を結ぶもファーストアルバムで失敗、解散。しばらくの間ロック雑誌に批評を寄稿したりCMのジングル演奏をしたりといった仕事をしていたがやがて深刻な鬱状態に陥り研磨剤を飲んで自殺を図ってしまう。自殺未遂で命をとりとめたJoelはMeadowbrook病院に通院し鬱病の治療を受けた。
1971年には音楽に立ち戻り、Family Productionという会社と「一生涯」の契約を結ぶ。この時契約についてはまるで何もわからなかったJoelだがこの「生涯契約」が後に打撃を与えるようになる - 同プロダクションはJoel がこの時から1980年代後半まで出したアルバム1枚1枚の印税を全て得ているのだ。とにかくJoelは心機一転、センシティブなシンガー・ソングライターとしてデビューアルバム「Cold Spring Harbor」を1971年11月にリリースする。しかしマスタリングの失敗でテープが2回転ほど速いスピードで録音されてしまっており、アルバムはこの状態で1984までリリースされていた。このアルバムリリース後Joelは小規模なツアーに出たが、ライブはたいていスタンドアップコメディ的な展開に陥ってしまうことが多く、Joelは自身のパフォーマンスにもアルバムの出来にも不満を覚えていた。しかしFamily Productionが法的・財務的に厳しい状況にある中、次のアルバムを製作することもままならなかった。
Joelは1972年にガールフレンドのエリザベスとともにLAへ渡り、Bill Martinという芸名を使ってThe Exective Roomでラウンジピアニストを半年ほど務めた。年末頃になると全国ツアーを開始し各地のナイトクラブなどで演奏した。1973年初めにエリザベスと結婚、またラジオ局ではJoelがかつてフィラデルフィアのラジオ局でライブ録音したCaptain Jack をプレイし始めるようになった。この音を聞きつけたレコード会社各社はこぞってJoelに契約を打診、最終的にColumbia がJoelを獲得した。しかしColumbiaは契約する際Family Productionsに対しアルバム1枚ごとに25セント支払い必ずthe Family and Remusのロゴをジャケットに印刷することを合意させられるハメになった。
1973年末、Billy JoelのColumbiaからのファーストアルバム「Piano Man」がリリースされじわじわチャートを上昇し、1974年の春には27位を記録した。タイトル曲はJoel自身がExecutive Roomで演奏していた時の様子を綴ったものだが、これがTop40シングルになった。同年夏の終わりにはツアーバンドを組んで全国ツアーを展開、J.Geils BandやDoobie Brothersの前座を務めた。同年末には2枚目のアルバム「Streetlife Serenade」を発表、1975年にチャートの35位を記録した。このアルバムの成功後JoelはJames William GuercioとLarry FitzgeraldのマネジメントCaribou社と契約を締結、LAからニューヨークに戻った。
1976年リリースのアルバム「Turnstiles」でJoelはこの時戻ったことを「Say Goodbye to Hollywood」や「New York State of Mind」で歌っている。しかし同アルバムの製作は長期間に及び、膨大なストレスの中JoelはプロデューサーのGuercioを解雇、途中から自らアルバムをプロデュースした。Guercio解雇と同時にCaribouを辞めたJoelは妻のエリザベスを新マネージャーとして起用した。こうやってリリースされた「Turnstiles」は結局チャートの122位程度でストップし、失敗に終わる。
次のアルバムがいよいよ正念場となったJoelは「The Stranger」を製作、このアルバムで真のスーパースターにのし上がった。「The Stranger」は1977年秋に発表され年末までにはチャートの2位まで上昇しプラチナディスクを獲得。そしてリリース1年の間にTop40ヒットシングルをいくつも産み出した。「Just the Way You Are」はグラミー賞を獲得、「Movin' Out (Anthony's Song)」、「She's Always a Woman」、「Only the Good Die Young」といった曲も次々ヒットに。これ以降20年間も同アルバムは売れ続け、合計7百万枚ものセールスを記録するに至った。
その後Joelは1978年秋に「52nd Street」を発表、USチャートで8週連続NO.1に輝き、実にリリース1ヶ月内に2百万枚ものセールスを記録した。このアルバムもヒットが満載で、「My Life」や「Big Shot」、「Honesty」、といったシングルを出し、結果同アルバムは1979年にグラミー賞年間最優秀アルバム賞を獲得した。
