Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体① 乙巳の変 日本書紀の不自然さ
日本古代史上最大のクーデターのひとつ。乙巳の変。
中大兄皇子、中臣鎌足らが「謀反人」蘇我入鹿を打ち取ったとされる事件ですが、近年の考古学会の解釈では、真実は真逆で、蘇我氏から政権を奪い取るために中大兄と鎌足が起こしたクーデターではなかったか、とする見方が広がっています。
記紀は鎌足の子である藤原不比等が編纂させた書物ですので、父親のことを悪く書かせるはずがありません。そのため記紀の記述は「悪党」蘇我氏対「正義の味方」中大兄・鎌足という構図にして描いていますが、これは歴史書の常で、勝ったほうの都合の良いように歴史が改ざんされていると考えたほうが自然です。
では、記紀は具体的にはどのようにして史実を改ざんしたのでしょうか?
今回は日本書紀の記述から、このことをひとつひとつ、細かく見て行きましょう。
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇より 原文・現代語訳(odainippon.com/より引用)。
(1)
六月丁酉朔甲辰。中大兄密謂倉山田麻呂臣曰。三韓進調之日。必將使卿讀唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀。麻呂臣奉許焉。
六月八日、中大兄は密かに倉山田麻呂臣に語って、「三韓の調を貢る日に、お前にその上表文を読む役をして欲しい」と言い、ついに入鹿を斬ろうという謀を述べた。
麻呂臣は承諾した。
「三韓の調」という言葉が不自然です(※)。三韓とは新羅、百済、高句麗のことを指すと思われますが、この時期にこの三国がそろって日本に朝貢してくるということ自体が考えにくい・・・。特に高句麗は、隋や唐のような大国にどれだけ脅されようと、服属するよりは戦って独立を維持することを常に選択するような国でしたので、その高句麗が日本に朝貢するとはきわめて考えにくい。・・・となると、ここで「三韓」という言葉を中大兄が使ったこと自体、蘇我入鹿に関心を持たせ、宮廷内に誘い出す口実だったのではないか?
入鹿にしてみれば、「まさかあの高句麗が?」という気持ちがあったはずで、ほんとうに高句麗の大使が朝貢に来ているのかどうか、この目で見て確かめたいと思い、まんまと宮殿に誘い込まれた、とも考えられます。つまり、中大兄のクーデターはこの「三韓の調」という言葉が発せられた時にスタートしていたのでした。
(2)
當居嗣位天之子也。臣不知罪。乞垂審察。
日継の位にお出でになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え。
中大兄らに斬りつけられた入鹿が瀕死の身で必死に皇極天皇に訴えかけているシーンです。このシーン、「藤氏家伝」によりますと「臣、罪を知らず。」というシンプルな表記となっており、その前段部分は書紀による粉飾と思われます(※)。
突然斬りつけられ、瀕死の状態に追い込まれた者が、「日嗣の位においでになるのは天子である。」などというややこしいことを口にするものだろうか?という状況を考えてみても、やはり書記による粉飾と考えざるを得ません。
(3)
中大兄伏地奏曰。鞍作盡滅天宗。將傾日位。豈以天孫代鞍作耶。
中大兄は 平伏して奏上し、
「鞍作(入鹿)は王子たちを全て滅ぼして、帝位を傾けようとしています。 鞍作をもって天子に代えられましょうか」と言った。
中大兄が皇極天皇に対して言った言葉です。蘇我入鹿が天皇に取って代わろうとしている、と主張しているのですが、この主張自体に説得力がありません(※)。
当時、蘇我氏は数代にわたって天皇の后として一族の娘を送り込み、天皇の外戚として押しも押されもせぬ政権のトップの座に就いておりました。これ以上の栄華は望みようもなく、天皇に取って代わる必要もなかったわけです。また、自分たちの身内である天皇を殺す理由もありません。
ただし、この乙巳の変が起こった時代だけは少し状況が違い、皇極天皇は蘇我氏系ではありませんでした。そして、中大兄は皇極天皇の息子です。皇極天皇の夫であった蘇我氏系の舒明天皇が崩御し、蘇我氏の血脈が天皇家から少し遠のいたこの時期を捕らえ、中大兄たちはクーデターを決行したのです。中大兄にしてみれば、蘇我入鹿さえ殺してしまえば、皇極天皇は自分の母親。後でどうにでも言いくるめることができると考えていたのでしょう。
中大兄に斬りつけられた入鹿は、当の中大兄本人に対しては何も言わず、皇極天皇に向かって「私に何の罪があるのですか?」と尋ねています。死を目前にした入鹿には、皇極天皇と中大兄が共謀して自分を亡き者にしようとした、と思えたのでしょう。
そして、この言葉は、入鹿が無私の人であり、ひたすら朝廷の繁栄のために働いてきた人物であったことを示しています。・・・人間は死に臨んで最後の言葉を残すとき、虚飾などで言葉を濁すようなことはできないものでしょうから。
・・・それにしても、記紀という書物の面白さというのは、史実を正反対に捻じ曲げてはいても、後世の人がよくよく注意して読んだら不自然なところを残し、そこをよく調べて行くと真実が浮かび上がってくる、という暗号のような書き方をしているところです。
なお、今回の稿は、「歴史読本2014年10月号:㈱KADOKAWA」より、松尾光氏の『特集資料「日本書紀」「乙巳の変」を読む」から多くのヒントをいただいています。
特に文中の(※)印の部分は松尾氏の指摘であることを明記しておきます。
Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体② 捏造された逆臣の真の姿とは?
蘇我氏イコール逆臣。天下を簒奪しようとした大悪人たち、というイメージが古事記や日本書紀によって作られてしまっていますが、いろいろ調べて行くと真実は真逆で、蘇我氏こそは日本古代史上、日本という国の繫栄に最大級の貢献をなした名族と言っても良いくらいの存在ではなかったかと思えてきます。
蘇我氏の果たした業績を並べてみましょう。
① 日本に仏教を根付かせ、世界有数の仏教国となる礎を築いた。
② 天皇中心の集権体制を作り、統一国家としての基盤を確立した。
③ 冠位十二階、十七条憲法を制定し、法治国家としての体制を確立した。
④ 遣隋使の派遣など、周辺国との交流を活発に行い、貿易によって巨万の富を築き、
国の経済、文化の発展に貢献した。
⑤ 天皇記、国記等、我が国で最初の歴史書を編纂した。
・・・いかがでしょうか? 非の打ち所がない、比類すべき存在さえない素晴らしい行跡です。冷静に見ますと、蘇我氏ほど素晴らしい業績を残した氏族はいません。
なお、③については一般的に聖徳太子の業績として認識されていますが、その聖徳太子もまた蘇我氏の一族であり、蘇我馬子らとともに行ったものですから、蘇我氏の業績と認識を置き換えてもなんら問題はありません。
また、一部には「聖徳太子は存在しなかった」という説もあります。
もし、この説を信じるなら、聖徳太子の業績とされるものは実はすべて蘇我馬子や蝦夷、入鹿あたりの行ったこととなります。
これは一見、かなり突飛な説のように映りますが、聖徳太子の実在性については疑問を呈する説も多くあり、その可能性も頭に入れておく必要があります。
では、なぜこれほど素晴らしい業績を残した蘇我氏が悪者に仕立て上げられたかというと、これにはよく知られている明確な理由があります。
蘇我氏を悪人として描いているのは古事記、日本書紀ですが、この二つの書物を編纂するよう命じ、監督したのは藤原不比等でした。
不比等の父親は藤原鎌足。乙巳の変で蘇我入鹿を謀殺した張本人です。
前回見ましたように、乙巳の変そのものがクーデターであり、時の権力者を殺して自分たちがのし上がろうとした下剋上行為です。しかしながら不比等は父親のことを悪く書くわけには行かず、被害者である蘇我入鹿の悪行をいろいろと捏造し、父・鎌足があたかも正義の味方であるかのような粉飾を行いました。このことはほぼ間違いないと思われるのですが、まだ歴史の教科書がそのように書き換えられるまでには至っていないようです。
聖徳太子という存在もまた、蘇我馬子や蝦夷、入鹿の行った輝かしい業績を隠すために記紀のよって作られた存在であり、良いことはすべて聖徳太子が行ったことにして、その名誉を蘇我氏から引きはがそうとしたものかもしれません。
では、記紀に記された「蘇我氏の悪行」とはどんなものであったのか?ということを見て行きましょう。日本書紀によりますと、蘇我氏は、
① 由緒正しい場所に祖先の廟を建て、天皇家にしか許されない舞を行った。
② 自分たちの墓を大規模に作り、多くの民衆を労役に使った。
③ その墓を「陵(天皇家にしか許されない呼称)」と呼ばせた。
④ 自分の家を「宮中」と呼ばせ、子供を「皇子」と呼ばせた。
等々、記されております。
・・・さて、どうでしょうか?・・・いずれも子細な出来事であり、また、なんの証拠も残っていないものばかりです。そして、かりにこれらのことが全部事実だったとしても、誅殺の対象になるような大悪事とは言えないでしょう。せいぜい、不敬罪で罰金、という程度のものではないでしょうか?
