https://www.mapple.net/articles/bk/22389/ 【補陀落渡海とは?かつて熊野三山では僧侶を生きたまま海へ流し浄土へ送っていた】より
江戸時代までの熊野三山では、究極の苦行と呼ばれる仏教儀式「補陀落渡海」(ふだらくとかい)が行なわれていました。那智の僧侶が単身で海原に旅立った理由とは何だったのでしょう?
「補陀落渡海」は自ら過酷な状況下において極楽浄土を目指すこと
補陀落の語源はサンスクリット語の「ポータラカ」で、その意味はインド南方の海域にあるという「浄土」のことです。つまり、補陀落渡海にのぞむ僧侶などが、日本の南にあるとされる極楽浄土を目指し、船出したのです。
このとき僧侶に与えられたのは、1か月分の食料と照明用の油のみです。全長6mほどの小舟には人ひとりが入るのがやっとの箱が置かれ、その四方には鳥居が建てられます。僧侶が箱のなかに入ると、戸口には釘が打ちつけられるので、乗船すれば二度と外へは出られません。これほど過酷な状況下で、僧侶は衰弱死するまで読経しながら海原を漂流するのです。
陀落渡海は熊野三山だけでなく全国にも確認できる
熊野三山の歴史を伝える『熊野年代記』によると、補陀落渡海の第1号は、868年に那智から出航した慶龍上人(けいりゅうしょうにん)であるとされます。これ以後、熊野では1722年までに25人の僧侶が海を渡っています。
また高知県の足摺岬や室戸岬、博多湾などからも出航が確認されています。全国での出航者を合わせると50人以上になり、『平家物語』にて熊野詣を終えた平維盛(たいらのこれもり)が那智の海に入水した話も、補陀落渡海の一部であるとされています。
平維盛(平清盛の孫)は、1180年に源氏追討の総大将となりましたが敗走し、1183年に源義仲の軍に敗れ都落ちした。翌年、高野山で出家し、那智で入水したとされています。
補陀落渡海で奇跡的に生きて南の島へ漂着した例
補陀洛山寺を中心地とする渡海は1722年まで続きましたが、僧侶が生きて浄土に着くことはありませんでした。そのほとんどが餓死か溺死という結果に終わっています。それでも、生還した事例もいくつかあります。
たとえば、16世紀半ばに出航した日秀(にっしゅう)上人は、奇跡的に沖縄本島へと流れ着きました。地元民に救助された日秀は沖縄に残り、布教活動に励んだとされます。
補陀落渡海で逃亡したものの末路
しかし、生還しながらも入水自殺を強要された事例もあります。1565年に出航した金光坊(きんこうぼう)は、航海の途中で船から脱出。そして勝浦沖の島に逃亡したのですが、現地の信者によって海に突き落とされています。この事件が起きた島が、勝浦町沖合(かつうらまちおきあい)の金光坊島(きんこぶじま)であるといいます。
補陀落渡海は金光坊事件以降二度と行われず
この事件の影響によって補陀落渡海は下火となり、その後は僧侶の死体を海へと流す水葬式に改められました。生きた僧侶の出航は二度となく、江戸中ごろには水葬すらも廃れたのです。
なお、井上靖の小説『補陀落渡海記』は金光坊の事件を参考にして書きあげられました。小説なので脚色は多いのですが、航海への葛藤と生への執着に関する描写は読みごたえがあります。また、補陀洛山寺の境内には、1993年に復元された渡海船のレプリカが展示されています。
🟣Facebook曹洞禅で人生を楽しむ! ·加藤 昭典さん 投稿記事
和歌山県の「補陀洛山寺」は、死を覚悟で船出する「補陀落渡海」の中心地だった。
「補陀洛」とは、仏教において南方にあると信じられている観世音菩薩の浄土を指します。
サンスクリット語では「ポータラカ」と呼ばれ、チベットの有名なポタラ宮の名はこの補陀落に由来するそうです。
南方に面した海岸から補陀落を目指して船に乗り込み、死を覚悟して沖へ出る修行を「補陀落渡海」と呼び、自発的な捨身によって民衆を先導するための捨身行の一形態であったとされますす。
浄土信仰が民間でも盛んとなった平安時代後期から渡海が多く行われるようになり、確認される事例だけでも57の報告例があると言われます。
最古の事例は868年の慶流上人、最後に行われたのは1909年の天俊上人とされています。
9世紀〜15世紀までは50年に1件の割合だったのが、16世紀前半には4件、後半には11件、17世紀前半にかけては15件と流行のピークに達し、17世紀後半の江戸時代中頃になるとほぼ発生しなくなったと言われます。
江戸時代には生きた人間ではなく、渡海船に遺体を乗せて水葬の形を取ったとも言われています。
この「補陀落渡海」が最も多く行われた代表地が「補陀洛山寺」のある和歌山県那智勝浦であり、他には高知県や茨城県や鹿児島県、日本海側の島根県か船出した記録も残っているそうです。
ほとんどの行者は当然のように行方不明になったそうですが、紀伊国から琉球にまで流れ着いた日秀という真言宗の僧もいたようで、彼は沖縄に「金武観音寺」という仏教寺院を建てたり、熊野信仰を熱心に広めたりして沖縄の信仰に影響を与えたとされています。(ネット参照)
Facebook高野 陽子さん投稿記事
先週の熊野旅の思い出、那智勝浦編。世界遺産、補陀落山寺 夏季例大祭に連れて行って頂きました。
ありがたくも、ご本尊の秘仏、千手観音菩薩の御開帳の日。
大護摩祈祷🔥 そして熊野修験のみなさんの山々に吹き渡る風と大地を感じる法螺貝の響き。圧巻でした。
南海の彼方にある観音浄土を目指す補陀落渡海の出発点は美しい那智の浜。
(ここでも海開き前に泳いじゃった😅)
那智参詣曼荼羅の絵ときも興味深く、素晴らしかった。数少ない生き残った僧侶の中で
沖縄へ漂着した日秀上人は琉球で信仰を広めたそう。
数年前に訪れた那覇の波上宮をはじめ琉球八社のうち七社の御祭神は熊野権現。
沖縄と熊野の深い繋がりを感じます多くの人々の祈りを携えて捨て身で海を渡っていった
当時の僧侶たち。
海を渡って命がけで航海の布教の旅に出た、中世ケルト修道士達の姿にも重なる。
三十日分だけの食料と灯油を詰め込んで外に出られないよう、外から釘を打たれて。。
復元された船をみているとなんともいえない気持ちに。。
僧侶達のお墓にお参りさせてもらった
ニライカナイも補陀落浄土も西方浄土もパイパティローマもティルナノーグも
そこにはいつも人々の祈りがある。
那智の弁天島には干潮過ぎてて渡れなかったから次回に。
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