http://nonsyaran1223.blog.jp/archives/13678589.html 【二度哭きし秋夕焼を憎みけり 太田保子】より
作者太田保子は、「鎮魂歌」で有名な詩人木原孝一(本名太田 忠)の妻である。夫木原が亡くなったのが1979年9月7日、57歳だった。それを思い合わすと、掲句「二度哭きし秋夕焼を憎みけり」と、なぜ彼女が詠まねばならなかったのか、理解できるような気がする。人生のイベント、特に生死は時を選ばない。1月1日から12月31日まで、365日、まさに「禍福は糾える縄の如く」入り雑じり、一年で一番目出度いとされる元旦でさえ容赦しない。元日は私が(戸籍上)生まれた日だが、父の弟、すなわち叔父が亡くなった日でもある。したがって背景が違えば、同じ時期、同じ季節でも、人によって喜怒哀楽の全く違う色付けの時期、季節になってしまうのだ。清少納言は『枕草子』で、「秋は夕暮れ(が良い)」と言ったが、それは多分、彼女が掲句の作者のような深い悲しみや辛酸を、この季節に舐めていないからかも知れない。「二度哭きし」の「哭」、また「憎む」の語から、掛け替えのない人を失った彼女の深い喪失感、愛の深さが伝わってきて、胸が搔きむしられるような気がする句である。同時に彼女に俳句という「杖」があって、本当によかったと思わされる句でもある。傾聴やコーチングのように、自分の内心を言葉にして吐き出すことは、傷ついた心を癒し、立て直すうえで、欠かすことのできないプロセスでもあるからだ。太田保子には他に/一切をふりむかずくる春の濤/恵方とや一直線はおそろしく/えごの花川は深空につづきけり/菱形のたましひのせし雛飾/白梅に真言といふ明りかな/蓮ひらく密かに魂の殖ゆるかに/白桃の匂ひ亡き児を育てをり/もう咲いてゐますと夜の梅の声/など。
https://www.townnews.co.jp/0401/2023/04/28/676226.html 【第24回NHK全国俳句大会で夏井いつき氏の特選作品自由題一席に選出された 佐藤 直哉さん 下鶴間在住 37歳】より
豊かな感性、17音に乗せ
○…「孤独死にあたたかな死後二日かな」。コロナ禍で切実に感じた孤独感や死に対する感情を詠んだこの句が、NHK全国俳句大会で審査員を務めた俳人の夏井いつき氏の目に留まった。「『あたたか(暖か)』はせめてもの救いを求める気持ちからでした」。この意図が夏井氏に伝わり「せめてもの供養とする詠嘆であるか」と講評された。「俳句人生で一番うれしかった」と声を弾ませ、賞状は一生の宝物になった。
○…俳句を始めたのは地域紙がきっかけ。同大会で大賞を獲得した男性の記事を見て「自分もこんな風になりたい」と火がつき、2015年から独学で俳句を始めた。本や俳句番組で知識を積み重ねていくのはもちろん、日常生活のふとした瞬間も、つい俳句を考えるほど没頭する毎日。「ピタッとはまる時がたまらないんです」。8年経った今でも、この感覚が原動力になっている。
○…茨城県守谷市の出身。小学生の時に先生から作文を褒められたことがうれしく、文章で表現することへの関心が強まった。「社交的な妹とは対照的に、控えめな学生時代でした」と振り返るも、水泳、ハンドボール、弓道など幅広く挑戦してきた。大学卒業後は25歳まで地元で日本語教師を経験し、転職を機に大和市へ。現在は公務員として、市内で介護保険の業務に携わる。
○…今までは一人で俳句をたしなんできたが、受賞を機に「俳句仲間が集う結社に入り、輪を広げたい」と今後の楽しみを明かす。取材後に大和市にちなんだ俳句をお願いすると「考えてみますね」と笑顔で快諾。市のシンボルでもある「山桜」を添えて「火を灯すやうに傘さす山桜」と一句。桜舞う鮮やかな風景が目に浮かぶ、素敵な句を寄せてくれた。
https://reskill.nikkei.com/article/DGXMZO05134640S6A720C1000000/ 【上智大学でグリーフケアを語る】より
7月20日、上智大学で特別講義を行いました。同大学グリーフケア研究所の島薗進所長からのお招きです。島薗所長は日本における宗教学界の大御所で、死生学の権威です。2コマの連続講義で、「儀式」をテーマとした第1部に続いて、第2部では「グリーフケアの時代」と題して、死別の悲嘆ケアについて話しました。
