https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12071025505.html 【蘇我氏と金氏・小伽耶】より
なんと、ハングルで伽耶を調べていたら、小伽耶=蘇我伽耶 というハングル変換が出てきた。
蘇我氏って、小伽耶の出身なんじゃないのかしら?
以後 400年にグヤグック(金管伽耶) が高句麗 に敗亡して電気伽揶連盟(前期伽耶連盟)が消滅すると考査布局(個自国=小伽耶)は明らかな繩張を形成することができなかったまま半破国(高霊) 中心の大伽揶に編入されてから大伽揶が百済及び新羅との抗争で敗退して南北に分裂されるとアンラグック(安羅伽耶)・ズングシムのナムがなの(南加羅・狗耶韓国?)に属したし、ナムがヤ(南加羅・狗耶韓国)が新羅に投降することと同時に考査布局[個自国)も新羅に株券を奪われて滅亡してしまった考査布局王族の一部は日本で亡命したりした。http://honyaku.yahoo.co.jp/url_header?ieid=ko&oeid=ja&setting=for%3D0&both=T&url=https%3A%2F%2Fko.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25EC%2586%258C%25EA%25B0%2580%25EC%2595%25BC
よくよく調べてみると、蘇 と 小 の発音が、韓国ではほとんど同じらしい。
韓国語では、小伽耶=ソガヤ と発音される。
伽耶(ソガヤ)国の朝鮮語発音は、奈良時代、特に中央で権力を握った「蘇我」氏と発音が似ていると感じるのは、筆者だけではあるまい。http://www.iobtg.com/K.Goseong.htm
と書いている人もいる。
上の、考査布局は小伽耶の事で、国名は、「固自国」とか「古史浦国」、現在地名は固城。
最も伽耶の名前自体の成立がもっと後なので、これだけではわからない。
<2016.5.28追記
もう少しわかりやすくまとめると、
400年頃、前期伽耶連合の盟主・金管伽耶が高句麗に敗れると、その一部の勢力が高霊に場所を移し?後期伽耶連合を形成。小伽耶は、前期は当然金管伽耶勢力下にあり、後期も高霊(大伽耶)の支配下にあった。が、新羅・百済との抗争で伽耶が南北に分断されると、この地図上の位置から安羅や狗耶韓国と行動を共にする。南北に分断される、という時期は、紀大磐のあたりの514年頃か。これを境に北の高霊は親新羅に、南の安羅は百済・高句麗と結んだか。狗耶韓国は541年に新羅に投降しているので、小伽耶も、上記の記述によれば541年に、王族は倭国に亡命した事になる。下記の自分の記事は訂正で、蘇我氏が小伽耶の王族とすれば、稲目は541年に倭国に亡命してきて、屯倉の設置を行えた事にはなる>
しかし、この国の王族は、日本に亡命したらしいし、その年代は561年。
この国は、入れ墨や骨占の風習があるという。
該当する氏族を新撰姓氏集で見てみましたが、私にはわかりませんでした。
伽耶系の氏族は全て任那になっています。伽耶のどこの国か、なんてわかりません。
蘇我という字から、渡来した王族は蘇我氏になったのでしょうか?
しかし、この年代では、蘇我稲目が9年間しか日本で生活しなかった事になる。
そして馬子の代で、用明天皇として即位できるのでしょうか?
もし小伽耶でなければ、金管伽耶であればもう少し早い541年頃滅亡なので、日本で
屯倉の設置位できるでしょう。
なので、小伽耶は蘇我氏の配下にいたという大伴氏の支族でしょうか?