それどころか、たとえば②の、蘇我氏の墓の造営ということに関しては、馬子の墓と言われる石舞台(これにも異説あり)あたりが最大のもので、蝦夷や入鹿の墓はさらにずっと小さく作られており、時の権力者の墓としてはむしろずっと質素と言っても良いくらいのもので、これを非難することは理由なき中傷と言わざるを得ません。
蘇我氏が数代にわたり、心血を注いで建設してきた法隆寺や四天王寺等の大伽藍に比べますと、その墓は実に小さなものなのです。
しかも、蘇我氏はそれらの仏教施設に関しては、国費を使わずに資材を投じて建立していたような形跡があるのです・・・。
また、前回も書きましたが、蘇我氏には天皇位を簒奪する理由がありません。
数代にわたって歴代天皇の妻として自らの娘を送り込み、天皇家の外戚として確固たる地位を確立し、すでに天皇をも上回るほどの権力を手中にしていた蘇我氏には、自分たちの身内である天皇家をなきものにする理由などまったくなかったのです。
このあたり、日本書紀の説明は極めて作為的かつ詭弁的であり、調べれば調べるほど情報操作・捏造の匂いが濃くなって行きます。
そして、驚くべきことに、聖徳太子だけでなく、蘇我馬子、蝦夷、入鹿ら、蘇我氏の歴代当主たちのほぼ全員が捏造された存在であるという指摘もあるのです。
これは斉木雲州氏が「上宮太子と法隆寺」(大元出版:2020年)という本の中で指摘していることですが、斉木氏の解説はきわめて具体的で詳細を極めており、それなのに歴史的な齟齬がまったく見られない完璧な仮説と言えるもので、少なくとも古事記や日本書紀よりははるかに信頼がおけるものです。
この仮説をじっくり検証して行きますと、古事記・日本書紀に描かれた、藤原氏による大掛かりな歴史捏造が浮かび上がってきます。
前回、乙巳の変についての新解釈をご紹介しましたが、斉木氏はその乙巳の変さえも「ありもしなかった架空の話」としています。
このように、蘇我氏については、これまでに教科書で学んできた歴史をいったん白紙に戻し、正しい歴史に書き替える必要があります。
次回は歴代蘇我氏当主の一人一人について、その実像を検証して行きます。
(写真は蘇我氏の居宅があったとされる甘樫丘から見る飛鳥地方の風景)。
Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体⑤ 蘇我家歴代当主の名前はすべて本名ではない
蘇我氏初代と思われる蘇我石川宿禰から、満智、韓子、高麗、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く当主たちの名前。これらはすべて本名ではなく、記紀によって作られた名前であるとしたら、皆様は非常に驚かれるのではないでしょうか?
私たちは一人の人物を、立場や状況に応じてさまざまな呼称で呼びます。会社であれば「課長」とか「社長」などと役職名で呼ぶことが多いですが、石川宿禰の場合はそれにあたり、石川という地名の土地に住んでいたためにこの名で呼ばれたもので、本名ではなく職掌で呼ばれています。
石川宿禰の次の満智については不明ながら、問題はその次の韓子です。
当時、日本の男と朝鮮半島の女性の間に出来た子供は「韓子」と呼ばれたようです。
この名前がそのまま個人名として使われていること自体に、私は記紀の悪意を感じます。
本人にはもっと立派な本名があったはずですが、あえてそれは使わず、韓子という名前だけ残していることに、蘇我氏を貶めんとする作為を感じるのです。
この韓子は新羅遠征軍の大将の一人だった人物で、軍功もあり、決して凡庸な人物ではありません。生きているうちには韓子などという言葉では絶対に呼ばれなかったはずです。
次の高麗もまた同様に、高句麗方面に母親の出自があることを示していると思われる名前ですが、こんな名前を親が子供につけるはずがない、と私には思えます。
二代飛んで蝦夷もそう。これも異民族が母親ですよ、と言わんばかりの名前で、すでに大臣としてヤマト王権の中枢に君臨していた人物が名乗る名前ではありません。
そして、馬子と入鹿に至っては、二人合わせて「馬鹿」となるところに御注目ください。
日本書紀の作者が意図的にこのような侮蔑に満ちた名前を捏造し、蘇我氏の本宗家の家系図を書き替えているとしたら、まことに陰険で悪意に満ちた改ざんと言わざるを得ません。
また、最近の蛯原春比古氏のFB投稿によりますと、馬子、蝦夷、入鹿という名前には呪術として、不慮の死を遂げた人の怨霊を封じる意味があるそうです。
蛯原氏によれば、馬子という名前は期日を示し、馬(午)の日から子(ね)の日までを大犯土という禁忌の期間を示します。
そして蝦夷の文字の中にある「蝦」は蛙を意味し、入鹿(動物のイルカ)とともに、怨霊を抑える神にささげる供物の意味があるようです。
ここまで読み解いている蛯原氏には驚愕と尊敬の思いしかありませんが、こういう名前を記紀の作者が意図的に創作して書いているとしたら、馬子、蝦夷、入鹿の三代はいずれも謀殺されており、その怨霊封じのための仕掛けが記紀編纂という作業の中で行われていたことになります。
そして現代にいたるまで、蘇我氏の当主たちはずっとこのような蔑称で呼ばれ続けているわけです。その霊の無念たるやいかばかりでしょうか?!・・・。
こうしてみると、本名である可能性があるのは満智と稲目だけということになります。
それでは、他の当主たちの本名はなんという名前だったのでしょうか?