上智大学といえば、日本におけるカトリックの主要拠点ですが、わたしは仏教の開祖であるブッダの話をしました。「釈尊」ことブッダは、「生老病死」を苦悩としました。 わたしは、人間にとっての最大の苦悩は、愛する人を亡くすことだと思っています。老病死の苦悩は、結局は自分自身の問題でしょう。しかし、愛する者を失うことはそれらに勝る大きな苦しみではないでしょうか。
配偶者を亡くした人は、立ち直るのに3年はかかるといわれています。幼い子どもを亡くした人は10年かかるとされています。この世にこんな苦しみが、他にあるでしょうか。一般に「生老病死」のうち、「生」はもはや苦悩ではないと思われています。しかし、ブッダが「生」を苦悩と悟ったのは、「生まれること」ではなくて、愛する人を亡くして「生き残ること」ではなかったかと、わたしは思うのです。
それでは、ブッダが苦悩と認定したものを、おまえごときが癒せるはずはないという声が聞こえてきそうです。たしかに、そうかもしれません。しかし、日々、涙を流して悲しむ方々を見るうちに、「なんとか、この方たちの心を少しでも軽くすることはできないか」と思い続けています。ユダヤ教のラビ(指導者)でアメリカのグリーフ・カウンセラーであるE・A・グロルマンの言葉を、わたしは次のようにアレンジしました。
親を亡くした人は、過去を失う。
配偶者を亡くした人は、現在を失う。
子を亡くした人は、未来を失う。
恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う。
それぞれ大切な人を失い、悲しみの極限で苦しむ方の心が少しでも軽くなるようお手伝いをすることが、わが社の使命ではないかと思うようになったのです。そして、わたしは『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)というグリーフケアの本を書きました。さらに2010年6月21日、愛する人を亡くされたご遺族の方々のための会を発足させました。念願であったグリーフケア・サポートのための自助グループです。月光を慈悲のシンボルととらえ、「月あかりの会」と命名しました。
わたしたちの人生とは喪失の連続であり、それによって多くの悲嘆が生まれます。大震災の被災者の方々は、いくつもの大切なものを喪失した、いわば多重喪失者です。家を失い、さまざまな財産を失い、仕事を失い、家族や友人を失った。しかし、数ある悲嘆の中でも、愛する人の喪失による悲嘆の大きさは特別です。グリーフケアとは、この大きな悲しみを少しでも小さくするためにあるのです。
1995年、阪神・淡路大震災が発生しました。そのとき、被災者に対する善意の輪、隣人愛の輪が全国に広がりました。じつに、1年間で延べ137万人ものボランティアが支援活動に参加したそうです。ボランティア活動の意義が日本中に周知されたこの年は、「ボランティア元年」とも呼ばれています。
16年後に起きた東日本大震災でも、ボランティアの人々の活動は被災地で大きな力となっています。そして、2011年は「グリーフケア元年」であったと言えるでしょう。グリーフケアとは広く「心のケア」に位置づけられますが、「心のケア」という言葉が一般的に使われるようになったのは、阪神・淡路大震災以降だそうです。被災した方々、大切なものを失った人々の精神的なダメージが大きな社会問題となり、その苦しみをケアすることの大切さが訴えられました。
それから、「グリーフケアとしての読書」についても話しました。もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能があります。これまでは自分こそ「この世における最大の悲劇の主人公だ」と考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟るのです。長い人類の歴史の中で死ななかった人間はいません。愛する人を亡くした人間も無数に存在します。その歴然とした事実を教えてくれる本というものがあります。それは宗教書かもしれませんし、童話かもしれません。いずれにせよ、その本を読めば、「おそれ」も「悲しみ」も消えてゆくことでしょう。
特に、わたしは童話を読むことが最高のグリーフケアとなるのではないかと述べ、アンデルセンの『人魚姫』『マッチ売りの少女』、メーテルリンクの『青い鳥』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を紹介しました。受講された方々は社会人が中心でしたが、みなさん非常に熱心にメモを取りながら聴いてくれました。どうか、日本にグリーフケアの文化が根付きますように!