多々羅という地名は、金管伽耶の中にある地名のようです。
<529年 新羅将軍引っ越し部 は駕洛国の至って (多多羅)を基地にして軍事行動を開始した>
http://honyaku.yahoo.co.j p/url_header?both=T&ieid=ko&oeid=ja&url=https%3A%2F%2Fko.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25EA%25B8%2588%25EA%25B4%2580%25EA%25B0%2580%25EC%2595%25BC
<安羅伽耶は新羅の勢力に勝つことは出来ず、561年頃、大伽耶とともに新羅に服属したとみられる。>
追記*541年に投降したのが狗耶韓国・小伽耶で、561年に投降したのが高霊と安羅、別の情報では安羅の投降は559年。
同じソースで、
<906年 に金燐鉱は小虫者(蘇忠子、一名 蘇忠至)·ソユルフィ兄弟に逐出されたし翌年にツングザが死亡するとその弟であるソユルフィが金海敷地軍部社(金海府知軍府事)になって金海、昌原及び咸安地域を治めた。 ソユルフィは後で自分の性を 金さんに直したし官職人もジジンリェソングゼグンサ(知進礼城諸軍事)で改称してのりして脂肪に対する支配力をもっと強化させて行った。
注: 蘇자가 "쇠"를 가차한 것이라 ↑ 蘇自家 "鉄"を仮借したことであるから>
金=蘇 との関連がうかがえる。金管伽耶の初代は、「蘇伐」、息子「蘇ナカシチ」
「蘇伐」は、新羅の王族の祖先でもあり、名前は金氏。金管伽耶も金氏(金海金氏)
アメタリシヒコの使者の小野妹子は「蘇因高」と名乗り、同族の布留氏は、物部氏を名乗る。
鉄の事を「物心」といい、物部の「物」はこれに由来する?つまり「鉄部」という意味か。
では、ニギハヤヒの「物部」はなんなのか?多氏系の「物部」も。
それぞれ、鉄にかかわりがあれば、物部と名乗ったのだろうか?
ならば、やそ物部、といわれるこの氏族の正体がわからないのも仕方ない。
金管伽耶の葬送儀礼は厚葬で、沢山の文物を入れる。
陶質土器、殉葬。初期には、鉄が多く、金銀の代わりに玉が副葬された。貴金属は5世紀以後。
土器は伽耶形土器以外にも日本製土師器が出る。
http://honyaku.yahoo.co.jp/url_header?both=T&ieid=ko&oeid=ja&url=https%3A%2F%2Fko.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25EA%25B8%2588%25EA%25B4%2580%25EA%25B0%2580%25EC%2595%25BC
蘇我氏は玉との関連がある。
玉と関係があるという事は、伽耶と関係があるという事だろう。
金管伽耶は正確には高句麗と玉の交易をした高霊(大伽耶)とは異なる。が、金管伽耶の一部は高霊に亡命して大伽耶の勢力を築いたとされるので、関連はある。(現に、金管伽耶にしかなかった殉葬が、のち大伽耶に取り入れられている)
ここで不思議に思ったのは、大伽耶(後期伽耶連合)は、終末期、百済と利害を争って対立していたという事。大伽耶は、百済・中国南朝・倭という交易ルートで栄えたはずなのです。その百済と争うとは。(発端は、継体天皇の任那4県割譲でしょうけれど)また、大伽耶が新羅に従属の態度をとると、南部の安羅は反発して百済、時に高句麗と組んだという。
年代は雄略天皇時代とされるが、三韓の王になろうとした「紀大磐」という人物がいる。伽耶勢力の晩年、目立った国は安羅しかない。紀氏は朝鮮半島にゆかり深く、和歌山では日前神社の社家。(伊勢と同じく神階がない)紀氏の勢力地では伽耶の武具などが出る。紀氏を伽耶勢力のどこかに求めるなら、安羅しかない。(2016.3.2追記 日前神社は、神別で国造系の紀氏。紀大磐は皇別の氏族)
武内宿祢が、もしも伽耶勢力の象徴とされるなら、
葛城氏・・・・金管伽耶?(前期伽耶連盟の盟主)
蘇我氏・・・・高霊伽耶 (後期伽耶連盟の盟主)
紀氏・・・・ 安羅伽耶
大伴氏・・・(蘇我氏の配下だったので、高霊伽耶の配下の)小伽耶?