斉木雲州氏著「上宮太子と法隆寺」(大元出版:2020年)によりますと、安閑天皇の御代の大臣は巨勢男人という人物で、この人には男児がいなかったので親戚の石川家から養子を迎えて巨勢臣稲目とした、とあります。
斉木氏の説を採るなら、記紀の系図は創作ということになり、蘇我稲目の本名は巨勢稲目だったということになります。この人物は蘇我氏ではなく、家系的には巨勢家を継いでいることにご注意ください。
稲目の子・蘇我馬子の本名は、斉木氏は「石川麻古」と書いています。そして、記紀が名前を捏造した理由について、「蘇我氏から継体天皇が出たことを隠し、応神天皇の子孫のように見せかけるため」、と説明されています。
そして、蘇我蝦夷の本名ですが、斉木氏は「石川雄正」と明記しています。同時に、「石川家は蘇我家とは関係がない」とも書いています。斉木氏の説を信じるなら、われわれが蘇我氏だと思っていた馬子、蝦夷、入鹿はいずれも蘇我氏ではなく、家系的には巨勢家、血統的には石川家の人であった、ということになります。
さらに斉木氏の説を続けますと、蘇我入鹿の本当の名前は石川林太郎。
斉木氏によると、乙巳の変という政変も実際には起こっておらず、記紀の作ったフィクションであるようです。
斉木説では、その後、孝徳天皇の代になってから、石川雄正(日本書紀では蘇我蝦夷)が誅殺され、続いて山背大兄王、古人大兄も誅殺されたようです。
さらに石川臣武蔵、石川山田麿という、石川雄正の後を継ぐ有力後継者たちも誅殺され、石川家は歴史の表舞台から姿を消すことになります。
・・・いかがでしょうか? 記紀によって大悪人に仕立て上げられた蘇我氏一族は実際には存在せず、石川氏という、代々の身命を仏教普及に捧げた尊い一族が歴史から抹殺されていることが御理解いただけると思います。
最後に、斉木雲州氏がどうしてそんなに裏の裏まで知っているのかということについてですが、氏は現在まで続く出雲王家の直系の子孫であり、代々の秘伝として口承によって伝えられた出雲国の存亡の歴史を把握しており、出雲王家と蘇我家は早い時代に婚姻して親族となっているため、蘇我家代々の歴史の真実がわかっているようです。
斉木氏の説明は具体的で詳細であり、細部に至るまで歴史的な齟齬がありません。そのうえ、いくつかの証拠まで提示してくれていますので、驚愕の内容ながら、ほとんど疑いようもありません。氏の著書と日本書紀を対比して読むと、書紀がいかに歴史を歪曲し、真実でない物語を捏造しているかということがよくわかります。特にこの蘇我氏についての記述はほとんどが捏造で、藤原氏の悪行を隠蔽するために意図的に蘇我氏は悪党にされたとしか考えられません。それなのにいまだに教科書を含むほとんどの歴史書が日本書紀の記述に沿ってのみ書かれていることが残念でなりません。
私たちは仏教国日本に住んでいるわけですが、日本に仏教を定着させた蘇我氏、いや、石川氏という知られざる一族がいたことを再認識する必要があります。
正しい歴史を知り、歴史の流れを正しく理解すること。それこそがこれからの歴史を正しいものにしてゆくための基本です。
Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体⑬ 蘇我氏のルーツは釈迦族である。
蘇我氏とはいったい何者か?・・・そのルーツを探って行きますと、定説では武内宿禰から始まる大臣家、ということになります。
しかし、武内宿禰と蘇我家がつながっているかどうかということを疑問視する声も多くあり、証拠と呼べるようなものもないため、真相ははっきりしません。
私はここで新説を提唱します。それは、「蘇我氏の先祖は釈迦族である」という説です。
この説は今まで誰も提唱していません。が、あのお釈迦様と蘇我氏がつながっているとしたら、蘇我氏がどうしてあれほどまでに日本での仏教興隆に力を注いだ一族であったかということがはっきりします。蘇我氏は自分たちのご先祖様が作った宗教を広めようとしていた可能性があるのです。
蘇我氏と釈迦族のつながり。それは遥かなる時空を超えた旅でした。インドから日本へ。
お釈迦様の誕生から蘇我氏による日本仏教の確立まで800年あまり。
お釈迦様の入滅後、隣国から攻撃を受けた釈迦族の城は陥落。釈迦族は逃亡し、流浪の民となりました。そしてその一部は中国へと逃げ、そこからさらに朝鮮半島に、そして日本へと、何十代もの世代を重ねながら流浪の旅をしてきたのでした。
詳しく見て行きましょう。釈迦国滅亡後の紀元前3世紀頃、その東の地にサータヴァ―ファナ王国が誕生します。この国の王は釈迦族を保護し、仏教に帰依しました。
しかし、そのサータヴァーファナ王国も隣国との戦争に敗れ、紀元前1世紀に滅亡します。
釈迦族は再び難民となり、現在の中国の四川省に逃れます。
時の中国は前漢の末期。中央の権力が弱まり、地方豪族の勢いが盛んになっていた時期でした。釈迦族は四川地方で盤踞していた許氏の一族に保護され、許氏の王家と婚姻を結びます。ここで生まれたのが許黄玉という女性でした。
前漢が滅び、新が勃興、その新も滅んで後漢王朝が成立。漢王朝は再び強力な集権体制を取り戻します。
後漢の軍勢に許氏の一族は鎮圧され、許黄玉は長江を下って逃亡します。そして、そこから船で朝鮮半島まで行き、現在の韓国・金海市のあたりに金官伽耶国を建国していた金首露王と結ばれたのでした。
金官伽耶国は鉄の生産で栄えた国でした。当時、日本ではこのあたりを任那と呼んでいたほど日本との結びつきが強く、日本の一部と言っても良いくらいの地域でした。したがって、このときすでに日本には釈迦族が到来していたと言っても良いかもしれません。
金首露王と許黄玉の間に生まれた子供たちの多くは日本に来て、日本の有力な豪族たちの始祖となって行きます。宇佐氏、日奉氏、大伴氏、阿智氏、尾張氏など、その後の日本の歴史を彩る錚々たる氏族たちです。その氏族たちの中には、のちに蘇我氏と呼ばれる氏族と婚姻を結んだ子孫もいました。このとき、蘇我氏の中に釈迦族の血脈が入っています。
伽耶諸国は小国分立のまま、長い期間推移しました。これは君主が釈迦族であったため、殺戮を嫌い、戦争を行わなかったためでしょう。そのため次第に強大化した新羅や百済に圧迫されることになり、562年に伽耶諸国は滅亡します。
伽耶を滅ぼしたのは新羅でしたが、新羅王は伽耶の遺臣を皆殺しにするようなことはせず、むしろ厚遇して自国の臣として高い地位を与えました(この新羅王家にも釈迦族・許黄玉の血が入っています)。そのため金首露王と許黄玉王妃の子孫たちは生き残り、第12世の金庾信は新羅の将軍として上大等と呼ばれる、国のトップの地位にまで昇りつめます。
この金庾信の活躍する時期が、日本で蘇我氏が活躍する時期と重なるのです。
出雲伝承によりますと、蘇我氏はこの頃、北陸地方一帯に広大な蘇我王国を築いていました。その版図はヤマト王権に匹敵するほど広く、一族からは継体天皇が輩出、実質的に日本の政権を手中にしていたと言って良い存在でした。
蘇我氏はまた、北陸地方で採れる鉱物などを半島に輸出し、莫大な富を築いておりました。