一条真也(いちじょう・しんや)本名・佐久間庸和(さくま・つねかず)1963年北九州市生まれ。88年早稲田大学政経学部卒、東急エージェンシーを経て、89年、父が経営する冠婚葬祭チェーンのサンレーに入社。2001年から社長。大学卒業時に書いた「ハートフルに遊ぶ」がベストセラーに。「老福論~人は老いるほど豊かになる」「決定版 終活入門~あなたの残りの人生を輝かせるための方策」「死が怖くなくなる読書~『おそれ』も『かなしみ』も消えていくブックガイド」「涙は世界で一番小さな海~『幸福』と『死』を考える、大人の童話の読み方」など著書多数。全国冠婚葬祭互助会連盟会長。九州国際大学客員教授。12年孔子文化賞受賞。
https://kameari-church.com/archives/4948 【「パウロの辞世の句 Ⅱテモテ4:6-8」】より
投稿日: 2023年9月15日 投稿者: 鈴木 靖尋
パウロはローマの獄中に捕えられましたが、その後、2年間くらい釈放されたようです。しかし、再び捕えられ、今度は地下牢に閉じ込められたと思われます。紀元後64年ローマの大火がありました。伝説によると、ネロ皇帝がキリスト者のせいにして、翌年、パウロをみせしめに殺したようです。テモテ第二の手紙は、パウロが殉教する直前の手紙です。ですから、「パウロの辞世の句」と言えるでしょう。
1.使徒としてのパウロ
冒頭のあいさつが、「神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから」(Ⅱテモテ1:1)となっています。パウロの手紙のほとんどは、自分を「使徒」として紹介しています。第一のポイントは、使徒としてのパウロはどのような人物なのか、またどのようなことをしたのか学びたいと思います。パウロは自分のことをピリピ3章でこのように紹介しています。ピリピ3:5-6「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」これは、パウロがユダヤ人に対してあえて誇っている箇所です。主の弟子たちを迫害するためにダマスコに向かう途中、復活の主がパウロに現れました。パウロは地に倒れ、イエス様のお声を聞きました。そして、アナニアを通して召命が告げられました。パウロはイエス様の直接の弟子ではありません。ですから、コリントの教会の人たちの中には彼を使徒として認めない人たちがいました。でも、パウロは彼らにこう言っています。Ⅰコリント15:8-10「そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」そうです。パウロは復活の主から直接、使徒として召された人物です。ペテロはおもにユダヤ人に、パウロは異邦人に遣わされました。使徒の働きを見るとわかりますが、小アジア、ヨーロッパへと3回の伝道旅行を行ないました。最後は囚人としてローマに渡りました。そして、旅先から、獄中から、たくさんの手紙を書きました。教会や個人に宛てられたものですが、残っている13の手紙は新約聖書になりました。
では、使徒というのはどのようなことをするのでしょうか?使徒の任務とは何なのでしょうか?使徒はギリシャ語でアポストルで「派遣された者、使者、司令官」という意味があります。本来は十二使徒のことですが、巡回して福音を宣べ伝える使徒のことでもありました。パウロはキリストから直接選ばれた使徒であり、異邦人の宣教だけではなく、キリスト教の神学的な土台を築くためにも召されました。では、パウロはその知識をどこで得ることができたのでしょうか?パウロはペテロや他の使徒たちから受けていません。ガラテヤ1:12「私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」さらに、そのことを裏付けるようなパウロの体験がⅡコリント12章に記されています。
Ⅱコリント12:4「彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。」12:4「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました」と述べていますが、これはパウロのことです。もし、新約聖書に福音書だけしかなければ、神学的に大変、貧しいものになるでしょう。その後、起るキリスト教の異端に対処できなかったでしょう。パウロはガマリエルの門下生として学んだだけではなく、キリスト様から直接、啓示を受けることができました。ですから、今の私たちに深淵で豊かなキリスト教の神学的知識を与えてくれます。神学校で学ぶ、キリスト論、救済論、聖霊論、教会論、終末論のほとんどは、パウロの書簡から学ぶことができます。ある牧師たちは「パウロ先生!」とイエス様の次に慕っています。私も人間の中で最も尊敬する人物は、使徒パウロです。彼は外見的にはあまり良くなかったようです。石打ちを受け、顔面、とくに目を損傷していたようです。あるいは何らかの病気をもっていたかもしれません。でも、キリストに対する愛と情熱、失われた魂に対する愛と情熱はナンバー・ワンと言えるでしょう。