1980年春、Joelは新アルバム「Glass Houses」をリリース。内容的にハードエッジなこのアルバムはその頃全盛期を迎えていたパンクやニューウェーブに対するJoelなりの回答という作りになっている。アメリカでは6週連続でチャートNo.1を記録、またもや次々とTop40ヒットを放つ:「You May Be Right」(7位)、「It's Still Rock'n'Roll to Me」(1位)、「Don't Ask Me Why」(19位)、「Sometimes a Fantasy」(36位)。そして再度グラミー賞に輝き、今度はベストロック男性ボーカル賞を受賞している。
翌年にはライブアルバム「Songs in the Attic」を発表、1977年にスターになる以前の曲を中心とした構成で、このアルバムバージョンの「Say Goodbye to Hollywood」と「She's Got a Way」がTop 40ヒットになっている。ライブアルバムを出すことで、本格的なシンガー・ソングライターとしての評価を得たがっていたJoelは渾身の作品を制作する時間を得る。がしかし製作中にバイク事故で手首を骨折、大手術を受けなければならなかった。
1982年7月に妻のエリザベスと離婚、秋にはニューアルバム「The Nylon Curtain」がついにリリースされた。団塊の世代と彼らの経験についてのコンセプトアルバムとなった本作品は商業的には百万枚のみのセールスで失敗に終わったが、これまで散々だった批評家のレビューが随分ましになっていた。それと同時に「Pressure」と「Allentown」というTop20ヒット2曲を産出している。その後Joelは1983年にオールディーズの影響濃いアルバム「An Innocent Man」を発表、遂にマルチプラチナを獲得する。アルバムは合計で7百万枚以上のセールスを記録し、「Uptown Girl 」(3位)、「Tell Her About It」(1位)、「An Innocent Man」(10位)、「Keeping the Faith」(18位)といったスマッシュヒットを次々と出した。このアルバムがリリースされる頃にはアルバム中数曲の題材になっていた当時のトップモデル、Christie Brinkleyと婚約。
1983年・84年には70年代のスターとしては初めてMTVやミュージックビデオをまともに扱うアーティストとなり、アルバムから出たシングルのビデオはMTVで頻繁にかけられることとなった。1985年にはBrinkleyと結婚、同年夏にGreatest Hits Vol.1 & 2という2枚組ベストアルバムをリリースした。ベストアルバムには「You’re Only Human」と「The Night Is Still Young」という新曲を追加して出されたがどちらもTop10ヒットに、更にアルバム自体も1,000万枚を超える売上を記録した。
1987年春にはソビエト連邦ツアーを敢行、レニングラードでのライブを「Kohuept」(ロシア語でコンサートの意)というタイトルでリリースした。1988年になると長年のマネージャーでありかつ義理の弟だったFrank Weberを解雇、不透明な会計処理を不遜とし9千万ドルの訴訟を起こした。そんな中でも1989年にはニューアルバム「Storm Front」を発表。長年のプロデューサーPhil Ramoneをやめ代わりにForeignerのMick Jonesを起用、また自分のバンドもLiberty DeVito以外のメンバーを解雇と、Joelにとっては大きな変換期を象徴するこのアルバムは再度ビッグヒットとなりUSチャートで1位を獲得、3百万枚以上のセールスを挙げた。
Facebook長堀 優さん投稿記事
寝転びながら遠吠えができる我が家の「名犬」は、ジョエルと言います。そうです、あのビリー・ジョエルに因んでいます。
最近会えてませんが、孫ともすっかり仲良くなりました。
じつは、今を遡ること三十有余年前、結婚式のエンディングに、夫婦期せずして選んだのが、ビリー・ジョエルの「素顔のままで」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=L3tDIOgIosk
あの頃は、歌詞の意味もよくわきまえず聴いてましたが、こっ恥ずかしくなるくらいのラブソングだったんですね。
でも、今聴いても全く色褪せることのない名曲です。齢を重ねてから聴く方がより味わい深くなっている感じがします。
我々夫婦の会話をつなぐのは、今も昔も「ジョエル」のようです。
「イヌいれば コロナ倦怠 なんのその」
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