入れ墨の記録は大伴氏同族といわれる久米氏にみられる。
あるいは、金管伽耶系統王族の傍流に大伴氏がいるのでこれか?
他にも伽耶は沢山あったからね、特徴がもっとわかれば分類できるかも。
伽耶だけでもはっきりしないのに、その連合の分類を今の日本から行うなんて難しすぎる。。
また、以前みた八代宿祢や巨勢氏は、どちらかというと百済勢力と思われるので、やはり、
武内宿祢の後裔は、
出雲勢力→百済勢力に勢力交代した時の、奈良の覇者達の総称、という所かも。
また、
大春日朝臣は、新撰姓氏集では、崇神天皇の時に、任那から(→訂正・へ)来たようだ。
新羅と争っていてうまく国内統治できないので、倭国の一部になりたい、と。(いう使者の求めに応じて)
<新撰姓氏集>
吉田連:大春日朝臣同祖
観松彦香殖稲天皇[謚孝昭。]皇子天帯彦国押人命四世孫彦国葺命之後也
昔磯城瑞籬宮御宇御間城入彦天皇御代。任那国奏曰。臣国東北有三己地。[上己。中己。下己。]地方三百里。土地人民亦富饒。与新羅国相争。彼此不能摂治。兵戈相尋。民不聊生。臣請将軍令治此地。即為貴国之部也。天皇大悦。勅群卿。令奏応遣之人。卿等奏曰。彦国葺命孫塩垂津彦命。頭上有贅三岐如松樹。[因号松樹君。]其長五尺。力過衆人。性亦勇悍也。天皇令塩垂津彦命遣。奉勅而鎮守。彼俗称宰為吉。故謂其苗裔之姓。為吉氏。男従五位下知須等。家居奈良京田村里間。仍天璽国押開豊桜彦天皇[謚聖武。]神亀元年。賜吉田連姓。[吉本姓。田取居地名也。]今上弘仁二年。改賜宿祢姓也
これは、伽耶からきた、ツヌガアラシト(ソナカシチ)の記紀の伝承とかぶる。違いは、対応したのは崇神であって、垂仁ではない、事。つまり、記紀よりも姓氏集の記載を優先すれば、ツヌガアラシトはちゃんと崇神に会えたのです。
金管伽耶の系図にあるソナカシチが倭国の崇神に会いにきて、任那という国名を貰う。韓国の記述では、狗耶韓国と金管伽耶の創始はわけていません。つまり、スロワンは、狗耶韓国を作ったのです。いつの頃かわかりませんが、それが金管伽耶という名称になっているのです。なので、前期伽耶連盟の大伽耶は、狗耶韓国=金管伽耶という理解です。
一方、日本では一般に区別されていますし、遺跡の場所や性格もよく見ると違います。金管伽耶は、それまで狗耶韓国になかった殉葬が始まり、その出土品から明らかに九州の勢力ではなく、畿内倭国政権と交易をしているのです。卑弥呼の使者が通った狗耶韓国とは違うのです。ここから、狗耶韓国(大伽耶)からきたソナカシチ(ツヌガアラシト)は、崇神に任那という国名を貰い、故郷にその名はつけず、近くに新しく金管伽耶国(任那)を立てた、と理解できます。
この推論からいけば、韓国の金管伽耶の遺跡(大洞・池山古墳)の殉葬開始の年代を調べれば、崇神の在位年の位置が分かる事になります。話がそれてきたので、これはまた別ページに書きます。