この時期、蘇我氏はヤマト王権を滅ぼして政権を奪おうと思えばできたはずですが、そういうことをせずに臣下の地位にじっと甘んじています。このあたりにも私は釈迦族の匂いを感じるのです。
蘇我氏の初期の当主として名前の残る蘇我石川宿禰、満智、韓子、高麗といった人物は半島と関係が深く、ヤマト王権と新羅、百済との関係を取り持つような役割を果たしていたと考えられます。
蘇我氏初代の石川宿禰は武内宿禰の三男と伝わる人物です。この四世孫に石川稲目という人物がいて(新撰姓氏録による)、この人物が記紀では蘇我稲目と呼ばれました。
稲目の子が馬子。そして蝦夷、入鹿と続いて行きますが、これらはすべて日本書紀が捏造した姓名です。正しくは蘇我稲目は石川稲目。蘇我馬子は石川麻古。蘇我蝦夷は石川雄正。蘇我入鹿は石川林太郎というのが本名です。彼らは日本書紀では稀代の悪役のように描かれていますが、実際には仏教興隆に力を尽くした尊い一族でした(斉木雲州氏による)。
さて、話を初代・蘇我石川宿禰に戻しましょう。出雲伝承によれば武内宿禰は晩年を出雲王国で過ごし、出雲でも子種を残したと伝わります。蘇我家と出雲王国家は何代にもわたって婚姻を繰り返すほど密接な間柄でしたので、もしかしたら石川宿禰は武内宿禰と出雲王女の間に生まれた子供だったのかもしれません。もしそうなら、石川宿禰が北陸に地盤を持った理由もわかります。彼は出雲王家と連携して朝鮮半島との交易を一手に取り仕切り、潤沢な資産を形成し、勢力を拡大したのでした。現在の石川県という県の名前も彼の名に由来するという説もあるほど、彼は強い権力を築きました。
この時代、百済と新羅は毎年ヤマト王権に朝貢を行うなど日本の勢力は強く、特に高句麗と新羅に圧迫されていた百済は日本と結託して国を守るため必死でした。
百済がこの時期にヤマトに贈った宝物は今でも国立博物館のそばの「法隆寺宝物殿」が満杯になるほど多く、さらに国王の王子を人質に差し出すなど、徹底したヤマト懐柔戦術を行っていました。日本に来た百済の王子たちは時に国政に口をはさむこともあり、ヤマト・百済の軍事同盟を繋ぎとめるため必死の働きをしておりました。
一方、新羅のほうは百済と長年にわたって国境紛争を繰り返しており、新羅が百済を攻めるとヤマトから百済応援部隊が出陣する、ということが続いておりました。そのため新羅と日本は敵国同士と言って良いような関係でしたが、蘇我氏は戦争を好まず商業交易に力を注いでいたため、蘇我氏と新羅の関係は必ずしも悪いものではありませんでした。
蘇我氏は交易を円滑に行うため、百済とも新羅とも婚姻関係を結びました。特に新羅と血縁関係のある氏族はこの時期の日本には少なく、蘇我氏は新羅との関係調整役としては貴重な存在だったのです。この時期の蘇我氏の中には蘇我善徳という人物がいて、私はこの人物は、もしかしたら新羅の善徳女王と同一人物なのではないかと考えています(続く)。
(写真は韓流ドラマ「善徳女王」での善徳女王と金庾信)
Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体⑯ 斉明帝は金庾信の妹・宝姫である。
蘇我氏の時代の重要人物・斉明天皇。重祚した天皇としても有名で、最初の即位時には「皇極天皇」の諡号が贈られています。
このお方は珍しいことに、天皇としての諡号だけでなく、陵墓も二つあります。九州と畿内にひとつずつ。どちらも天皇陵としての風格を備えた立派な陵墓です。
日本書紀によりますと、斉明帝は現在の福岡県の朝倉の地で崩御し、一度その地に葬られた後、飛鳥へと遺骸が運ばれ、改葬されたようです。
私はかつて、朝倉の斉明天皇陵・恵蘇八幡宮1・2号墳を訪れ、そこにあった漏刻(ろうこく)と呼ばれる古代の水時計を見て、非常に驚いたことがあります。それは、私が以前韓国を旅したとき、旧新羅地域の仏国寺というところにあったものと瓜二つだったからです。
この時から私は「斉明帝はもしかしたら朝鮮半島の出自だったのではないか?」と考えるようになりました。
天皇を含む日本の有力者が半島から妻女を迎える、という風習は古代からあり、第50代の桓武天皇の頃まで続いておりました。しかし、記紀においてはそのことが隠蔽されていることが多く、記紀に記された歴代天皇の親子関係はあまりあてになりません。
もともと記紀が編纂された理由というのは、白村江の戦いの後に唐の監視下に置かれた日本で、天武天皇が日本の独立を目指し、唐の支配から抜け出そうと試みた一連の政策の中で行われたことですので、その歴史物語からは日本と中国のつながりを示す事項、たとえば日本以外の国から来た人のことや、中国に朝貢した事実などはすべて隠蔽されました。記紀の記述に徐福や卑弥呼等の超重要人物が出てこないのはそういう理由によるためです。
天孫降臨神話や萬世一系の神話が語られていることも同様に、日本という国の独立性と歴史の固有性・尊厳性を主張するためのものであり、必ずしも真実とは言えません。
そのうえ、蘇我氏の時代の記述に関してはどうやら徹底した「蘇我氏の本性隠し」も行われているようなところも見受けられます。
たとえば、継体天皇は記紀では「応神天皇の五世孫」としてありますが、この記述は以前から疑問視する声が多く、出雲伝承では継体天皇を「蘇我氏の一族」と明言しています。
もしも、出雲伝承の通り、継体帝が蘇我氏であったのならば、その時点でヤマト王権は蘇我氏王権となっており、日本に蘇我氏王国が誕生していたことになります。通常は蘇我馬子の時代を頂点とする蘇我氏専制時代はずっと以前から始まっていた、ということになるのです。
さて、そんな時代に生まれた斉明帝ですが、私がどうしてこのお方を新羅の将軍・金庾信の妹であると主張するのかと言いますと、金庾信の妹の名前は「宝姫」といい、斉明帝の幼名と同じ名前である、というのが一つの理由です。
そしてこの宝姫という存在が極めて複雑な生い立ちを辿っており、この時期の日本の歴史に大きな影を落としているのです。
まず、斉木雲州著「上宮太子と法隆寺」より、宝姫に関する記述を見て行きましょう。
斉木氏によりますと、藤原鎌足の義父である中臣御食子と田村皇子(のちの舒明天皇)が共謀して、すでに石川武蔵(蘇我武蔵)という人物に嫁いでいた宝姫を強奪して奪うところから事件が始まります。
この事件を発端として、蘇我氏の王国であった日本は徐々に藤原氏の天下へと変容して行くわけですが、藤原氏のやり方というのはその最初の最初から、かくもひどいものでした。
宝姫は息長家という名家の血筋を引いていたようです。息長家は新羅にルーツがあり、一族からあの神功皇后が輩出したことから、以降のヤマト王権の中でもずっと隠然たる勢力を維持していました。中臣御食子は蘇我氏政権を打倒すためには、まずこの息長家を味方に取り込む必要があると考えたようです。
この強奪事件が原因となって、石川雄正(記紀名:蘇我蝦夷。蘇我武蔵の伯父)が田村皇子に対して兵を挙げた、という記述が「扶桑略記」にあるようです。
日本書紀では宝姫の父親は茅渟王という人物にされていますが、この人物は田村皇子の兄にあたります。田村皇子は自分の兄の娘と結婚したことになりますが、この日本書紀の設定には少し無理があるのではないでしょうか?