パウロは使徒だけではなく他の賜物もあったようです。1章11節には「この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました」と書かれています。つまり、パウロは今日で言う、伝道者、教師、そして牧師の賜物もあったということです。エペソ4章には「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」という教職者の賜物が記されています。これらはキリストの賜物であり、使徒職のパウロとは違います。それでも、パウロの特徴を捉えています。使徒パウロは新しい地に宣教に行って、教会を設立します。そのとき、重要なことを教え、牧師や長老を任命して、自分は新しい地にまた伝道に行きます。手の平の五本の指でたとえると使徒の賜物は親指です。人差し指は預言者、続いて伝道者、牧師、教師と続きます。面白いことに、親指はどの指とも結び合うことができます。他の指同士は結構難しいです。つまり、使徒は万能であり、何でもできるということです。でも、牧師と違って、使徒は1つの教会でじっとしておられず、新しい教会を開拓したくなります。使徒は神さまの設計図を知ることができます。また、預言者は教会が設計図通りやっているかどうか判断するコンサルタントです。現代の教会は使徒と預言者を認めようとしません。牧師が1つの地方教会を任せられ何でもやることになっています。しかし、新約聖書を見ると使徒は81回登場しますが、牧師はたった1回だけです。もちろん現代は十二使徒やパウロのような肩書きを持つ使徒はいません。しかし、賜物としての使徒や預言者は存在します。彼らを教会から排除し、牧師だけが牧会をするなら設計図とコンサルタントなしの「神の教会」を建てることになります。
パウロは自分が使徒であっただけではなく、使徒とはこのような神の働きを担っているという見本を後の教会に教えてくれます。また、聖書の使徒たちが教会の教えの土台になっていることに敬意を払い、教会は真理の柱である、使徒たちの教えに従う必要があります。
2.苦しみを受けているパウロ
Ⅱテモテ1:11-12「この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。
そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」パウロは十二使徒たちよりも、かなり後に召されました。しかし、最も労苦し、困難や迫害を受けた使徒と言えるでしょう。使徒はすばらしい神さまの名誉職ですが、パウロのような苦しみを受けなければならないとなると尻込みしてしまいます。この手紙はローマの獄中から書かれています。伝統的には、ピリピ、エペソ、コロサイ、ピレモン、そしてこの第一と第二テモテと言われています。これまで、小アジア、ヨーロッパと3回も伝道して数多くの教会を設立しました。そして、最後は囚人としてローマに渡ることになりました。最初は比較的自由が与えられたと思いますが、後半は薄暗い地下牢でした。ある説によると、トイレもなく排水溝が脇に流れていたということです。「神の使徒が、そのようなひどい扱いを受けて良いのだろうか?」と思ってしまいます。しかし、パウロ自身はこう述べています。コロサイ1:24「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」この箇所は、解釈することが難しいと言われています。普通に読むと、「キリストの苦しみが足りなかったので、使徒であるパウロが足りない苦しみを補足している」みたいに理解してしまいます。聖書的に言うと、キリストの十字架での贖いにおける苦しみは全うされました。イエス様は「完了した」とおっしゃったからです。そして、私たち人間は、キリストの贖罪のために足すことも引くこともできません。これは父なる神と御子イエスの間で完成された贖いのみわざだからです。しかし、パウロはここで「キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところ」と言っています。イエス様は人類の贖いのために苦しみ死なれましたが、教会の設立には関わっていません。そういう意味で、パウロは十字架の贖いのためではなく、教会の設立のために苦しみを受けているということです。