また吉田連は、神亀元年に吉宜や吉智主が賜わった氏姓で(『続日本紀』 ・ 『新撰姓氏録』)、 『姓氏録』や『続日本後紀』によれば、塩垂津彦(天帯彦国押人命の商) が、崇神朝に己紋(嶋津江流域にあった伽耶諸国中の小国、のち百済に併合)に派遣され、その子孫の達率吉大尚とその弟の吉少尚らが来朝したとし、 『姓氏録』は旧姓の「吉」 (キチ)を、己没で「宰」を称する言葉であるとするが、吉大(太)尚が『日本書紀』や『懐風藻』に見える天智朝頃の実在の人物で、達率という百済の官位を帯び、キチ・キシが首長を表す朝鮮語にもとづくことから、この氏の実態は7世紀後半の百済の役後に渡来した亡命百済人(己抜糸)と見て差し支えない。 さらに『姓氏録』右京皇別下に天足彦国押人命の三世孫彦国茸命の商と記す真野臣は、彦国茸命の曾孫の大矢田相称が神功皇后の新羅征伐に従軍し、新羅国王の女を要って生んだ佐久命の子 孫で、その九世孫の和珂部臣鳥と忍勝らが近江国志賀郡真野村に居住したために、庚寅年籍で真野臣の姓を負ったとするが、貞観5年9月、真野臣永徳らが宿祢姓を賜わった時に百済系渡来氏族 の民首の一族の者が、これと同視と称して真野臣の氏姓を与えられており(『三代実録』)、真野氏ももとは渡来系であったと推断することができる。
http://musubu2.sblo.jp/article/84710483.html
ちょっと長い引用になりましたが、真野氏は伽耶勢力と関係深い、という事ですよね。(百済を経由していようとも)
真野氏とは、和邇氏の後裔にいます。
<少し後の史料になるが、『日本文徳天皇実録』嘉祥三年(850)十一月の条に、
「従四位下治部大輔興世朝臣書主卒。書主右京人也。本姓吉田連。其先出自百済。祖正五位上図書頭兼内薬正相模介吉田連宜。・・・・」とある。
吉田連は後に興世(おきよ)朝臣となったようであるが、祖先は百済の出自という。
・・・
ところが、『新撰姓氏録』は、左京皇別下に吉田連を載せるが、長文のため要約すると、
崇神天皇の代、任那国が奏上して、任那の東北に豊饒の地があるが、新羅と相争いが起り治めることができないという。将軍を遣わしてこの地を治めてほしいという。天皇は塩乗津彦命を派遣した。この地では宰のことを吉といったので、吉氏を名乗った。塩乗津彦命は孝昭天皇皇子、天帯彦国押人命四世孫の後也とある。
吉氏は、日本から任那に渡った皇族が祖という。>
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoutorai/kituta/yorosi.html
同じく、
<崇神天皇の時、任那国から「我が国は東に三己紋の地があり、地方三百里、人民は富み、 常に新羅国と争って治められないので、しかるべき将軍に治めさせるならば貴国に属そう」と云って来た。
そこで天皇が郡臣に人を選ばせたところ、彦国葺命の孫の鹽垂津彦命の名があがった。 頭上に松樹のような三岐の角があり、身の丈五尺、力は人に勝り、性質も勇悍な人物で、直ちに任那に派遣された。>
http://www.genbu.net/saijin/siotaritu.htm
任那(狗耶韓国・遺跡は良洞里)の東北の地、それこそ、金管伽耶といわれる大成洞・古墳がある場所ではないでしょうか?
