https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F_%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F%E3%81%A8%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%80%80 【蘇我氏】より
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/07 02:57 UTC 版)
蘇我氏と東国の古墳
旧上総国武射郡(現在の千葉県山武市)の板附古墳群にある駄ノ塚古墳や駄ノ塚西古墳や、印旛郡にある龍角寺岩屋古墳は方墳であるが、同時期の古墳である山室姫塚古墳は円墳である。これは、それぞれの古墳を築造した首長が結びついた畿内のヤマト王権内の勢力に関係しており、畿内で春日向山古墳(用明天皇陵)、山田高塚古墳(推古天皇・竹田皇子陵)、石舞台古墳(蘇我馬子墓)といった大型方墳を築造したのは、蘇我氏や蘇我氏と関係が深い豪族や天皇家の皇族で、牧野古墳などの大型円墳を築造した勢力は非蘇我氏や蘇我氏と関係が薄い天皇家の皇族であり、関東地方でも方墳を築造した勢力は蘇我氏や蘇我系の王族との関係が深く、円墳を築造した勢力は非蘇我氏や蘇我氏と関係が薄い王族との関係が深いという説が提唱されている[12]。
なお、龍角寺古墳群の付近にある龍角寺は、法起寺式伽藍配置であり、瓦の様相が蘇我倉山田石川麻呂の建立した山田寺と同様であることから、畿内の蘇我氏と関係する在地の豪族が龍角寺周辺に存在したことがわかる。
蘇我部と分布
蘇我部は蘇我氏の部民である。『新撰姓氏録』によれば、蘇宜部首は仲哀天皇の皇子・誉屋別命の末裔であるという。蘇我部は、畿内では山城国、河内国に、東海道では遠江国、上総国、下総国に、東山道では美濃国、信濃国、陸奥国に、北陸道では越前国に、山陰道では丹波国、但馬国、隠岐国に、 山陽道では周防国に、南海道では阿波国、讃岐国、土佐国に、西海道では筑前国、肥後国と広範囲に亘って少しずつ分散して存在していた[13]。
蘇我氏が東国や北陸地方に部民を有していたことは史料によって知ることが出来るが、それが何時頃どのようにして部民を所有するに至ったかということは知ることが出来ない。ただし、『日本書紀』に記されている、武内宿禰が景行天皇の御代に、北陸及び東方諸国の地形と百姓の状態を視察し、「蝦夷の地は肥沃であるから討ちてとるべし」と奏言したという物語は、武内宿禰が実在性に乏しい人物であるものの、彼は蘇我氏の祖先とされている人物であって、蘇我氏が東国及び北陸に部民を所有している現実を物語ろうとしたものであるとする説が存在する[13]。
また、蘇我蝦夷が蝦夷を自身の家に饗応したという記述も『日本書紀』にあり、大化改新後にはこうした饗応はすべて朝廷において行なわれていることから、この時代に於ける蘇我氏の勢力を物語るものであると言える[13]。
さらに、『日本書紀』には蘇我蝦夷が常に50人の兵士に身を守らしめ、「東方儐従者(アズマノシトベ)」といったという記述もあり、東方債従者というから、その兵士の多くは東国の人であったと考えられ、それは蘇我氏の東国部民と解しても差支えなく、蝦夷の身を守ることによって部民関係が成立していたと考えることができる[13]。このような関係は蝦夷の場合のみでなく、馬子や稲目の頃からあった可能性があるものの、そうした部民が、東国や陸奥という遠隔の地に分布しているため、その関係はそれほど古い時代にまでには遡れないと思われる[13]。
加えて、阿波・讃岐・周防・筑前の諸地域に分布する部民であるが、考えられることは、蘇我氏と朝鮮との関係であり、その分布地域が、瀬戸内海の沿岸にあって、朝鮮との交通路の途中にあることがわかる[13]。
土佐国香美郡には宗我郷があり、隣接する長岡郡にも宗部郷が存在していた。香美郡には物部郷も存在しており、物部鏡連が郡司を務めていたが、『日本書紀』には「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。平亂之後、於攝津国造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。」という記述があり、物部氏の私財は馬子の処分に委ねられ、その結果、土佐国にも蘇我氏が進出し、蘇我部が設置されたという経緯が想定できる[14]。ただし、同じく『日本書紀』に「大臣之祖母、物部弓削大連之妹。故因母財、取威於世。」という記述があるように、物部氏の私財の全てが蘇我氏に取り込まれたわけではなく、物部氏の遺財として区別された状態で、蘇我氏の中にそれを継承する者がいたことが窺われる[14]。そのため、香美郡においては、蘇我部と物部鏡連の共存がなされたと考えられる[14]。
平安時代における蘇我部、あるいはそれと思しき人物は以下の通りである[1]。
蘇我兼広(土佐国安芸郡大領で、長保2年(1000年)に補陀落渡海を行なった)
蘇我兼実(兼広の息子で、大領の地位を引き継いだ)
宗我弘範(長徳2年(996年)に右衛門志兼検非違使で死去した)
宗我部如時(長徳2年(996年)に越前権大掾として見える)
宗我部如節(長保2年(1000年)に相撲人として見える)
宗我部秋時(長和4年(1015年)に右官掌に補された)
曽我部如光(長元元年(1028年)に土佐権介として見える)
曽我部正任(永承5年(1050年)に土佐介として見える)
なお、『日本三代実録』貞観10年閏12月21日条には、「土左国無位宗我神[注釈 2]並従五位下」という記述がある。
安芸郡に存在する多気・坂本神社は、蘇我氏の同族である坂本臣や阿芸那臣が建立したという[15]。
「鎌倉遺文」第8105号には、応保元年(1161年)に「当(土佐国幡多郡)郡王宗我部氏滅亡」と見える。
海音寺潮五郎は、長宗我部氏の祖は、蘇我部の管理人であった秦氏、あるいは蘇我部そのものの末裔であるとする説を提唱した[16]。
土佐国の蘇我氏系図
『安芸市史』に所収されている「安芸氏系図」によれば、土佐国の蘇我氏の系図は以下の通りである。
実線は実子、点線は養子。
(略)
安芸実信以降は安芸氏の項。
蘇我氏渡来人説
門脇禎二が1971年に蘇我氏渡来人説を提唱した[17][18]。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[19][20]を得た。 しかし、問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することには問題点がある[21][22]。
「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と「木刕満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
木刕満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること
この問題点について反論もある。
「木満致」の名が見える『日本書紀』と百済本紀の時代が異なる理由は二周甲引上である。
孫の名前が高句麗を意味する高麗である理由は百済王系は高句麗を起源にしているため。
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以前にもあった[23]。
蘇我氏の家系においては、日向、蝦夷など血縁と直接関係のない地域名等を用いる場合があった。満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっている。
脚注
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「蘇我氏」の続きの解説一覧
1 蘇我氏とは
2 蘇我氏の概要
5 蘇我氏と東国の古墳
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