パウロはローマに行く前ですが、自分が受けた苦しみについて詳細に述べている箇所があります。Ⅱコリント11:23-28「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。」パウロは召命を受けた時、アナニアを通して「私の名のためにどんなに苦しまなければならないかを示す」と言われたことがあります。しかし、まさかこれほどの苦しみを受けるとは思ってもみなかったのではないでしょうか?パウロは肉体にとげが与えられていたようですが、それが何かということが議論されています。ある人は癲癇、ある人はマラリヤではないかと言っています。しかし、奥山実師は、それは病気ではなく、ルステラ(リステラ)で受けた石打ちの後遺症ではないかと言っています。使徒14:19「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」とあります。パウロは翌日、立ち上がりデルベへと向かいました。当時の石打ちというのは、心臓をめがけて大きな石を投げるそうです。その石は顔面にも当たるそうです。ユダヤ人たちは「パウロが死んだ」と思ったのですから、よっぽどの重症を受けたことでしょう。おそらく、内におられるキリストの復活の力で立ち上がることができました。でも、顔面、とくに目に後遺症となる傷を受けたのではないでしょうか?その証拠として、ガラテヤ4章にこのようなことが記されています。ガラテヤ4:14,15「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。」パウロは手紙を書きましたが、それらのほとんどは代筆であって、最後の挨拶だけパウロが書いているからです。
パウロはテモテにこのように感謝しています。Ⅱテモテ3:11-12「また、アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」このことばは、私たちへの慰めのことばでもあります。私たちは「パウロは使徒だから特別、大きな苦しみを受けるのだ」と思ってしまいます。キリストのそもべパウロが受けた苦しみは確かに特別ですが、私たちにも適用できることがあります。それは、パウロに対してであったように、主は迫害や苦難から私たちを救い出してくださるという保証と約束があります。あれほどたくさんの苦しみや迫害を受けてもなお、パウロは伝道し続けることができたのは、主が共におられたからです。もう1つは、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けるということです。この世は神に敵対しているサタン的な世界です。妥協して、ごまかして生きるなら迫害は少ないかもしれません。しかし、キリストの御名を隠さないで、敬虔に生きようとすれば迫害を受けるということです。言い換えると、迫害はまともなクリスチャンであることの「しるし」だということです。神の相続人であるならば、キリストの苦難をともに受けるのが当然であると覚悟しましょう。
3.パウロの最終的なゴール
Ⅱテモテ4:6-8「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」このことばこそが、パウロの辞世の句と言えるでしょう。パウロは自分の死期が近づていることをはっきりと述べています。しかも、その死は単なる死ではなく、「注ぎのささげ物である」と理解しています。「注ぎのささげ物」とは、どういう意味か調べました。「注ぎの供え物と訳されている語は、神へのささげ物を祭壇に注ぐという意味である。パウロは、たとい注ぎのささげ物の酒を注ぐように、自分の血を注いでも、それは神の栄光のための犠牲的な死であり、教会に仕えるものであるからその犠牲を喜ぶと言っている。パウロは、生命を奪われるということより、自分から生命を犠牲にするという自覚に生きている」と解説してありました。ピリピ2章では「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」(ピリピ2:17)と、パウロはむしろ、そのことを喜んでいます。ということは、パウロは首を切られて死ぬとき、自分を喜んでささげたということです。以前、「パウロ」という映画を見たことがあります。くぼんだ台木の上に自分の首を差し出しているシーンがありました。本来なら、「私は死刑にあたる罪は犯していない」と言えたはずです。パウロはローマ皇帝に逆らうよりも、むしろ神への生贄となって祭壇に血を注ぎました。イエス様は全人類のための贖いの死でした。しかし、パウロの場合はキリストのからだなる教会のための殉教の死でした。この先、数えきれないキリスト者がローマの迫害によって殉教することになります。ローマは人々は殉教を恐れてキリスト教徒はいなくなると思いました。ところが、殉教すればするほど、キリスト者が増えていきました。教会の教父であるテルトリアヌスは「殉教者の血は教会の種である」と言いました。