ここに派遣されたのは、彦国葺命の孫の塩垂津彦命です。でもこの方、系図で確認すると、彦国葺命の孫ではありません。彦国葺命の弟・乙国葺命の孫です。
彦国葺命からみれば若干遠縁という事になります。この系統が任那にわたり、最後は百済から渡来した事になります。この後裔の吉田氏はもともと「吉」(き)という名前。「き」といえば、「紀」を思い出しますよね。「紀氏」と言えば、武内宿祢の奥様が「紀氏」の娘ですよね。。。
私は、やはりぬぐえない、、、。崇神天皇は、金管伽耶の宰(き・みこともち)に、皇位継承権はないけれど、有力な親族をむかわせたはずだ、、、普通は。(皇位継承者を送るには金管伽耶はまだ未知すぎる・・)
そう、和邇氏こそ、百済勢力がやってくるまで(継体天皇)の、大王家だったと。
もっと言えば、彦国葺命という人が崇神天皇その人、です。
和邇氏がしばしば百済からの渡来とされるのは、金管伽耶にいた和邇氏の枝族が、伽耶滅亡に伴い、百済に逃れたからではないのか?金管伽耶の勢力は新羅に投降しているが、それは大王の直系だけ。弟王は投降していない。
和邇氏と蘇我氏の関係の疑念は、「蘇因高」や「蘇我日向」で述べた。
一時、蘇我氏は百済からの渡来であるらしい、という結論に自分でもなったが、任那の蘇我氏が百済に行って「紀氏」(木氏)となっていたとしたら、つながってくる。紀氏は、「紀氏家伝」でみるように、蘇我氏の独自伝承を持っている。後期の大伽耶時も百済と密接に関係していたので王族同志の交流があった可能性もある。
和邇氏は、根本的な所で、百済よりもむしろ、伽耶との関連が強いと思われる。(真野氏・吉氏)
推測できる王朝交代の筋書きは、
和邇氏(崇神天皇にみる大王家~雄略まで)→継体天皇(昆支の孫・百済王権、ただし奥様は和邇氏系~敏達まで)→用明天皇(蘇我氏、ただしこの氏族は和邇氏の支族で朝鮮半島・伽耶にいて、滅亡とともに百済に亡命、または年代的に、蘇我稲目として渡来し、直前までは金管伽耶の宰であったかも)
→孝徳天皇(完全に百済の勢力。妃の安倍氏については保留中)→天智天皇(男系武王の後裔。百済からみればまっとうな後継者)
金管伽耶での、宰(吉氏)と、大伽耶(狗耶韓国)の王子ソナカシチ(ツヌガアラシト)の現地での関係はわかりません。おそらく、伊都国の一大率と伊都国王のような関係かもしれません。まあ、この場合の率は文官ではなく武官ですが。当然、長い間には婚姻が繰り返され、同族化してくるでしょう。
とすると、蘇は金 なので、蘇我氏 とは 「私は金氏」といってるようなものですね。
男系の金氏(蘇我氏)は、馬子の代で政権をとり、昔は君主であった和邇氏の小野妹子に「蘇」と名乗らせる?
そして当の君主、「アメタリシヒコ」は蘇ではなく、「天・海」(アメ)と名乗っている、、、、。
謎だ。。。
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12082598455.html 【蘇我氏と金氏・小伽耶 2】より
以前書いた「蘇我氏と金氏・小伽耶」http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12071025505.html では、蘇我氏と紀氏の関係がよくわからなかった。
でも、自分のこの辺りの記事http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11513608071.html <狗耶韓国と金管伽耶>を読み直して、そうか、と思いました。金管伽耶と狗耶韓国の政治主体は別、でいいのです。
紀氏とは、日本列島にいる和邇氏から、金管伽耶(大成洞)に派遣されていた宰(みこともち)であったので、
金管伽耶または任那日本府・・・・紀氏(吉氏)。しかし世襲ではない(任期制)ので、長官経験者は複数存在したと仮定。伽耶の成立から滅亡まで、一貫して紀氏の派遣の記事がある。これは、任那に関してはこの氏族の管轄だったと推定する事ができる。