斉木氏によりますと、この宝姫強奪事件以降、藤原氏と蘇我氏の対立が表面化し、641年には中臣鎌子と葛城皇子の率いる軍勢が石川雄正(蘇我蝦夷)の邸宅を襲い、殺してしまうという事件が起こります。これは日本書紀に書かれている記述とは真逆と言って良い出来事で、斉木氏の説くところが正しかったとすると、藤原氏は自らの悪行を隠すため、無実の蘇我蝦夷を謀殺したことになり、しかもその無実の蝦夷を徹底的に悪人として日本書紀に描いている、ということになります。・・・そう、真の大悪人は藤原氏なのです。
・・・ともあれ、ここまでのことで、斉明帝=宝姫が朝鮮半島にルーツを持つ人物だということがかなり鮮明になってきました。では、なぜ宝姫が金庾信の妹であるのか?ということを追って行きましょう。
金庾信は新羅という国の歴史上最強の将軍です。勇猛さと知略を合わせ待った将軍であり、そのうえリーダーシップと政治力にも秀でており、生涯の中で戦って敗れたことはほぼ一度もなく、蘇我氏の時代の新羅が弱小国家ながらなんとか持ちこたえていたのは、ひとえにこの将軍の力に負うところが大きかったと言えます。
この頃の新羅は百済と戦争を繰り返しており、百済がさかんに新羅の領地に攻め込み、金庾信のいないところでは百済が勝利を収めるものの、その後、金庾信が戻ってくると新羅に領地を奪い返される、ということが続いておりました。金庾信は体を張って戦いながら、新羅の善徳女王、武烈王、真徳女王らに仕え、その武勇で政権を支え続けました。
ところで、新羅初の女帝誕生という事件は「女帝では天下は治まらない」とした臣下の者たちの反乱を招きました。金庾信はこうした反乱をことごとく平定し、善徳女王・真徳女王という二人の女帝の擁立に深く関わっています。この二人の女帝が誕生したのは金庾信の力によるものと言って良く、そして、それを働きかけたのはほかならぬ蘇我氏だったのです。
前回の稿で、蘇我氏が釈迦族の末裔であり、女系相続の家柄であった釈迦族の王朝を復活させようとしたことをご説明いたしましたが、実は、金庾信にも釈迦族の血が流れています。
金庾信は金官伽耶国初代から数えて十二世孫にあたる国王家直系の嫡男で、初代首露王の王妃・許黄玉は釈迦族の女性でした。ですので、金庾信は釈迦族の直系の子孫なのです。
同じ釈迦族である金庾信の妹・宝姫を、蘇我氏が日本に招聘し、釈迦族の王国を日本に復活させようとしたと考えれば、すべての事件は符合してくるのです。
蘇我氏の大野望。それは、新羅と日本にまたがる大仏教王国の樹立でした。その夢はまた、釈迦国復活の夢でもあり、この時期の日本と新羅の両国に女帝が即位することにより、その夢はほぼ、成し遂げられていたのです(続く)。
Facebook古代史の真実… ·河原白兎 ·さん投稿記事
蘇我氏の正体㉒ 藤原鎌足の実像。
前回は藤原鎌足の義父である中臣御食子の悪行を見て参りました。今回は鎌足のほうの悪行を見て行きましょう。日本書紀がこの悪行をどれほど隠蔽し、歴史を改竄しているか・・・それはもはや改竄というより、全く別な作り話をしていると言ったほうが的確と言えるほどのものでした。
鎌足の悪行、その(一)は「山背大兄王暗殺」です。
今回も情報リソースは斉木雲州著「上宮太子と法隆寺/大元出版」から採っています。
日本書紀によりますと、643年、巨勢臣徳太と土師連裟婆という人物が山背大兄王を追い詰めたことになっていますが、斉木説では鎌足の軍勢が斑鳩宮を襲い、死に至らしめたとされています。
この斉木説にも確たる証拠はないようですが、推理小説を読む時のように「この人物が死ぬとだれが一番得をするのか?」ということを考えた場合、それは鎌足と中大兄皇子になります。
今日の一般的な解釈では、「蘇我入鹿が殺した」ということになっていますが、これはおかしいと考えなければなりません。山背大兄王はれっきとした蘇我氏系の嫡流。同族の入鹿が手にかけるわけがないのです。このあたり、教科書の記述は日本書紀の記述をそのままなぞったような内容になっており、探求が甘いと言わざるを得ません。
鎌足の悪行、その(二)は、「乙巳の変という架空事件の捏造」です。
もっともこれは、日本書紀を編纂した人物の責任ですから、悪いのは息子の藤原不比等ということになりますが・・・。
斉木氏が「乙巳の変はなかった」と主張する理由は次のようなものです。
乙巳の変の主役の一人である蘇我蝦夷という人物がそもそも存在していなかった。蝦夷のモデルとされたのは石川雄正という石川家出身の大臣だが、この石川雄正は641年に他界しており、乙巳の変が起きたとされる645年には存在していない。
蘇我入鹿も同様に架空の名前で、モデルとされたのは石川雄正の子供の石川林太郎という人物だが、この林太郎のほうは645年以降も存命し続けている。
これらは蘇我氏の故郷である越前蘇我国造家に伝承されている話のようです。
さらに、これは私の考えですが、「蝦夷」「入鹿」などという名前は人名としては不適切なものであり、このような卑小な意味を持つ名前や動物の名などを大臣の位にある人物がつけているわけがありません。「蘇我馬子」もそうですが、これらの名前は明らかに日本書紀が蘇我氏のイメージを貶め、悪役としてのイメージを読者に植え付けるために創作した偽名であり、明確な悪意のもとにつけられた名前です。こういう偽名を疑いもせずに教科書に載せたままにしておくことは甚だ不適切と言わざるを得ません。
鎌足の悪行、その(三)は、「古人大兄皇子殺害」です。
乙巳の変が架空の出来事であったとすると、その頃の宮中では何が起きていたのか?と考えたくなりますが、実はこの時、恐ろしいクーデターが進行しておりました。
皇極女帝が軽皇子と謀議して、当時の皇位継承最有力者であった古人大兄皇子を軽皇子に殺害させ、首尾よく事が運んだら、見返りとして軽皇子を即位させ、その後、皇極帝の息子である中大兄皇子を即位させる、という密談が進んでいたのです。
皇極帝にしてみれば、わが子である中大兄に皇位を継がせたいという気持ちは当然あったことでしょう。そこに鎌足はつけ込んだわけです。
鎌足がこのクーデターの首謀者であることは、軽皇子が古人大兄皇子を殺害した後、孝徳大王として王位に就いたとき、内臣という地位を授かっていることでわかります。
内臣とは正式な冠位ではなく、ただの側近という意味ですが、これは文字通り、鎌足が孝徳帝の腹心としての地位を手に入れたことを表しています。
つまり645年に起こったクーデターは、鎌足と中大兄が協力して、古人大兄皇子が謀反を企てたというデマの噂を流させ、吉野宮に隠棲していた古人大兄皇子を誅殺という名目で殺害した、という事件だったのです。蝦夷や入鹿など、どこにもおりません。
鎌足の悪行はまだまだあるのですが、もうこのくらいで十分でしょう。
藤原氏の悪行としてまとめてみますと、鎌足の義父である中臣御食子が石川麻古(蘇我馬子)を謀殺したことに始まり、鎌足の代では山背大兄王と古人大兄王というふたりの大王候補者を殺害し、不比等の代ではなんと、殺害された方の石川氏の大臣たちを蘇我氏三代と偽名で日本書紀に登場させ、自分たちの犯した大罪を、あたかも彼らの行った悪行であるかのように書かせ、隠蔽工作を行ったのでした。
人間というものは権威に弱く、教科書に書かれていることや政府機関が発表する情報などは鵜呑みにしてしまいがちです。そのため、私がこうして何度となく蘇我氏の潔白と藤原氏の悪行を主張しても、なかなか信じてもらえないことも多々あります。
では、斉木説にはどのような論拠があるのか?ということを見て行きましょう。
斉木説は主として出雲王国の宗主家に伝わる伝承から採られたものですが、その内容を裏付ける傍証として、斉木氏はいくつかの例を挙げています。
まず、軽皇子のクーデターですが、彼は孝徳帝として即位した後、都をすぐに難波の子宮という場所に移し、さらにそこから蛙行宮という場所に遷宮しています。このことは暗殺を怖れた行動とも受け取れ、自らが殺人に関与した証拠の一つともとれます。
また、古人大兄皇子の妹であった間人姫は孝徳帝の遷宮に従わず、飛鳥行宮に引っ越します。兄を殺した人物に従わないのは当然の感情です。斉木氏は、その感情を飛鳥移転で示した、と書いています。
さらに、斉木氏が蘇我氏三代(馬子、蝦夷、入鹿)のモデルであると主張する石川麻古、雄正、林太郎の三人の墓は磯長谷の南、平石古墳群に現存しており、通常入鹿の首塚とされている飛鳥寺の五輪塔は他の住職の墓で、蘇我馬子の墓とされている石舞台古墳は用明天皇の古い陵だと書いています。
そして、斉木氏はこのほかにも、尾治大王という幻の天皇がいたことや、聖徳太子の正しい名前は上宮太子であること、石川氏の出自は巨勢氏であり、蘇我氏ではないことなどを書いていますが、それらは「中宮寺曼荼羅」という繍帳に縫い取られた文字に記されているそうです。
まだ、確固たる証拠とまでは行かないかもしれません。しかし、日本書紀に書かれた内容の不自然な部分と斉木氏の主張は常に一致しており、私には斉木説の方がはるかに信ぴょう性が高いと思えます。日本書紀という書物は、後世にこのように真実を見抜く能力を持つ人物が現れて自らの欺瞞を暴いてくれることを期待して書かれたようなところもあるのです。
Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体㉔ 蘇我馬子は本当に悪党だったのか?