このところに、パウロが目指したものは何かが記されています。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」パウロにとって最終的なゴールは義の栄冠でした。ピリピ人への手紙にも同じようなことが書かれていますが、まだ、その時は途中でした。ピリピ3:14「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」以前は、目指していましたが、いよいよ義の栄冠が目の前に見えてきました。私たちはオリンピックや世界大会の競技を見ることがあります。ゴール地点にはテープが張られています。そこを競技者たちが最後の力を振り絞って走ります。その時は、隣の人がどうなのか見ていると遅くなるでしょう。脇目も振らず自分が目指すゴールだけを見て、全力で走ります。パウロはこのところで「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」とはっきり言いきっています。英語の聖書は、“I have finished the race, I have kept the faith.”完了形になっています。パウロは最後まで走り通した人、finishi wellです。聖書では最後まで走り通した人は全体の3割程度であり、それはアメリカの牧師も同じくらいの率だそうです。パウロが知っている人たちで、脇道に逸れた人、あるいは最後まで走り通せなかった人がいるのでしょうか?Ⅱテモテを見ますと、そういう人物がかなりいたようであり、パウロの心の痛みでもありました。Ⅱテモテ2:17-18「その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に、ヒメナイとピレトがいます。彼らは真理から外れてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえしています。」彼らは不敬虔になり、真理から外れてしまいました。Ⅱテモテ3:8「たぶらかしている者たちは、ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らっており、知性の腐った、信仰の失格者です。」彼らは信仰の失格者と言われています。Ⅱテモテ4:10「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。」他の人たちはともかく、デマスは今の世を愛し、パウロを見捨ててどこかに行きました。Ⅱテモテ4:14-15「銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。」アレクサンドロはパウロを積極的に苦しめた人物です。彼らは信仰の道から逸れた人たちであり、パウロの心の痛みであったと思われます。
もちろん、パウロにとって、テモテやオネシポロ、マルコ、ルカのような支援者がいました。最後の挨拶のところを見ると、ユプロ、プデス、リノス、クラウディア、他の兄弟たちもいたようです。彼らは、最後までパウロと共にいた人たちです。こういうことを考えますと、鉄人パウロのように思えますが、寂しい思いをしていたこともあったことは確かです。パウロは義の栄冠を受けるために走り通しました。では、私たちは、その義の栄冠をいただくことができるのでしょうか?Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」ここには、パウロだけではなく、「主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです」と言われています。この意味は、「世の終わりに来られるイエス・キリストを慕い求めているか?」ということです。私たちは神さまから与えられたゴールを最後まで走り通すべきです。同時に、世の終わりに来られるイエス様を慕い求めて生活するということです。でも、イエス様が、私たちが生きているうちに来るか、その後なのか誰も分かりません。私たちは主とお会いするチャンスが2回あります。パウロのように死んでから主とお会いするか、それとも生きているうちに再臨の主とお会いするかのどちらかです。どちらにしても、主に会う備えが必要です。今晩、心臓が止まって主とお会いしても良いように、あるいは、今晩、再臨の主が来られて天に引き上げられても良いように備えましょう。
http://chobi256.blog108.fc2.com/blog-entry-205.html 【「鎮魂歌」~木原孝一さんのこと】より
木原孝一という詩人がいる。
故人であるから「いた」と過去形で書くべきなのであろうが、作品は生き続けているので、あえて現在形で書いてみる。
木原孝一は戦後の詩史の中心であった「荒地」同人であり、わが父親の親友でもあった。
木原氏についてはいろいろな思い出がある。
私が幼児の頃、川崎の社宅住まいだったのであるが、その当時、この「木原のおじちゃん」はよく家に遊びに来たのを覚えている。子供心に「いつもお酒飲んでる」「声がおおきい」と思っていた。
