口は重いが、魂は軽く……

https://fragie.exblog.jp/30213420/ 【口は重いが、魂は軽く……】より

ノートルダム大聖堂正面前にいる人々。いつも賑わっている。

さまざまなガーゴイルがいるが、蛙のようなのをEさんが見つけた。

パリに行った友人たちと打ち上げをしようって言いながら、まだ果たせないでいる。

理由は?

yamaokaが忙しすぎるのである。

思い出をかみしめがら、ゆっくりと語りたいところであるが、つぎつぎとめくるめくように予定がはいって(わかるでしょ)ぜんぜんダメ。

今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、三森鉄治句集『山稜』より。

 またの世も師を追ふ秋の螢かな    三森鉄治

死んで螢に生まれ変わるというのではない。秋の螢を眺めながら、もし次の世があるなら、また同じ師を追いつづけると思ったというのだ。師は飯田龍太。龍太の結社「雲母」の人々はこれと同じ思いで結ばれていた。句集『山稜』から。

雑誌「婦人の友」1月号に、日下野由季句集『馥郁』が批評家の若松英輔さんによって紹介されている。山本洋子句集『寒紅梅』(角川文化振興財団)とともに。目下発売中のものであるので、抜粋にで紹介したい。タイトルは「パンだけでなく詩を」。

日下野由季の第2句集『馥郁』を手に取り、開いたところからその日の調子に合わせていくつかの句を読む。黙読するだけでなく、声に出して読んでみる。すると、この俳人が言葉を文字としてだけでなく、生けるものとして捉えていることがよく分かる。彼女は言葉で俳句を「作る」というより、言葉に導かれて、存在の世界の深みのある意味のうごめきを、そっとすくい上げてこようとする。

 哀しみのかたちに猫を抱く夜長

かたちなき哀しみに「かたち」を感じることのできる者は、声にならぬ思い、嘆きにすらない呻きを聞く耳を持つ。静謐をたたえた言葉の奥には、たくましい美と呼びたくなるある力も漲っている。

山本洋子句集『寒紅梅』については、

 若菜摘渚まで来てかへりけり

「若菜」は緑あふれる生命の象徴かもしれない。その一方「渚」、渡ることのできないもう一つの世界との境界である。いのちの句であり、深い愛しみの句でもある。

いつからか、詩を読みながら眠るようになった。詩は、この上ない睡眠剤だ。退屈なのではない。静かに私たちをもう一つの世界へと導いてくれるのである。

「婦人の友」1月号。

新刊紹介をしたい。

上野一子句集『ランゲージ・ダンス』。

A5判ペーパーバックスタイル 72頁 5句組

著者の上野一子(うえの・いちこ)さんは、1955年福岡県生まれ、北九州市小倉北区在住。2000年「天籟通信」入会、2006年「天籟通信新人賞」受賞、2012年「天籟通信俳句賞」受賞、現在「天籟通信」同人、現代俳句協会会員、九州俳句作家協会会員。本句集に、福本弘明代表が序文を寄せている。タイトルは「たのしみはダンスとともに」。抜粋して紹介したい。

一子さんは、前衛舞踏家でもあるのだ。社交ダンスやバレエのような激しい動きのある舞踏ではない。山海塾という舞踏集団の映像を見たことがあるが、これに近いのではないだろうか。むしろ、一子さんの動きは、もっとスローかもしれない。(略)

この舞踏の表現と一子さんの俳句には、共通点があると思われる。それは、無駄なものを省こうとする意志である。舞踏ならば、動き過ぎない。俳句ならば、喋り過ぎない。結果、どのように解釈されるかは受け取る側の感性に任される部分が大きくなる。俳句は、述べる器ではなく、切り捨てる武器だとは、よく言われるけれども、一子さんは、それを徹底しようとしている。(略)

作品は、タイトルの「ランゲージ・ダンス」が示すように多彩である。定型を守りつつ、口語を主体に、文語あり、切れ字あり、ですます調ありと、表現の実験をしているようでもある。

 肉桂玉ふふむふふふふ春の山          ざくろ割く出生率はははははは

 尻上がりして夕焼けにぶらさがる        魚屋に今日も寝ているかたつむり

 悪人を自覚している秋なすび          成仏はさだかではないきのこ飯

これらは、どれも一句一章の作品と読むことができるのだが、季語を詠んでいるわけではない。季語とは異質なものを組み合わせることによって、意外性のある面白みを出現させている。読み手がどのように解釈するのか、それも作者はたのしんでいるようだ。