蘇我馬子。蘇我氏の時代を代表する人物であり、蘇我氏悪党説の代表とも言える人物。
しかし、斉木雲州氏によれば、この名を持つ人物は歴史上存在せず、実際にいた大臣・石川麻古という人物をモデルに日本書紀が創作した人物ということになります。
斉木説が真実なら、日本書紀の蘇我氏に関する記述はほぼすべて作り話、ということになります。ちなみに古事記においての蘇我氏の記述は、馬子の父である蘇我稲目についてほんの少し触れたところで記述が終わっており、馬子、蝦夷、入鹿についての記述はありません。
うがった見方をすると、日本書紀とは、この時代の真実を隠蔽するために、実際には存在しなかった「蘇我氏三代」を捏造し、架空の物語を書くことを目的として新に作られた書物である、という考え方もできるのです。
里中満智子さんの漫画「天上の虹」においては、蘇我馬子はでっぷりと太った、顔中髭だらけの巨漢として登場します。現代における馬子のイメージもだいたいそのようなものと思われ、悪党としてのイメージが定着していると思われますが、実は、彼こそは「日本に仏教を定着させた最大の功労者」である可能性が高く、少なくともただの悪党とは言えない人物なのです。
では、日本書紀に書かれた蘇我馬子の行跡を追って行きます。
敏達天皇が即位したとき、馬子は大臣として、父・稲目に代わり出仕します。
この「馬子」という名前ですが、斉木説を抜きにしても本名とするにはおかしな名前で、偽名あるいは俗称であろうと思われます。蘇我氏は代々、大陸から軍事用の馬を輸入して、繁殖と調練にいそしんでいた氏族なので、こういう呼び方をされていたのかもしれません。
また、正確には石川姓なのに蘇我と呼ばれたのは、石川家と蘇我家が同根で、お互い近縁な家柄だったことから、石川氏を蘇我氏と呼ぶことがあった可能性もあります。
こういうところ、日本書紀はウソをつくにしろ、まったくのデタラメではなく、事実に近いウソをついているようなところが随所に見受けられます。
敏達帝の治世時、馬子は百済と佐伯連から仏像を一体ずつもらい、高句麗僧・恵便を招聘、仏殿を造営して仏法を始めます。これがわが国で記録に残っている仏教の教えの始まりです。日本書紀には「石川の家に仏殿を造る」とあり、このあたりにも蘇我氏とはほんとうは石川氏のことではなかったかな?と思わせるものがあります。
しかし、このことが神道派であった物部守屋、中臣勝海という人々の反発を生みます。
物部、中臣らは、そのとき流行していた病の原因が馬子の仏教崇拝にあると敏達帝に訴え、寺を焼き、尼僧を鞭打ったりしました。(※このとき、すでに中臣の姓を持つ人物が蘇我氏の敵として出現していることにご注意ください。のちの中臣鎌足の代まで続く蘇我氏との確執の発端が早くもここに見えるのです。また、馬子がこれだけのことをされても、このときは報復せずにじっと耐え忍んでいることにも注意が必要です。)
時代が用明帝の治世となった頃、蘇我氏と物部氏の対立は避けられないものになって行きます。用明帝を推挙していた蘇我氏に対して、物部氏と中臣氏は穴穂部皇子を支持しました。
この穴穂部皇子は、少し前、炊屋姫(のちの推古天皇)を犯そうとして、夜、宮中に入り、三輪逆という人物に追い返された、という事件を起こしていました。
穴穂部皇子は三輪逆を恨み、殺そうとします。
蘇我馬子と物部守屋は三輪逆殺しを命じられますが、馬子は動かず、守屋は軍を動員して三輪逆を殺します。この事件で蘇我対物部の敵対関係は決定的なものになりました。
俗に思われている仏教対神道の対立ではなく、夜這いを邪魔されたことに対する逆恨み、というくだらない理由です。しかし、これはまた、次期大王位を巡っての対立だったのです。
三輪逆が殺されたときにはすでに、用明大王が即位しておりました。この大王は崇仏派でしたが、わずか二年で崩御します。このとき守屋はさっそく穴穂部皇子を担いで次期大王にしようとします。これに対して馬子は的臣歯噛らを動員して穴穂部皇子を殺し、さらに穴穂部皇子と仲の良かった宅部皇子を殺害します。
蘇我馬子の行跡のうち、悪行と考えられるものの第一がこの事件です。しかし、馬子はこのいくさを起こす前に炊屋姫(後の推古天皇)の詔を受けています。つまり、大王家からの命令を受けての行動であり、馬子の単独行動ではありません。
そして翌年、丁未の乱が起こります。
この乱は、ヤマト王権内において代々軍事を掌握していた物部氏と、代々財政を掌握していた蘇我氏の争いでした。文字通り天下を二分した戦いだったでしょう。
この戦いで物部守屋は戦死し、蘇我氏は勝利しました。
さて、問題はその後です。
日本書紀によりますと、蘇我馬子は用明帝の後、崇峻帝を即位させますが、4年後にその崇峻帝を殺害してしまうのです。
馬子を悪党として断定するなら、なによりもこの「崇峻天皇殺害」の罪が決定的な要因、ということになります。日本書紀にはこれが馬子の犯行であるとはっきり書かれているのですが、さて、これが事実かどうか? 実は大いに疑問があるのです。
まずなによりも、崇峻帝は馬子の甥、という間柄です。馬子にしてみれば、崇峻帝が大王位にいるかぎり自分は外戚として権力をふるえるわけで、こういう、自分にとってなくてはならない大事な人物を殺すというのは不可解です。
第二に、崇峻帝殺害後も馬子は大臣としてその職位を継続し、権勢をふるっていることです。ほんとうに馬子が崇峻帝を殺していたのなら罪に問われないわけはなく、間違いなく死罪になっていたでしょう。この時代、蘇我氏が大臣だったのですが、蘇我氏以外にも臣・連はたくさんいました。馬子だけでなにもかも自由にできる組織ではなかったのです。
崇峻帝暗殺のいきさつを斉木雲州著「上宮太子と法隆寺」から抜粋します。
「崇峻大王治世4年春、竹田皇子が暗殺された。犯人はわからずじまいだった。
しかし、大后(後の推古天皇)は崇峻帝の妃・小手子が犯人だと考えた。彼女の産んだ蜂子皇子を次の大王にするための犯行だと考えたからであった。
大后は石川麻古(馬子)に秘密の指示を与えた。麻古は東漢直駒という人物を呼び出し、秘密の指示をした。崇峻5月、東漢駒は崇峻大王を殺した。麻古大臣は東漢駒を処刑した。」
以上が斉木氏の本の内容です。日本書紀の記述とは微妙に違っており、斉木氏は蘇我馬子が犯人だとは書いておりませんが、そうとも受け取れる書き方をしています。ただ、実行犯ではなく、太后の命を受けて指示を出しただけ、ということにあります。つまり、臣下として帝の命令を遂行したということであり、実際の犯行は大后(推古帝)の意思によって行われたこと、ということになります。
こうして見て行くと、蘇我馬子はけっして独裁者でも横暴な性格でもなく、むしろ君命に忠実な一家臣であったのではないか?とも思えてきます。