ある時など、私が母親に叱られて玄関先に閉め出されていたところへ「おじちゃん」はやってきた。
「木原のおじちゃん」は来るなり玄関の前で仏頂面(多分)で座り込んでいる小さな女の子を抱えあげ、無理やり肩車をして、勝手に玄関をあけて我が家に凱旋したのであった。
「この子、玄関に捨ててあったぞ~」と叫びながら。
私は泣きながら「捨ててあったんじゃない!」と「おじちゃん」をボカスカと殴っていたようなおぼろげな記憶があるのである。
さて この「おじちゃん」はいつも酔っ払っていたような気がする。
子供心に 「なんとなく苦手」と思っていた。
父親も大酒を飲んではクダを巻いていたので、大酔っ払いが二人揃えば、傍に居た子供がどんな目に合うかは、あなたにも想像がつくことだろう。
この「酔っ払いのおじちゃん」が実は結構有名な詩人であるなんてことは、子供には何の価値もないのであった。
高校生になった頃、私は詩に親しむようになっていた。蛙の子は蛙、だからなのか、単なる親の洗脳教育の成果なのかはわからない。
何しろ、本だけは腐るほどある家である。 現代詩関係の文献なら、その気になればそれこそ何でも読めるわけである。こういった「恵まれた環境」の中で次々と新しい詩作品に出会い、黒田三郎、高野喜久雄といった詩人に傾倒していったのであった。そんな文脈の中で、高校1年生の夏休みの現国の自由課題として「作家論」または「作品論」を書け、という課題が出た時、私は「黒田三郎論」を書こうと決意したのである。
父親に色んな質問をしながら「詩学」(故 嵯峨信之氏の主宰されていた同人誌)や「鮎川信夫詩論集」や「言語にとって美とは何か(吉本隆明氏の名著)」などを片端から引っ張り出してもらい、父親と詩の話をする。 そんな中で、ある晩、いつものように少し酔った父が、妙にしんみりしながら、書棚から一冊の詩集を取り出した。
「木原孝一詩集」
その中からあるページを開いた彼は、「この詩はお父さんが一番好きな詩なんだ」と言って、一編の詩を読み上げ始めた。 「鎮魂歌」。
読み終わったとき 彼は泣いていた。
泣きながら私に謝った。娘に思いかけずそんな姿を見せてしまったことへで彼も動転したのかもしれない。
娘はどうしてよいかわからず、戸惑い、黙っていた。 気恥ずかしかった。
ずっと時間がたってから振り返ってみると、あの時、父と心の回路が開けたような気がした。
一人の人間として、苦悩を抱えた人間としての存在として、私の前に立つようになった。
彼と文学の関わりも垣間見た気もした。
戦争にまつわる悲惨な詩の多い木原氏の作品は、バリバリの戦後世代の私には、父が感じたようには生々しく受け止めることができないものが多いのだが、「鎮魂歌」だけはその夜以来私にとって「特別な詩」になったのである。
https://ameblo.jp/fifth-of-july/entry-12712391786.html 【現代詩を読む~「鎮魂歌」木原孝一】より
木原孝一・1922年2月13日生~1979年9月7日没
鎮 魂 歌 木原 孝一
弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう
こちらからは 何も見えない
昭和三年 春 弟よ おまえの 二回目の誕生日に キャッチボオルの硬球がそれて
おまえのやわらかい大脳にあたった それはどこか未来のある一瞬からはね返ったのだ
泣き叫ぶおまえには そのとき 何が起こったのかわからなかった
一九二八年 世界の中心からそれたボオルが ひとりの支那の将軍を暗殺した
そのとき われわれには 何が起こったのかわからなかった
昭和八年 春 弟よ おまえは 小学校の鉄の門を 一年遅れてくぐった
林檎がひとつと 梨がふたつで いくつ? みいっつ 子山羊が七匹います 狼が三匹喰べました 何匹残る? わからない わからない おまえの傷ついた大脳には ちいさな百舌が棲んでいたのだ
一九三三年 孤立せる東洋の最強国 国際連盟を脱退 四十二対一 その算術が出来なかった 狂いはじめたのはわれわれではなかったか?
昭和十四年 春 弟よ おまえは ちいさな模型飛行機をつくりあげた 晴れた空を 捲きゴムのコンドルはよく飛んだ おまえは その行方を追って 見知らぬ町から町へ 大脳のなかの百舌とともにさまよった おまえは夜になって帰ってきたが そのとき おまえはおまえの帰るべき場所が 世界の何処にもないことを知ったのだ
一九三九年 無差別爆撃がはじまった 宣言や条約とともに 家も人間も焼きつくされる
われわれの帰るべき場所がどこにあったか?
昭和二十年 五月二十四日の夜が明けると 弟よ おまえは黒焦げの燃えがらだった
薪を積んで 残った骨をのせて 石油をかけて 弟よ わたしはおまえを焼いた
おまえの盲いた大脳には 味方も 敵も アメリカも アジアもなかったろう
立ちのぼるひとすじの煙りのなかの おまえの もの問いたげなふたつの眼に
わたしは何を答えればいいのか?