季語を出発点にして意外性のある面白さを生み出し、それを読者とともに楽しみましょうということと理解した。季語からどのくらい大きくジャンプできるかっていうことかしら。読み手もだから頭を柔らかくしておかなくてはならない。先入観が凝り固まった頭には柔軟体操が必要だ。わたしも読んでいて、「ムムム?!そうか…」って思うものなどもあったりした。まだまだ頭がかたいなあって。そんななかで、

 やまぶきや口の重たい科に属す

これは「口の重たい科」という措辞が気に入った。「やまぶき」という明るい黄色の花を見つめながらどちらかというと饒舌じゃないわねえ、と思っている。「口の重たい科」であることがイヤなわけでなく、そうかと言ってそれがすばらしく上等なことというわけでもなく、すっと言葉が出て来なかったり丁々発止で人と会話ができなかったりすることがあるけれど、まあそういう自分なののよね、山吹の黄色に照らされながら思っているのだ。わたしはどうだろう。友人たちといるとどちらかというと聞く方が多いかもしれない。話すことより聞いている方が楽なのである。しかし、わたしは「口の重たい科」には属していないと思う。上野一子さんの場合、言葉よりもきっと身体が先にあって、身体がまず動き出す。言葉はあとからやってくる。そういう意味における「口の重たい科」なのかもしれない。

本句集担当のPさんはどんな句を選んでいるのだろう。

 春闘や落として歩く下半身           アフリカのリズムきれいなふくらはぎ

 じだらくになりきれぬ日のサングラス      はにかんで口いっぱいのパセリかな

 あなたじゃないあなたじゃないと火蛾むれる   秋の暮とびらにはさむ人の声

 春闘や落として歩く下半身

この一句、実はわたしはどういう意味か分からなかった。するとPさんが、舞踏をやっている上野一子さんらしい句だと思ったという。「下半身を落とすっていうことは、すごく力がいることだと思うんですよ、だから春闘という季語とよく響き合っていて、この著者ならでなくてはできない一句だと思ったんですよ。」とPさん。なあるほど。言われてみれば、であった。

 秋の暮とびらにはさむ人の声

「とびらにはさむ人の声」ってどういうふうなこと?ってPさんに聞いてみた。「ああ、それはきっと扉をしめようとした瞬間に人の声がしたって思ったんですよ。それを「とびらにはさむ人の声」とした視点が面白いとおもったんですね。やはり肉体をつかって表現する人らしいと思いました、ということである。

俳句は経験・体験と結び付けて自分の言葉で、どんなことを表現してもいいのではないかと考えている。十七音だけで表現する宇宙。そこでただ存在する言葉のすごさ。またそのこと自体を表現するというよりその言葉を使うことで体や心が嫌だとか楽しいとか何らかの反応の動きをする部分があるとも思う。そういう意味で私にとって俳句は踊りだと思っている。それで句集の題を「ランゲージ・ダンス(ことばの踊り)」とした 。「あとがき」より。

ほかに、

 子午線を深いみどりの亀が鳴く      つばくらめ斜めむかいの電気店

 十薬のやがて刈られる昭和かな      舌先をたたみきれない桜桃忌

 明るい夜木をおりてくるかたつむり    そんなこと言ったのかしら白い靴

 ご遺体といつか呼ばれるまた昼寝     体内のさまざまな音遠花火

 デッサンに太ももがあるカリフラワー   真白な冬の広島歯をみがく 

本句集の装幀は和兎さん。

爽やかなブルーグリーンの色。

カタカナ表記の句集であるので、漢字では使えないポップな色を選んだと和兎さん。

五句組であるが、軽やかに読んでいける一冊である。

 一本の虹できるまで踏むミシン

句集『ランゲージ・ダンス』は、作者の一子さんと、読み手が一緒にたのしむ作品集といえるだろう。読後に快い疲労感を覚えるならば、一子さんは、してやったりと喜ぶに違いない。

序文より。

  たましいの軽い血統さくら散る

どうしてだろうか、さきほどは「口の重たい科」を選び、こんどの「たましいの軽い血統」という措辞の句を選んでしまった。さっきは「軽く」、今度は「重く」である。上野一子さんは、「口は重い」が、「たましいは軽い」のである。いかにもダンスをする人らしい。この句、「たましいの軽い血統」と詠んだところが生半可でなくて、「桜散る」の季語につり合っていると思った。「たましいが軽くある」ということは、一昼夜にしてして出来上がるものではなく、脈々とした血のつながりを経ているのである。それは舞踏という命脈につらなるものの血筋なのである。

今日はこれから俳人の朝吹英和さんにお目にかかることになっている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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