安羅伽耶・・・・去勢氏。韓半島で最後まで任那奪還を試みていたのは紀氏と去勢氏。歴史的事実からすると安羅である。御所市の語源ともなったと思われる去勢山近辺の去勢古墳群は、後期伽耶連盟が崩壊した561年以降(6世紀後半)の遺物が多い。よって、去勢氏が安羅からの渡来と考える。
また、継体朝にみられる去勢大人は去勢氏ではなく雀部氏だったようなので、継体朝勢力とは直接関係なかったとする事ができる。
狗耶韓国・・・金管伽耶と混同されがちだが、政治主体は別とされている。また、金管伽耶が滅んだとされる5世紀以降も、場所を移し小規模ながら王権は存続していた事が遺跡からわかる。(任那日本府は、高霊に移動)
541年に、新羅に投降できた政治勢力がこれであると思われ、金氏(=蘇氏)となり、これが蘇我氏であると推定。蘇我氏とは、当時任那に残った脱知爾叱今=蘇我稲目と仮定。
紀氏と半島では対立した事件もある(蘇我韓子vs紀大磐)。
参)
蘇我 韓子(そがの からこ、生年未詳 - 465年5月)は、古墳時代の豪族。蘇我満智の子(尊卑分脈・公卿補任)で、子に蘇我高麗、弟名子媛(穂積押山妻)がいる。「韓子」は母が韓人である子の通称名か。
『日本書紀』によると、蘇我韓子は、465年3月(雄略9年3月条)、雄略天皇の命で紀小弓(紀角の孫・新羅で戦病死・5月条で大伴室屋と同国近隣の人)、大伴談(=語かたり。室屋の子、金村の父。後裔に佐伯氏)、小鹿火宿禰(紀小弓の子、紀大磐の弟7000傑、後、角氏へ)とともに大将に任じられ、新羅が百済地域に進出して城を奪い対馬海域を押さえて倭国と高句麗との交易を妨害しはじめたことに対し、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡った。新羅王を一時敗走させるほど奮戦した中で小弓は同月に死去してしまう。代わりにやってきたのが、小弓の息子紀大磐(紀小鹿火の兄?)だが、大磐は父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めて、小鹿火宿禰と対立した。小鹿火宿禰は、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると韓子に警告し、彼も大磐と対立するようになった。それを知った百済の王は、二人の仲を保とうと、大磐と韓子を百済との国境まで呼び出した。その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、とっさに大磐が射返したところ、その矢が当たった韓子は落馬して河でおぼれ死んだ、とされる。wiki
(2016.2.29追記:継体・顕宗朝並立説をとれば、紀大磐の挙兵は514年頃。高霊は高句麗と玉の交易をしていたのでそれを新羅に邪魔されたか?で、新羅と争っていたのは紀小弓。大磐はその息子なので、上記は連続した事件のように書いてあるが25年以上は開きがあった可能性がある。また、新羅と対立していたはずなのに、百済仲介の蘇我韓子と紀大磐が対立する事になる。大磐と小鹿火宿禰は系図上、兄弟なので、内紛はあったかもしれないが、蘇我韓子の位置づけはおかしい。514年以降、紀大磐と対立したのは、、、?)
この脱知爾叱今が、娘を百済王族などに入れており、百済と何らかのパイプがあった可能性あり。木ら麻那と関連?
伽耶からの渡来氏族と思われる他の氏族が渡倭後、蘇我氏の配下に入るのは、伽耶諸国の中で、蘇我氏が一番早く倭国に来ていたから?(狗耶韓国滅亡541、他561年)
小伽耶・・・・入れ墨を根拠にすれば大伴氏。蘇我氏配下もうなづける。紀氏が大伴氏を優遇したのは、大伴氏が小伽耶の直系王室だったから?
小伽耶自体の成り立ちもよくわからないが、狗耶韓国と思われる「金管金氏」の分派にも大伴の姓がみえる。(この大伴氏は大伴金村などから始まる氏族とは関係なさそうです)
ここでは、まとめると、
金管伽耶(任那日本府)・・・・紀氏(紀氏は吉田氏と同族とみて、和邇氏と同じであるなら巻向の倭王権は和邇氏と推定)
狗耶韓国・・・・蘇氏(金氏)。後の蘇我稲目はここの出身。
安羅・・・去勢氏
小伽耶・・・大伴氏
のようになりました。
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