おお おまえは おまえの好きな場所へ帰るのだ 算術のいらない国へ帰るのだ
一九五五年 戦争が終わって 十年経った 弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう
わたしには いま 何処で 何が起こっているのか よくわからない
(『荒地詩集1956』荒地出版社1956年8月刊、『木原孝一詩集・ある時ある場所』飯塚書店1958年1月1日刊)
戦前から北園克衛のモダニズム芸術誌「VOU」で詩作発表を始め、戦後は鮎川信夫、田村隆一、黒田三郎、三好豊一郎らとともに誌誌「荒地」を起こした詩人、木原孝一(1922-1979)は、生前に12冊の著作がありますが、詩集は単行詩集『星の肖像・散文詩集 1941-42』(昭森社・1954年刊)、『木原孝一詩集 1946-1956』(荒地出版社・1956年刊)『木原孝一詩集・ある時ある場所』(飯塚書店・1958年刊)と、既刊3詩集からの採録にその後の未刊詩篇を加えた『現代詩文庫・木原孝一詩集』(思潮社1969年初版・1972年改版刊)しかなく、57歳没と早逝だったため、「荒地」の詩人では比較的地味な存在でした。しかしやはり寡作だった中桐雅夫、衣更着信、北村太郎(北村太郎は'80年代以降爆発的に多作になりますが)とともに寡作の中に高い詩質で後進の詩人たちから敬愛され、「荒地」のリーダー格だった鮎川信夫はともかく、ジャーナリズムの脚光を浴び広い読者を得た田村隆一、黒田三郎よりもひっそりと愛読されつづけている詩人です。没後に既刊詩集と未刊詩篇をほぼ網羅した『木原孝一全詩集』(永田書房・1982年刊)ののちは『現代詩文庫』版が細々と版を重ねるのみでしたが、近年生前詩集三冊からほぼ半数の詩篇と、拾遺詩篇と全詩集にも未収録だった単行本初収録詩篇13篇からなる選詩集に、未発表の未完長編小説『無名戦士(硫黄島)』を初めて収録した『血のいろの降る雪・木原孝一アンソロジー』(未知谷・2017年刊)の刊刊が主要新聞各社の書評欄で紹介され、再評価の気運が高まりつつあります。
この「鎮魂歌」は木原孝一の詩でも唯一教科書類に採択されることがある詩篇で、その意味ではもっとも木原孝一の詩のうち知られた詩篇ですが、教科書は各社から刊刊されるうち使われる学区は全国でまちまちですから、学校で学んで知っている読者はよく知っていても知らない読者が知る機会が少ないことには変わりません。これを選んだ国語教科書編者はよくぞ目をつけてくれたと思うような胆力ある現代詩で、日本の現代詩の古典と目せる木原孝一の傑作のひとつです。知的障害を持った弟の、太平洋戦争中の戦災死にいたるまでを戦後10年経過した作詩時だからこそ俯瞰できる戦局推移と関連づけて、モダニズム詩の多声的手法で描いた作品ですが、これほど鮮やかで訴求力に富んだ詩に仕上げたのは作者の力量を示してあまりあります。この詩篇は戦後の本格的な第1詩集『木原孝一詩集1946-1956』の収録には間に合わず、2年後の第2詩集『木原孝一詩集・ある時ある場所』の巻頭を飾る詩になりましたが、木原孝一の2冊の戦後詩集は同時期の『鮎川信夫詩集』や田村隆一の第1詩集『四千の日と夜』に匹敵する日本の戦後現代詩の里程標的現代文学です。石原吉郎の諸作と並んで戦争体験が色濃いために題材的には古びましたが、だからこそこの「鎮魂歌」には歴史的証言として今なお読み返される意義があり、それをとびきり優れた詩作として提示した木原孝一の手腕は今なお、現代詩の出発点として顧みられる風格を備えます。真に優れた詩を書こうという現在の詩の書き手にも、これは忘れてはならない詩として記憶されるべき作品です。詩をお書きになる方は、木原孝一に恥じない詩であるかどうかを常に念頭に置いてこそ、ようやく詩の端緒に立っていることを知っていただければと思います。
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