歴史上の人物というのは、解釈の仕方によって英雄にも悪党にも変化します。しかしながら蘇我馬子という人物だけは、その本名が石川麻古であったことと、仏教普及に比類なき功績があったことだけは忘れてはならないことでしょう。
Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体㉕ 蘇我蝦夷に見えていた風景。
蘇我蝦夷を語るとき、忘れてはならないことは、彼の母親が物部守屋の妹・太姫だということです。蘇我氏の代表のような存在の蝦夷ですが、実際は蘇我家と物部家の両方の血を引く人物でした。
蝦夷が生まれる以前から、蝦夷の父・蘇我馬子と物部守屋はすでに険悪な中になっていたようです。これは一般的には仏教を支持した蘇我氏と神道を支持した物部氏による宗教対立が原因と考えられていますが、日本書紀をよく読んでみると、もう少し人間臭い実態が見えてきます。
書紀によると、のちに推古天皇となる炊屋姫が若かった頃、次期大王位を狙っていた穴穂部皇子は炊屋姫を狙って夜這いしようとして失敗、このとき炊屋姫の屋敷を守っていた三輪逆を逆恨みして殺そうとします。
この命令を実行したのが物部守屋ですが、蘇我馬子はこの命令には従わず、動きませんでした。そればかりか、守屋と一緒に三輪逆討伐に向かおうとしていた穴穂部皇子を引き留め、「王者は刑を受けたものを近づけないと申します。自らお出でになってはいけません。」と言って諫め、皇子が罪に手を染めるのを阻止しています。
この行為は一般的な馬子のイメージとはほど遠く、そこにあるのは、皇子の行く末をよく考えて軽挙をいさめようとする真の忠臣の姿です。
一方の守屋の行動は、皇子の命令に忠実ではあるのですが、そこには次期大王位に就く人物に取り入っておきたい、という打算が見え隠れします。この打算はのちに公然としたものになり、守屋は穴穂部皇子を担いで蘇我氏と戦うことになるのですが、その発端はこの「夜這い未遂事件」から始まっていました。
三輪逆を殺して引き上げてきた守屋に対して馬子は、「天下はほどなく乱れるだろう」と言います。すると守屋は「おまえのような小物にはわからぬことだ。」と言い返しました。
日本書紀のこの部分は非常に興味深いところです。
一般的に蘇我馬子と言いますと、天皇をもないがしろにする専制を極めた人物のように思われていますが、日本書紀のこの部分を見る限り、馬子の性格は私心なき忠臣と言って良いもので、守屋のほうがよほど俗物で、自分の保身のために目先のご機嫌取りに必死になっているように思えます。
その小物の守屋が馬子に向かって「小物」と侮辱的な言葉を吐いているところには、この時期の守屋のあせり、馬子に対するコンプレックスを感じます。
物部氏と言えば、神武天皇以来、ヤマト王権の中枢に座り続けてきた名門の家柄です。
が、この次代には蘇我氏の躍進が目覚ましく、二代にわたって王室に娘を嫁がせることに成功した蘇我馬子は、大王の外戚として圧倒的な影響力を持っていました。
守屋の職位は大連。大臣であった馬子とは同等の地位にあった職掌ですが、実質的な力は馬子のほうが上だったでしょう。
守屋は新興の蘇我氏の存在を疎ましく思ったことでしょう。「この新参者めが」というジェラシーの気持ちが少なからずあったと思われます。
このあたり、本当に歴史を動かした要因は、神道と仏教の対立という大義名分によるものではなく、成り上がった者に対する嫉妬心と、名門に生まれた者ゆえの焦り、という、きわめて人間臭い動機であったように思われるのです。
馬子が守屋の妹を娶ったのは、このような事件が起きた後のことだったようです。
これはヤマト王権の安定をはかるための政略結婚だったとみて間違いないと思われます。
現代に例えれば、財務大臣と防衛大臣が喧嘩して一触即発になっているようなものですから、大王家はじめ周囲の臣、連たちが心配してこのような縁組をさせたものでしょう。
このような時代環境の中で、蘇我蝦夷という人物は誕生したのでした。
蘇我蝦夷は、こうして、言わば蘇我家と物部家の仲を取り持つ絆として生まれてきたのですが、不幸にも彼の誕生後も両家の不和は解消せず、益々悪化して行ったのでした。
その後まもなくして用明帝が崩御されたこともあり、その次の大王を巡って蘇我氏と物部氏は全面戦争に突入して行きます。
その戦いは「丁未の乱」と呼ばれ、蘇我氏の完全勝利で終わり、物部氏はこれ以降、政治の表舞台から遠ざかることになるのですが、日本書紀におけるこの戦いのいきさつの描写は真実性を疑問視する意見もあり、鵜呑みにはできません。
斉木雲州氏の本には「物部勢が用明帝を暗殺した」と書かれています。崇仏派の用明帝であましたので、そうだった可能性はあります。斉木氏はその犯行現場を最近発掘された「島ノ宮跡(池辺宮)」と断定しており、火災の跡も発見されていると書いています。
斉木氏はさらにこの傍証として、用明帝の后であった間人皇后が丹後まで逃れ、戻ってこなかったことを挙げています。
そして、丁未の乱の原因は、仏教対神道の対立ではなく、用明帝暗殺の犯人である物部守屋が処分されなかったことに対する諸臣の怒りであるとしています。
日本書紀の記述では、この戦いでは蘇我軍のほうに主だった皇子と臣・連のほとんどがついており、斉木氏の主張のほうがしっくりと来ます。当時はまだまだ仏教が全面的に支持されていたとは言えない時代であり、宗教対立が原因であれば、物部軍に加わる者のほうがはるかに多かったと思えるからです。
それでも、当時の軍事全般を掌握していた物部軍はやはり相当に強かったのでしょう。
馬子や厩戸皇子らは、この戦いの前に戦勝祈願して、「勝利を得た暁には必ず四天王寺を建て、末永く祀ることを誓う。我らを勝たしめ給え」と祈願しました。
これが現在も大阪にある四天王寺の縁起です。この時、「四天王」という仏教の神様が日本に入ってきていますが、これらはもともとヒンドゥー教の神様だったらしく、インドから中国に伝わる過程で習合したもののようです。
ともあれ、戦いの神、現世利益を与える神として四天王という「天」部の神様が日本で崇拝されるようになったのは、この丁未の乱が発端であると言えます。
日本書紀には、滅びた守屋の財産を没収した蘇我氏がますます肥大したように書かれていますが、この頃の蘇我氏はほとんど自費で巨大な伽藍を持つ寺を次々に建立していたようですから、実際にはいつも金欠状態に近かったのではないかと思われます。
・・・ともあれ、丁未の乱の頃にはまだ幼少であったと思われる蘇我蝦夷の目には、この次代はどのように映っていたことでしょう。
自分の父が、母の兄を殺す戦いを、蝦夷は見ていたのです。生まれながらにしてこれほどの試練に見舞われる人の例を、私はあまり知りません。
Facebook古代史の真実… ·河原白兎さん投稿記事
蘇我氏の正体㉖ 蘇我入鹿とはどういう人物だったのか?
蘇我入鹿と言えば、われわれは高校の日本史の必須暗記用語として、彼が斬られ、殺害された政変を「乙巳の変」や「大化の改新」として覚えさせられたものです。
それが最近では、蘇我入鹿という人物はいなかったとか、乙巳の変という政変そのものが発生していない、という説まで出ていて、この頃の日本史の解釈そのものが根底から揺らいでいるような状態にまでなってきています。
どうやら日本書紀はこのあたりの記述に大規模な改ざんを施しているようなのですが、それは具体的にどんな改竄なのか?…ということを知るため、ひとまず日本書紀の記述を素直に読み解いて行きましょう。そして、その内容に疑問を感じる箇所がみつかれば、そこが疑うべきポイントです。
蘇我入鹿が初めて日本書紀に登場するのは642年、皇極天皇即位の時です。
「大臣の子である入鹿またの名を鞍作が自ら国政を執り、勢いは父よりも強かった。このため、盗賊も恐れをなし、道の落とし物さえ拾わなかったほどである。」
また、「藤氏家伝」には、僧旻が入鹿を評して、
「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」
と言った程の秀才だったと書かれています。
この二つの記述から察しますと、入鹿はたいへんな秀才で、なおかつ実務の才もあった人物のように思えます。・・・ところが、もうこのあたりから日本書紀の記述は怪しいのです。
と言いますのは、この部分の記述、特に「盗賊も恐れをなし~」の部分が中国の歴史書である「十八史略」からペーストされたもの、という指摘があるからです。(倉本一宏「蘇我氏-古代豪族の興亡」/中央公論社/2015年)。
・・・すると、日本書紀は最初から史実ではない、「作られた入鹿像」を書いていたことになります。
いっぽう、「藤氏家伝」というのは、藤原一族の歴史をまとめたものですから、藤原鎌足の政敵と言える入鹿のことを褒めて書く必要性はありません。それなのに入鹿の秀才ぶりが記述されているということは、実際の入鹿がそれほど頭脳明晰だったということでしょう。
このあたり、蘇我入鹿はその登場シーンからして、「自信家で強欲な専制者」というイメージを塗りつけられていますが、われわれは「実際はそうではなかったのではないか?」と考えねばなりません。
日本書紀の入鹿への悪口はさらに続きます。曰く、「私的に紫冠を受けた」「皇族にしか許されない八佾舞(はちいつのまい)を舞った」「墓を作るのに上宮家の乳部を使った」「わが子を皇子と呼んだ」等々、言いたい放題。
しかし、現在ではこれらの記述もすべて否定されています。倉本一宏氏らの指摘するところでは、これらの記述には中国の「呉志」や「礼記」「晋書」などからの引用がふんだんにあり、日本書紀は入鹿の行跡を捏造するために、これらの漢籍から古代中国の王臣が行った悪行を拾い出し、それをあたかも入鹿の行ったことのようにペーストして記述されたものらしいのです。
われわれが日本書紀を素直な心で読む時、こうした入鹿中傷の文章に触れ、どうしても入鹿イコール逆臣、というイメージを抱いてしまいます。が、これは日本書紀の作ったトリックであり、実際の入鹿像とはほど遠いものでした。
しかしながら、日本書紀というのは面白い書物で、こういう改ざんを随処に施しながらも、よくよく読めば真実がそこはかとなく匂ってくるような書き方がなされています。
蘇我入鹿の真の姿がうかがえるのは、乙巳の変において斬りつけられた入鹿が今際の際に叫ぶ最後の言葉においてです。
「日嗣の位にお出でになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え」。
これから死んで行こうとしている人間は、そうそう考えたようなウソを言うものではありません。入鹿のこの言葉は、入鹿その人が実直な性格であり、生涯の行動もまた天皇のために捧げてきたものであることを示しています。日本書紀にこの記述があるということは、書紀が自分のついたウソを自分で白状しているようなもので、「これまでに書いてきた入鹿に関する悪口は全部ウソでした。」と言っているのと変わりません。
さて、これで蘇我入鹿に関する嫌疑はだいたい晴れたと思われるのですが、実はあとひとつだけ、入鹿を大罪人としなければならない嫌疑が残っています。
それは、「山背大兄王殺害」という嫌疑です。
日本書紀によれば、この事件は入鹿が画策し、巨勢徳太臣や土師娑婆連らに山背大兄王を襲わせ、自害に追い込んだということになっています。
しかし、この事件にもまた、多くの学者から「改竄である」という指摘がなされています。
たとえば梅原猛氏の指摘では、この暗殺計画には軽皇子、すなわち後の孝徳帝が加わっていることが「上宮聖徳太子伝補闕記」という書物に書かれているそうです(「隠された十字架」/新潮社/1972年)。
軽皇子が加わっているということは、彼の側近であった中臣鎌足も加担していたということです。そして、山背大兄王がいなくなれば誰が一番得をするかというと、それは軽皇子にほかなりません。事実、この事件の後、最大の政敵のいなくなった彼は、めでたく大王として即位しているのですから。すると、この事件のほんとうの首謀者は・・・。
つまり、「山背大兄王殺害事件」は、鎌足の画策した殺人事件を入鹿が行ったかのように改ざんして書かれた物語だったというわけです。
加えて、私自身が考えますに、入鹿が山背大兄王の命を狙うということ自体、非常に不可解です。なぜなら入鹿と山背大兄王は、同じ蘇我馬子という祖父を持つ親戚同士。そのうえ山背大兄王の父は、あの聖徳太子。大王家の血筋からも蘇我家の血筋からも本流中の本流。
これほどまでに正当な大王位後継者は他になく、そんな人物を、同じ蘇我家の嫡男であった入鹿が手にかけようなどと考えるはずもない、と思えるのです。
さらに、この時代には入鹿の父である蘇我蝦夷が健在で、入鹿はまだ大臣にもなっていませんでした。名門とはいえ大臣でもない若造が、巨勢や土師といった大臣・連に対して命令できるものではありません。日本書紀の記述にはこういう細部にも無理が見られるのです。
梅原猛氏はさらにこう続けています。「山背大兄王の悲劇から二月と経っていない時、鎌足は神祇伯という、神事を司る最高職に推されている。これは陰謀者に対する論功行賞ではなかろうか。」
0コメント